第六章 最後の証言と、閉じた屋敷の灯
階段を一段ずつ踏みしめるたびに、矢野の鼓動もまた深くなっていった。
屋根裏へ続くこの道は、長いあいだ誰にも踏み込まれていなかったのだろう。
軋む音、ほこりの匂い、低くうなるような風のうねり。
すべてが、時を止めていたこの家の“封印”に触れているようだった。
(俺は……何を見つけようとしているんだ?)
答えの出ない問いを抱えたまま、やがて足が最後の段に届いた。
屋根裏の空間は思いのほか広く、かつて物置として使われていた形跡がそのまま残っていた。
古いトランク、色あせた衣類、積み上げられた木箱、そして──
「……これは……」
奥の梁の下に並べられた数十本のビデオテープが、異様な存在感を放っていた。
ケースには番号やラベルすらなく、ただひたすら無機質に整列している。
その中央にだけ、一冊の黒いノートが置かれていた。
矢野はそっとそれを手に取った。
表紙には何の文字もなく、開くと最初のページに、たった一文だけが書かれていた。
《この記録を、彼が読むことはない。
だが、彼がこの家に戻ったとき、
全てを見届けてくれる者がいるならば──
それで、いい。》
筆跡は確かに祖父のものだった。
ノートは、そのまま映像テープの簡単な記録へと続いていた。
「1995年・12月・来訪者あり」
「1996年・春・談話(紗英)」
「1997年・6月・記録映像」
ページをめくるごとに、書き手の手がかすかに震えていたことが分かる。
文字の線がかすれ、ときに乱れ、最後のほうには何も書かれていない日もあった。
(この映像……全部、じいさんが撮ったのか?)
その時、背後から階段をきしませる足音が一つ、響いた。
振り向くと、そこにいたのは──家政婦の和江だった。
「……すみません、勝手に……」
矢野が言いかけたとき、和江はそっと手を振った。
「構いません。……そこへ辿り着いたなら、もう……お話ししなければいけないことがあります。」
和江は、屋根裏にある小さな窓のそばに立ち、しばらく黙っていた。
差し込む夕陽が、彼女の顔の半分だけを照らしていた。
「矢野様……おじいさまが、何を隠してきたか、もうお分かりかもしれませんね。」
「……まだ、全然。でも、知りたいんです。俺は……本当のことを。」
矢野のその言葉に、和江はかすかに頷いた。
「……あの屋敷で過ごされた記憶、ほんのわずかでも覚えていらっしゃるなら、
その中に紗英様の姿も……きっと、あったはずです。」
「……あの人は、誰なんですか? 父の……?」
言いかけた言葉を、和江がそっと遮る。
「いいえ、違います。紗英様は──あなたの“母親”です。」
時が止まったような静寂の中で、屋根裏の空気がわずかに震えた。
「……母、だって?」
矢野の声は、かすれていた。
「それは……俺の母は、事故で……」
「ええ。確かに“事故”でした。……ですが、その事故には、もうひとつの顔があったのです。」
和江は深く息を吸い込むと、まるで重石を吐き出すように話し始めた。
「お父様と紗英様の結婚は……決して、周囲に祝福されたものではありませんでした。
とくに……あのおじいさまにとっては。」
矢野は、黙ったまま話を聞いていた。
心のどこかで気づいていたはずの「違和感」が、ついに言葉として現れはじめた気がしていた。
「紗英様は……もともと、名家の出ではありませんでした。
でも、あのおじいさまが唯一認めた女性だったんです。
“ただの感情”ではなく、“血を継がせるべき相手”として。」
「なのに……なぜ?」
「それが変わったのは、あなたが生まれた日からです。」
その言葉に、矢野は思わず息を呑んだ。
「矢野様……おじいさまは、あなたに“血が繋がっていない”ことに気づいてしまったのです。」
「血が……繋がっていない?」
矢野の声が、屋根裏の梁に吸い込まれていった。
「それは、どういう──」
「……おじいさまは、出自に厳しい方でした。」
和江の声は、どこか懐かしさを孕んでいた。語っているのは事実のはずなのに、それは祈りにも似ていた。
「矢野様のご両親は……できちゃった結婚でした。
家柄の違いもあり、最初は反対されていたものの、生まれてきたあなたを見て、
おじいさまも次第に態度を軟化させていかれた。
けれどある日──血液型の検査で、どうしても一致しない数値が出たのです。」
「……DNA検査か何かですか?」
「いえ……当時はそこまで精密なものではありませんでしたが、
それでも医師からの指摘で、おじいさまは“疑念”を抱きました。
あなたの父親は、その頃すでに出張続きで、家を空けがちだった……
代わりに、いつも傍にいたのが──“家庭教師の男性”だったのです。」
「家庭教師……?」
矢野の頭に、ぼんやりとした記憶がよぎる。
廊下の奥で優しく本を読んでくれた男の声。
名前も、顔も思い出せないが、たしかにそこに“誰か”がいた。
「紗英様は……その方と……?」
「ええ。二人は、最初からそんな関係だったわけではありません。
けれど、誰も気づかないうちに……そして、気づいた時には、すべてが手遅れだった。
生まれてしまったあなたを、紗英様は何よりも愛されました。
ですが、おじいさまは、その“裏切り”を一生許さなかった……。」
矢野は立っていられなくなり、古びた木箱の上に腰を下ろした。
「じゃあ……俺は、ずっと……」
「いいえ。」
和江の声が、矢野の胸を貫いた。
「それでも……おじいさまは、あなたを“孫”として育てようとされたのです。
ただ、それは──彼自身との戦いでもありました。
血を重んじる己と、あなたの“存在”への情愛との間で、
ずっと、苦しみ続けておられた。」
沈黙が降りる。屋根裏の埃の匂いと、夕陽の光だけが、時間の流れを教えていた。
やがて矢野は、ゆっくりと顔を上げた。
「……この映像の中には、その記録が残っているんですね?」
「ええ。……ただ、ひとつだけ申し上げておきます。」
和江は、映像テープのひとつに手を伸ばした。
その背に、微かに鉛筆で「1998.3 – 最後の記録」と書かれていた。
「このテープには、“紗英様の死”に関する、決定的な事実が残されています。
彼女は事故死ではない。──“屋敷の中”で、命を絶たれたのです。」
「……!」
「そしてそのことを、矢野様のお父様は──ずっと、黙っていた。」
一瞬、世界がぐらりと傾いたような感覚に襲われた。
(俺の母は、殺された?)
(父は、そのことを……)
矢野の呼吸が浅くなっていく。
和江はそっと手を伸ばし、彼の肩に触れた。
「……これを、どうするかは、あなたが決めてください。
見ない選択も、あると思います。
でも、もし……それでも、知りたいと願うなら──」
和江の指先が、古いビデオデッキの電源ボタンに触れた。
カチ、と音がして、小さな赤いランプが灯る。
矢野は、しばらくその光を見つめていた。
そして、静かにうなずいた。
「……見ます。俺は、逃げたくない。」
テープが挿入され、デッキが低く唸る音を立てた。
やがて、モニターに映像が浮かび上がる。
それは、屋敷の書斎。
日付は1998年3月12日。
画面の中央に立つのは、あの祖父の姿だった。
そして、その奥に──ひとりの女性の姿。
美しいが、どこか儚い空気をまとったその女性は、
矢野が記憶の底でずっと追い続けていた“誰か”だった。
──母、紗英。
映像が静かに動き出した。
屋根裏の窓の外、陽が完全に落ち、夜の気配が忍び込んでいた。