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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第1章 港の樹
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第1章10話 共鳴の代償と残る拍

 港筋の様子をひと通り見て、樹管局に引き上げたあと、俺たちは裏手の細い通路に身を寄せていた。


 樹管局の裏にあるその通路は、石を二枚重ねただけのような簡素なつくりだった。

 港側から届くざわめきは、厚みの足りない壁をやすりのように削りながら入り込んでくる。導管の唸りはもう戻っていないくせに、人の声だけがやたらと響いていた。


 背を壁につけると、冷たさより先に、胸の奥の「拍」の方が気になった。

 樹根室でノクトと同期したときに生まれた、あの余計な鼓動。心臓とも導管とも違う、薄い金属片を叩くような一定のリズムが、今も身体のどこかで勝手に鳴っている。


 ——まだ、止まってくれないのか。


 足元には、通路を貫いて走る細い樹の根の導管が一本、石を割るように通っている。今は空荷のはずなのに、耳を澄ませば、そこから伝わってくる拍と、自分の内側の拍が、かすかに重なっている気がした。


「……ここなら、少しはマシですね」


 通路の奥から、リティの声がした。

 薄い灯りがひとつ、壁に掛かった小さな容器で揺れている。中に差し込まれた樹の枝先は、出力が落ちたせいでかすかに曇っていて、その代わりに俺とノクトの拍が、ほの暗い石の空間にじわりと広がっていた。


「あんまり“マシ”って感じじゃないけどな」

「外よりは、です」


 リティは肩で息をしながら、壁にもたれた。灰の混じった事務服の袖を指で払う仕草に、いつもの几帳面さはない。

 そのすぐ横で、ルーメンの気配が静かに寄り添っている。柔らかな圧が、リティの輪郭を薄くなぞるように行ったり来たりしていた。


『だいぶ荒れてるねぇ、港』


 頭の奥で、ノクトの声が笑う。

 あたたかくて、少し焦げたような、火種に顔を近づけたときの熱が言葉に混じっている。


「見えてるのか、外」

『声の濁りで分かるんだよ。怒ってる音と、困ってる音と。ねぇ、楽しくなってきたじゃん』

「楽しくはない」


 俺が小さく返すと、ノクトは「ふうん」と鼻を鳴らした。

 そのやり取りを、リティは気配で察したのか、目だけこちらに向けてくる。


「……さっきまで、ありがとうございます」

「何が」

「樹を止めるとき。私、全部は言ってませんでしたから」


 前置きのような言葉が、不自然に途中で途切れた。

 リティは一度、唇を噛んでから、視線を足元へ落とす。導管の線をなぞるように、先の丸い靴のつま先が石をこすった。


「さっきの、あれのことか?」


 俺は自分の胸の中心を軽く叩いた。薄く響く拍が、指の骨を通して伝わる。


「この、変な鼓動。まだやんでくれない」

「それについて、です」


 リティは深く息を吸った。樹根室で見たときと同じ、書類を読み上げる前の顔だ。けれど、手元には帳面もペンもない。あるのは、彼女の掌に包まれた、小さな玉だけだった。


 鍵核とは模様の違う、沈んだ光を抱えた玉。封印用の核——樹や石を「戻す」ための封印核。

 それが、リティの指の間で、かすかに音もなく転がっている。


「共鳴者は、一度ここまで行くと……完全には、元の状態には戻らないと言われています」


 リティの言葉は、どこか別の場所から運ばれてきたような硬さを持っていた。講義の復唱に似ているのに、声の底には、自分の声で言おうとする抵抗も混じっている。


「元に、って?」

「樹や石の拍と、きれいさっぱり切り離された状態には、です。身体としては普通に暮らせます。仕事もできます。ただ、その……」


 言いよどんで、リティは俺の胸の方をちらりと見た。

 その視線に合わせて、内側の拍が一段階、大きくなる。勝手に返事をするな、と心の中で押さえ込んでも、拍は「ここにいる」と叫ぶみたいに振動していた。


『しぶといね、あたし』


 ノクトが愉快そうに笑う。


「今、樹の導管が止まってるはずなのに、ヴァルさんの中では、拍が続いているでしょう」

「ああ。うるさいくらいにな」

「それが、共鳴の残りです。……たぶん、この先ずっと、完全には消えません」


 この先ずっと、という言葉が、通路の冷たさより鈍く響いた。

 俺は思わず笑ってしまう。喉の奥のどこかが、乾いた音を立てた。


「つまり、ずっとこの騒がしいままってことか」

「慣れます。たいていの人は」


 リティは慌てて付け足した。


「実際の例が、少ないんです。この街どころか、港湾連合全体でも、正式に記録されている解放例は片手で足りるくらいで……長く追えた人のデータなんて、本当にわずかで」


 言いながら、自分でその乏しさに顔をしかめていた。

 俺は導管に手を当てる。もちろん、もう熱はほとんど残っていない。けれど、指先からじわりじわりと、自分の内側の拍が石へ染み込んでいくような感覚があった。


 ——もう、完全には戻らない。


 口に出してみるほどの言葉でもなかった。樹根室で鍵核を握ったときから、どこかで分かっていたことだ。あのとき、自分でノクトの熱を招き入れた。だったら、何かが変わらずに済むはずがない。


 ただ、その「何か」が、こんなふうに名前を持って突きつけられるとは思っていなかっただけだ。


「……じゃあ、封印核の方は?」


 リティの掌の上で沈黙している玉を、顎で指す。

 リティは少しだけ身じろぎして、その玉を見下ろした。


「こちらは、“戻す用”の核です。樹なり石なりを、封印状態に戻すための。でも——」


 そこで、彼女ははっきりと顔を上げた。

 瞳の奥に、さっきまで通路にはなかった、別の緊張が灯る。


「再封印をかけるとき、その場にいる媒介者が、核の仕組みごと固定されるリスクがあります」


 固定、という言葉が、やけに生々しかった。

 ノクトの熱が、いったんすっと引く。かわりに、ルーメンの気配がふわりと揺れて、リティの肩のあたりで静かに落ち着きを取り戻そうとしていた。


『……それ、今言う?』


 ルーメンの声は、いつもより沈んでいた。


「媒介者ってのは?」

「樹根室で、接点に触れて条件を合わせる人。さっきのヴァルさんの位置です」

「俺が、“戻す”側に回ったら」

「最悪の場合、樹か石と一緒に、そこに“留まる”かもしれない。……そういう記録が、一度だけあります」


 一度だけ、というのがかえって重かった。

 何度もある危険なら、注意書きのように扱えるのかもしれない。だが、一度きりの出来事は、伝説と事故の中間にぶら下がったまま、誰かの決断をいつまでも脅かし続ける。


「本当かどうか、確証はないんです。核の設計も、そのときとは変わっているはずで。ただ……」


 リティは言葉を探すように、視線を彷徨わせた。


「もし万が一、本当にそうなったら、その人は、樹や石と同じ“側”に行ってしまうかもしれない。外からは、もう触れられない場所へ」


 樹の内側に、自分が根ごと閉じ込められる光景が、一瞬だけ頭をよぎった。

 導管の中を流れる熱と一緒に、自分の感情も凝固して、外の拍を受け止め続けるだけの存在になる。声も届かず、名前も記録にしか残らない。


 ぞっとする前に、ノクトの熱が、俺の胸の内側から押し返してきた。


『やだね、それ。あたし、外がいい』


 短い声に、俺は思わず苦笑する。


「だから、最初は言わなかったのか」


 リティは肩を震わせた。否定のようにも肯定のようにも取れる、小さな震えだった。


「理由は……ひとつじゃありません」


 その声には、さっきまでの講義調が消えていた。代わりに、言い訳にも告白にもなりきらない、生身の調子が混じる。


「制度上、解放の手続き自体がグレーです。正式な手順がない。だから、封印核のリスクを含めた全体は、規約の中でも“扱ってはいけない項目”にされていて」

「上から、黙ってろって言われてるわけか」

「はい。でも、それだけじゃなくて……」


 リティは一度、玉を握りしめた。指の節が白くなる。


「私自身が、実例を見たかったんだと思います。机の上の記録じゃなくて、誰かがどう選んで、その後どうなるのか。……それを、目の前で観測したい、なんて」


 自分で言って、自分でうんざりしたように笑った。


「そういうの、加害ですよね」

「さあな」


 思ったより、すんなりと口から出た。


「加害かどうかは、たぶん、これから決まるんだろ」


 リティが驚いたようにこちらを見る。

俺は壁を背にしたまま、肩をゆっくりと回した。胸の拍が、石を通じて通路全体に薄く広がる。ノクトの熱と、ルーメンの柔らかな圧が、狭い空間の中で混ざり合っていく。


「少なくとも——」


 言葉を探す間、港の方から短く鐘の音がした。

 何番目の鐘か、もう数えていない。ただ、あの音に合わせて街の動きが変わるのを、俺はこれまで何度も見てきた。


「少なくとも、さっき樹を止めるって決めたとき、俺は、誰かに腕を掴まれて無理やりやらされたわけじゃない」


 樹根室の薄暗い空気。接点に触れたときの冷たさ。その奥で、ノクトの衝動が扉を叩いていた感覚。

 そして、自分で口にした言葉。


 ——俺が悪者になれば、少なくとも“構造”の話は始められる。


「あのとき、全部を分かってたわけじゃない。今もそうだ。共鳴者がどうなるかも、封印核のことも、よく知らないまま踏み込んだ」


 それでも、と言いながら、俺はリティを見た。


「それでも選んだのは俺だ。ノクトでも、ルーメンでも、リティでもない。俺が、あそこに立って、樹を止めるって決めた」


 拍が、一瞬だけ大きく鳴った。ノクトが「あたりまえじゃん」と笑う気配がする。

 リティは視線を揺らしながら、それでも逸らさなかった。


「……責任を、こっちに押し付けなくて、いいんですか」

「押し付けた方が楽かもしれないけどな」


 言って、自分でも少し笑った。


「でも、それやったら、また同じだろ。樹に全部押し付けてきたのと。構造の話、始まらないままだ」

「構造の話、ですか」

「誰が何を決めて、誰が何を知らされないのか。そういう話だよ」


 リティはゆっくりと息を吐いた。握りしめていた封印核を、少しだけ緩める。


「……ひどい人ですね、ヴァルさんは」

「よく言われる」

「自分で決めたと言いながら、こっちにもちゃんと“見ていろ”って言っている。観測者にとって、一番きつい言い方です」


 口調は皮肉めいていたが、その奥に、かすかな安堵の揺らぎがあるのが分かった。


『リティ、顔が少し楽になってるよ』


 ルーメンの声が、柔らかく笑う。

 リティはその言葉には返事をしないまま、封印核を慎重に懐へ戻した。


「分かりました。だったら、ちゃんと見ます。あなたが、どこまでやれるのか。どこで無茶だと止めるべきなのか」

「止める役まで引き受けるのか」

「誰かが、秤を持っていないと」


 通路の外で、さっきより大きなざわめきが起こった。

 灯りの容器がぐらりと揺れ、薄い光が石壁を滑る。その揺れを、胸の拍が追いかけるように打った。


「そろそろ、戻りましょう」


 リティが言う。

 俺は背中を壁から離した。導管から手を離すとき、わずかに石が温かかった。自分の拍が、ほんの少しだけ、港の骨組みに染み込んでいたのかもしれない。


『ねぇねぇ、次はどこから壊す?』


 ノクトがはしゃぐ。

『壊す、じゃなくて、回す、ですよ』とルーメンがゆるくたしなめる。


 俺はその二つの声を両方聞きながら、通路の出口に目を向けた。

 港の騒ぎは続いている。灯りの消えた路地と、止まった搬送レールと、行き場を失った怒りと不安。


 ——もう、完全には戻らない。


 なら、せめて、どんな形に変わっていくのかを、自分で選んでいくしかない。


 胸の拍を抱えたまま、俺は石の通路を抜け、騒ぎの方へ歩き出した。

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