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偽悪の勇気  作者: ゆうき あさみ
第1章 港の樹
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第1章9話 光なき日と噂の渦

 樹根室から詰所に戻り、扉を開けた瞬間、空気の厚みが違うと分かった。


 いつもなら、樹からくる拍が石畳を通って、足裏から膝のあたりまでじんわりと上がってくる。それが今日は、薄い。地面の奥にまだ何かが流れている気配はあるのに、拾える拍が少ない。


 壁に掛かった感応票の棚に目をやる。刻ごとの札が新しい列を作っていて、そのいくつかに、赤ではなく黒い印が増えていた。


「……消費ゼロ?」


 思わず漏らした声に、近くの机に肘をついていた局員が振り向いた。


「見てくれよ、これ。港筋の灯り、こっち側が一帯ゼロだってさ」


 彼が札を一枚抜き取って見せる。そこには、灯り系統の局所番号と、いくつかの刻に並んだ「0」の数字が刻まれていた。


「蓄圧で持ってた分が切れたってことか」


 自分で言いながら、樹根室の記録板に走っていたまばらな線を思い出す。


 上の階から、木製の床を踏む音と、短い怒鳴り声が降りてきた。


「誰か、樹根室と連絡とったのか!」


 声の主は、港側の窓口を任されている中堅の役人だ。


「さっきまでいたはずだろ、ヴァル!」


 名前を呼ばれ、肩をすくめる。


「さっきまで、下で計器見てました」


 言い訳にもならない言い訳が口をつく。


「あのときは、まだ全体出力は……」


「今は落ちてるんだよ!」


 役人は札の束を振り上げた。


「灯りも水も、一斉に沈んでる地区が出始めてる。搬送レールが途中で止まったって、港から連絡が来た」


 その言葉を聞いた瞬間、背中のどこかが冷えた。


 搬送レール。港の貨物を上の市場まで運ぶ鉄の道。そこが詰まるということは、荷も人も、丘の上と下で行き来できなくなるということだ。


「樹管局のせいだって、もう言い始めてるぞ」


 奥の机から、誰かがぼそりと漏らす。


「樹の機嫌を取り損ねたんだろう、ってさ。港の連中はそう言ってる」


「機嫌って……」


 古株が、ため息交じりに笑った。


「樹はそんな気まぐれなもんじゃないさ。数字は、だいぶ前から痩せてた」


 その「だいぶ前」が、どこからなのか。


 俺は口を閉ざしたまま、感応票の棚を見直した。


 賭場系統の札には、まだ赤い印が残っている。だが、その数字も、昨日より一段低い。裏導管から共同水場へと回した拍が、こういう形で表にも出始めている。


「ヴァル」


 古株が、いつもより静かな声で呼んだ。


「上、様子見てきてくれないか。港筋と坂の途中と、井戸辺り。……あと、樹管局って袖を見ただけで石を投げてくるようなやつがいないかどうかもな」


「物騒な頼み方だな」


「こういうときに一番物騒なのは、『誰かを責めさせたい』やつだよ」


 古株は感応票の束を棚に戻しながら言った。


「見てこい。お前の足で」


 ◇


 詰所を出ると、石畳を伝う拍が、さっきよりさらに薄くなっていた。


 建物の壁に取り付けられた灯り球が、ところどころで消えている。残っている灯りも、薄暗い。昇り階段の踊り場で、誰かが舌打ちをした。


「なんだよ、また安物の球に換えたのか」


「球のせいじゃない」


 別の声が返す。


「さっきまで、ちゃんとついてたんだ。鐘五のあとで、急にふっと……」


 「消えた」という言葉の代わりに、手が空中で小さく握られる。


 坂の途中まで出ると、街の輪郭がひと目で変わったと分かった。


 いつもなら、薄い光の中に細かな灯りの粒が並んでいるはずの通りが、ところどころ真っ黒に沈んでいる。


 市場側からは、押し殺されたざわめきが上がっていた。


 坂を降りていくと、肩と肩が狭い通りでぶつかる。


「押すなよ、見えないだろ!」


「こっちも荷が──レールが急に止まったんだってば!」


 声が幾重にも重なり、その中に「樹」という言葉がちらほら混じる。


「樹が拗ねたんじゃないのか」


「この前の感応票、港の負担を減らせって出てたろ。上が勝手に絞ったんだよ」


「いや、樹管局が変なことやってんだ。賭場の出力ばっか伸びてたんだろ、あそこ」


 全部、正確ではない。どこまでが本当で、どこからが噂か、自分でも分かっている。


 分かっていて黙って通り過ぎることほど、胃に重いものはない。


「ヴァル」


 胸の奥から、ノクトの声がひそめた調子で響いた。


「ねえ、今どう感じてる?」


「どうって……」


 坂の脇にある共同水場へ目をやる。


 あの夜、図面の上で太い丸印をつけた場所。そこだけは、まだ細い水が出ていた。


 古い石の蛇口から、白い筋がちょろちょろと落ちている。


「助かった……」


 蛇口の前で並んでいる人の列から、小さな声が漏れた。


「上の方の水場は、もう出なかったのよ。ここが生きてて、本当に……」


 彼らは、誰が配管を引き回したか知らない。


 ただ、まだ水が出る蛇口の前に立ち、順番を待つだけだ。


 ノクトが、胸の内側で小さく笑った。


「ね。全部壊したわけじゃない」


「慰めのつもりか」


「事実を教えてるだけ」


 彼女の声の後ろから、別の圧がそっと重なる。


「ヴァルさん」


 ルーメンの柔らかな声だ。


「あなたがさっきまで手で押していたポンプ、まだ少し効いてます。樹の拍は薄いけれど、あなたの拍が、その隙間を埋めている」


「そんな大層なもんじゃない」


 思わず、口の中で返す。


「ただの非常用ですよ。あれは、昔からやり方が残ってただけで――」


「その昔からのやり方を“今、やる”って決めたのは、あなたです」


 ルーメンの言い回しは、いつも丁寧だ。丁寧なだけに、逃げ場が少ない。


 共同水場の列から少し離れたところで、若い役人と商人風の男が言い争っていた。


「樹管局は何してたんだ! 事前に分かってたんだろ、出力が落ちてるって」


「非常バイパスは開いてます。これ以上は、港筋のほうでも調整を──」


「港筋? 港筋は港筋で、『樹への出力を削れ』って連合から紙が来てたんだよ! どこも自分のところの数字しか見てないじゃないか!」


 責任の矢印が、目に見える形で空中を飛び交っている。


 樹管局、港湾連合、役所、賭場。


 そのどこにも、俺の名前は載っていない。


でも、この坂の拍が痩せた理由を、一番よく知っているのは自分だ。


「言えば?」


 ノクトが、からかうように囁く。


「ここで、『樹を止めたのは俺だ』って」


「やめろ」


 口の中だけで返す。


 そんなことをしたら、拍の向きが一気に自分に集中する。


 怒りも、不安も、失望も、全部だ。


 その重さに耐えられないから黙っているのか。


 それとも、“構造の話”に持っていくために、今はあえて黙っているのか。


 自分でも、線引きがうまくできない。


「いつかは言うんだよね?」


 ノクトが、しつこく問いを重ねる。


「じゃないと、『誰かが勝手に壊した樹』って物語だけが残っちゃう」


「今じゃない」


 自分でも驚くほど、はっきりした声が喉を通った。


「今ここで名乗り出たら、“バカな技師一人の暴走”で片づけられる。樹の使い方の話じゃなくて、“あいつをどう罰するか”の話になる」


 坂の上から、別の怒鳴り声が降ってきた。


「搬送レールの上で止められた荷はどうするんだ! 腐ったらあんたらが責任取るのか!」


「腐るものは積んでないはずです!」


 役人が必死に言い返している。


 腐るもの。


 港に上がる荷の多くは、乾かすか煮詰めるかして、そう簡単には傷まないようにしてある。それでも、時間に弱いものはある。


 港に上がったばかりの樹液の樽や、まだ落ち着いていない新しい容器。そういう荷が、いまレールの途中で足止めされている。


 坂をさらに降りると、港筋が見えてきた。


 普段なら、搬送レールの上を滑る台車の音と、圧送ポンプの唸りが混じっているはずの場所だ。


 今日は、ポンプのピストンが中途半端な位置で止まり、台車も途中で固まっている。


 レールの上で立ち尽くす荷運びの姿があちこちに見え、その下で役人と樹管局の制服を着た者たちが、何本もの導管にしがみついていた。


「ここを優先しろ! 港筋が止まったら、街全体が死ぬんだぞ!」


「こっちだって、市場側が真っ暗なんだ! 坂の灯りを殺す気か!」


「そんなこと言ったって、樹からの拍が足りないんだよ!」


 樹からの拍。


 それを、誰がどこで絞ったのか。


 俺は、港の端にある古い計器に手を当てた。


 針は、まだかろうじて揺れている。


 その揺れが、自分の胸の拍と重なる。


「ヴァルさん」


 ルーメンが静かに言う。


「この状態を、“樹なし”と言い切るには、まだ早いかもしれません」


「十分“なし”だろ」


「でも、樹は、完全には消えていません。あなたが根元で切ったのは、“今までの流し方”の方です」


 今までの流し方。


 怒りと負けを燃料にして、港じゅうを回していた拍。


 それを断ち切った代わりに、共同水場や古い灯りに回した拍。


 どちらを“正しい”と言い切れるほど、世界は親切じゃない。


「……俺が選んだんだよな」


 誰にも聞こえないように、小さく呟く。


「このやり方をして、誰にどんな負担がかかるか、全部は読めてないのに。『それでもやる』って言ったのは、俺だ」


「そうだね」


 ノクトが、あっさり認めた。


「だからこそ、あたしは起きたんだよ。止まってる場を動かそうってしたやつのところにしか、あたしは来ない」


 その言い回しが、少しだけ救いにも聞こえる。


 けれど同時に、「もう後戻りはない」という印にもなっていた。


「ねえ」


 港筋から少し離れたところで、リティが静かに近づいてきた。


 樹管局の印を隠すために上着を裏返しているせいで、ただの筆記官のように見える。


「どうでしたか」


「見ての通りだ」


 港筋の混乱を顎で示す。


「灯りが落ちて、レールが止まって、水が細くなって。責任の行き先を探してる声ばっかりだ」


「そうでしょうね」


 リティは、特に驚いた様子も見せずに頷いた。


「港湾連合のほうでも、さすがに『調査隊を出すべきだ』という話が出ているそうです。上位の樹管局も、ここまで出力が落ちている港を放ってはおけませんから」


「誰に聞いた」


「噂です」


 リティは、わざとらしく肩をすくめた。


「港には噂しかありません。でも、こういうときの噂はだいたい当たります」


「外部から人が来たら……」


 言いかけて、言葉を飲み込む。


 外から来た目は、数字と紙を見る。


 感応票と記録と計器。


 そこには、「誰が接点で何をしたか」は、直接は刻まれない。


 けれど、導管の配分図を辿れば、誰かが意図して線を引き替えた痕跡は残る。


「俺だって、いつまでも隠れているつもりはない」


 自分でも驚くくらい正直に言葉が出た。


「ただ……今ここで、『全部俺がやりました』って言ったら、話が止まる気がするんだ」


「止まる?」


「“誰を罰するか”の話で、全部塞がれる」


 俺は港筋の混乱を見やる。


「樹の使い方をどう変えるかとか、代わりに何を立てるかとか、そういう話をする暇もなく」


 リティは、少しだけ目を細めた。


「……それを自分で分かってるなら、きっと大丈夫です」


「何が大丈夫なんだ」


「あなたが『嫌われ役になってでも動かしたいのはどこか』を、ちゃんと見ているってことです」


 それは褒め言葉なのかどうか分からない。


 ただ、胸の中で渦を巻いていた熱が、ほんの少しだけ形を持ち始めた気がした。


 港のざわめきは、まだ収まる気配がない。


 灯りが落ちた坂道で、誰かが声を荒らげ、別の誰かがそれをなだめている。


 その全部の中に、自分の選択の影が混じっている。


 逃げることもできる。


 何も知らないふりをして、「樹の機嫌が悪いんだ」と一緒になって怒ることもできる。


 でも、一度「悪者役を引き受ける」と口にしてしまった以上、それはもう、自分にとっては一番卑怯な選択になってしまっていた。


 共鳴期と静圧期の境目を行き来していた港は、いま別の揺れ方をしている。


 樹なしの街――という言い方は、まだ完全にはしっくり来ない。


 それでも、今目の前にあるのは、確かに「樹だけに寄りかかった街」ではなくなりつつある光景だった。


 その変わり始めた姿を、俺は最後まで見届ける義務がある。


 自分で、そう決めたのだから。



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