第一章 老人の死と奇妙な屋敷
潮の匂いが、どこか懐かしい。
矢野真は、海沿いの小さな駅を降り立った瞬間、そう思った。
取材でいくつもの町を巡ってきたが、どういうわけかこの町だけは記憶の奥に絡みつくような感触があった。
平日の昼下がりだというのに、駅前には人影もまばらだ。
細い路地をいくつも抜けると、港へ続く坂道に出た。
海風が強く吹き抜け、古い看板を揺らしている。
その先に、洋館が見えた。
瓦屋根の家々が並ぶ中で、ひときわ異質な存在感を放っていた。
煉瓦造りの高い壁、蔦に覆われた鉄柵、窓には分厚いカーテン。
まるで時間が止まったように静まり返っている。
――三國恭一。
町では有名な資産家で、この洋館に長年住んでいた老人だ。
矢野がこの町に来たのは、老人の死が新聞沙汰になったからだった。
「資産家老人、屋敷で不審死」
そう小さく載った記事を目にしたとき、妙に胸がざわついた。
普段なら地方紙に任せるような地味な事件。だが今回は自分で確かめなければならない気がした。
――この町はきっと、自分に何かを思い出させる。
取材ノートをポケットに押し込み、矢野は門扉を押した。
かすかに軋む音がして、古い蝶番が鈍く応えた。
応接間に通されたとき、最初に感じたのは重たい空気だった。
分厚い絨毯の上に、誰かが最近歩いたような跡が微かに残っている。
壁には年代物の振り子時計が掛けられ、しかし針は十一時十一分を指したまま、ぴくりとも動かなかった。
「遠くからようこそ」
そう言って現れたのは、この家に仕える家政婦だった。
五十代半ばほどに見える女性で、髪をきっちり結い上げ、黒いワンピースを身に纏っている。
「あなたが記者さん?」
「ええ。東京の報道社の矢野です。
老人――三國さんが亡くなられた経緯について、少しお話を伺えればと。」
家政婦はわずかに表情を曇らせたが、すぐに薄い笑みを作った。
「……こちらへどうぞ。おじいさまのお部屋にご案内します。」
二階の寝室はひどく静かだった。
そこには老人が亡くなった椅子と、小さなテーブルがあった。
テーブルの上には一通の手紙が置かれている。封筒は湿気で少し波打ち、文字はにじんで判別しにくい。
だが末尾の一文だけははっきり読めた。
――ありがとう。
「亡くなる直前に……これを」
家政婦の声はか細かった。
矢野は視線を手紙からそらし、部屋を見渡した。
窓辺にはやはり止まった時計。床の絨毯には、わずかに外から運ばれた土が付着している。
老人は死の直前、外に出ていたのだろうか?
なぜこの部屋に戻り、わざわざ椅子に座って逝ったのか。
すべてが――芝居じみている。
矢野は奥歯をかみしめ、手帳に短くメモを取った。
階下に戻ると、居間にはすでに何人かの客が集まっていた。
洋館の重厚なドアを背に、品のいいワンピースを着た中年の女性が立っている。
その隣で落ち着きなく腕時計をいじっているのは、やや小太りの男。
奥のソファには、まだ若いがどこか神経質そうな眼鏡の男が膝に書類カバンを抱えて座っていた。
「こちら、おじいさまの長女の紗代様と、次男の稔様です」
家政婦が簡単に紹介すると、女性――紗代は口元だけで笑みを作った。
「まあ、ご苦労さま。わざわざ東京から?
この町には何もありませんのに。」
嫌味とも皮肉ともつかない言葉に、矢野は軽く頭を下げる。
その間にも紗代はちらちらと、机の上に並べられた分厚い封筒に目を向けていた。
「ところで家政婦さん、この遺言状とやらは一体いつ……?」
次男の稔が低い声で問いただす。
稔はやけに汗をかいており、ポケットに入れた手を何度も出し入れしていた。
「昨日の夜です。おじいさまは私に封筒を預けておいででした。」
「ふん。死ぬ前に急にそんな話を持ち出すなんて、信用できますかね」
稔は苛立ったようにソファの肘掛けを叩いた。
その音が古い室内に響いて、掛け時計の振り子が一瞬震えたように見えた。
矢野はさりげなく室内を見渡す。
壁に掛けられたすべての時計の針が、やはり十一時十一分で止まったままだ。
それはまるで、この屋敷全体が老人の死の瞬間に閉じ込められてしまったかのようだった。
「新聞記者さん」
不意に声を掛けられた。
神経質そうな眼鏡の若い男が、手帳を握りしめながらこちらを見つめている。
「あなた、事件性があると思って取材に?
それともただの話題稼ぎですか?」
「いいえ。ただ、記事にする前に事実を自分の目で確かめたいだけです」
矢野がそう答えると、男は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
どうやらこの男は親戚筋の弁護士らしい。手帳にはびっしりと細かなメモが並んでいた。
居間を離れると、家政婦が小さく手招きした。
矢野はそれに気づき、そっと足音を忍ばせて廊下の奥へついていった。
廊下の突き当たりには、色褪せたステンドグラスが嵌め込まれていた。
そこだけが昼の残光を受けて、ぼんやりと赤や青の光を落としている。
「……おじいさまは、亡くなる前の晩も何度も時計を見ておられました。」
家政婦は低く、小さな声で言った。
「十一時十一分……あの時間に、何を思っておられたのか。
けれど、それがこの家の時間になってしまったようで……。」
そう言って、細い指先が胸元で絡まる。
矢野は小さく息を吐いた。
(やはり偶然ではない。全部の時計が止まっているのは――。)
「最後に何か言葉は?」
「……『明日、この家は私の時間で止まる』と。」
家政婦はそこで言葉を切り、少しだけ震える声で続けた。
「それが何を意味していたのかは、私にも……。」
そこへ、遠くから革靴の音が近づいてきた。
ふと振り返ると、眼鏡の弁護士・山岡が廊下の影から現れた。
「記者さん」
山岡は短く呼びかけると、手帳を胸元で軽く叩いた。
「あなた、この屋敷に来たことがあるんじゃありませんか?」
矢野は思わず息を飲み、心臓が一度大きく打った。
「……なぜそう思う?」
「あなた、廊下の絵の前で妙な顔をして立ち止まっていた。
あれは見覚えのある場所でしか出ない表情ですよ。」
山岡は薄く笑い、眼鏡の奥で光を鈍く反射させた。
「もっとも……この家はそれだけ、人を惹きつける。
死んだ老人も、生前ずっとこの屋敷に自分の世界を築いていたんでしょうから。」
矢野は何も言い返せず、ただ静かに視線を逸らした。
胸の奥では、あの幼い記憶がまたうっすらと疼いていた。
山岡はひとつ肩をすくめると、廊下を引き返していった。
その背中が遠ざかるのを見送ってから、矢野は改めてステンドグラスに目を向けた。
(やはり……子どものころに、ここに来たことがある気がする。)
けれど、その記憶は霧に包まれたままだった。
廊下に掛けられた時計は、やはり十一時十一分を指して止まっている。
まるで自分の記憶をその時間に閉じ込めるように――。
矢野はそっと廊下を歩き出した。
止まった時計に、まるで見送られるように。