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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第2章 石影の記憶
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第2章4話 旧港と合理の数字

 紙の匂いは、昔から落ち着くと思っていた。


 港湾連合の資料庫。

 外の鐘が五を打つころ、私はいつものように、窓の高い部屋で紙束の山に向かっていた。


 机の上には、背表紙の褪せた冊子がいくつも積まれている。

 「港湾被害報告」「黄昏嵐影響調査」「沿岸施設損耗一覧」。

 どれも、私が規約局の見習いとして配属されて最初に渡された仕事の相手だった。


 手袋をはめた指先で、背表紙を揃える。

 伏せたランプの光が、紙の凹凸を斜めに照らし出す。

 インクのにおいと、乾いた紙のほこり。


 心が少しだけ静かになる匂いだった。


 ——あのときも、たしか鐘五のころだったはずだ。


 私は一枚の報告書を手前に引き寄せた。

 タイトルの文字をなぞる。


 「旧港黄昏嵐・高潮被害報告」。

 カゲツドウの旧東港——今の書類では、ただ「旧港」とだけ記されている場所だ。


 ◇


 黄昏嵐。


 薄明と暗がりの境目に、風と圧が乱れて、海面を一気に叩き上げる現象。

 この星に関する記録の中に、何度も出てくる言葉だ。


 報告書の図には、港を襲った波の高さが、線と数字で示されている。


 岸壁の図面には、赤い印がいくつもついていた。


 ——ここで護岸が破断。

——ここから浸水。

——ここで地盤沈下が始まり、現在も進行中。


 樹の基部につながる導管ラインの図には、太い線の途中に斜線が引かれている。


 ——樹基部の支持台座、破損。

——導管の二割以上が海水浸入により腐食。

——耐用年数残存率:四〇%未満。


 桟橋は、半分以上が流されていた。

 倉庫群は、低い位置から順に浸水して使えなくなっている。


 紙の上の線と数字だけ見れば、「致命傷」という言葉が正確だった。


 私は、記録を読むときの癖で、被害の種別ごとに小さな印をつけていった。


 風、波、地盤。

 樹インフラ、石インフラ、倉庫。


 冷静に整理すればするほど、「ここを元通りに戻すには、どれだけの費用と時間が必要か」が、頭の中に勝手に積み上がっていく。


 次の冊子には、住民の避難についての記録があった。


 ——黄昏嵐発生後、高潮が港全体を襲う。

——共鳴期をまたいで数刻のあいだ、沿岸部は立ち入り禁止。

——住民は内陸の高台へ一時避難。


 幸い、直接の死者は出なかった。

 それは何度読み返しても、ほっとする行。


 しかし、前の港に「戻る」前提で書かれた行は、その後には続いていなかった。


 避難の長期化。

 仮設の住まい。

 そして、「新港候補地の調査開始」の文字。


 ◇


 別の冊子の背表紙には、「新港建設・航路再編計画」とあった。


 このあたりから、私の中の「仕事の顔」と「それ以外の顔」が分かれ始める。


 新港候補地の地図。

 地形条件。

 水深。

 黄昏嵐のときの波の入り方。


 旧港は、海側から見れば便利な位置にあった。

 しかし、防波性が弱く、高潮のたびに手を入れなければならない地形でもあった。


 新港候補地は、それより内側にある小さな入り江だ。

 自然の地形が半分、防波堤の役割を果たしている。

 水深も、貨物船が出入りするには十分。


 樹と石のインフラを一から整えるコスト。

 旧港の被害部分を完全に補修し、導管と桟橋の多くを引き直すコスト。


 比較表の数字だけを見れば、答えは明らかだった。


 ——旧港の全面復旧は見送り、新港への移転を基本方針とする。


 決定文には、そう記されている。


 その下には、航路の線が引き直された図が付いていた。


 旧港に向かっていた線は、薄くなって消えている。

 新港には、新しい線がいくつも集まっていた。


 紙の上では、そうやって港が移動する。


 ◇


 旧港は、地図の中から完全に消されたわけではなかった。


 航路図の隅には、小さく港名が残っている。

 その横には、欄外注記がついていた。


 ——常住人口:〇。

——灯台と石施設のみ維持。

——定期巡回による安全確認を実施。


 抜け殻都市。


 言葉にはなっていなかったが、そういう意味だった。


 誰も住んでいないのに、港の形だけが残されている。

 地図の上では、「港」の記号のまま。

 実際には、潮の音と、風と、石だけがそこにある。


 旧港の石施設についての記述は、別の紙束にまとめられていた。


 ——旧港の石施設は、港湾連合の歴史的象徴として現地に残置する。

——祈り票および記録の保全を目的とし、構造物の安全確認を行うこと。


 端的で、感情を排した文章。


 私は、その行を何度も読み返した。


 復旧ではなく、新港建設。

 戻るのではなく、移る。


 旧港の石は、「象徴」として残される。


 そこに集まっていた「戻りたい」「続けたい」「ここが自分の場所だ」という祈りは、どう扱われるのだろう。


 報告書は、その点については何も言っていなかった。



 資料を閉じようとしたところで、別の封筒が綴じ込まれているのに気づいた。


 クリップで留められた、薄い封筒。

 表には、私の名前が書かれていた。


 そのとき、私はまだ港湾連合の規約局に入ったばかりで、資料読みと書式整理以外は任されていなかった。


 自分の名前を見つけて、一瞬だけ心臓が速くなる。


 封を切ると、そこには短い辞令が入っていた。


 ——規約局 リティ

——旧港調査員として下記業務に従事すること。


 続く行に、職務の内容が書かれていた。


 ——旧港現況の確認。

——石施設の構造および基礎部の安全点検。

——現地に残る祈り票・記録の整理と写し取り。

——巡回頻度および滞在期間:黄昏嵐期を避けた数か月単位とする。


 手袋越しに、紙の縁が硬く感じられた。


「……私が?」


 思わず声に出すと、資料庫の奥から足音が近づいてきた。


 上司のひとりが、ランプの明かりの中に現れる。


「そうだ。君は記録を読むのが早いし、書式にも慣れている。現場を見ておくのも、悪くない経験になる」


 淡々とした声だった。


「旧港は、常住人口ゼロだと聞きました」


「その通りだ」


 上司は頷いた。


「避難の後、全員が新港側に移った。戻らなかった人はいない。——少なくとも、公式な記録の上では、そうなっている」


 「公式な」という一言が、少しだけ胸に引っかかった。


「旧港は、灯台と石施設だけを残す方針だ。象徴として、記録として。君には、その確認と整理をやってもらう」


「……戻る予定は?」


 自分でも、なぜその言葉が口をついて出たのか分からない。


「戻る?」


 上司は首をかしげ、それから少し考える顔をした。


「戻るというのは、誰が、どこへだ?」


「港として、です。旧港が、再び人の港として使われる可能性は」


「ああ」


 上司は理解したように目を細めた。


「地盤沈下の進行、高潮時の危険水位、新港側の航路の利便。数字だけを見れば、戻す理由はない」


 彼は、机の端に置かれた被害報告の束を指で叩いた。


「ここに書かれている通りだ。復旧より移転の方が、短期的にも長期的にも合理的だと判断された。規約としては、それを支持する」


 私は頷いた。


 それが「正しい」答えであることは、頭では分かっていた。


 数字の上では。


「……分かりました」


 そう答えた声が、自分でも少し硬く聞こえた。


 上司は気づいたふうもなく、続ける。


「石は戻らない。港としても、戻らない。だからこそ、記録をきちんと残しておく必要がある。君は“戻らない場所”の帳簿係、というわけだ」


 冗談めかした言い方だったが、「戻らない」という言葉だけが、紙の上にじんと染みついて聞こえた。


 ◇


 辞令の紙を見下ろしているとき、私はまだ「戻らない」という言葉の重さを分かっていなかった。


 地図の上で線を引き直すこと。

 被害の数字を並べて、コストと安全性を比較すること。


 そのどれもが、私にとっては「仕事」であり、「正しさ」のための道具だった。


 戻れなかった人はいなかったのか。

 戻りたいと願った人はいなかったのか。


 報告書の行間に、そうした問いは書かれていない。

 書かれていないものを、私は読み取らないふりをしていた。


 「戻らない港」「戻らない石」。


 その条件が、のちに私自身の決断の前提になることなど、そのときの私は想像もしていなかった。


 ◇


 ページを閉じると、現在のランプの光に視界が戻った。


 今いるのは、港湾連合本部の資料庫ではない。

 樹を止めたこの港の、簡易な記録室だ。


 借りてきた写しと、自分のメモを重ねているうちに、あの古い紙束の手触りを思い出しただけだ。


 机の向かい側で、ヴァルが、整備記録の写しに目を通している。


「どうかしたか」


 私が黙ったままでいると、彼が顔を上げた。


「いや……少し、昔の辞令を思い出していました」


「辞令?」


「“戻る予定のない港”の調査員に、任命された日のことです」


 ヴァルは「ふうん」と曖昧に応じ、また紙に視線を落とした。


 その隣で、ルーメンが小さく笑う気配がした。


『戻る予定がないって決められていたのに、けっきょく、わたし石として縛られてた場所から出て、リティさんのところに来ちゃいましたからねぇ』


 向かいのヴァルが、紙から目を離さずに、口の端だけでわずかに笑った。ちゃんと聞こえているのだ、と分かる。


 ——あのとき、「戻らない」と決めた港と石。

 その石が今、こうして私の隣にいて、別の港のインフラの中に組み込まれている。


 辞令の紙を受け取った日の私が見ていた「合理的な世界」は、たぶん間違いではなかった。


 けれど、そこからこぼれ落ちた感情と願いをどう扱うかは、あの辞令には書いていなかった。


 その空白をどう埋めるか。


 それが、今の私に回ってきた仕事なのだと、紙束を閉じながら、静かに思った。



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