青春
私は運動が嫌いだ。体育の先生には申し訳ない。だが、私はどうしても、運動が大嫌いなのだ。
「私、運動苦手で……」
と言って、私より運動が出来る人を、何人も見たことがある。私の持論だが、真の運動音痴は、
「運動が苦手で……」
とは言わないと思う。何よりも大事なことは、いかに存在感を消せるか。
だが、運動が嫌いだからって、さぼろうと考えているのではなく、ちゃんとやろうとする意欲は出す。準備も片付けもする。その上で、内心は、
(一秒でも早く終われ)
と思っている。おそらく、体育の授業中に時計を見ている回数ならば、私が学年一位だと思う。
この中でも、体育祭という行事では嫌な気持ちというよりも、それを通り越して無の境地に達していた。
特に、中学二年生の体育祭が一番記憶に残っている。いい意味でも悪い意味でも。
体育祭の本番一か月ほど前から、午後の時間を丸々使ったり、放課後の時間を使ったりして練習していた。今考えると、ガチで練習してたんだなと思い、その練習を耐え抜いた自分を褒めたたえたい。
避けて通れなかったのが、クラス対抗リレー。この競技だけは、全員がどうしても参加しなくてはならなかった。どう足掻いたって逃れられなかったので、私はいつも心を無にして、練習に向かっていた。
体育祭の三日前。今でも鮮明に覚えている。体育祭は九月に行われたので、灼熱の太陽の光を浴びながら、リレーのバトンパスの練習をしていた。
先生「じゃあ、自分と近い順番の人と組んで、リレー練習をしてー」
私は断トツで足が遅かったので、後半に巻き返せるように、一番最初で走ることになった。しかも、走るトラックも一番走る距離が少ない、内側をジャンケンで勝ち取ることが出来た。
一番最初なので、走ってバトンを渡すだけなのはずだ。なのに、私の脳は足に何の指令を出したのか。足がもつれ、転んでしまった。
友達「大丈夫?」
私「大丈夫だってー、ほら、血も出てないじゃん?」
私は、全然大丈夫じゃないのに「大丈夫」と言ってしまう癖がある。なんでなのか、さっぱり私にもわからないが。反射的に「大丈夫」と言ってしまう。
ただ、一番に地面に着地した両膝は、血も出ていなかった。今考えると、自分史上、最も不思議な謎だ。私は血も出ていなかったことから、すぐにリレー練習に戻ろうとした。血も出ていないような怪我で、さぼっていると思われたくなかった。
友達「せめて、洗ってきなよ」
と言われたので、仕方なく水道に向かい、両膝を洗った。
だが、水道に向かう途中でも痛みを感じなかったし、洗っても血が出なかった。
(なんだ、心配しすぎだよ)
と思っていた。何回も言うが、血が出ていなかったので保健室にも行かず、再びグラウンドへと戻った。 なのに、
先生「念のため、休んどきなさい。万が一、本番出られなかったら嫌でしょう?」
と言われてしまった。
(なんだ、心配しすぎだよ)
と思いながら、体育館の前の階段で、見学することになった。日陰に座っているとはいえ、風も吹いていないサバンナのような暑さだった。暑さにやられていたら、ラクダの幻覚も見えていたかもしれない。
その中で、ただただ皆の練習している姿を見る、という事もなかなか辛かった。
そう思いながら練習を見ていた時。たしか、膝を洗ってから十分後ほど。膝を見てみると、今までに経験した事が無いくらいの出血をしていた。
私「えっ、え、え?(パニック)さっき出てなかったじゃん……」
こんな時間差で来るなんて、初めての経験だった。私は、戸惑いながら保健室へと向かった。靴下に血が垂れないよう、腰をかがめながら、へこへこと歩いていた。その頃に、私を見ていた人の記憶を消したい。
保健室に着くと、百戦錬磨であろう保健の先生も、驚いたような顔をしていた。
先生「あらあら、大変」
と言って、大きめの絆創膏を両膝に貼ってくれた。私は今まで何度も転んで、保健室に行っていたので、先生とは顔なじみになっていた。それもそれで、どうかと思うが。
私「えへ、また転んじゃったんですよぉ!」
とか言って、その場を去った。そして、律儀な私は、まだ授業時間だったので、またグラウンドへと向かった。
私「先生、血が出てきちゃったので、また休んでてもいいですか?」
先生「えっ!? ……じゃあ、そこに座ってて」
ごめん、先生。驚いたよね。でも、私の方がパニック。
再び腰を下ろすと、さっきまで私と同じグループを組んでいた子たちが、心配して来てくれた。
友達「大丈夫?」
私「大丈夫! 多分、明日には治るんじゃないかな(笑)」
と会話した後、友達は練習に戻って行ったので、私はまた暇になった。
(さっきの血の量すごかったなぁ……まあ、転んですぐだしね。でも、何で、転んだすぐ後に血が出なかったんだろ)
とか考えていた時。ふと膝を見た。絆創膏を貼ってもらってから十分後ほど。絆創膏が真っ赤に染まっていた。
私「おぉえっ?(パニック)」
私は思わず、自分の目を疑ったが、間違っていなかった。おそらく読んでくれている人は、
(中央が赤く染まっていたぐらいでしょ?)
と思うかもしれないが、声を大にして言いたい。そんなもんじゃない。絆創膏のガーゼの部分が、隙間なく赤く染まっていたのだ。まるで、
絆創膏「ちょっ、この血の量は、いくら俺でも吸収できないっすわ(笑)」
と言っているかのようだった。私は、本日二度目の保健室へと向かった。保健室マスターへの道を着実に歩み始めている私でも、一日に二回、保健室に行ったことはなかった。
私「先生、絆創膏張り替えてもらってもいいですか……」
先生「ええっ、もう限界?」
私「もう限界です」
先生も困っているような顔をしていたが、また大きめの絆創膏を貼ってくれた。
先生「また、絆創膏貼りかえるようなことになるんだったら替えの絆創膏、渡しとこうか?」
と言ってくれたが、私は、
「大丈夫です」
と言った。さすがにもう貼りかえることはない、と思ったからだ。
再びグラウンドに戻ると、もう授業終了の五分前になって、片付けに入っていた。
(なんだ、保健室から教室戻ればよかった)
と思いながら、皆の流れと一緒に教室へ向かった。怪我をしてるはずなのに皆よりも往復距離が多い、と思ったが、口には出さなかった。
友達「だいじょぶ?」
私「大丈夫」
友達「まあ、うち赤組だから、ちょうどいいじゃん!」
この瞬間は、さすがにイラっとした。でも、その子が悪気がある、とは思えなかったからスルーした。
ちなみに、その子とは今でも仲が良い。その子は中学時代、嫌いだった理科の先生に、
友達「今、電気の問題解いてるんですよー」
と言いながら、先生に向けて親指を下にしていたのを、多分私は、一生忘れない。
下校時間になり、帰ろうと腰を上げると、膝に激痛が走った。
(あれ、私って、膝だけダンプカーと衝突したっけ?)
と思ってしまうほどだった。
(時間差すぎる……!)
と思い、膝に目を移すと、また真っ赤に染まっていた。デジャブか。
私は友達と一緒に帰ることを諦め、保健室に足を向けた。膝に激痛が走る中、私がいる四階から一階にある保健室に向かうのは、とても辛かった。やっとのことで保健室に入ると、
(こいつ、またか)
というような顔の先生がいた。ここからは、二回目とほぼ同じなので割愛させてもらう。
本番まであと二日。絆創膏が悲鳴を上げるようなことはもう無くなったが、激痛はまだ健在である。座ることもままならず、左膝はまだ曲げられるが、右膝がもう、どうしようもなかったので、座っているのに右足は伸ばしたまま、という不思議な光景が生まれた。
皆が練習してる中、私は明後日の事を考えていた。今の状況がこのまま続くのであれば、全種目出るのは不可能だ。改善されれば、何個かの競技には出られるだろう。
出来るだけ体育祭には出たくなかったので、私の心はもう本番休んでもいいかなという方向に、心の天秤が傾き始めていた。
本番は明日。ちっとも、足の痛みは改善されない。血は止まりつつあるが、痛い。そこで、母から提案をされた。
「明日、無理そうだったら整形外科行こう」
運動をしたくない私にとっては、気持ちはもう、病院へ行くという方に完全に傾いていた。
でも、一か月近く練習をしてきたからには、出たいという気持ちが芽生えていた。クラスの皆と喜びを共有したいと思った。私にしては、珍しい。
本番。結果から言うと、休んだ。当日の朝まで待ってみて、無理そうだったら休もう、という方向でいたが、当日の朝も痛みは変わらず、休むことにした。
先生に休みの報告をした時、部分部分の参加でも無理そうなのか、と聞かれたが、見学の椅子に座ってるのも辛い。というか、学校まで行くのが辛い。私は無理そうです、とだけ言って、電話を切った。
家から整形外科までは、自分の足の状態を考えていた。
(折れているのかな、だってこんな痛み感じたことないしな)
考えながらだと自然と歩けた。色々な怪我を経験している私でも、骨折したことは奇跡的にない。
受付をし、レントゲンを撮ると言われた。レントゲンも何回かしたことがあるので、怖くはなかった。
だが、本当に怖いのはこの後だ。レントゲンを撮った時に、結果を言ってくれるわけじゃないので、先生の診察、というものを受けなければならない。
診察室に入ると、先生のパソコンに私のレントゲン画像が映っていた。私は医療知識のかけらもないので、骨が折れているのかも、わからなかった。
先生「今日はどうしたの?」
私「学校でケガしたんですけど、激痛がして……(だから、ここに来てるんだよ!)」
先生「体育祭?」
私「そうです(まだかい……!)」
先生「そうか、頑張っちゃったんだねぇ」
私「……(早く結果を教えてください……!)」
先生「うーん……。骨は折れてないね。強い打撲かな。湿布出しとくね」
良かった。骨折だったら多分、治るまでに一か月くらいかかるだろう。
そして、流れるように診察が終わった。母が湿布を受け取りに行ってくれることになり、私は一人で家に帰ることになった。
もう結果を知ってしまったので、考えることも無くなったからか、膝の痛みが行きよりも鮮明に感じられた。家からさほど距離もないのに、無限に続く道のように感じられた。
二年生の体育祭が、三年間の中で一番濃い出来事だった。一年生と三年生は、運動神経のいい人たちが多かったので、私が力を出さなくても、良い成績を残せられていたので、楽だった。
要するに、私はクラスに恵まれている。リレーの一番前がいなくたって、体力お化けの思春期男子中学生が、二回走ってくれたのだろう。
これからの生活でも、本番の前で怪我をすると思う。というか、するに違いない。私は、そういう星の下に生まれてしまったのだから、しょうがない。
その時は辛いが、何年後かには、笑って話せるような日が来る。そう信じて、私は強く生きる。