第8話
ヒュゴッ!
僕の耳もとを物騒な風切り音をたてながらピンポン玉が通り抜けていく。そのオレンジ色の軌跡は背後のネットに衝突してからもしばらく回転していた。
僕の眼前に立つのは太刀脇。ボロボロのラケットを弄びながら退屈そうに呟いた。
「10点目。」
ちなみに僕は未だ太刀脇から1点たりとも奪うことができていない。
清流寺が数奇院に宣戦布告めいたことをしてから一晩おいて、僕たちの学年は今体育の授業を受けていた。
体育館の二階、縁から木肌が覗いている卓球台で太刀脇にボコボコにされる。あっという間に11点をとられた僕は苦笑いを浮かべながら太刀脇と握手を交わした。
「次、梅小路。」
太刀脇から指名された梅小路は死刑を言い渡された罪人のように青ざめた表情で立ちあがった。僕と太刀脇の一方的な試合を見学していた梅小路は太刀脇のでたらめな反射神経と身体能力をよく理解したらしい。
そんな梅小路の健闘を祈って手をあわせる。絶望のまなざしで卓球台にむかう梅小路が僕に気がついたかどうかはわからないけれど。
卓球場の隅で数奇院の隣りに座る。視界の端では早速梅小路が1点をとられていた。
相変わらず数奇院は分厚い書籍を読んでいる。そんな数奇院に僕はひとつ気になることがあった。
「静?」
「なにかしら。」
「清流寺はどうして手を出してこないのかな?」
清流寺が僕たち"銀行屋"を裏切ってからちょうど24時間がたとうとしている。血気盛んな清流寺なら手段を選ばずに衆目の前で"銀行屋"に殴りこみを仕掛けるなんてことをしかねないのに。
数奇院はあきれたように視線を本から持ち上げた。
「そもそも清流寺くんはどうしてあんな真似をしたのか、あなたは理解しているの?」
「え? ただ僕たちが気に食わなかったからじゃないの?」
「気に食わないからといってすぐに殴りかかるような人じゃないわ、清流寺くんは。」
数奇院が語るには、清流寺は"銀行屋"を憎みながらも自身の地位の維持のためには"銀行屋"が必要不可欠であることも嫌というほど理解しているらしい。そうでなければあれほど利率に不満を抱いていながらも融資を受け続けたことに説明がつかないと。
「清流寺くんはだからこそ今までわたしに逆らわなかった。そしてその事実は今も変わらないわ。」
食料の独占のためには数奇院の作り上げた"銀行屋"の制度が成立していなければいけない。だから、清流寺は"銀行屋"そのものを手に入れなければいけない。
「下手にわたしたちに襲撃を仕掛けでもして、清流寺くんが"銀行屋"を敵視していることが噂になったら、すくなくとも"銀行屋"の仕組み自体を不安に感じる生徒が現れるでしょうね。」
ひとたび不信感が広まってしまえばお終いだ。恐怖にかられて生徒たちが預金を引き出し、銀行の資金が尽きてしまうと清流寺も"銀行屋"も共倒れしてしまう。
だから、"銀行屋"という特権の奪取は速やかに、そして秘密裏に行われる必要があった。
「清流寺くんの勝利条件は、"銀行屋"の全預金と帳簿が納められた金庫と鍵、その奪取よ。最低でもそれだけあれば"銀行屋"の業務を代わりに行うことができるようになるもの。」
確かに、数奇院が言う通り清流寺の狙いがあの金庫なのは自明に感じられた。仮にそれらが手に入らないようでは、破滅を迎えるのは清流寺のほうだ。
「清流寺くんが今になって反旗を翻してきたのは金庫の中身を手に入れる目途がついたからでしょう。」
清流寺はそんなことまで考えていたのか、僕は目から鱗が落ちるような思いだった。清流寺は、もっとこう、粗暴で直情的な男だと思っていたからだ。
僕はなんだか恥ずかしくなってきた。もしかすると清流寺や数奇院と比べて僕の頭の回転はいささか鈍いのかもしれない。
数奇院が手に持つ本にしおりを挟んで閉じる。顔をあげるとちょうど梅小路が11点目を決められているところだった。
「どうやらわたしの出番が来たようね、失礼するわ。」
おんぼろラケットを握った数奇院の小さな背中と入れ替わりに汗だくの梅小路が近づいてきた。
「あ、雅さんお疲れ様。」
息も絶え絶えな梅小路は僕に返事する余裕もないようだ。僕が差し出した水筒をひったくるようにして奪うと、麦茶を浴びるように飲む。
やがて水筒から口を離した梅小路は死の淵から生き返ったかのように大きく息を吸った。
「あの太刀脇っちゅうやつはいったいどないしとるんや!」
太刀脇のとんでもない身体能力は僕との試合で目にしてはいたとはいえ、やはり実際に相手にしてみるまで信じられなかったのだろう。僕はさもありなんと首を竦めた。
「まあ、アブリルはほんとうに運動神経がいいし力も強いから。」
昔なんか太刀脇のスマッシュがネットを突き破ったこともあったしね。そんなことを呟くと、梅小路は信じられないとばかりに太刀脇を二度見した。
考えてみると、清流寺がすぐに手を出してこないのは太刀脇の存在も一因になっているのかもしれない。流石の清流寺といえども太刀脇を敵に回して勝利することは難しいだろうから。
「でもまあ、僕たちの中で一番強いのはアブリルじゃないんだけどね。」
梅小路が不思議そうに僕を見つめてくる。答え合わせをするように僕は卓球台のほうを指さした。
コーン。
気の抜けたような音と共に、ピンポン球が地に着く。今までと違うのは、地面に倒れこんでいるのが太刀脇であるということだけだ。
「まだ、1点だけ。」
まるで自らを奮い立たせるように太刀脇が呟く。その眼前で、口の端を持ちあげる数奇院はまさしく絵本の中に出てくる魔女のようであった。
梅小路が驚いたように腰を浮かす。今まで無敗を誇っていた太刀脇が初めて失点を許したことが理解できていないようだ。
太刀脇が放つ剛速球の打撃を、数奇院は受け流していく。まるで見えない糸に操られているかのように変幻自在な軌道を描くピンポン球は太刀脇の追随を許さない。
「なんやあの軌道は……。」
あんぐりと口を開けている梅小路。
目の前では、先程と変わらず一方的な試合運びが続いている。ただし、走り回らされているのは梅小路ではなく、太刀脇であるが。
数奇院はピンポン球のコントロールが神がかっている。球の回転を自由自在に操り、相手が思いもよらないところに打球を運んでいくのだ。
太刀脇はただひたすらに球を追いかけ続けることしかできない。それはすでに数奇院の術中にハマっていると形容しても過言ではなかった。
「っ!」
太刀脇の驚異的な身体能力をもってしても、卓球台の反対側にすぐさま移ることは不可能だ。まるで太刀脇を嘲笑うように、ピンポン球はゆっくりと地面に落下した。
「太刀脇さん、これで2点目ね。さあ、そろそろ真面目に相手してくれるの?」
数奇院がにっこりと破顔する。太刀脇は屈辱に苛まれるかのように苦悶の表情を浮かべた。
……僕は常々数奇院のサディスティックな一面に怖気を覚えることがある。
その後も、やはりというか太刀脇が1点でも得点を決めることはなかった。縦横無尽に走り回らされた挙句、完敗してしまった太刀脇は意気消沈している。
「数奇院はんえげつない真似しはるな。」
梅小路がポロッと本音をこぼす。項垂れて卓球台から離れる太刀脇の哀愁ある背中を見つめながら、僕は覚悟を決めた。
「泉くん、お相手願えるかしら?」
魔王様からのご指名に僕は重い腰をあげる。横からは梅小路の慰めとも励ましともとれるエールが送られてきた。
卓球台の前に立ち、数奇院と向き直る。数奇院が実に愉快気な表情を浮かべて微笑んだ。
数奇院がゆっくりとピンポン球を打つ。コン、といっそ滑稽な音をたてて球は僕の目の前にやってきた。
「そういえば、あなたがこの前入手を試みたあの低俗な漫画なのだけれど。」
動揺で震えた手に握られるラケットは見事に空振り、ピンポン球が卓球台の上で何度も跳ねる。青い顔色の僕を愛おしげに見つめる数奇院はなるほど、悪魔の姿をしていた。
視界の端で梅小路が首を傾げているのが見える。太刀脇は興味なさげに窓の外の青空を見つめていた。
「いったいどういう話だったのかしら? ……ああ、勘違いしないで。目に入れるのも汚らわしかったからすぐに捨ててしまったわ。だから中身を知らないの。」
でも、今思えばあなたの性愛的嗜好を知れたのに、惜しいことをしたものね。
すました表情でそういってのける数奇院。僕はといえば、思春期の少年としての致命傷を抉られた痛みで悶えるほかなかった。
必死に獅子王と交渉して手に入れたあの漫画は結局数奇院に取り上げられてその行方を知らない。
「それで、はたしてわたしの泉くんはいったいどういう好みなのかしら? わたし、とっても気になってしょうがないの。」
ピンポン球の応酬を続けながら、数奇院が意地悪げな問いかけで責め立ててくる。数奇院の予期せぬ精神攻撃に僕の心は大打撃を受けていた。
数奇院の愉悦に歪んだ瞳と目があう。やけっぱちになった僕は叫んだ。
「仲のいい同級生とそういうことする漫画だよ! もう許してくれ!」
途端、数奇院が固まる。その脇を素知らぬ様子でピンポン球が通り抜けていった。
「……1点目。」
地面に球が接触したので、僕の得点で数奇院の失点だ。僕はあの数奇院から得点をもぎ取れたことに驚愕しながら、小声で呟いた。
あり得ない、あの数奇院が狼狽えるなんて。
梅小路も太刀脇ですらも目の前で起こったことが理解できない様子だった。
未だ俯いたままの数奇院の表情は窺うことができない。いや、よく見るとその頬がまるで林檎のように真っ赤に染まっているような……。
次の瞬間、僕の頭のすぐ横をすさまじい速度のピンポン球が通り過ぎていった。いつもの余裕たっぷりな笑顔を取り戻した数奇院が呟く。
「あなた、覚悟したほうがいいわよ? わたしどうしてか今日は本気出したくなっちゃったの。」
その頬は未だどこか赤みがかっていた。