第1章:右も左も知らない世界で①持ち物ゼロ、異世界スタート
「……さっきの、叫んだのは失敗だったかもしれん」
まわりを見渡しながら、そっと声に出して反省する。
転生だ! 異世界だ! とテンション高くなっていたのは確かだけど、いくらなんでも知らない世界で大声はまずかったかもしれない。野生動物がいたら? 魔物とか? そもそもこの世界の治安ってどうなんだ?
……いや、そもそも人間がいるのかどうかすら怪しいわけで。
「とりあえず、落ち着け俺」
ひと呼吸おいて、もう一度周囲を見渡す。草原。森。遠くに山の稜線。鳥の鳴き声。風は穏やかで、空は馬鹿みたいに青い。夜ではないようだな。でも、体内時計は深夜三時くらいを主張してる。帰宅の途中だったしな。そういえば、少し腹も減ってきた気がする。……そりゃそうだ。帰宅途中だったんだから。
世界は不思議なほど穏やかだった。穏やかすぎて、逆に音が鮮明に聞こえる。
この静けさが逆に安心感をくれる。どこかに何かが潜んでいる気配はない。少なくとも、今すぐに命を奪われそうな気配は、感じられなかった。そう思った瞬間、全身の力がふっと抜けた。
転生直後の興奮もようやく落ち着いてきた。スーツじゃない服の着心地も悪くないし、体のどこにも痛みはない。むしろ今、自分が生きてるって感覚が、やたらとくっきりしている。
そういえば、持ち物はどうなってる?
慌てて、衣服の合わせ目や腰まわりを探ってみたけど、ポケットなんて洒落たもんはなかった。
……何もない。財布も、スマホも、社員証も。
持っていたものは何ひとつ無い。スーツのポケットに入れてたものだしなぁ。スーツ着てないんだから、当たり前といえば、当たり前か。カバンは……と周囲を見渡したが、通勤カバンは勿論、手荷物らしきものもない。マジか!
さらに、顔に違和感を覚えて気づく。
「……あ、メガネもないじゃん……」
ここ数年、四六時中くっついていた相棒だったのに、一緒に転生してくれなかったらしい。
でも、視界がぼやけるとか、目が悪い感じはないってことは、視力回復したのかな? 転生の仕様? ご褒美?
これは、ちょっと嬉しいかも。
地面にしゃがんで草に手を伸ばしてみる。ざらりとした感触。手のひらに触れた草はしっかりとした葉脈があり、根もちゃんと張ってる。その当たり前の手触りに、なんだか少し感動した。作り物じゃない。ちゃんとした“自然”だ。
「なんというか……ちゃんと、“現実”なんだな、ここ」
そんな当たり前のことに、少しだけ安心する。
「さて、と」
独り言をつぶやいて立ち上がる。
とりあえず、このままじっとしていても仕方ない。
何をするにもまずは自分の状況を把握しなきゃいけない。 そもそも、ここはどこなんだ。俺の住んでた日本じゃないのは確かだ。 見覚えのあるものが何もない。人の気配もなければ、文字のひとつも見当たらない。 風景はきれいでのどかだけど、あまりにも情報がなさすぎる。
日差しはそれなりに強いけど、湿度は低くて風が気持ちいい。服の袖をめくると、うっすらと陽が当たっているのがわかる。日焼けとかも普通にするのかな、この世界。
少し離れたところに、なだらかな丘が見える。ここより少し高くなってるっぽい。
「あそこに登れば、何か見えるかもしれないな」
見晴らしのいい場所からなら、村とか、人の気配とか、何か手がかりになるものが見えるかもしれない。
目的地が決まったことで、ほんの少し背筋が伸びた。
「よーし、じゃあまずは……生き延びる、から、始めようか」