第二章 止まった時計と呼び戻された記憶
矢野は書斎を出ると、そっと扉を閉じた。
廊下に戻ると、屋敷の冷たい空気がまた肺に満ちていく。
けれど、さっきまでとは少し違った。
胸ポケットに忍ばせた便箋が、かすかに体温を持ってそこに在るのを感じる。
(あの人は……何を思って、俺にこの手紙を残したんだろう。)
頭の中で問いかけながら歩を進めると、自然と階段を下りて居間へ向かっていた。
そこでは家政婦が、窓際の椅子に腰を下ろしていた。
止まった掛け時計を見つめ、膝の上でそっと指を組んでいる。
その横顔はどこか遠くを見つめていて、矢野が部屋に入ったことにも気づいていないようだった。
「……少し、いいですか。」
声をかけると、家政婦ははっとして顔を上げた。
その瞳には微かに怯えのようなものが浮かび、すぐにかすかな笑みに変わった。
矢野は黙って、胸ポケットから便箋を取り出した。
家政婦の視線が、その薄い紙へ吸い寄せられる。
「書斎の暖炉の中に、これがありました。」
家政婦は小さく息を呑み、震える手でそっと便箋を受け取った。
指先で文字をなぞると、堪えていたものが一気に溢れたのか、瞳に涙が滲んだ。
「……やはり、記者さまは見つけてしまわれましたのね。」
その声はかすれていて、でもどこかほっとしたようでもあった。
「知っていたんですか。」
矢野が問いかけると、家政婦はゆっくりと頷いた。
便箋を胸に抱くようにして、小さく震える肩を落ち着けながら語り出した。
「おじいさまは……最後まであなたに会いたがっておられました。
あの便箋はきっと、記者さま――いえ、矢野様に見つけてほしかったものなのです。」
矢野は胸が詰まり、言葉を失った。
家政婦はそっと目を伏せ、遠い記憶をたどるように静かに話を続ける。
「あなたが幼いころ、この屋敷にしばらく預けられていたことを……覚えておいでですか?」
「……ぼんやりと、です。」
矢野は苦笑のように口元を歪めた。
「断片はあるんです。廊下を走って、誰かに頭を撫でられて。
でも、ずっと夢かと思っていました。」
「夢ではありません。」
家政婦は涙をこぼしながらも、はっきりと首を振った。
「おじいさまは、その時間をずっと覚えておられました。
十一時十一分――あなたがよくお昼寝から目覚めて、廊下を駆けてくる時間でした。」
矢野の胸に、またじんと熱いものが広がった。
屋敷中の時計を止めた理由。
いくつも同じ手紙を残した理由。
それは疑心暗鬼を生むためのものでも、遺産目当ての者を試すものでもなかった。
「……あの人は、ずっと待っていたんですね。」
矢野がぽつりと言うと、家政婦は目元を手の甲で拭い、小さく微笑んだ。
「ええ。ずっと……いつかあなたが、この家に戻ってきてくれると。」
家政婦は涙を拭った手を膝の上に戻し、そっと小さく息を吐いた。
長いこと閉じていた瞼がゆっくりと開き、その奥の瞳はわずかに赤く潤んでいた。
「……これで、少しはおじいさまもお喜びでしょうね。」
その声には、ほっとしたような温度と、同時に自分を責めるような影が混じっていた。
矢野は何も言えずに家政婦を見つめていた。
胸ポケットに入れた便箋が、心臓の鼓動に合わせてかすかに動いている気がした。
(十一時十一分。
俺が子どもの頃、この屋敷で昼寝から目覚めて、おじいさんの元へ駆けていった時間……。)
家政婦に言われたその光景は、頭の奥でかすかな光を帯びていた。
海から吹く潮風、廊下に敷かれた赤い絨毯、膝を折って笑ってくれる老人――
すべてが朧げだったが、確かにあった気がした。
「……もう少し、この屋敷の中を見て回っても?」
矢野がゆっくりと声をかけると、家政婦ははっと目を見張った。
それから静かに表情を崩し、小さく頷いた。
「どうぞ……。
きっとおじいさまも、それを望んでおられるでしょうから。」
その声は微かに震えていたが、同時にどこか軽やかにも聞こえた。
長く閉ざされていたものが、少しだけほどけたような、そんな響きだった。
矢野は小さく頭を下げてから、その場を離れた。
廊下に出ると、屋敷の奥から微かに木が軋む音が聞こえた。
それはまるで、自分を奥へ奥へと誘うかのようだった。
(この家にはまだ……何かある。)
胸ポケットの便箋が、再びどくりと脈打った。
夜はすぐそこまで来ていた。
古い屋敷の奥から冷たい空気が這い寄ってくる。
矢野は止まった時計に見送られながら、再び歩き出した。
矢野は廊下をゆっくりと歩いた。
屋敷の中はすっかり日が暮れ、窓の外は青黒く沈んでいた。
ところどころ灯された小さなランプが、古い壁紙にぼんやりと影を落としている。
(やけに……静かだ。)
足音だけが長い廊下を進んでいく。
耳を澄ませば、遠くで木材が軋む小さな音がした。
それは屋敷そのものが呼吸をしているようでもあり、
誰かが隠れて見つめているようにも思えた。
ふと気づくと、矢野はまた廊下の絵の前に立っていた。
白い服を着た子どもが、花畑の中で振り返ってこちらを見つめている絵だ。
(この子は……やっぱり俺なんじゃないのか。)
胸の奥がずきりと痛んだ。
何かが蘇りそうで、でもその手前で霧がかかって見えなくなる。
絵の脇には小さな柱時計が掛けられていた。
もちろん十一時十一分を指したまま、振り子は止まっている。
矢野はそっとその振り子に触れてみた。
――ほんのわずか、冷たく硬い感触。
手を離すと、振り子はほんの少しだけ揺れ、それでまた静止した。
(あの人はこの時間に何を見ていたんだろう。)
潮風がどこからか忍び込み、背筋をひやりと撫でた。
矢野は自分の鼓動が、先ほどより早まっているのを感じた。
さらに廊下を奥へ進むと、小さな突き当たりがあった。
そこには重たいドアがひとつだけある。
(裏庭に続く勝手口か……?)
ドアノブに手をかけると、ひんやりと冷たい金属が指先を包んだ。
ゆっくりと押し開けると、軋む音と共に冷たい夜気が流れ込んだ。
そこは裏庭へと抜ける細い通路だった。
石畳には所々苔が生えていて、湿った土の匂いが鼻をかすめる。
その奥には暗い庭が広がっており、月明かりにわずかに植え込みが揺れているのが見えた。
(……あの日、靴に泥をつけて戻ったんだな。)
家政婦の言葉が蘇る。
矢野は軽く息を吐き、再び歩を進めた。
夜の庭は、昼間よりずっと広く感じられた。
まるで屋敷と同じく、何かを隠すために深く息を潜めているようだった。
矢野は慎重に足を運びながら、庭の奥へと進んだ。
湿った土は思いのほか柔らかく、少し踏み込むたびに靴が軽く沈む。
月明かりに照らされた植え込みは静かに揺れていたが、その隙間に妙に黒ずんだ地面が見えた。
(ここだけ……土が新しく動いている。)
矢野は腰を下ろし、そっとその黒い土に指を差し入れた。
冷たく湿った感触が、指先からじわりと腕へ伝わってくる。
浅いところで何か硬いものに触れた。
さらに掘り起こすと、小さな木箱の蓋が土の中から覗いた。
錆びついた金具がかろうじて形を保っている。
(なんだこれは……。)
矢野は周囲を見渡し、誰もいないのを確かめてから、そっとその箱を土から引き上げた。
木箱は思いのほか軽く、土埃がぱらぱらと落ちる。
呼吸を整え、そっと蓋を開いた。
中には、小さな銀製の懐中時計がひとつ入っていた。
針はやはり十一時十一分で止まっている。
それを見た瞬間、矢野の胸の奥で何かがはっきりと弾けた。
(これを……あの人はここに……。)
気づくと矢野は、小さく声を漏らしていた。
――あの日、老人が靴に泥をつけて戻ったのは、この場所だった。
最後の力を振り絞って、何かを確かめに来たのだ。
あるいは、これをここに収めに。
矢野は懐中時計を手のひらに包み込み、静かに立ち上がった。
冷たい月光が庭を満たしている。
それなのに、胸の奥は不思議とあたたかかった。
矢野は懐中時計を胸ポケットにそっと仕舞い込むと、裏庭を後にした。
冷たい夜気が肌を撫でる。
屋敷へ戻る足取りは、さっきより少しだけ軽かった。
廊下に戻ると、家政婦が心配そうにそこに立っていた。
「……お戻りでしたのね。」
「ええ。ちょっと……裏庭まで。」
矢野が笑みともつかぬ表情を見せると、家政婦はほっとしたように胸に手を置いた。
「昔、私もおじいさまとあの庭を散歩したことがあるんです。
あの方は、いつもあの小さな物置の前で立ち止まって――
そこから屋敷を見上げるのが、お好きでした。」
「そうですか。」
矢野は小さく頷くと、家政婦と並んで廊下の奥を眺めた。
そこにはやはり止まった時計があった。
十一時十一分を指したまま、静かに沈黙している。
「おじいさんは、この時間が本当に大事だったんですね。」
矢野がそう言うと、家政婦はそっと笑った。
泣き疲れたあとの微笑みのように、どこか柔らかかった。
「ええ。ずっと――待っておいででしたから。」
矢野は胸ポケットに手を添え、懐中時計の感触を確かめた。
(また、明日。
この家を、庭を、もう一度歩いてみよう。)
ふいにそう思った。
止まっていた自分の中の時間が、少しだけ動き出したような気がした。
屋敷の壁に掛けられた時計は、依然として十一時十一分を指したままだ。
けれど今は、どこかそれがあたたかく感じられた。