第2章3話 感情の価格
坂を上がりきって、市場通りの手前に出たとき、耳に飛び込んでくるざわめきは、樹が止まる前とそう変わらないように思えた。
「ほらよ、一本だけならまけとくって」
「そっちは“濃い目”だぞ、使い道は分かってるな?」
「配り分、番号こっちからだよ、列乱さないで!」
呼び声と値切り声と、列を整えようとする声。
人いきれと、薬草を煮出したような匂い。それに、薄く刺さる消毒水の匂いがまざって、喉の奥がきゅっと締まる。
けれど、通りに吊るされているものは、はっきりと変わっていた。
ひもの両端に通してぶら下げていた樹の葉の束は、ほとんど消えている。
かつてはどの店先にもあった、小瓶に詰めた花びらや果肉も、目を凝らさないと見つからない。
「あれ……」
思わず足を止めた俺の視線の先で、露店の主が、残り少ない束を布でくるみ、店の奥に引っ込めようとしていた。
「それ、もう売らないのか」
「悪いねぇ、これは家の分だよ。樹の根が沈んじまったんだ、もう次は来ないだろ」
店主は、俺の顔をちらりと見てから、言葉を濁す。
「どうしてもってんなら……ほら」
棚の端、目線より少し高いところに、一本だけ残った細い束があった。
紙札には「祝い用」と書かれている。数字は、前にここで見たときの三倍はあった。
「前はさ、鐘二つぶん働いたら買えたのにね」
隣でリティが、小さくつぶやいた。
通りの空気を壊さないような声量なのに、その言葉だけが耳に残る。
『樹の葉のくせに、すっかり“宝物”扱いだね』
ノクトの声が、胸のあたりでくすりと笑った。
『まあ、入ってこないって分かった途端、みんな大事にし始めるのは分かりますけどねぇ』
ルーメンの方は、少し困ったような調子だ。
俺は、棚の「祝い用」と書かれた札から視線をはずし、通り全体を見渡した。
空いた場所を埋めるように、「石雫入り浄水」「消毒水」と書かれた札が並んでいる。
樽を背にした店、簡易の台を並べただけの受け渡し口。支援隊の封緘紙を剥がしたばかりの樽には、新しい印が貼られ、そこから先は市場の値札が支配していた。
少し離れたところ、掲示板の前に人だかりができている。
『優先順:医療 → 水 → 保安 → 居住 → 娯楽』
『浄水 目安価格:一杯 5ドル』
手書きの紙が一枚、何度もめくられたのか、角がめくれて黒ずんでいた。
掲示板の数字を目でなぞり、通りの露店の札に目を移す。
棚に並んだ他の日用品とは、一桁違う数字が並んでいる。
「そんな額、払えるかよ」
列の後ろの方で、誰かが噛みつくように言った。
「うちなんか、感応票も前より出せてないのに」
「文句なら樹管局に言ってくれって。こっちだって樽をただで仕入れてるわけじゃないんだ」
売り手の声は、疲れた笑いを浮かべている。
その少し前で、小さな手が母親の上着を引っ張っていた。
「……あの子、顔色悪いね」
リティが視線だけで示す。消毒水の札の前で、母親が財布の中身を一度全部数え、息を詰めてから、一番小さな瓶を指さした。
「寝込んでるのか」
「かもしれませんね」
ルーメンの声は、いつもより少し低い。
『“してほしい”が、ああやって数字になるんだもんねぇ』
売り手が、声を潜める。
「こっちは濃い目だよ。薄めれば、何日か持つ。一本だけなら、少し負けとくから」
母親は、ためらうように首を振り、それでも札を二枚抜き出して差し出した。
それを見て、リティの指が、手元の帳面の端をきゅっとつまむ。
「本当は、ああいう売り方は許されてないんだろ」
俺がぼそりと言うと、リティは目だけこちらに向けた。
「配給票を通さない分配は、規約の上では“禁止”」
「はっきり禁止なのか」
「紙の上では、ね」
リティは、それきり口をつぐんだ。
代わりに、手に持った小さな札の束を見せてくる。配給票だ。角がすり減ったもの、印影が薄くなっているもの、どれも使い込まれた気配がある。
「本来は、本人確認と、この角の封緘紙の印を一緒に見る札です」
リティが、札の隅を指先で押さえた。
「封緘紙がちぎれていたり、連番が読めなくなっているものは、診療所では受け取れない。さっき看護役の方も、そう仰ってました」
市場の片隅では、その配給票が別の値段で動いていた。
「今日の診療票、一枚いくらで譲る?」
「うちは元気だからさ。薬も雫もいらない分、札だけ回してもらったんだよ」
男が、言い訳とも自慢ともつかない調子で笑う。
相手は、札を光に透かして、偽物じゃないか確かめるように眺めていた。
札の隅には、本来封緘紙が貼られていたはずの場所に、薄い傷だけが残っている。紙を剥がしたときのささくれが、細く筋になっていた。
「印がかすれてるな」
「何度も使ってるからね。ちゃんと通るって。診療所の列に並ぶ権利を、代わりに買うって思えばいいだろ?」
言いながら、指先で札を折って癖をつける。
近くで見ている子どもが、そのやり取りに目を奪われている。母親がそっと肩を引き寄せた。
「止めないのか」
俺が小声で問うと、リティはほんの少しだけ眉を動かした。
「止めた方がいいと、頭では思ってる」
「でも?」
「でも、あの札を買う側の顔を見ていると、“一度だけなら”って、自分の中でも言い訳が始まる。だから、今は見て、覚えておく」
それは、樹根室で俺がやってきたことと、どこか似ている気がした。
止めるかどうか決められないものの手前で、まず、どこに何が流れているのかを目で追う。
『“してほしい”を札にして、さらにそれを別の札で買ってるって、なかなかだよね』
ノクトが、うんざりしたような、面白がっているような声で言う。
『お願いを“商品”にすると、こういう値札になるんですねぇ……』
ルーメンの苦笑が重なる。
市場の頭上を、支援隊の旗がひとつ、風もないのにぴくりと揺れた。
石雫パックの樽に貼られた封緘紙は、既に半分以上剥がされ、残りの印の上から市場の値札が貼られている。
樹の方はどうかと言えば、携行樹パックの入った箱は、支援隊の詰所の奥に積まれたまま、市場にはほとんど出てきていない。
「樹の分は?」
俺が支援隊の若い隊員に声をかけると、彼は頭をかきながら笑った。
「樹のパックは、坂の下の水場と、坂上の仮設台に回すって話で。ここで売り物にできるほどは残ってないんですよ」
「そっちが先か」
「ええ。灯りと水が止まったら、ここの店も困るでしょう」
それはその通りだ。
でも、さっきの「祝い用」の札を思い出すと、どこかで、誰かが家の棚に最後の束をしまい込んでいる姿も浮かんでしまう。
通りを抜けて、賭場のある角へ向かう。
導管の拍は、以前ここに来たときほど元気ではない。港全体と同じように、静かに落ち着いている。
賭場の看板はそのままだが、灯りは心持ち暗く、入口の前に立つ人もまばらだ。
中から聞こえてくる声も、前みたいな熱ではない。
「数字が戻らねぇ」
「前みたいに感応票が動かないんだよ。雫の方に持ってかれてるって話だ」
「支援分があるうちは、みんなそっちを選ぶさ。ここに来るのは、それでも足りないか、まだ賭けたいかだ」
入口近くの陰で、役人風の男が二人、低い声でやり取りしている。
一人は前にも見た顔だ。賭場の裏で導管を眺めていた連中の一人。
「目標は?」
「下げられてない。むしろ“こんなときこそ稼げ”だとさ」
「じゃあ、どうすんだよ。客の顔つきが前と違う。あんまり焚きつけると、本当に暴れるぞ」
片方が吐き捨てるように言い、もう片方は沈黙した。
彼らもまた、誰かに決められた数字に追われている。
俺は、賭場の入口を正面からは見ず、通りの端からそっと視線を滑らせた。
ここが沈んでも、きっと別のどこかで、似たような場所が立ち上がる。
そして、そのそばには、同じように札と数字を見ている誰かがいるのだろう。
『“したい”を煽って集めた熱の売り場が、今度は“してほしい”の売り場に押されてるってわけだね』
ノクトが、賭場と浄水の樽を一息で結んでみせる。
『どちらも、誰かの気持ちを測りにかけていることには、変わりありませんけどね』
ルーメンの声は、どこか遠くを見るようだった。
市場の奥から、まだ行列が続いている声が聞こえる。
支援で届いた樽の数より、“欲しい”の数の方が明らかに多い。それは、目に見えなくても分かる。
樹の葉や花は、もう市場の顔ではない。
石の雫は、配り分と売り分のあいだで引き延ばされている。
この通りを歩いていると、自分が、熱や願いの売り買いの上を歩いているような気がした。
俺は、小さく息を吐く。
「支援の樽だけじゃ、どう考えても足りないよな」
つぶやきが、喉からこぼれた。
「どこかから、別のやり方を持ってこないと。……誰にどれだけ回して、誰をあと回しにしてるのか、ちゃんと見ながら」
自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。
リティがちらりとこちらを見た。
ノクトとルーメンの拍が、胸の奥でわずかに揺れる。
『やっと、そういうことを気にする顔になってきたじゃん』
ノクトが、からかうように笑う。
『最初は、目の前の嫌なやつだけ睨んでたのに』
『今は、「誰のために動いているか」も一緒に見えてる、ということですね』
ルーメンがそっと言葉を継いだ。
感情を並べたこの通りから目をはなせないまま、俺は、まだ見たことのないどこか別の市場の匂いを想像していた。




