第三章 沈黙の嘱託と封じられた記憶
翌朝、屋敷は曇り空の下に静かに佇んでいた。
昨夜の雨が地面に残した水たまりが、ところどころに光を反射している。
矢野は食堂に向かっていた。
廊下を歩くと、昨夜よりも屋敷がほんの少し柔らかく感じられる。
冷たい石壁の空気に、なぜか心の奥が少しだけ落ち着いていた。
重厚な扉を押すと、ゆっくりと軋む音が響く。
その先に広がるのは、広く、しかしどこか寂しげな長方形のテーブル。
正面の大きな窓からは、うっすらと白く光が差していた。
――まるで「誰かがまだここにいる」ような気配がある。
テーブルの上には、ひとつの椅子だけが引かれていた。
老人が生前、決まって座っていた場所だった。
そこには布がかけられている。まるで、誰も手を触れてはいけないかのように。
矢野はゆっくりと近づき、その椅子の前に立った。
椅子の背には、老人の形跡がわずかに残っていた。
柔らかく摩耗した木の肌、肘が触れていたであろう箇所の色褪せ――
生きた時間の痕跡。
「……本当に、ここに居たんですね。」
矢野はぽつりと呟いた。
昨夜、見つけた懐中時計をそっと取り出し、テーブルの上に置く。
その瞬間、ふいに一枚の紙片が懐中時計の裏蓋から滑り落ちた。
驚いて拾い上げる。
それは小さな、手のひらに収まるほどのメモだった。
水ににじんだインクで、こう記されている。
「食堂の東壁。額縁の裏。」
矢野は息を呑んだ。
東側の壁へ視線を向ける。そこには一枚の風景画が掛けられていた。
老人が生前、滅多に話題にしなかったあの絵だ。
山と湖を描いた油彩画。どこか、見覚えのあるような景色――。
矢野はゆっくりと絵に近づき、額縁の裏に指を差し入れた。
――そこには、予想もしなかったものが隠されていた。
額縁の裏に指を這わせたその瞬間、木の表面にわずかな隙間があるのを感じた。
矢野はゆっくりと絵を持ち上げ、壁から外す。
その裏には、真新しい封筒が一通、画鋲で留められていた。
白く、厚手の紙。
封筒の中央には、たった一言だけ――
《矢野へ》
そう書かれていた。
手が自然と震えた。
矢野は深く息を吸い込み、そっと封を切った。
中から現れたのは、古びた写真と、小さな金属製の鍵、そしてもう一通の便箋だった。
写真には、見覚えのない幼い少年と老紳士が写っていた。
時代を感じるモノクロの写真――だが、少年の顔にはどこか見覚えがある。
(これ……俺……?)
記憶の底で、何かがゆっくりと浮かび上がってくる。
白い廊下、頭を撫でてくれた大きな手。
膝に乗せられ、一緒に本を読んだ時間。
忘れていた時間が、静かに目を覚まし始めていた。
鍵は、錆びもなく磨かれていた。
装飾のある細工。どこかの小箱か、あるいは引き出しの鍵のようだ。
そして便箋には、手紙よりもさらに肉筆感のある、揺れる筆跡でこう綴られていた。
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「お前がこの手紙を見つけたということは、
やはり、わしの読みは間違っていなかったのだろう。
時計を止めたのは、時間を封じたのではない。
時間を『守った』のだ。
お前が幼い頃、この屋敷で流れたあの穏やかな時間を――
わしはずっと、閉じ込めてきた。
この鍵は、最後の引き出しのためのものだ。
書斎の机、右端の最下段。
そこにすべてを預けてある。
矢野よ、お前が記者になった理由も、
おそらくは、真実に向き合うためだろう。
どうか、わしの時間の続きを――
君の言葉で書き残してくれると信じている。」
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矢野は封筒をそっと閉じ、手のひらの上の鍵を見つめた。
(右端の、最下段……)
書斎に戻れば、すべてが明らかになる。
だがそれは同時に、「彼が最後まで語らなかった過去」に触れることも意味していた。
時計は止まったまま、けれど矢野の中では確かに何かが進み始めていた。
矢野はもう一度、手にした鍵を握り直した。
書斎に戻る足取りは自然と早まっていた。胸の内に渦巻くのは期待か、それとも恐れか。
静まり返った廊下を抜け、あの重厚な扉の前に立つ。
ドアノブに手をかけた瞬間、背後からふと視線を感じた。振り返るが、そこには誰もいない。
(気のせいか……)
思考を振り払うようにして、扉を押し開けた。
あの静寂が、再び書斎の空気を包んでいる。壁一面の本棚、止まったままの時計、そして机。
鍵のことを思い出し、右端の最下段の引き出しに手をかける。
引き出しには、ほんのわずかだが鍵穴があった。これまで気づかなかったのは、目立たないよう細工されていたからか。
鍵を差し込み、ひねる。
「カチリ」と音を立てて解錠された。
中には、封のされた分厚い封筒が一通と、黒革の手帳が一冊、そして……一枚の新聞記事の切り抜き。
手帳を開く。中には、老紳士――祖父と思しき人物の筆跡で、びっしりと文字が綴られていた。
最初のページにだけ、こう記されている。
《もしこの記録を読む者が、矢野であるならば。
私は君にすべてを明かすつもりで、これを残した。
ただし――読む覚悟があるなら、最後まで読み切ってほしい。
そこに記されたことは、誰かの過去ではなく、君自身の現在でもあるのだから。》
(俺自身の……?)
混乱しながらも、矢野はその場に腰を下ろし、手帳の中身を読み始めた。
最初に綴られていたのは、三十年前のある冬の日の出来事だった。
昭和の終わり、十二月某日。
この屋敷で起こった“ある事故”の記録から、手帳は始まっていた。
矢野は手帳のページを静かにめくった。
そこには、祖父の綿密な筆致で、事件の詳細が克明に記録されていた。
《昭和六十三年十二月三日。
あの日、客間で起きたのは“事故”ではなかった。
だが、警察にはそう伝えた。あれは家庭内で処理すべき“問題”だったからだ。》
矢野の手が止まる。
《彼は、私の息子――矢野の父親だ。
あの時、感情の衝突が激しくなりすぎた。
一瞬のことだった。
だが私は、彼が床に崩れ落ちたのを見て、本能的に“隠す”ことを選んだ。
そして、幼い君をこの家から遠ざけた。
すべてを封じるために。》
息が詰まりそうだった。
祖父が隠したもの。それは愛する家族を守るためではなく、自らの罪をも封じ込めるためだった。
《お前がここに戻ってくるとき、きっとこの家はもう“墓場”のようになっているだろう。
それでも、お前だけには知っていてほしい。
私は、償いを続けることができなかった。
あの夜から、毎日十一時十一分に時計を止めるようにしたのは、自分の時間を進めないためだ。》
矢野の指先が、ページの縁を強く握りしめた。
(……父は、“事故”で死んだんじゃなかった……)
知らされなかった真実。
そして、その事実が今、自分の手の中にある。
黒革の手帳の最後のページには、ただ一行だけが記されていた。
《この家を、過去のままにするのか。
それとも、お前の手で“今”を取り戻すのか。
選ぶのは、お前だ。》
矢野はしばらく動けずにいた。
暖炉は冷えきっている。
けれど胸の中に、確かに何かが燃え始めていた。
家を出る時が来たのだろうか。
あるいは、この場所で“続きを書く”時なのか。
祖父の時計が、止まったままの時間の中で、静かに問いかけてくるようだった。