第九章 母の部屋と、白い箱
廊下の突き当たり──南側の角に、その部屋はあった。
古い屋敷の中でもひときわ重い扉。誰もが長く触れずにきた空間。
矢野が幼いころ、あの扉の前で遊んでいて、祖父にたしなめられた記憶がある。
「ここは開けてはいけない」
──まるで、秘密の封印でもあるかのように。
今、その封印を自らの手で解こうとしている。
持ち合わせた鍵束の中に、ひとつだけ銀色に鈍く光る小さな鍵があった。
ぴたりと鍵穴に合う。静かに回すと、長年閉ざされていたはずの扉が、拍子抜けするほど素直に開いた。
きぃ……という音とともに、わずかに埃を帯びた空気が流れ出す。
部屋の中は、驚くほど整ったままだった。
カーテンはレースが裂けていたが、ベッドはシーツが丁寧に敷かれたまま。
机の上にはドライフラワーの花瓶と、真鍮のペン立て、そしてひとつの白い箱。
矢野はその箱に歩み寄った。
木でできた小さな箱には、うっすらと母の筆跡が浮かぶようなラベルが貼られていた。
《矢野へ ──お母さんより》
呼吸が止まるようだった。
箱をそっと開けると、中には写真が数枚。
母と矢野がまだ幼かった頃、庭で一緒に写っているもの。
そして、もう一枚──
あの夜、書斎の隅で何かを見上げている母の後ろ姿を、こっそり撮影したような写真。
その裏には、震えるような筆跡で言葉が綴られていた。
《もし、これを読んでいるのがあなたなら──
私は、あなたが“この家の真実”にたどり着くことを信じています。
私は逃げなかった。あの人に伝えました。
そして──》
──途中で文は途切れていた。インクが滲んでいて、読めない。
矢野は、箱の中をさらに探った。
底には、一枚の手紙。そして……カセットテープと同じ形式の録音媒体。
あの夜、母もまた「何かを記録していた」のだ。
再生機にかけると、母の声が部屋の中にそっと流れ始めた。
「矢野へ。もしこれを聴いているのが、あなただとしたら──
私はきっと、もうあなたの前にはいないでしょう。」
母の声は、静かで、でも決して弱くなかった。
「あなたがこの家に戻る未来を、私は何度も夢に見ました。
でも、それと同じくらい、あなたが“知ってしまうこと”を怖れていたの。」
声の向こうで、小さく鼻をすする音が入った。
「でもね、それでもいいと思ったの。
だって、あなたはもう大人になる頃でしょう?
あなたには、知る権利がある。そして、許すかどうかは……あなたが決めていいの。」
母の声が、少しだけ間をおいて続く。
「私は、あなたを手放したんじゃないのよ。
あの夜、“連れて行けなかった”だけ。
この家から、あなたを守りたかった。」
……再生が止まった。
矢野は、しばらく動けずにいた。
母がこの部屋で、どんな気持ちで録音していたのかを想像すると、胸がしめつけられる。
何年も知らなかったこと。知らされなかったこと。
でも今、ようやく自分の手でここまでたどり着いた。
そして……真実は、もうひとつ残っている。
この家に残された父──正明との対峙だった。
矢野は、母の遺した手紙と写真、テープを箱に戻し、しっかりと抱えて部屋を出た。
廊下には、いつの間にか家政婦の姿があった。
彼女は黙って矢野を見つめると、そっと頷いた。
「……正明様は、今、暖炉のある地下の間にいらっしゃいます。」
矢野は無言で頷いた。
最終章に向けて、灯がともる。