第三十三話『気狂るす染伝』
青い夢が泡となり、波がひとつふたつと逆さに落ちていく夜、銀色の舟が風の中で止まる。
貝殻は眠りのうたを忘れ、砂は無数の羽根を編みながら、海の底で声を持たぬ木々を育てる。透明な魚たちは影を追い越し、色のない虹が海面に浮かび上がったまま、見えない手がそれをそっとほどいた。珊瑚の枝には青い時計が絡まり、時間は縛られたまま空を飛ぶ。
水平線はぐにゃりと曲がり、舟は逆向きに帆を広げて、どこへも行けぬまま漂い続ける。波の音は、誰も聞かない色を奏で、昔の月が見えない星を追いかけて消えた。夜の風は鏡のような海を割り、泡の中には無数の引き出しが溶け込んで、鍵を持たない影がそれを開けようと手を伸ばす。深い闇の中では、言葉のない花が色を重ねる。
灯台の光は沈んだ空に描かれた輪郭、漂流瓶は中身のない手紙を抱えながら、波に揺られた影だけを映していた。岸辺を撫でる風は、名前を失った海の欠片を集め、意味を失くした星の下で、全てはただただ青い霧となり、誰も知らぬまま、遠く消えていった。
夜の深淵は静かに開き、黒い雲が星の声を飲み込むと、紫色の雨が逆さに降り始めた。空はゆっくりと溶け出し、闇は無数の糸で編まれた繭へと変わる。白い鳥は羽ばたきを忘れ、虚ろな瞳で遠くの砂漠を見つめながら、何もない大地を漂い続けた。風はどこからともなく現れ、誰も見たことのない古い歌を口ずさみ、時間の終わりに向かって鼓動を刻んでいく。
水面は鏡となり、重なり合った影たちが空を切り裂くように踊る。森の木々は葉を持たず、その根は空へと伸び、無言の花が黒い雨に飲み込まれていった。朽ちた橋の下、川は音もなく逆流し、流れゆく泡は過去の記憶を運びながら消えゆく。耳を澄ませば、遠くでささやく声が、名もなき星の悲しみを語り続ける。
暗い森の奥深く、木々の影に隠れた城は、透明な鐘の音を響かせる。扉を開ければ、外には何もない永遠の青が広がり、階段は天空へと続いている。無限に落ち続ける星々は、記憶の断片を散りばめ、誰も知らない夢の中で淡い光を放つ。ひとつ、またひとつと消えていくその光に触れた瞬間、影は言葉を失い、風に解かれた時間は静かに眠りについた。
全ては繰り返し、ただひとつの道を辿る。はちみつ色の太陽が微かに輝き、遠く消え去ったものたちの囁きが、永遠に閉ざされた空の果てで静かに響いていた。
~~~~~~~~~~~
「───っはッ!」
水の中から突然はじき出されるような感覚と共に、体が跳ねて、その衝撃で意識が覚醒した。
重いまぶた、寝間着に包まれた肉体、そしてびっしょりとかいた寝汗。それらの情報で、ハーツは自分が寝室へ帰り眠った昨日の事を思い出す。
「はぁ……なんだ、今のは……!」
全てがあった。
現実なのか、夢なのか分からなくなる世界の中に、言語化出来ない概念たちが勢ぞろいしていたのだ。七色、陸海空、星々───きっと名前のついていないこの世に存在する何かさえも。
「『狂気』が強く……いや、濃くなっている」
十中八九、その夢はランの太陽による影響だ。でなければあんな風におかしな夢を見る事はない。そして見た事もない。
「……」
髪をかき上げ、掌の熱を顔で感じながら気持ちを落ち着かせる。
結局、睡眠を取ったのに夢のせいで休まった気がしない。心なしか体調が悪い気さえする。
───狂っているんじゃない。純粋に弱っている。
肉体の疲労、そして焦燥感は太陽の力ではない。ハーツ自身が今の状況にあてられて、強制的に追い込まれているのだ。
衰弱に近い。つまりこれは、本来の『狂気』に近しいのかもしれない。
「……」
ゆっくりと立ち上がり、布で寝汗を拭きながら窓の外を眺める。外の世界は未だ灼熱であり、出歩く人はいない。故にハーツが見るのは室内の人々だ。
みな、笑顔を浮かべいつも通りに生活している。だがその会話の内容は支離滅裂なのだろう。
「あるいは、僕が狂っているのか……」
着替えを終え、ハーツは身支度を済ませると頬を叩き、扉へ近づく。
「ランに会いに行かなければ。アルゴがいればアルゴの力も借りたいところだな……」
とにもかくにも、現状を把握するためにランと話す必要がある。もしアルゴと出会えた場合、彼ならばもしかすると『狂気』の影響下にいないかもしれない。協力を得られるかは別だが、何かしら有益なはずだ。
故にハーツはドアノブをひねり、外へと一歩踏み出して───
「……?」
廊下が、まるで粘土の様に歪んでいた。
細長く伸ばした粘土をぐちゃぐちゃに歪ませて、原形をとどめなくしたような───そんな形。壁もまた地形に沿って歪んでいる。
そしてハーツが今捻ったドアノブを含め、全てのドアノブは一輪の花へと変わっていた。窓は透明感を増やした目玉のようで、扉は真っ白なクリームみたいだ。
明らかに基地の形状に沿わぬ廊下。だが触ってみれば、視覚に従い歪んでいる。
「あぁ……これはもう分からないな……」
本当に自分が狂っているかもしれない。否、確実にどこかしらはおかしいのだろう。
なぜか思考だけははっきりしている。しかしこれが正気である証明にはならない。おかしな人間は、おかしな自分を認識できないと相場が決まっている。
「───ラン」
声に出す。
声に出して、再認識する。
「君は……こんな世界を……」
言葉にするたびに実感が湧いてくる。彼女が、彼女たちがどんな世界で生きてきたのか。どんな困難と直面し、抗ってきたのか。
ランという少女はいつも、うるさいほどに明るかった。そして人格が暴走を起こしてからも、いっそ振り切れたように元気だった。
今なら少し考える事が出来る。彼女のその明るさは、もしかして明るくある事で自我を保っていたのではないだろうか。
明るく、声を張って自己主張をしなければおかしくなってしまうから。だからランという少女は、明るいのではないだろうか。
そんな生き方。向かう先は、破滅しかない。
「───」
『破滅』。
そう聞いて、ハーツはチエの事を思い出していた。
『破滅の運命』を迎えると自身を称していた少女。
彼女は間違いなく、歪んだ思考を持っていた。長生き出来ないほどに常識を外れた思考を持っていた。けれど同時に、抗っていたのだ。破滅の運命という抗えない代物に。
「チエ……」
『長生きできなくてもいい。だからせめて、劇的な最後を』。
苦しみを本当に理解してやる事は出来ない。なぜならハーツはチエのように一般的な幸せを受け入れられない者ではないから。
でも、今ならその十分の一、百分の一なら、気持ちを理解できる気がする。
きっと彼女の世界は───今のハーツの視界のように歪んでいた。認知が他者とずれていた。自分がおかしいのか、自分以外がおかしいのかと考えていた。
その果てに聡明な彼女は、自分がおかしいのだと自覚した。
「そういう事か……」
溜息の様に零れる言葉。
彼女は生を諦めていた訳じゃない。ハーツのように強くあろうとする事を辞めた訳じゃない。
───劇的な最後を望む。それこそが、チエなりの最大限の抵抗だったのだ。
その果てにチエは生き抜き、最後に本懐を果たして死んでいった。
「酷い事を言ってしまったな……」
自分の性格が嫌になる。
ハーツは『真面目』だ。自分でそう思ったことはないが、他者評価は自分を構成する重要な要素である。
『真面目』さは美徳だ。物事を真正面から認識し、揺るがず、見つめ続ける。それが当事者たちによっての正解ではなかったとしても、常に一定の物差しが存在するというのは、正義たりえる。
───じゃあ、その基準が歪んでしまったら?
その真面目さは、意味があるのだろうか?
「───」
空がはちみつ色だ。
床がぬかるんでいる。
雲が下に伸び続けて増殖を繰り返した。
建物は横に倒れ地面を抉って円を描いている。
「───」
意識だけ。
意識だけだ。
意識だけ。意識だけ。意識だけ。意識だけ。意識だけ。意識だけ。意識だけ。意識だけ。意識だけ。意識だけ。
意識だけ。意識だけ。意識だけ。意識だけ。意識だけ。
意識だけだ!!!
僕の意識だけが正常であると訴えているのに、それ以外の五感全てが狂気を感じている。認識は正しいはず! 正しいはずなんだ!
だから歪んだ地面なんて普通じゃありえないはずだし、空だって増えたりしない!
『本当に?』
本当だ!
本当だよ!
本当だとも!
ほんと! ほんと! ほんとととととととととととととと。
「───」
あつい。
くるしい。
怪我など最早障害にはならないのに、そんな経験を越えて直接頭が悲鳴を上げているようだ。
「───」
それでも足取りは止まらない。
───ラン。ラン。ラン。
救いたい。
その気持ちだけが、ハーツを動かし続けている。
それでも。
人の心は弱ってしまう。故に、心の隙間に一つの思考が差し込まれた。
『狂気に染まればすべて解決するよ』
「───」
『ランも消えないし、身を委ねれば楽だよ』
「───」
『何が幸せかなんて当人が決める事だよ。一度委ねて、その後だめだったらやり直せばいいじゃん』
らんがいなくならない。
りあみたいにきえない。かなしいおもいをしない。
ぼくがいきているりゆうがはたせる。
「それも……わるくないのかも…………しれ、な……い」
一度口に出してしまえば、それが例え真実でなかったとしても、心の中では真実になってしまう。
身を蝕む倦怠感。浮遊感。『狂気』──ふっと力を抜いた瞬間、ハーツの足が徐々に地面へ沈み始めた。
そのまま、世界の流れるままに、ハーツは身を委ねて───
「このッ──バカ野郎ッ!!」
ふいに、右頬に衝撃が走った。
微かに背後へ吹き飛び、視界が回転。うつ伏せの形で地面へ激突し、自然と受け身を取った。
何が起きたか分からず、すぐに上体を起こし前を見る。
「ラング……」
───拳を振り抜いた、親友がそこにいた。
※タイトル付け忘れ修正しました。




