第五章 名前のない肖像と、開かれた扉
屋敷の二階の西側にある、使用されていない客間。
そこは、かつて“紗英”という名の女性が使っていた部屋だった。
矢野は階段を上がると、躊躇うことなくその扉を開けた。
部屋の中は驚くほど整っていた。
家具の配置も、ベッドのカバーも、埃ひとつない。
まるで誰かが、今日までずっとここで暮らしていたかのように。
「……誰が掃除してたんだろうな」
独り言が、空気に吸い込まれる。
部屋の中央には、古いドレッサー。その上に、小ぶりな銀縁の写真立てが置かれていた。
矢野はそっと近づき、写真を見つめる。
映っていたのは、一人の女性。
髪は長く、微笑む口元にはどこか影があった。
だが──名前の記載は、どこにもなかった。
「……これが、紗英さん……なのか?」
だが、確信が持てない。
記憶の中に残っている女性の姿は、もっと曖昧だった。
むしろ、その顔立ちはどこか──見覚えがあるような、ないような。
矢野はドレッサーの引き出しをゆっくりと開けていく。
三段目の奥に、封筒が一通だけあった。
無地の白い封筒。宛名はなく、封もされていない。
中には、一枚の便箋が丁寧に折り畳まれて入っていた。
《この家に戻ったあなたへ。
私はもう、どこにもいません。
それでも、あなたの記憶の中に私はいるでしょうか。
もし覚えていてくれたなら、それだけで充分です。
私は、あなたが幸せでいてくれることを願っています。》
筆跡は、書斎の便箋のそれと似ていた。
だが、わずかに女性らしい丸みがあった。
(これは──紗英さんが、俺に宛てた手紙?)
思わず便箋を持つ手に力が入った。
だが同時に、奇妙な違和感も湧いていた。
この文面は、明らかに“過去にすべてを終えた人間”のものだ。
けれど──祖父の手帳には、“紗英”という名前が出てこなかった。
「なぜ、名前を隠す必要があった……?」
再び部屋を見回す。
目に入ったのは、壁の一角に飾られた小さな肖像画だった。
顔立ちは、あの写真の女性に酷似している。
けれど、その肖像にはプレートがなかった。
名前も、日付も、残された言葉も。
ただ“そこにいる”という事実だけが、時間を越えて残されていた。
(存在した証拠はある。でも、名はない。)
矢野はゆっくりと肖像に手を伸ばしかけ、途中で止めた。
その瞬間だった。
部屋の隅──クローゼットの奥で、何かが“コトン”と落ちたような音がした。
「……?」
矢野は静かに、音の方へと歩み寄る。
扉を開けると、奥の壁の木目に、わずかなズレがあるのが見えた。
(隠し扉……?)
手で押すと、板が軋むようにして開いた。
その奥には、古い木の階段が、屋根裏へと続いていた。
暗く、狭い、埃っぽい階段。
けれど、彼の足はためらうことなく一歩を踏み出していた。