第四話『ケモ耳と暗雲』
「基礎は出来ている。この調子でこの問題を続けてくれ」
「分かった、ハーツさん」
夕食を食べた後、消灯までの数時間。
エランの担当であるハーツの仕事は多岐に渡り、彼女に勉強を教える事もその一つだ。夜の図書館は人もあまり多くなく、ゆったりとした雰囲気を形成していた。
ハーツは勉強を見つつ、この周辺の土地について書かれた本を読み漁っていた。数時間前に名産を食べた事で興味が湧いたのだ。
「なるほどな……」
背後から聞こえる靴の音。
「───何かお分かりになりましたか?」
「君は……」
声をかけられ振り返ると、そこには一人の少女がいた。
腰まで届く、漆のように艶やかなウェーブの長髪。公爵令嬢の如きドレスに身を包んだ彼女の美貌は、深窓の令嬢と呼ぶのに相応しい輝きを放っていた。
何よりも特徴的なのは、頭の上に生えている耳と腰下の尻尾。彼女はゆったりと手を振り、ハーツに上品な笑みを向けていて───その光景は記憶に新しく、忘れてもいない。
ハイフロントへ到着した時、ハーツと奇妙なやり取りを交わした少女だ。
「あれ、こ、こんばんは」
「ごきげんよう、エランフェリアさん」
「知り合いだったのか?」
「うん、少し……あっ、わかった」
突然、エランフェリアが口をつぐんだ。視線が黒い少女の方に向いており、ハーツもまた視線を向けると、彼女は口元に人差し指を立てて片目を閉じていた。
どうやらそれ以上話すなという意味らしい。理由を察する事が出来ないまま、少女はもう一度ハーツへ視線を戻した。
「それで、何かお分かりになりましたか?」
「そうだな……」
ハーツは驚きつつも、本に視線を落とし疑問に答える。
「あまり大きな声では言えないが……ここの土地はハイフロントが出来ていなければ、いずれ滅びていただろうな」
「あら、その理由は?」
「この図書館に置かれている本は周辺の本を集めた物だが、ここ数年間、ハイフロントが出来るまでは新しい本が刷られていない。全体的に本が古く、新しい本が少ないんだ」
「それがなぜ理由に?」
「本とは言ってしまえば知識の集合体だ。だがそれを作るためには文化の地盤が必要になる。新しい本が作られないというのは、知識や娯楽の収集に力を注げない状態にあるという事。豊かな国に哲学が繫栄したのと同じ道理だ。生きるのに必死で余裕がない証拠なんだよ」
「なるほど、賢いですね」
ハーツの言葉に、しっかりと少女が頷く。
ゆっくりと本を閉じた。
「それでだ。僕らはそろそろ自己紹介が必要だとは思わないか?」
「ええ、賛成です」
「僕の名前はハーツ・ローレリアス。少佐だ。君は?」
「私はチエと申します。以後、お見知りおきを」
チエは典麗な仕草でスカートの端を摘まみ、足を曲げて挨拶をした。やはり動きの一つ一つが洗練されていて、エランとは別の意味で軍人らしくない。
特徴的な耳が彼女の動きに合わせて揺れる。尻尾も緩やかに靡いていた。
「もう一つお聞かせ願えますか? なぜ、あの日はあんなところを歩かれていたので?」
「基地に入るためだ」
「あら、そういう事ではありません。基地に入るだけなら馬車に乗ったままでよかったはずです。しかし、なぜ自分の足で歩かれていたのですか?」
初日、ハーツの事をずっと観察していたのだろう。チエの言うとおり、理由がなければ自分の足で歩く事はしない。馬車の方がよっぽど早く、手間も省けるのだから。
「単純に自分の足で歩いた方が早くハイフロントについて知る事が出来るからだ。これから生活をするところなのだから、知っておくに越したことはない」
「なるほど、丁寧な方なのですね」
「丁寧でありたいとは思っているよ」
「いいですね! 仲良く出来そうです」
「それよりも逆に聞かせてくれ」
瞠目。
「君は何者だ。僕がやってきた時は基地の上部にいたし、エランの研究所にも君はいた。普通の軍人の恰好はしていないし、何より君は獣人だろう。稀な種族だ」
「さて」
目配せ。
「私はただの、いついかなる時も基地を歩いているただの美少女ですよ」
「確かに君の容姿は整っているが、説明になっていないな」
「まぁお上手」
「上手? 説明がか?」
「下手ですねぇ」
「……」
そこでふと視線を感じて、ハーツはエランの方を見た。彼女は勉強を続けながらも、ジト目でこちらを睨んでいる。
顎に手を当て少し考えて、ハーツは口を開いた。
「エラン嬢も美しいぞ」
「……ふーん?」
「あらあら、微笑ましいですね」
そうして話してると、不意に図書館の入り口の扉が開いた。この時間に図書館を訪れる者など、相当の本好きか用事がある者しかいない。
「ラング?」
「おっ、ハーツ!」
「図書館では静かにしろ」
「ごめんごめん……!」
ぺかーっとした笑顔のまま、ラングは苦笑いを浮かべて反省しながらこちらへ近づいてくる。
「やっと見つけたぜー。部屋にもいなかったからどこに行ったのかと───」
視線が、ハーツからエランへ移り、そして最後にチエを見て、止まった。
静止。
まるで世界の時間が止まってしまったかのように、彼はゆっくりと腕を下ろし、ただ立っているだけの状態で彼女を見つめている。
チエもまた、首だけを向けていた姿勢を変え、きちんと向き直りラングを見つめた。
「────」
「お名前はなんていうんですか?」
「え、あっ」
にこりと微笑んだチエの言葉に、ようやくラングは反応を見せた。
頭の裏に手を当て、照れたように言葉を紡ぐ。
「ラング。ラング・ミゼラブルだ」
「素敵なお名前ですね。私はチエと申します」
「チエ……さん」
「あら、他人行儀なのはお止めになって? チエで構いませんわ」
「お、おう! じゃあチエで!」
再び、彼女は微笑んだ。
「何かご用があるのでしょう? でしたら、またの機会にゆっくりとお話しましょう」
「わ、分かった」
次に彼女は振り返り、ハーツたちにも笑みを向けた。
「それでは、ごきげんよう」
「……なら、エランの事を任せてもいいか? 知り合いなんだろう?」
安定時のエランフェリアの扱いについては、ハーツに一任されている。外出させる訳でもなく、ただ図書館に残らせるだけならば咎められることもないだろう。
「ええ、構いませんわ」
「ここで勉強して待ってるね」
出会いから別れまで、一糸乱れぬ瀟洒な少女に見送られ、二人は図書館を去る。
ぼーっとその動きが見えなくなるまで眺めていると、ラングは勢いよく振り返りハーツの肩を掴んで言う。
「今の子、めっっちゃ綺麗な子だったな……!! お前の知り合いか……!?」
「さあな。妙な縁があっただけだ。……それよりもラング、俺を探しに来たんじゃないのか?」
「あっ、そうだった。あぶねえあぶねえ」
茶目っ気のある笑みを挟み、一言。
「ハーツ、司令たちがお呼びだ」
~~~~~~~~~~
別の用事があるラングとは別れ、ハーツは指令室へと向かっている。具体的な用事は伝えられていない。恐らく、部外者に漏らせない極秘事項───となると、十中八九エランフェリアの事だろう。
既に人のいなくなった廊下を通っていると、前方から人影が見えた。
『上官』の印が見えた。
ハーツは敬礼を以て道を譲る。
すると、通り過ぎようとした人物──長身の男性が、足を止めた。
「君がハーツ・ローレリアスか」
「いかにも。ハーツ・ローレリアス少佐です」
ハーツよりも一回り大きく見える長身に、鍛えられていることのわかる厚い肉体。足が悪いのだろうか、杖をローブのような軍服の下に隠しながら歩いている。
顔に刻まれたしわは、彼が既にそういう年齢の人物であることを表していた。
何よりも驚くべきは───そう、頭の上の耳と、腰裏の尻尾である。
「ほぉう。なるほど」
「……!」
長身が折れるほどに曲げられ、ハーツは瞳を覗き込まれる。大概なんでも怯まない性格をしているのだが、視覚的な衝撃が強く思わず表情が変わりそうになった。
すると、彼は突然杖の先端を地面に叩きつけた。まるで金属に衝撃を与えたような耳鳴りがする。
やがてゆっくりと姿勢を元に戻すと、鼻で笑った。
「気持ち悪いな、お主」
「……」
なんという言い草だろうか。勝手に顔を覗き込み、浴びせてきた言葉が罵倒であるとは。反論する気も起きないままに驚いていると、男性は偏屈そうな表情を浮かべた。
「『探知部門長』、司令官デフィニ・エーキュレインである」
「……! 貴方が? 今から司令官室へ向かおうと思っていたんですが───」
「その場に俺は必要ない。どうせ下らぬ決まり事だ」
かつ、と杖の音を響かせながら、デフィニはハーツの横を通り過ぎた。
「醜悪だな」
一言だけ呟き、彼は去っていった。
「……何か気に障るようなことを言っただろうか」
~~~~~~~~~~~~
「あっはははは! それは災難だったなハーツ」
中央のテーブルを囲むように『コ』の字に設置された三つのソファのうち、左側に座るクリアが盛大に笑いハーツを労った。
司令官室に到着し、遅れた理由を述べたのちに言われた事だ。
「一体、あの方はどういう」
「アイツは悪癖持ちだからな」
「うむ。全くデフィニには困ったものじゃ……」
三つのソファのうち、中央奥に座る幼女──否、幼女に見える、女性。外見は幼いのに落ち着きようと話し方は熟練のそれであり、その差が神秘的な雰囲気を演出していた。
束ねられた糸の如き銀髪。身に纏うは漆黒の女性軍服。胸元に付けられた数々の勲章───それはこのハイフロントの最高司令官に与えられる代物だ。
彼女のソファに預けられている杖は、デフィニの持つような純粋な杖ではなく、魔法使いが所有する専門の杖である。
噂通り子供にしか見えないが、彼女はこれでも百歳を超える長寿の種族である。
ハーツは直ちに敬礼をした。
「お初にお目にかかります、最高司令官エウレカ・グランティア殿。ハーツ・ローレリアス少佐です」
「ご苦労。足を運んでもらって悪いのう」
「とんでもございません」
「用は他でもない。エランフェリア・テンペスターズの事じゃ」
やはり予想は当たっていたようだ。
「最高司令官の名を以て、改めてお前をエランフェリア・テンペスターズの『監視係』へと任命しよう。『K.E.O.S』は極秘機関じゃからな。一応、ワシの認可も必要となるのじゃよ」
「畏まりました。謹んで、拝命致します」
「うむ。一応規則としては全司令官がこの場にいる事が必要なのじゃが……まあよい。デフィニから書類の許可は貰っているからよしとしよう」
「それじゃあ、ここからは私が」
手を挙げ、クリアは話のバトンをエウレカから受け取った。
「報告は受けているが、お前の口から直接聞きたい。エランフェリアの様子はどうだ」
「良好です。特に暴走する予兆はありませんし、今日は町へ出て観光する余裕もありました。今は図書館で勉強をしてもらっています」
「ふむ。今のところ、お前に任せて良かったようだな」
クリアはニヒルな笑みを深めた。
「一先ず、治療の方針が決まった。普段から人格が荒れているのなら困ったが、良好なら問題ない。想定通り──日常生活を送ってもらい、その都度出てきた人格に対処してもらう」
「成り行きに任せる、という事ですか?」
「『普通の日常』が彼女の精神に及ぼす影響がまだ分からないからな。もし進展がないようなら次の手を打つが、今は様子見の段階だ。お前の存在はいい刺激になるだろうしな」
「つまり、出現した人格に対し原因の追究を行うという事ですね」
多重人格は、人格ごとに『生まれた理由』が存在する。
実例を挙げるとしよう。過去に主人格とは別に攻撃的な人格を持つ者がいた。彼ないし彼女は幼いころに親から虐待を受けており、己の心を守るために攻撃的な人格を作り出したのである。
エランフェリアの三つの人格にも存在理由がある。それを特定する事が先決だ。
「人格の変化は外見に現れる。だからすぐに分かるだろう。このままの調子で頼んだぞ」
「心得ています。このハイフロントを新たな戦場として、邁進していく所存です」
「ご苦労。話はこれで終わりだ。夜遅くに済まなかったな」
「では、これで失礼します」
二人に再度敬礼をし、ハーツは司令官室を出て行った。
~~~~~~~~~~~~
「いい子じゃったな。真面目な子じゃ」
月明りの下。
ハーツが去ってから少し経った司令官室で、クリアとエウレカの二人は談話する。
「ええ、その通りです。優秀な部下ですよ」
「ただ一つ懸念点があるとすれば」
「エランフェリア・テンペスターズに関する今回の計画を、既にデフィニに話していること、ですね」
「うむ」
クリアの疑念を、エウレカは肯定する。
「アイツの『悪癖』──人間を壊す性癖が悪いように働かなければ良いのですがね」
「じゃがお前、デフィニはハーツを好かんはずと言ってなかったか? 刺さらないだとかなんとか」
「ええ、そのはずです。ですが」
楽しそうに、期待するように、クリアは言う。
「───人という生物は、ゲテモノほど好んでしまいますから」