第九話『悪意は止まず』
「……」
何も出来なかったと、後悔を抱えつつ、ハーツは静かに廊下を進む。
監察官であるはずの自分が、どうにか解決は出来なくとも、不機嫌にさせない程度の処置を施すべきだった。難しいとしても、それが仕事なのだから。
「……でも、安い言葉は吐けない」
『君は悪くない』、『前を向こう』、『そんな事はない』。
何度も耳障りの良い言葉が脳裏をよぎった。それを告げてしまえば、あるいは楽だったかもしれない。それでもハーツは言えなかった。
それは問題の先延ばしでしかないからだ。目の前に現れた困難に対し、言葉という人間のシステムを利用して機嫌を延長するだけの、無意味な逃避行に過ぎない。
それだけはどうしても避けたかった。最も、避けたところでこんな結果を招いてしまったのだから、どっちもどっちだったかもしれないが。
「───ハーツ・ローレリアス」
ふいに聞こえてきたのは、底冷えするような声色だった。
呼ばれた事に驚き、振り返れば、階段の踊り場に一人の男性が立っている。
純粋なる人間ではなく、耳と尻尾を持ち、『悪癖』をその内側に秘めた、今のハーツにとっては最も厄介な相手。
「……エーキュレイン指令」
来訪者の名を呟き、ハーツは表情を少し暗くする。
デフィニは浅く頷き、ゆっくりとこちらに歩みを進めながら、話し始めた。
「奇遇だな。こんなところですれ違うとは」
「……ええ、こんばんは。指令はこんなところで何をしているのですか?」
「散歩だ。そう穿った思考をするな」
彼の目が細められる。
「───警戒、か。お主の感情、俺の耳には届いているぞ」
「耳……?」
独特の言い回し。
だが、戦場経験が長いハーツは、すぐに感づいた。それはハーツたち固有の魔法を持つ者が口にする、所謂自分の魔法の自慢のようなものだ。
探知部門長であるデフィニには、恐らくラングのように人の感情を察知するような魔法がある。つまりそれを用いて、ハーツの感情はある程度透けているという事だろう。
「……ならばお聞きします。どうしてエランの事を壊そうとするのですか?」
「さて、何のことやら。エランというのはあのエランフェリア・テンペスターズか? ───知らんな。見当もつかん」
「……」
まともに話す気はない、という事だろう。証拠も残さず、第三者を利用するやり方を好むぐらいだ。自分から自白するような真似はしない。
デフィニは歩みを進めながら、表所を変えずに言う。
「だがまぁ、一つだけ話をしてやろう」
「……」
「俺は、小さい頃から耳が良かった。人の鼓動から遠方で起きた現象まで、音を聞けばあらゆる事象を把握する事が出来たのだ」
「……それが司令の魔法だと?」
「そうだ。『地獄耳』という」
音を聞く。
音を聞いて、判断する。
例えば、常人が背後に落ちた硬貨を独特の音で判断するように、彼は例え遠く離れた場所で起きた物事も、音によって判断できるというのだ。
なるほど、探知部門の長を任せられる訳である。もしこの瞬間に『幻獣跋扈』が発生しようとも、彼はすぐさま感知できるのだろう。
「周辺の出来事を掌握できるというのは、お主の想像以上に退屈な事でな。幸福な事も、自分の危機さえも、事前に察知できる視界に映る全ての事が俺にとっては既知だ。。だから俺は───自分の周辺の世界を、自らの手で壊すのだ。壊し、予想外を生み出す」
感情を察する事の出来ない目線が、ハーツとぶつかる。
「これから事態は更に悪化するだろう」
そして、醜悪に笑った。
「───いやはや、上手くいった! 俺は大変満足だ!」
「……」
思わず、顔を顰めた。
醜悪。
ただ、その感想が浮かぶ。
本当なら怒りをあらわにしたい。けれど、それが無駄な事はよくわかっている。むしろここでそうしようものなら、不利な立場に立つのはハーツだ。
かつてクリアから怒りを制御する術を学んでいる。彼は何よりも感謝した。
デフィニは歩みをさらに進めて、ハーツの隣を過ぎようとする。
「お前に情報を漏らしたのはチエだろうが、安心しろ。アイツには手を出さん契約になっている」
「……ッ」
「件の少女が壊れたままの場合は俺が責任を持って、新たな戦力を用意しよう。後片付けも任せると良い」
最後に一言、彼は首を下げて、ハーツの耳元で嗤った。
「精々抗ってくれ、『英雄』殿」
問題の焦点は、現況を叩く事ではなく、エランフェリアの精神が改善する事。デフィニを叩いたところで利益はなく、解決もない。
第三者を使っている事で特定も不可能で、ハーツには潰すだけの力もない。先手も打たれた。仕返しの手段もない。
あまりにも、厄介すぎる────。
「……弱いな、僕は」
結局、ハーツは何も言い残す事は出来なかった。
~~~~~~~~~~~~~
「それで」
部屋に戻り、少し経って。
しばらく考え事に耽ろうとでも思っていたのだが、それは終末龍によって邪魔されていた。
「君は暇なのか?」
「天候が悪く視界が悪いせいで、『幻獣』たちが攻めてこねえ。手持無沙汰な事は否定しないな。ここにいれば狩りの心配もねえし、龍に鍛錬なんか必要ない。必然的に人間との交流しかする事がない訳だ」
「だからと言ってなんで僕のところに……」
「他のニンゲンがつまらな過ぎる。クリアは実力さえ認めてはいるが、性根は腐ってやがるしな」
窮屈そうに翼を広げたり、閉じたりして寛ぐアルゴ。
「やっぱりめんどくせえ。件のエランフェリアだが、無理矢理に引きずり出して強制的にいろいろ経験させるのじゃダメなのか。俺様がニンゲンの文化を学ぶ時に見た劇も似たようなことしてたぞ」
「荒療治は駄目だ。特に多重人格者はただ感情が落ち込んでいるのとは勝手が違う。癇癪ともな」
例えばただ日常に不満を持っていて、少し落ち込んで引きこもっているだけなら、強制的に外に出すことも効果はあるだろう。体験を与える事で悩みなど吹き飛んでしまうだろうから。
でも、エランフェリアのそれはただの感情はない。彼女の人生に根付いた、過去という集積物の過程で発生した精神的外傷だ。
───そうだ、過去。過去だ。
「僕はまだ、エランフェリアの『過去』を知らない……」
漠然と、関わっていく中で知っていくものだと思っていた。実際、人間関係とはそうあるべきだ。だが、こうなってしまった以上───ハーツは彼女の過去を、断片的にでもいいから知る必要がある。
過去を知らなければ、集積物をどうにかする事は出来ない。
「アルゴ、留守番頼んだ」
「どこかへ行くのか」
「君の言う、性根の腐った人のところだよ」
───十分後、指令室。
「それで、私のところへ来たと」
「はい」
専用の椅子に足を組んだ状態で座りつつ、微笑を浮かべるクリアに対し、ハーツは真面目な顔で頷く。
「本人に聞きたいところですが、恐らくいま行っても門前払いをくらうだけです。なので、一番事情を知っているであろう貴方のところへ来ました」
「その選択は正しい。本人の次に事情を知っているのは私だからな。ただまぁ、その表情を見るに、本人以外から聞くのは罪悪感があるか?」
「……最善は本人から聞く事だとは思っています」
「真面目ちゃんめ」
と言いつつ、クリアは目を細めた。
「それにしても……やはりアイツの『悪癖』は働いたか。被害を齎すのにもかかわらず、損害が出た場合は自分で埋めるという徹底性……加えて、アイツ自身が有能であるせいで咎める事もかなり難しい。とんでもなく厄介だ」
事前にデフィニの事は伝えておいた。だがこの返事が返ってくるという事は、やはりどうにかする事は難しいのだろう。
「アイツの事は私の方でもどうにかしておく。それよりも話を戻そう。───エランフェリアの過去についてだったか」
「はい」
「事情を知っている、とは言ったが、全てを知り尽くしている訳ではない。というのも私とて本人から聞いた情報しか知りえないからだ」
「構いません」
頷く。
「なんでもいいから教えてください。少しでも、彼女の事を理解したいんです」
「……そうか」
クリアは瞑目し、やがてハーツの座るソファの対面に座った。
「エランフェリア・テンペスターズというのは───とある小さな集落で、『神』として崇められていた少女だ」