第31話
「むっ!?」
いきなり飛びついてきた獅子王に口をふさがれ、目を丸くする。とっさに距離を取ろうとして、思いとどまった。
グズグズと獅子王が顔を涙で濡らしている。
「い、泉殿、やった、やったぞ……。吾輩、一位を取ったぞ!」
勝ったはずなのに大粒の涙をこぼしている獅子王が面白おかしく難じられて、僕はくすりと笑みを漏らしてしまった。
「そうだね、おめでとう。」
番狂わせに怒号と悲鳴が飛び交う運動場で、獅子王はいつまでも僕の上でわんわんと泣きわめいていた。
体育祭の喧騒からすこし離れた脇の階段、その日陰からじっと運動場を見つめる人影がひとつあった。数奇院である。
いつもの余裕たっぷりな笑みは剥がれ落ちて、どこか虚ろな表情だ。視界のなかで抱きあって勝利を喜んでいる獅子王と泉を見つめるその瞳には、無数の相反する感情が渦巻いていた。
嫉妬、羨望、激情、悲哀……。
神子高校の黒幕と恐れられる"銀行屋"と同一人物だとはまるで思えないどこにでもいるひとりの少女のように物憂げな表情を浮かべた数奇院が儚げに暗がりで立ち尽くす。
そんな普段通りではない数奇院に足音が近づく。
「いかんでええの、数奇院はん?」
ニコニコと、人好きのしそうな笑みを浮かべた梅小路が数奇院の脇まで歩み寄ってくる。
「……なんのようかしら、梅小路さん。」
声色であらわになる嫌悪感を隠そうともせずに数奇院が鋭く梅小路に要件を問いかける。ぞっとするような寒気が周囲の大気をつつみこんだ。
しかし、梅小路は表情ひとつ変えない。
相変わらずニコニコと口の端を持ちあげながら、数奇院をじっと見つめるばかりだ。
「ああ、そうやったな。今の数奇院はんは泉はんに意地悪して獅子王のこと手伝わんかったんやった。可哀そうやけど、あわす顔ないからしかたないわなぁ。」
「……誰のせいだと思っているのかしら。」
「そんなん決まっとる、数奇院はんや。」
ピシリと、空間にひびが入ったような音を幻聴する。人ひとりぐらいなら簡単に殺せそうなほど剣呑な雰囲気がたちこめる
初めて数奇院は梅小路に視線をむけた。自身を睨みつけてくる数奇院に梅小路が笑みを深める。
「なにか間違っとるか? どちらにしろ、数奇院はんは泉はんとつきあえるほどいい性格しとらんのやから、時間の問題やったって。」
あんたみたいな生まれつきの悪の権化が、泉はんみたいな底抜けの善人と平穏に仲良うなれるおもったんやったら大間違いやで。
暗にそう告げる梅小路の瞳は、いっさい笑っていなかった。数奇院を悪と断じる憎悪の炎が燃え盛っている。
「……それで、言いたかったことはそれだけかしら?」
数奇院がにこりともせずに続きを促す。話はそれだけかと挑発するように見下すような目つきの数奇院に、梅小路はさっと目に浮かんでいた憎しみの念を消し去ると、タハハと笑ってみせた。
「いや、そんなわけないやんか。実は数奇院はんに宣言したいことがあってやな。それが本題や。」
「ふぅん……。あいにくとわたしも忙しいの、手短にお願いできるかしら?」
数奇院の言葉を無視して梅小路はゆったりとした口調で語り始めた。
「知っとる通り、うちは数奇院はんを嫌悪しとる。できることなら一生苦しんで苦しんで後悔しながら地獄に堕ちてほしい思っとるんやけど、それにはちと問題があってやな。」
数奇院はんには隙っちゅうもんがあらへんのや。
「弱点も何も、数奇院はんはすべてを手駒としか思っとらん。そこの太刀脇も、あっこの獅子王はんも、みんな手札に過ぎん。簡単に見捨てるし、情もこめられとらん。」
梅小路は数奇院をただ排除したいのではない。数奇院が今後一生うちのめされて絶望の中で生涯を終えることを願っているのだ。
そして、そのために必要なのは明確な弱みである。
家族、地位、財産、人望……。なんでもいいから数奇院が心底大切におもっているなにかを奪う、それのみが梅小路を満足させるのだという。
「だから、うちはずっと頭を抱えとった。数奇院はんが生きる望みを失う、そんな姿が想像できんかったんや。」
「あら、それはよかったわ。わたしだって幸せでいたいもの。」
数奇院の返しに梅小路がケタケタと気狂いのように笑う。そのまま、血走った眼を数奇院に照準した。
「いや、残念やけど見つけてしもたわ。体育祭の間はあからさまやったからな。」
――――――二階堂 泉。
勝ち誇ったかのように梅小路がその名を告げる。その時初めて数奇院の瞳に恐怖が宿った。
「今回の体育祭でも、この前の清流寺でも、数奇院はんは泉はんが関わった瞬間に合理性を失っとった。ほかの人間全員が獣やら家畜やらに見えとるはずの数奇院はんが、泉はんのことだけは血相変えて取り乱しとる。」
梅小路はその数奇院のわずかな動揺を見逃さなかった。まくしたてるように根拠を列挙した梅小路がなめるように数奇院に顔を近づける。
「数奇院はんは泉はんに恋しとる、せやろ?」
「っ!」
とたん、数奇院が一歩無意識に後退ってしまう。それはなによりも梅小路の言葉の真偽を物語っていた。
「ああ、ああ、やっぱりそうやった! せやったんや!」
歓喜に満ちた様子で梅小路が自らの体を恍惚として抱きしめる。喜色満面のその表情は、純粋な悪意に満ち満ちていた。
「うちは、宣言するわ! 数奇院はん、あんたから"銀行屋"もその富も、そして泉はんも! なにもかんもすべて根こそぎ奪ったる!」
梅小路が頬を染める。ひとしきり興奮しきったのち、梅小路はゆっくりと顔を持ちあげた。
「楽しみやなぁ、泉はんをうちに奪われた時、数奇院はんはどないな顔するんやろ? 悲しむんかな、怒るんかな、それとも絶望するんかな?」
「っ、梅小路さんがなにを言っているかまったくわからないわね。」
冷静さを取り戻した数奇院がなんとかごまかそうとするも、後の祭りである。ニヤニヤと顔を歪めている目の前の梅小路はすでに確信してしまっていた。
焦った数奇院がさらに言葉を言いつのろうとしたその時、ちょうど呼び出しの放送がかかった。次の競技の二人三脚のものである。
「ああ、うちもう行かなあかんわ。太刀脇はんを呼んでこな。」
ふと我に返ったかのように梅小路が笑みをひっこめ、遠くに突っ立っている太刀脇に大声で呼びかけた。そして、そのまま運動場へと踵を返す。
そのまま階段を去っていく梅小路は最後に一言言い残した。
「ええか、うちはなにがなんでも数奇院はんを苦しめたるわ。」
梅小路がその場を去り姿が見えなくなったところで、数奇院は壁に背中を預けたままズリズリと座りこんでしまった。そのままうつむきながら自問自答する。
どうして自分はあんなにも動揺してしまったのだろう。なぜ泉が梅小路に奪われることを想像して、これ以上ないほど心細く感じたのだろう。
その理由を、数奇院は痛いほどよく理解していた。
数奇院は自分がどれほど悪どい人間であるか、どれほど救いようのない人間であるか知っている。そんな自分が、なによりも優しい泉に心惹かれた。
だからこそ、怖い。泉に見捨てられるのではないかという恐怖が、いつも数奇院の心の片隅でうごめいていた。
そして、体育祭でその恐怖は現実化し始めている。数奇院が心底恐れていたことが、扉をたたいていた。
「ああ、これでは獅子王さんのことが笑えないじゃない。」
自嘲する。しかたがないではないか。これほどまでに人を好きになったことはなかったのだから。
うつむく。これほどまでに恐ろしくなったのはいつぶりだろうか。
そんな視界に、手のひらが差し出された。
「さ、静。二人三脚が始まっちゃうから早く行こうか。」
目の前で、底抜けに優しい泉がなにも知らずに笑っている。
その手を握りながら数奇院は声にならない問いを空に投げかけた。
――ああ、いつまでわたしは泉くんの優しさに甘えてられるのでしょう?
なんとか二章が終わりました。
投稿間隔が不定期になってしまいましたが、辛抱強くお付き合いいただきありがとうございました。
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これからもよろしくお願いします。




