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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第2章 石影の記憶
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第2章5話 閉ざされた石と最初の声

 旧港に初めて足を踏み入れたときの光の色を、私はまだはっきりと覚えている。


 空は薄い灰に近く、海との境目が曖昧だった。

 暗くはない。けれど、明るいとも言いがたい。

 世界全体が、少しだけ色を抜かれたように見えた。


 船を降り、波止場の石に靴底を下ろす。


 ひび割れた石畳が、足の裏にざらついた感触を返してくる。

 かつて荷を運んだ車輪の跡が、ひびとひびの間に沈み込んでいた。


 波止場の先端は、途中で途切れている。

 そこから先は、浅く削ぎ落とされた崖のようになっていて、その縁まで寄ると、水面が間近に見えた。


 海は、決まった高さでうねりながら岸壁を叩いていた。

 風が吹くたび、表面のさざめきが向きを変える。

 砕けた水が細かな粒になって飛び、頬に触れてはすぐに消えた。


 倉庫の壁は、何棟かがわずかに傾いている。

 扉には閂が下ろされ、その上から封緘紙が貼られていた。

 紙の端が風に揺れて擦れ合い、金具が小さくきしむ音だけが、通りに残っている。


 看板も標識も、そのままだ。

 港の名を書いた板も、荷の積み降ろし場所を示す札も、すべて在る。


 けれど、人の気配は、どこにもなかった。


 私は鞄のストラップを握り直し、石施設へ続くゆるい坂を上っていった。


 ◇


 石施設は、港の中では少し高くなった場所に建てられていた。


 四角い石造りの建屋。

 壁には細かなひびが走っているが、基礎はまだ沈んでいない。

 扉には錠と封緘紙。

 巡回日の数字が書かれた札が、釘で留めてあった。


 最後の巡回から、それほど長い時間は経っていない。

 そう判断してから、私は鍵束を取り出した。


 錠前が外れる乾いた音が、静かな建物の中に吸い込まれていく。


 扉を押し開けると、内側の空気がゆっくりと流れ出た。


 外より少し冷たく、乾いている。

 石と紙の匂いが、わずかに鼻をくすぐった。


 中央には、石の本体が据えられていた。


 淡く曇った塊。

 表面には、長い年月の感応で刻まれた細い筋がいくつも走っているが、どれも今は沈黙したままだ。


 その周囲を、棚と木箱が囲んでいた。


 祈り票。


 港の人たちが、この石に向けて託した「〜してほしい」の小さな札たちだ。


 棚の列ごとに、きちんと揃えられ、積み上がっている。

 最後にここを離れた誰かが、最後まで手を抜かずに片づけたのだと分かる整い方だった。


 私は、一番手前に差し込まれていた束から、そっと一枚を抜き取った。


 「ここに戻りたかった」。


 筆圧の強い字。


 別の束から、もう一枚。


 「ここで続けたかった」。


 細い線で、慎重に書かれている。


 さらに別の箱から。


 「ここの灯りを守ってほしかった」。


 それ以外にも、似た言葉が何度も目に入った。


 「店を続けさせてください」。

 「またこの埠頭で働けますように」。

 「家を手放さずに済みますように」。


 報告書の上では、「避難後、住民は新港へ移住し、全員が移った」とまとめられていた。

 紙の上の数字だけを見れば、それは「成功した移転」なのだろう。


 けれど、この棚に積まれた札は、その決定の裏側にあった「戻りたい」「留まりたい」を、いつまでもここにとどめていた。


 私は、抜き取った札を元の束に戻し、そっと指を離した。


 石室の空気が、少し重く感じられた。


 ◇


 ——旧港はインフラとして再稼働させない。

 ——住民の生活拠点は、完全に新港へ移っている。

 ——せめて、ここに残された石だけでも、港の義務から解き放つ試みをしたい。


 出発前に、港湾連合の一部の人たちから聞かされた言葉が頭をよぎる。


 「実験です」と、彼らは言った。


 大きな方針ではない。

 今すぐ世界中の石と樹をどうこうするような話ではない。


 ただ、「戻らない」と決められた港の石についてだけは、違う扱い方を考えてみたい——そんな程度の、枠内の試み。


 私は、その理屈に同意してここまで来た。

 合理的だと理解していた。


問題は、その合理の足元に積み上がった札たちが、今も静かに整列している、という事実だった。


 ◇


 鞄の内ポケットから、封筒を取り出した。


 封を切ると、折られた紙と、小さな核が一つ出てくる。


 紙には、簡潔な手順が記されていた。


 ——導管系統を封印回路から切り離す。

 ——石基部への給排路を閉じ、港インフラとの連結を断つ。

 ——そのうえで、鍵核を石に合わせ、共鳴の有無を確認する。


 細かな数値や専門記号は、意図的に省かれていた。

 見習いの私でも追えるよう、順番と確認点だけが並べられている。


 私は石の背後に回り、壁に取り付けられたバルブとレバーを見上げた。


 導管の根元には、小さな刻印がいくつも浮き上がっている。

 手順書の記号と照らし合わせながら、ひとつ目のバルブに手をかけた。


 ゆっくりと閉じていくと、石の奥で、わずかに圧が変わる。

 これまで流れ込んでいた何かが、その先で静まり始めたような気配。


 ふたつ目のレバーを倒す。


 建物全体の響きが、少し鈍くなる。

 外の風の音と、内側の静けさの境目が、わずかに厚くなった。


 ひとつ、ふたつ。

 手順書に従って印をなぞり、所定の順番で操作を進めていく。


 港の他の施設へつながっていた線が、一本ずつ切り離されるたびに、石の拍は、より深いところへ引き込まれていく。


 最後の印を押した瞬間、部屋の中の音が一度だけ、すっと細くなった。


 風の通り抜ける音も、木箱の軋みも、その一拍ぶんだけ遠ざかる。


 代わりに、胸の奥に一本の拍が近づいてくるのを感じた。


 私は鍵核を掌に載せ、石の表面に触れているもう一方の手の感触を確かめた。


 ——ここから先は、紙には書かれていない。


 解放するかどうか。

 いつ、その「区切り」を入れるか。


 それは手順ではなく、私自身の判断に委ねられている。


 私は唇を引き結び、鍵核を石へそっと近づけた。


 冷えた表面に、小さな核が触れた。


 その瞬間、空気の密度が変わった。


 音の向きが、少しだけこちらへ傾く。

 胸の内側で、石の拍が自分の鼓動と重なったように感じられた。


 ——今、この石は「港の装置」ではなくなった。


 そう思ったとき。


『……わたしの声、聞こえていますか?』


 静かな石室に、柔らかな声が落ちた。


 ◇


 その声は、思っていたよりずっと穏やかだった。


 硬さも、尖りもない。

 どこか間延びした調子なのに、言葉の並びだけは整っている。


『聞こえますか?』


 もう一度尋ねられて、私は自分の喉が乾いていることに気づいた。


「……はい。聞こえています」


『よかったです』


 石の表面が、ほんの少しだけ息をついたように思えた。

 光ったわけではない。


 ただ、『よかった』の一言に、張り詰めていたものが少しほどけた。


「あなたが……旧港の石、ですね」


『そう呼ばれていました。

 けれど、今は、少し違う呼び方でもいいのかもしれませんねぇ』


 ゆっくりした返事。


『ここではずっと、「港の石」とか、「沿岸施設」とか、そういう札で呼ばれていましたから』


 棚に並ぶ札たちを思い浮かべる。


「あなた自身の名前は、ありますか」


 自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。

 教本には、「石に名前を尋ねる」という手順はどこにもない。


 けれど、その場では、どうしても知りたかった。


『わたし自身に向けられた呼び名、という意味なら』


 拍が、少し柔らかくなる。


『ルーメン、と祈り票に書かれていたことがあります。

 明かりとか、道しるべとか、そういう意味合いで』


「ルーメン」


 声に出すと、石室の空気の中で、その音が自分の中に落ち着く場所を見つけた。


『はい。

 ここで暮らしていた人たちが、そう呼んでくれたので』


 ルーメンはそう言って、少し間を置いた。


『あなたは?』


「リティです。規約局から。……旧港の調査員として、ここに来ました」


『リティさん』


 名前を呼ばれただけなのに、胸の奥がきゅっとなる。


 この石室で、誰かが最後に祈り票を揃えたときにも、きっと似たような呼び方が交わされていたのだろう、と想像した。


 ◇


『港としての役目は、もう終わっているのだと思います』


 ルーメンは、静かにそう言った。


『ここに届いていた“してほしい”は、ずっと「戻りたい」「続けたい」という向きでした。

 わたしは、その願いに従って、“ここ”を守ろうとしてきましたけれど……』


 棚いっぱいに積まれた票の山が、視界の端で重く見えた。


『決定は、すでに出ました。

 港は移り、航路も変わっています。

 この場所が、港として人を迎え入れる日は、もう戻ってこないのでしょう』


 その言葉には、恨みも怒りも含まれていなかった。


 淡々と、自分の仕事の終わりを受け止めている人の声。


『ただ』


 ルーメンは、そこで少しだけ言葉を足した。


『だからといって、ここに残っている“戻りたい”を、何もなかったことにしてしまいたいわけではありません。

 あの札たちは、たしかにここで生きていた人たちの願いですから』


 私は、祈り票に目を向ける。


 「ここに戻りたかった」。

 「ここで続けたかった」。


 報告書の数字には、決して現れなかった声たち。


「……全部、片付いたとは思えませんか」


 自分でも驚くほど、まっすぐな言葉が口から出た。


 ルーメンは少しだけ考えるように沈黙し、それから答えた。


『片付いた部分も、たしかにあります。

 安全のこと、コストのこと、生活のこと。

 紙に書かれている理由の多くは、きっと正しいのでしょう』


 それから、少し柔らかく続ける。


『でも、“戻りたかった”という気持ちの行き先は、まだ決まっていない気がしますねぇ』


 気持ちの行き先——。


 私は、自分の中でその言葉を繰り返した。


「全部の石を、今すぐ自由にすることは、できません」


 規約局で叩き込まれた現実が、自然と口をついて出る。


「港や街の石は、医療や記録や灯りを支えています。

 そこから石を外せば、困る人が大勢出る。

 いま私たちが暮らしている港も、そうです」


『そうですねぇ』


 ルーメンは素直に頷いた。


『“全部”は、きっと現実的ではありません』


 責める気配のない声だった。


 だからこそ、次の言葉が、自分の中からはっきりと出てきた。


「……でも」


 胸の奥で、何かが音を立てる。


「もう港として戻らないと決められた場所。

 旧港のように、地図の上では残っていても、誰も暮らさない場所。

 そういう場所の石だけでも、こうして役目から外して、別の在り方を選べるようには、できないでしょうか」


 口にしながら、自分で自分の案に驚いていた。


 全部ではない。

 条件付きでいい。


 「戻らない港」「戻らない石」に限ってでも、別の扱いをしたい。


 報告書に書かれないところで、せめてそこだけでも。


 それが、ずっと胸のどこかで形にならないまま留まっていたものだと、そのとき初めて分かった。


 ルーメンは、ゆっくりと私の言葉をなぞる。


『戻らない港と、戻らない石に限った、全解放……という考え方ですねぇ』


「……はい」


 その言い方が少し気恥ずかしくて、思わず目を伏せる。


「全部を一度に、ではなくても。

 そういう場所から少しずつでも、石たちに違う選択肢を——」


『それだけでも、ずいぶん違うと思います』


 ルーメンは、静かに肯定した。


『“港の石”としてここに留まる道しかないのと、

 リティさんみたいな人と一緒に、「これからどう在るか」を考えられるのとでは。

 わたしたちにとっては、大きな違いですから』


 「これからどう在るか」という言い方に、胸の奥が少し温かくなった。


 港としての役目が終わったことを認めたうえで、先の形をこちら側と一緒に考えようとしている。


 それは、「ここに縛られるべきではない」と決めつけることとも違っていた。


 私の提案を、ルーメン自身の願いとして受け取りながら、「一緒に決める」という場所に戻してくる。


 その在り方が、とても石らしい献身と、とても人間らしい柔らかさの中間に思えた。


 ◇


 今、別の港で支援の票を整理し、石診療所の数字に向き合っていると、ときどきあの旧港の静けさが、ふいに蘇る。


 壊れた波止場。

 ひび割れた石畳。

 整然と積み上がった祈り票。


 そして、鍵核に触れたあとに聞こえてきた、『わたしの声、聞こえていますか?』という、あの少しのんびりした声。


 ——全部は無理でも、条件を限れば、できることがある。


 旧港でルーメンと交わしたやりとりは、今も私の中で、その一文として生きている。


 戻らないと決められた港。

 戻らないと書かれた石。


 その行き先を、あのとき鍵核を握った自分の手に、少しだけ預けてもらえたのだとしたら。


 今、この港で私が迷うたび、紙の上ではない別の尺度で考え直す勇気を、あの静かな石室から借りているのだと思う。

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