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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第2章 石影の記憶
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第2章6話 報告の場と黙すべき声

 旧港から戻ったときのことを思い返すたびに、私はまず、あの部屋の光を思い出す。


 薄い紙越しににじむ、外気より少しだけ温い光。机の上には、湾の形をかたどった古い地図と、厚みのある報告書の束。壁際には、港湾連合の紋章が刻まれた小さな箱が静かに置かれていた。


 私の上司は、その箱の横に肘をついて、黙って話を聞いていた。


「……以上が、旧港の現況です」


 私はそこで一度区切り、喉の奥に溜まった息をゆっくり吐き出した。


 無人の埠頭、空の家々、ひび割れた石畳。石施設の中に整然と積まれた祈り票。「ここに戻りたかった」「ここを捨てたくなかった」と書かれた文字の濃さ。インフラ回路を順番どおりに切り離したときの、石の拍の変化。


 そして――箱に収められていた核を触れさせた瞬間、胸の内側に流れ込んできた、静かな声。


『わたしの声、聞こえますか』


『ここは、もう港としては戻らないのでしょう?』


 あの響きは、今も骨の奥に残っている。


「先住体は、自律的な応答を示しました」

 私は、できるだけ主観を薄めた言い回しを選んだ。

「私が問いかければ、内容に沿った返答が返ってくる。拍と温度も、明らかに変化していました」


 上司はそこで初めて、指先を組み直した。


「あなた自身は?」

「……私も、応じてしまいました」


 言葉にするのは、少しだけ怖かった。


 祈り票に触れたときの、手のひらのしびれ。鍵核を握った瞬間に、胸の奥で石の拍と自分の拍が重なってしまった感覚。旧港の石が「ここに縛り付けなくていい」と告げたとき、身体のどこかが、その言葉にうなずいてしまったこと。


「共鳴と言っていい反応があったと思います」

 私はそうまとめた。

「今も、あの石に意識を向けると、かすかに拍を感じます。距離は離れているのに」


 上司は目を細め、机の上の紙を一枚ゆっくり裏返した。紙のこすれる音が、やけに大きく聞こえた。


「……ここまで聞いた話を、そのまま上に出すのはやめましょう」


 静かな言葉だった。叱責でも否定でもない。だからこそ、心臓がひとつ跳ねた。


「旧港は無人であること。インフラ回路から石を切り離したこと。現在、危険な反応は認められないこと」

 上司は指で項目を数えながら言う。

「そこまでは、公式の報告に書いて構わない」


「それだけ、ですか」


「それだけにしておきなさい」


 上司は、机に肘をついたまま、視線だけをこちらに向けた。


「先住体との会話や、あなた自身の共鳴の感触は、今は“記録”に留めておきなさい。ここではなく、あなたの手元で」


「でも――」


「全部を一度に出せば、“正しい”とは限らない」


 言葉が喉の奥で止まった。


「旧港の石のことを、研究資料として切り刻みたがる人もいるでしょう」

 上司は淡々と言う。

「あるいは、象徴として祭り上げて、票を集めるための札にしたがる人もいる」


 想像しようとすると、胸の奥がざらついた。旧港の静けさと、あの声の柔らかさが、会議のざわめきに引きずり出される光景。


「あなたは、あの場所で“戻らない港”として扱うことを選んだのでしょう」

「はい」


「ならば、その選び方ごと飲み込まれないように、今はまだ、情報を削るべきです」


 上司は、そう言ってから少しだけ口元をゆるめた。


「観測したことをなかったことにしろと言っているわけではありません。書き留めなさい。ただし、出す場所を選ぶこと」


 出す場所。


 私は、自分の鞄の中にしまってある小さな手帳の重みを思い出した。旧港で、祈り票の断片を写し取ったページ。ルーメン――あの石が最初に返してくれた言葉を、震える手で書きつけた跡。


「……分かりました」


 そう答えながら、私は「報告」と「記録」のあいだに、線を引かれたような感覚を覚えていた。


 ◇


 公式報告は、短く、よく整っていた。


 小さな会議室。窓は高い位置にあり、外の光は直接は差し込まず、白い壁を経由して薄く反射している。長机の向こう側には、上席と呼ばれる何人かが座っていた。


 私は、上司と作った文面を読み上げる。


「――以上の確認により、カゲツドウ旧東港は現在、常住人口ゼロの状態にあり、石施設はインフラ回路から完全に切り離されています。周辺の構造物に危険な崩落の兆候は認められません」


 誰かがあくびを噛み殺す気配がした。


「石施設自体は?」

 上席のひとりが問う。


「構造上の大きな損傷はありません。拍も安定しており、危険な異常反応は――今のところ、確認されていません」


 「今のところ」という言葉を挟むのに、少しだけ勇気がいった。上司は横で、視線だけで「よし」と告げる。


「つまり、あの港は、地図の上にだけ残った抜け殻というわけだ」

 別の上席が、軽く肩をすくめる。

「やっかいな荷物が一つ減った」


「規約外の処置では?」

 眉をひそめたのは、統制寄りだと噂される人物だった。

「石を運び出さず、現地に残置したまま回路を切る前例は、まだ多くないはずです」


「現地の安全性と、コストとを勘案した結果です」

 上司が先に答える。

「復旧の予定がない以上、石そのものを運ぶ必要性は低いと判断しました」


 その言い回しは、事前に二人で何度も練った文句だった。「戻らない港」という実感を、数字と条文の中に押し込めた結果。


「まあいい」

 統制寄りの人物は鼻を鳴らした。

「旧港の扱い自体は、すでに決定済みだ。問題は――」


 その先は、私にははっきりとは聞こえなかった。机の下で、指先が手帳の角を探していたからかもしれない。


 会議が終わった廊下では、別の言葉が飛び交っていた。


「共鳴の話、本当に切ったんですか」

「ここで出したら、あの人たちが飛びつくに決まっているでしょう」


 小声のやりとりが、壁伝いに耳に入る。


「“旧港の石”を、今のうちに握っておいた方がいいって意見も出てるみたいですよ」

「だからこそ、名前は出さない。どこの誰と話したか、という話にもしていない」


 名前。ルーメンという音が、喉の奥でひそかに響いた。


 別の方向からは、別の囁き声がする。


「もし本当に共鳴者がいるなら、辺境の医療現場に回した方がいい」

「規約局経由で動かせれば、現場の観測データも取れる。悪い話じゃない」


 観測寄りの実務派と、統制寄りの政治派。その境目は、きれいな線では引けない。どちらの側の中にも、迷いや打算や、単純な好奇心が混ざっている。


 ただ一つ確かなのは、廊下で交わされるどの囁きの中にも、「旧港の石」を単なる設備の残骸として扱う響きはなかった、ということだ。


 それが救いなのか、新たな不安なのか、自分でも判断がつかなかった。


 ◇


 数日後、私は小さな部屋に呼び出された。


 窓は狭く、棚には各港の報告書がぎっしり詰まっている。机の向こう側には、例の上司と、見覚えのある二人の顔があった。どちらも、以前から観測寄りの実務派として名前が挙がっていた人たちだ。


「緊張しなくていい」

 上司が先に口を開いた。

「今日は、あなたと“旧港の石”のこれからについて、少し話をしたくてね」


「これから、ですか」


「このままここにいれば」

 もう一人が続ける。

「きっとあなたとあの石は、数字や議席のための札にされてしまう」


 言葉を選びながらも、その言い方は率直だった。


「札、ですか」


「会議で“共鳴者がいる”と一言言えば、人は集まります。票も、予算も。あなたの名前も、旧港の石も、そのための見出しに使われるかもしれない」


 頭では想像していたことだった。それでも、あらためて言葉にされると、胃のあたりが重くなる。


「だから、外に出てほしい」

 上司が言う。

「名目は“石運用調査派遣員”だ。港湾連合の外の港を巡り、石インフラの運用と規約の実際を観測する役目」


「派遣員……」


「表向き、あなたは規約局出身の視察官」

 もう一人が、紙束を指でとんとんと揃えながら続けた。

「“旧港の石”は、石インフラの特別顧問として扱う。文書上は、もう少し味気ない呼び方になると思うけれど」


 特別顧問、という言葉が、この部屋の空気には少し大きすぎて聞こえた。


「実際には?」

 私は問う。


「実際には、避難だよ」

 上司ははっきりと言った。

「ここから少し距離を取りつつ、現場を見てきてもらう。共鳴の素質があるあなたと、“戻らない港”を知っている石なら、見えてくるものもあるはずだ」


 守られている、という感覚と、組織の中心から押し出される感覚。その両方が、胸の中でぶつかり合った。


「……真相を伏せたまま、外に出ることになります」

 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

「それでも、いいのでしょうか」


「真相が届くべき相手と、今はまだ届かなくていい相手がいる」

 上司は紙に視線を落とした。

「あなたが現場で見て、感じて、書き残したものは、いつか必要な形で使えばいい。今はまず、あなたとあの石を“壊さない”ことが先です」


 壊さない。


 旧港で、ひび割れた岸壁と空の家々を見下ろしながら感じた言葉が、別の形で戻ってきた気がした。


 ◇


 正式な辞令は、思ったより質素だった。


 淡い色の紙。上部に港湾連合の紋章、下部に整った文字の列。


『港湾連合・石運用調査派遣員として任命する』


 読み上げる声は、淡々としている。周囲の顔も、特別な感情を見せないまま、必要な手続きとして頷いた。


 紙を受け取った指先に、その軽さとは不釣り合いな重みを感じる。


 これは栄転なのか、左遷なのか。私には、どちらと言い切ることもできなかった。分かっているのは、ここに書かれていないこと――旧港で交わした言葉、胸の奥で重なった拍、そして上司の「全部を出さない方がいい」という助言――の方が、今の私にとってはずっと現実味を持っている、ということだけだった。


 ◇


 辞令の紙を鞄にしまい、私は静かな部屋に戻った。


 壁際の棚には、各港の報告書が並んでいる。その隣の机の上に、小さな箱がひとつ置かれていた。蓋の縁に指をかけると、内側から、馴染んだ拍がそっとこちらに寄ってくる。


『リティさん』


 声は、旧港で耳にしたときと変わらない調子だった。少し間のある、柔らかい語り方。けれど、こちらの状況をよく分かっている響きがある。


「ルーメン」


 名前を口にした瞬間、胸のざらつきが少しだけ薄まった。


「辞令が出ました。私は、派遣員になるそうです」


『聞こえていましたよ』


 ルーメンは、くすりと笑ったように感じられた。


『ここにいても、わたしたちの話し声が、誰かの思惑の材料になりそうですからね』


「……避難だと言われました」


『避難であり、仕事でもあるのでしょう?』


 箱の中の拍が、ゆっくりと一拍強くなる。


『全部を一度に変えようとしなくていいですよ。戻らない港や、もう使われない石から、ひとつずつ見ていければ』


 さっき上司から聞いた言葉とは、似ているようで少し違っていた。


 上司は「壊さないために隠す」と言った。ルーメンは「見ていく」と言う。どちらも、私に背負い込みすぎるなと言っているのだと分かっていても、そのニュアンスの差が、妙に胸に残った。


「それでも、見えてしまったものは……きっと、どこかに書き残してしまうと思います」


 自分でも、どうしようもない癖だと分かっている。


 旧港の祈り票の文字も、石の拍の変化も、上司の沈黙も。この先向かう港で見てしまうものも、きっと私は、誰にも見せないかもしれない紙の上に書き続けてしまうだろう。


『それがリティさんの仕事なんだと思います』


 ルーメンは、穏やかにそう言った。


『わたしは隣で、その紙が増えていく音を聞いていますから』


 紙が増えていく音、という言い方に、思わず笑ってしまう。


 避難でもあり、任務でもあり、観測でもある旅。その始まりに立っているという実感が、ようやく、ゆっくりと身体に馴染み始めていた。

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