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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第2章 石影の記憶
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第2章2話 雫の手と擦り傷

 石の診療所の前に、こんな列ができる日が来るとは思っていなかった。


 坂を下りきったあたり、港の樹管局の建物から数本路地を挟んだところに、その施設はある。

 石で組んだ低い建物。中央に「石」の基部が埋め込まれ、その周りに祈り用の椅子と簡素な治療台が並んでいる——はずだった。


 今は、入り口から廊下、待合のベンチまで、人で埋まっている。


 腰を押さえた荷運びの男。

 階段で足をひねったらしい老人。

 冷えと湿気で膝を摩りながら座っている女。

 「眠れない」「胸が重い」と、どこが悪いのか自分でも言い切れない顔で立っている若い奴。


 樹を止めてから、ここは“傷”だけじゃなくて“不安”まで抱え込む場所になった。


「本来なら、こんな軽いケースまで石に来るはずじゃないんだけどね」


 受付の年配の看護役が、カルテ代わりの札をめくりながら小さく漏らす。


「搬送レールが止まってるから、荷は手で運ぶしかないし、坂の灯りも細いまま。空調が弱って湿気もこもる。体調崩すなって方が無理だよ」


 その言い方に責める響きはなくて、ただ事実を並べているだけだった。


 俺は列の端から、その光景を眺めていた。


 樹が治療をしていたわけじゃない。

 樹が動かしていた搬送と灯りと空調が止まった結果、その負荷がまるごと人間の身体に乗りかかって、こうして石の診療所に押し寄せている。


「……来るなって言っても、来るよな」


 思わずこぼした声に、隣のリティが小さく頷いた。


「はい。頼れる場所がここしかないなら、なおさら」


 リティは列の先頭ではなく、列の外側、札を持てずに壁際に寄りかかっている人たちにも目を向けていた。


 胸を押さえてうずくまっている若い女。

 何度も深呼吸しながら、列の一番後ろに付いたり離れたりしている男。


 傷口は見えない。

 でも、「なおしてほしい」という気配だけは、ここまで伝わってくる。


『……ぎゅうぎゅうですねぇ』


 ルーメンが、俺の肩あたりで、小さな声を出した。


『診療所全体が、「お願い」で詰まってる感じがします。痛いのを止めてほしい、明日までに動けるようになりたい、ちゃんと眠れるようにしてほしい……』


 その声自体も、少し重たかった。


 ◇


 中に入ると、石の基部の周りが見えた。


 白く曇った塊。その表面から、細い導管がいくつも伸びて、壁際の器具棚へ繋がっている。

 棚の上には、小さなガラス瓶が並んでいた。


 一滴ずつ落ちてくる透明な液。

 それが「石の雫」だ。


 普段は落ち着いた場所だったはずのそこが、今は半分、野戦病院みたいになっている。


 支援パッケージで来ていた石衛生局の巡回チームが合流し、建物の外や廊下には仮設ベッドが並んでいた。

 折りたたみ机に薄い布を張った程度の簡易寝台。

 その脇には、洗い場と消毒用の小さな衛生ブースが増設され、水桶と布と金属の器具がひしめいている。


「次、腰の痛みの方、こちらへ」

「その桶は一度水を替えて。雫が薄まりすぎる。雫は規定量以上に薄めないでください、効かなくなります」

「濁ったり匂いが変わった雫はもう効きませんから、もったいなくても捨ててくださいね」

「高熱の方は奥の寝台で待機。雫はまだ使いすぎないように」


 看護役が、手を止めずに次々と指示を飛ばす。

 支援チームと元からのスタッフが、ぶつかりそうになりながら動いている。


「俺たちは邪魔じゃないか?」


 俺が小声で言うと、リティは首を振った。


「現場を見るためにも、ここは必要な場所です。……ただ、邪魔にならない位置を選びましょう」


 俺たちは、治療台から少し距離を置いた壁際に立った。

 そこからなら、石と雫の様子も、列の空気も両方見える。


 ◇


 治療台の一つに、荷運びの男が腰を下ろしていた。


 背中を丸め、腰のあたりをさすっている。


「搬送レールが止まってさあ。荷を手で運んだら、一発でこれだ」


 苦笑いとも弱音ともつかない声。


 支援チームの看護役が、男の腰をそっと押さえた。


「骨は折れていません。筋を痛めてますね。今日は重いものを持つのはやめてください」


「そう言うけどよ、明日までに荷を出せって言われてて——」


「それでもです。ここで無理したら、次は本当に歩けなくなりますよ」


 看護役は、きっぱりと言い切った。


 洗い場から持ってきた布を、水と少量の雫で湿らせる。

 布を腰のあたりに巻き付けると、男の顔から少し力が抜けた。


「おお……ちょっと楽になった」


「それで、悪化を止めるところまではできます。完全に治るには時間が要りますけどね。家で使う分は、封緘紙の付いた携行石パックを、外の配布窓口で受け取ってください。ここの小瓶は院内専用です」


「持って帰れねえのか」


「はい。封緘紙と連番で管理してますからね。濁ってきたものや匂いが変わったものは、家でも必ず捨ててください」


 男は、少し名残惜しそうにしながらも頷いた。


 別の台では、足をひねった老人が診てもらっていた。


 坂の灯りが細くなってから、階段を降りるときに足元を踏み外したらしい。


「前みたいに明るけりゃ、こんな転び方はしなかったのにさ」


 老人の愚痴に、看護役は苦笑した。


「布に雫を少し含ませます。これで腫れの広がりは止まります。今日は歩き回らないで、できれば誰かに支えてもらってください」


 老人の足首に巻かれた布から、冷たいものがじわりと滲み出している。

 石から落ちた雫が、身体の中で「ここから先はダメ」と線を引いているのが分かった。


 更に奥の寝台には、高熱の女が横たわっていた。

 額に触れる布に、雫を染み込ませる。


 空気の中で燃え上がっていた熱が、少しだけ押しとどめられる。

 一気に下がるわけではない。

 ただ、「もっと悪くなる方」へ転がっていくのを、雫が押さえてくれている。


『止める力ですね』


 ルーメンが、静かに言った。


『この滴たちは、「もうこれ以上ひどくならないように」とお願いされて、そこで踏ん張っている感じがします』


 石の基部に目をやる。


 白い石の奥から、微かな拍が伝わってくる。

 樹の拍と違って、外へガンガン押し出してくる感じはない。


 導管を通して肌に触れる感覚は、「吸い込んでから、じわっと返す」側のものだった。


「……樹の導管はさ」


 俺は、自分が整備していた方を思い出しながら言った。


「熱や圧を“押し出す”感じがあるんだよな。港じゅうに向かって。こっちは逆だ。外から来たものを、一度抱きとめてから、少しずつ返してる」


『お、いい線いってる』


 ノクトが、半分からかうみたいに笑う。


『あたしはさ、希望とか怒りとか、そういうのを熱に換えて、場をガンガン動かす係。こっちの石は、そのあとに出てくる「疲れた」「痛い」「怖い」を、ぜんぶ受け止める係』


「……こっちの方が、ずっとしんどそうだ」


『そうですねぇ』


 ルーメンの声には、冗談の色が薄かった。


『ここにいるだけで、お願いの重さで肩がこりますもん。でも、放っておけないんですよねえ。ここが崩れたら、樹の方もたぶん持たなくなりますから』


 ノクトも、珍しく笑いを抑えて言う。


『あたしたちが動かしすぎた場のぶんだけ、ここに“なおしてほしい”が流れ込んでるのかもしれないね。あたしだけが悪いわけじゃないけど、無関係でもないか』


 四人の会話が胸の中で交差して、石の診療所の騒がしさとは別種のざわめきになった。


 ◇


 診療所の隅に、在庫棚がある。


 木の棚板に、「今月ぶん」と書かれた札。

 その下に、雫の小瓶がいくつか残っていた。


 数えるまでもない。少ない。


 棚の脇には、配給票が一枚、壁に貼られている。


 今月の総量。

 一人あたりの上限。

 重症優先。


 整った字で並んだ項目。

 そのすぐ下には、総量の欄から何本も線で削られた跡があり、「残り」の欄には、細い数字がひとつだけ刻まれていた。


 配給票の横には、支援チームが後から貼ったらしい小さな札が一枚、画びょうで留めてある。


 ——優先順:医療 → 水 → 保安 → 居住 → 娯楽


 手書きの字。

 さっき港で聞いた順番が、そのまま壁に固定されていた。


 黙った数字と、その横の短い行。


 さらにその横には、誰かが走り書きしたメモがある。


 ——重症者増加時は配分見直し。

——市場への横流し厳禁。

——桶の水はこまめに交換。雫は規定量以上に希釈しないこと。


 横流し。


 言葉が、頭の中で浮かんではじけた。


 こんな雫、もし勝手に売ったら、いくらになるんだろうな。


 そう思った瞬間、自分で自分にうんざりしかける。

 考えたところで、ここでやるつもりなんてないくせに。


 ノクトが、内側から小突いてきた。


『ほら、変なこと考えてる』


「考えただけだ」


『そういう“考えただけ”が、どっかで本当にやられるんだよ』


 軽口の形をしているのに、眼差しは笑っていない。


 リティも、配給票と棚を見比べていた。


「……この数で、この列の長さは、きついですね」


「規約の方では、どう書くんだ?」


「『重症優先』『軽症は自然回復を待つこと』『横流し厳禁』。——全部、正しいです」


 リティは、一度目を閉じてから続けた。


「でも、あの札の外にいる人たちを見ていると、その“正しさ”を書いた自分が、同じ列の端に押し出されているような気分になります」


 列の端。


 札を持てなくて、入口から少し離れたところに立っている人たち。

「今は来るな」と言われて帰ろうとしている背中。


 リティは拳を小さく握り、すぐに開いた。


「このルールは合理的です。でも、ここで目をそらしたら、私が昔書いた紙の側に戻ってしまう気がして」


 ルーメンが、彼女の肩のあたりでそっと揺れた。


『リティは、紙も見て、人も見てるから、今ここにいるんですよ』


「……だと、いいんですけどね」


 リティは苦笑して、また棚の数字に目を戻した。


 ◇


 外に出ると、鐘七が鳴り終わるところだった。


 坂道には、まだ列が残っている。

 札を持っている者と、持っていない者。


 樹の方は、仮設ユニットと携行樹パックで、最低限の灯りと水をどうにかつないでいる。

 石の方は、傷と病気と不安を、ぎりぎりの雫で受け止めている。


 どちらも、余裕はない。


「……これ以上、お願いを詰め込み続けたら」


 石の診療所の白い壁を見上げながら、俺は言った。


「どこかで割れるよな。樹か、石か、人か。その全部か」


『割れる前に、どこまで抱えるか決めないといけないんですけどねぇ』


 ルーメンが、少し疲れたように笑った。


『でも、全部は抱えきれませんからねぇ。わたしたちも、この港の人たちも』


 その言葉は、ささやきのように小さかったが、妙にはっきりと耳に残った。


 樹を止める決断をしたところから始まった「樹なしの時間」は、石の側にも確実に負荷をかけている。

 動かす側と支える側。


 片方だけをどうにかしても、もう片方が限界に来れば、結局は同じことだ。


 石の壁に背を預けながら、俺は思った。


 ——どこまで抱えるのか。

 ——どこで手を放すのか。


 いずれ、その線を自分の言葉で引かなきゃいけない刻が来る。


 その予感だけが、診療所から離れたあとも、胸の奥にじりじりと残っていた。



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