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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第1章 港の樹
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第1章11話 技師と樹

 港のざわめきは、樹根室までじわじわと染み込んできていた。


 導管の唸りは、まだ戻らない。

 壁の圧力計の針は、共鳴期にあるまじき位置で、情けなく震えている。


 それでも、完全な沈黙ではなかった。


 耳を澄ませば、床の下から、ごく弱い拍が上がってくる。

 樹の根網を伝って、どこかの蓄圧槽にまだ残っている熱。

 さっきから、自分の胸の奥で鳴っている拍と、かすかに干渉していた。


「……やっぱり、勝手に鳴ってやがる」


 胸骨の中心を指で軽く叩く。

 薄い金属片を弾いたような感触が、骨の内側で返ってきた。


『いいじゃん、静かなより分かりやすくて』


 ノクトが笑う。

 火種を近くで見つめるときみたいな、乾いた熱が声に混じっている。


『さっきリティが言ってたでしょ。樹が痩せても、ヴァルの拍が隙間埋めてるって』


「人の身体を勝手に補修材みたいに言うな」


『実際そうなんだからしょうがない』


 軽口の裏側で、樹根室の空気は冷えたままだった。


 港筋からは、鐘とは別種の音が届いてくる。

 止まった搬送レールの軋み、怒鳴り声、説明しきれないことを言い繕おうとする役人の声。


「ヴァルさん」


 背後から呼ばれて振り向くと、リティが扉のところに立っていた。

 詰所から借りてきた簡易計器を両腕に抱えている。


「港側から、また感応票が届きました。灯りと水の“落ちた場所”が増えています」


 差し出された票を受け取る。

 刻ごとに並んだ数字の列が、一気にゼロに落ち込んでいる箇所がいくつもあった。


 市場の中腹、坂の中段の灯り、港に近い共同水場。


 その中に、一箇所だけ、数字が踏ん張っている札がある。


「……ここだけ、まだ生きてるな」


「非常バイパスを引いた井戸のひとつです。そこは、樹の拍をほとんど使わず、手押しポンプと蓄圧で回るようになっているから」


 リティは紙を指先でなぞった。


「でも、このままだと、その井戸の周りだけ人が集まりすぎて、別の問題が出ます」


 便利さと偏り。


 言葉にしなくても、その二つが数列の上でくっきり浮かび上がっている。


「……ほかに、手は?」


「樹の出力を戻せ、というのが上の答えです。正式な樹管局の見解では」


「戻せるなら、苦労しない」


 鍵核は、今は俺の懐に沈んでいる。

 一度扉を開けた以上、同じ鍵穴に、同じ形で差し戻すことは、もうできない気がしていた。


 代わりに、胸の内側の拍だけが、勝手に樹の拍へ寄っていく。


 導管の線が床下で交わっている地点。

 そこに、今まで気づかなかった「手触り」が生まれている。


 ――ここを押せば、何か動く。


 そんな感覚が、図面の記号みたいに、頭の片隅に灯った。


「なあ、リティ」


「はい」


「ここで、俺が樹の根を直接握って……このうるさい拍を流し込んだら、どうなると思う?」


 リティは一瞬、言葉を失った顔をした。


 ルーメンが、その肩のあたりでそっと揺れる。


「理屈の上では……」


 慎重に言葉を拾う声。


「共鳴者は、自分の感情の波を樹や石の拍と重ねることができます。街の残留熱と組み合わせれば、局所的に圧を上げることは、理論上は……」


「理論上、ね」


 その先を、ノクトがあっさりと引き受けた。


『やってみればいいじゃん』


「簡単に言うな」


『あたしは元々、そういうために起こされたんだよ。希望とか怒りとか、そういうやつを熱に換えて、止まった場を叩き起こすためにさ』


 ノクトの声に合わせるように、胸の拍が一段階強くなる。


 リティは唇を結んで、しばらく下を向いた。


「……カバーできる範囲は、ごく狭いはずです。港全体なんて、絶対に無理です」


「分かってる」


「身体への負荷も大きい。頭痛や、気分の揺れや、最悪の場合、共鳴が乱れて……拍が壊れるかもしれない」


 そこで、リティは言葉を噛んだ。


「それでも、ですか」


「それでも、だ」


 共同水場の感応票の数字が、頭の中に浮かぶ。

 あの時、バイパスを引いたときの図面も、一緒に浮かぶ。


「全部は無理でも、一角だけでも回せるなら。少しはマシになる」


「“マシ”を、どう分けますか」


 リティの即答に、苦笑が出た。


 誰を優先するか。どの灯りを捨てて、どの水を残すか。

 樹が自動でやっていた配分を、今度は人間が決めなきゃならない。


「まずは……港筋じゃない」


 自分でも意外な答えが口から出た。


「港を優先したら、たぶんまた賭場が一番先に回る。あそこは“港の顔”だからって言い訳して」


 ノクトが、胸の内で「うんうん」と頷く。


「坂の途中の共同水場と、暗くなりすぎてる階段。それと、詰所の近くの灯り。そこだけに絞る」


 リティは目を閉じ、頭の中で何かを計算しているようだった。


「その三箇所なら……導管の引き直しは最小限で済みます。樹根室から直接伸びている線を、本当に“絞る”ことになるけれど」


「やる」


 答えが出るのを待つより先に、口が動いていた。


 ◇


 樹根室の片隅には、古い点検用の窪みがある。

 そこから、港の坂道へ伸びる根網の一部が、石の隙間を縫うように露出していた。


 ずっと前から見慣れていたはずの場所だ。

 なのに、今はそこだけ、薄く光の輪郭があるように見える。


『ここだね』


 ノクトが楽しそうに言う。


『この線、さっきからずっと、ヴァルの拍と一緒に震えてる』


 膝をつき、窪みの縁に手をかける。

 樹の根に直接、指先を当てると、冷たさと一緒に、微かな振動が伝わってきた。


 樹の拍。街の残留熱。

 そこに、自分の胸の中の拍が重なろうとしている。


「……やるなら、短くですよ」


 リティが背後で言う。


「共鳴運転を長く続けると危険です。鐘一つ分も要りません。数刻だけで十分です」


「数刻もいらないさ」


 深く息を吸う。


 港の坂道で聞こえた声を思い出す。

 怒鳴り声、舌打ち、諦めのため息。


 賭場で見た、喉の奥で押し殺された怒り。

 樹根室で感じた、自分への苛立ち。


 それらを全部、胸の中に集めていく。


 ただ怒るだけではなく、その怒りを向ける先を、必死に探している感覚。

 どうにもならない構造にぶつけるしかない苛立ち。


 それを、熱に変える。


 息を吐いたとき、胸の拍が樹の根と正面からぶつかった。


 瞬間、導管の奥で何かが鳴った。


 圧力計の針が、ゼロに近い位置から、わずかに跳ね上がる。

 床下の水が、ほんの少しだけ動き出す。


『きた』


 ノクトの声が弾む。


 頭の奥がちかちかとする。

 光を直接見ているわけでもないのに、視界の端に白い斑点が散った。


 自分の拍が、樹の根網に吸い込まれていく。

 同時に、どこか遠くの怒りや不安が、逆流してくる。


 誰かの「助かってくれ」という祈り。

誰かの「どうせ変わらない」という諦め。


 それらを、全部いったん飲み込んでから、導管へ押し出す。


「……っ……」


 言葉にならない声が漏れた。


 リティが背後で何かを言っている。

 ルーメンが「呼吸を浅くしないで」と落ち着いた声で告げる。


 港の方から、別種のざわめきが届いたのは、そのときだ。


「ついた! 坂の灯りが戻ったぞ!」


 遠くから、誰かの叫び声。


「水、出た! さっきまで止まってたのに!」


 共同水場の方角。


 目を閉じているのに、光景が浮かぶ。

 真っ暗だった階段に、ところどころ灯り球の明かりが戻っていく。

 井戸の蛇口から、さっきより勢いのある水が流れ出す。


 ただし、それは港全体ではない。


 別の場所では、逆に灯りが沈んでいく感覚も伝わってくる。

 自分が押し上げた分だけ、どこかから奪っている。


 便利と偏りが、同じ流れの両端にある。


『ヴァル』


 ノクトが、少し真面目な声になる。


『いま、あんたがやってるの、樹の真似だからね。あんた一人が、樹の代わりに街を殴ってる』


「……分かってる……」


 歯の隙間から、かろうじて押し出す。


 頭痛が、額の裏側で脈打っている。

 手の指先が、しびれたように自分のものじゃない感覚になっていく。

 一拍だけ、胸のリズムが乱れた。


「もういいです」


 リティの手が、肩に触れた。

 その手の温度だけは、他の全部と混ざらない。


「ここまでで十分。これ以上は、あなたの拍が壊れます」


 言われる前から、限界は感じていた。


 最後に一度だけ、胸の拍を樹の根に押し付けてから、手を離した。


 導管の中を流れる圧が、一気に抜けていく。


 代わりに、自分の身体の中に、だるい空洞が残る。


 膝が笑って、石床に手をついた。


「……っは……」


 肺に空気を入れるだけで、胸の奥がじん、と痛んだ。


『ねえ、楽しかった?』


 ノクトが、わざと軽く聞く。


「楽しいわけあるか」


『でも、ちょっとだけは、そう思ったでしょ。止まってた場が、自分の拍ひとつで動き出す感じ』


 否定できない。


 自分の鼓動と街の灯りが、直接つながったあの瞬間。

 あれは、樹インフラを扱ってきた身には、ある種の“手応え”だった。


 同時に、背筋のあたりが冷えていく。


 ――俺がここにいれば、とりあえず回ってしまう。


 港の一角だけなら、何とかなる。

 共鳴者としての拍を使えば、樹なしでも、ある程度は補える。


 そうなると、人はこう言い始める。


「樹がなくても、ヴァルがいればいい」


 港の坂道の声が、未来形ではなく現在形として聞こえてきた。


 ◇


 少しして、詰所の若い局員が樹根室に駆け込んできた。


「ヴァルさん! 共同水場のほう、復旧しましたよね? やっぱり、何かやってくれてたんでしょ」


 その顔には、非難ではなく安堵が浮かんでいる。


「坂の灯りも、一部戻ってます。上の役所の連中、口では文句言いながら、みんな『やっぱりあいつなら何とかすると思ってた』って」


 リティが、わずかに眉をひそめる。


「……そう言ってましたか」


「ええ。港筋の方はまだ暗いですけど、『とりあえず人が転げ落ちないならいい』って。『ヴァルが根室にいれば、港は死なない』って」


 局員は悪気なく笑っていた。


 それは、この状況では自然な笑い方だ。

 井戸に水が戻り、坂に灯りが戻った。それだけでも、十分すぎるほどの「助かった」なのだから。


 だからこそ、その笑顔の向こうにある構造が、はっきり見えてしまう。


「……そうか」


 軽く返事をするのが精一杯だった。


 局員が詰所へ戻っていく足音が遠ざかる。

 樹根室には再び、計器の針がかすかに鳴る音と、自分の拍だけが残った。


「聞きましたか」


 リティの声は低い。


「“ヴァルが根室にいれば、港は死なない”。そういう物語が、もう生まれ始めている」


「他に、物語を用意してないからな」


 樹が人を守る、という話。

 樹が街を生かしている、という話。


 それが、「樹の代わりに技師が守る」という形にすり替わっただけだ。


「……俺がここに居続ければ、この構造は変わらないかもしれない」


 気づきというより、確認だった。


 港が、本気で樹から降りる気になるのは、たぶん樹も技師もいなくなったときだ。


 誰も代わりに拍を流してくれないと分かったとき、初めて、人は別の支え方を探し始める。


 そのとき、俺がここで拍を流し続けていたら。


 港は、「変わらなくて済んだ」と安堵するだろう。


 その安堵の中で、賭場の導管も、負け続ける誰かも、形を変えないまま残っていく。


『ねえ、ヴァル』


 ノクトが静かに言う。


『あたしはさ、動かす方の係なんだ。止まった場を蹴っ飛ばして、どう転がるかを見たい係』


「知ってる」


『だから、あんたがここでずっと“代わりの樹”やるの、正直あんまり好きじゃない』


 言い方の割に、声は真剣だった。


『あんたがここで拍を出し続けたら、この港、変わらないまま“助かった顔”するよ。そっちの方が、あたしには怖い』


 ルーメンが、間にそっと割り込む。


「でも、今はまだ、ヴァルさんが拍を貸すことで助かる人もいます」


「ああ」


 それも分かっている。


 坂道の灯りが戻ったことで、転げ落ちずに済む誰かがいる。

 水が戻ったことで、今日の分の作業を諦めなくていい人がいる。


 それを、無かったことにはできない。


 だからこそ、ここで拍を流すことと、この港に居座ることは、話を分けて考えないといけない。


 今日、ここで俺がやったことは、「一角をつなぎ止めた」だけだ。


 ここから先、俺がどこまでやるのか。

 どの時点で、「俺の拍に頼るのをやめろ」と言うのか。


 その境目を決めることが、たぶん、この先の自分の仕事になる。


 今はまだ、答えが出ない。


 ただ、港のざわめきの中に、「ヴァルがいれば大丈夫だ」という声音が混じり始めていることだけは、はっきりと聞こえていた。


 樹の拍は痩せた。

 代わりに、人間一人分の拍が、港の骨組みの中に紛れ込んでいる。


 その危うさを抱えたまま、俺はゆっくりと立ち上がった。


 まだ、やるべきことは残っている。

 坂の灯りが持つ時間を見極め、共同水場の列を見に行き、感応票の数字をもう一度洗い直す。


 この港を出るかどうかを決めるのは、そのあとだ。


 胸の拍を抱えたまま、俺は樹根室の扉に手をかけた。

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