第9話
数奇院が動揺して失点するという珍奇な出来事の後、僕はさらに酷い目にあうことになった。より一層嗜虐の度合いを増した数奇院がネチネチと実に嫌らしく僕を甚振ってくれたのだ。
結局体育の授業が終わって地獄から解放されたのは、虚ろな目をした僕が数奇院への謝罪を口にし続けるスピーカーとなり果てた後だった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……。」
「い、泉? 大丈夫なんか?」
梅小路の心配げな呼びかけに僕はようやく現実に帰還することができた。すでに終礼は終わり、窓の外では羊雲がふわふわと浮いている。
「梅小路さん、そこの愚昧な泉くんは放置しておいて構わないわ。」
未だツンツンしている数奇院は刺々しい声色でけんもほろろに言い放った。
いったいどうして数奇院はこれほどまでに怒っているのだろう。確かにこれまで数奇院が僕に異常な執着を見え隠れさせることはあったのだけれど、これほどまでに原因がみえないものはない。
僕が首を傾げていると、教室の扉がガラリと開かれた。が、扉を開けたであろう人の姿がみえない。もしやポルターガイストなるものなのだろうか。
「ぬっ、そこにいるのは泉と噂の転校生少女ではないか!」
高校生とは思えぬソプラノボイスに視線を下げてみれば、背の低いなりに獅子王が腰に手をあててこちらに指を突きつけていた。
「泉はん、なんで小学生がこの高校におるんや。」
目をパチクリさせながら、梅小路が爆弾発言を投下する。引きつった笑みを浮かべる獅子王を横目に、僕は必死に笑いをこらえた。
「雅さん、確かにどこをどうみても小学生にしか見えないかもしれないこいつは、なんと驚くべきことに僕と同い年の同級生なんだ。」
「余計な口を叩くな、泉! ……ゴホン、吾輩は獅子王雫、正真正銘の女子高校生である。以後よろしくなのだ。 」
獅子王がやけに勿体ぶった口調で梅小路に挨拶する。その合間にチラリと思わせぶりな目配せが僕にむけられた。
梅小路からは見えないように獅子王が口を動かす。数奇院に僕の注文した例の漫画を誤魔化した時の貸し、それを僕に求めているらしかった。
確かにあの時、僕は梅小路との取次ぎをすると約束してしまっている。結局数奇院にあの漫画は露見してしまったのとはいえ、約束は約束だ。
「雅さん、こいつはいろいろと顔が利くから頼るといいよ。僕の友達だし、そこまで酷い奴じゃないし。」
「吾輩はそこの泉なんかよりもよっぽどこの高校の事情に通じているから
して、存分に頼ってくれて構わないぞ。」
「そうなんか、それやったらこれからよろしくな! うちは梅小路 雅や。」
獅子王がその小さな体を目一杯にのけ反らせて胸を張る。梅小路は新たな友情の芽生えに喜びを隠しきれていなかった。
なんだかデジャブを感じる光景だ。たしか僕が梅小路に声をかけた時も、僕の下心に気づかずに友達ができそうなことに喜んでたっけ。
また僕が梅小路を利用したなんて知られてしまったら、いよいよ僕の信頼がなくなってしまうだろうな。獅子王と楽しげに言葉を交わす梅小路を眺めながら、僕は例の密約がバレないよう必死に願った。
「そこのあなたたち、おしゃべりに興じるのも構わないけれどそろそろお開きにしたらどうかしら?」
会話に加わらずに自分の席でずっと本を読んでいた数奇院が僕たちに釘を刺す。気がつくと、すでに窓の外では太陽がずいぶん傾いていた。
太刀脇は僕たちの会話には興味がないのか、とうの昔に教室を後にしたらしい。教室に残っているのも僕たち四人だけになっていた。
「むっ、そういえば太刀脇どのはもう帰ってしまったのか、それは困ったな……。」
獅子王が眉間にしわを寄せて唸る。どうやら" 郵便屋"として太刀脇に取り急ぎ届けなければいけないものがあったそうだ。
「同じ"銀行屋"として太刀脇どのがどこにいるのか知ってはおらんか、数奇院どの?」
獅子王から縋るような眼差しで見つめられた数奇院が顎に手をあてて考えこむ。やがてにこやかな笑みを浮かべた数奇院は面倒くさいことを言いだした。
「そうね、太刀脇さんなら恐らくいつもの隠れ家に戻ったのだと思うわ。どうしても今すぐに届けたいというのなら、そこの泉くんに頼むのが一番早いわね。」
猛禽類を想起させる鋭く冷徹な黄金の瞳、それが僕にむけられる。どうやら数奇院の怒りは未だおさまるところを知らないらしかった。
実のところ、太刀脇は僕たちと一緒に旧図書室で寝泊まりをしているわけではない。警戒心の強い太刀脇は"銀行屋"の僕たち以外には誰にも知られないようにあるところに隠れ家を用意して寝床にしているのだ。
太刀脇の異常な警戒心もあいまってその隠れ家はとんでもないところにあるので、出来ることなら訪れるのは遠慮したい。特にもうすぐで夕方になる、そんな時間はさらに嫌だ。
でも、どうせ数奇院に押し切られて僕が届けることになるんだろうな……。僕はそう諦念に身を包んでがっくりと肩を落とした。
「いや、それは泉が気の毒だろう。吾輩もそこまでして届けたいほど急いどらんのでな、また明日の朝にでも……。」
数奇院がご立腹だと気づいていない獅子王が嬉しいことを言ってくれる。頼む、そのまま数奇院の提案を断ってくれ! そう僕は心の中で獅子王に祈った。
「別に遠慮することはないのよ?」
「いや、別にそれほど困るというわけでは」
「急いでいるのでしょう、獅子王さん?」
「……うむ、泉に任せるとするか。」
数奇院の圧に押し負けた獅子王が申し訳なさそうに小さな封筒を差し出してくる。まあそんなことになるだろうと予期していた僕はそれを受け取った。
まいったな、ほんとうに今から太刀脇の隠れ家にむかったら日が出ているうちに帰ってこれるかもわからないぞ。
僕がため息をついていると、脇をツンツンとつつかれる。振り返ると、梅小路が耳もとに口を近づけてきた。
「あのさ、獅子王はんの言っとる届け物ってなんのことや? 獅子王はなんかの係ってことなんか?」
そうか、梅小路は獅子王がいったい何者なのか知らないのか。
「ああ、雫は"郵便屋"なんだ。"郵便屋"っていうのは高校から一番近い商店まで走って頼まれた物を買ってくることでちょっとしたお小遣い稼ぎをしてる生徒のことね。」
「もしなにか入用なら吾輩に申しつけるとよいぞ! すぐにひとっ走りしてなんでも仕入れてみせるからな。」
へえ、と感心したように頷く梅小路。そのまま流れるように僕の肩を掴んだ。
何気に力強い梅小路に力をこめられると肩が痛い。僕は嫌な虫の知らせをヒシヒシと感じていた。
「……もしかしてやけど、泉はんまたうちを利用したんやろ?」
「な、なんのことかな?」
ギッと梅小路が睨みつけてくるのから僕は目をそらす。が、それは火に油を注ぐだけのようだった。
「獅子王はんは初対面なのにうちにいろいろと教えてくれるもんやから、疑とったんよ。いくら泉はんの友人やからってこの高校の生徒がこない親切なわけないってな。」
これは喜ぶべきことなのか、それとも嘆くべきなのだろうか。人を疑うということを知らなかった梅小路もこの神子高校の殺伐とした弱肉強食の理を前にしてついにすり切れてしまったようだ。
「そうや、哀しいことにうちもこの高校ではおよそ道徳っちゅうもんが機能しとらんことに気がついたんや。」
顔を掴まれて無理やり目をあわせられる。梅小路のジトッとしているつぶらな瞳が視界一杯に広がった。
「で、泉はん。さてはなんかの見返りのかわりに獅子王をうちに紹介すること約束したんやろ。」
「ど、どうかな~?」
冷や汗が止まらない。なまじ前科があるだけに再犯がバレてしまったらどんな目にあうか……!
「ちなみに、泉くんは自分が頼んだ成人向け漫画について獅子王さんに誤魔化してもらってたわね。」
数奇院の最悪のタイミングでの暴露に、梅小路の瞳から光が消える。僕は今すぐこの場から逃げ出したくなった。
「ああもうこんな時間だ、そろそろアブリルにこの封筒を届けないと暗くなる前に帰ってこれないなぁっ! ごめんだけど話ならまた後に聞くねっ!」
本能に従って教室から飛び出す。背後の教室が不気味なほど静かなことに恐怖しながら僕は昇降口目掛けて駆け出した。