第8話
白い液体が注射器を伝って、獅子王の白い腕へと吸いこまれていく。不意を突かれたらしき獅子王は呆けた表情で注射針と僕との間に視線を行き来させた。
「あ、え、泉殿?」
僕はすでにひき返すことができないようだ。僕は確かに獅子王が自ら薬を摂取しているその場に踏みこんでしまったのだから。
「ち、ちが、泉殿、これは……。」
慌てて注射器を背中に隠しながら獅子王がいつもの笑顔を取り繕う。しかし、それはあまりにも遅かった。
「信じたくはなかったかな、獅子王が体育祭で勝つためにドーピングしてるって。」
「あ………。」
ようやく僕にドーピングの件がばれてしまったと気がついたらしき獅子王は今にも泣きだしそうな顔で唇をわなわなと震わせた。絶望に濡れた瞳がゆらゆらと揺れる。
今の今まで針が刺さっていた白い肌の上にぷっくりと毒々しいまでに赤い血の珠が浮かぶ。無数に注射の跡が残っているその手首は直視するにはあまりにも痛々しかった。
「いや、確かにこれはドーピングかもしれないが、たいしたことはない単なる栄養剤を打ちこんでいるだけで、吾輩は規則を破っているわけではなくて、」
「その薬ってホルモン剤なんでしょ。それも体に悪い。」
なんとか抗弁しようとする獅子王に僕は畳みかけるように問いかける。僕の言葉に限界を悟ったらしき獅子王は観念したかのように顔をうつむかせた。
「確かに、泉殿の言う通り吾輩はドーピングをしておる。」
しばらくの沈黙の後、獅子王は自らの悪事を認める。その声はわずかに震えていた。
「いつからしていたんだ? もしかして去年から?」
もし去年も薬のおかげだとするならば、僕はもう二度と純真に前回の体育祭での感動的な勝利の喜びを懐かしむことはできないのだろう。
「い、いや、違う! 薬を使い始めたのは今年からだ、去年は確かに吾輩は自分の体だけで一位をとった!」
慌てたように獅子王が僕の疑念を否定する。心の中でその獅子王の言葉すら疑っている自分がいることにうんざりしながら、僕はひとまず獅子王を今は信じることにした。
「わかったよ。それじゃ、教えてくれるかな。どうして今年からよりにもよってドーピングなんてことに手を出したのかな?」
「それは……。」
獅子王が口ごもる。しばらくして恐る恐る獅子王はその訳を口にした。
「勝てるかどうか吾輩が自信を持てなくなった、のだ。」
去年、獅子王は神子高校で確かに自分が一番足が速いという自信があった。だが、今年は違うというのだという。
「今年、蛇塚という新入生がやってきたのを知っているか?」
獅子王の口にした名に僕が首を傾げていると、獅子王が語り始める。
獅子王と同じく蛇塚もかつて中学生の頃は陸上部に所属する女子生徒だったそうだ。だが、獅子王と蛇塚が大きく違ったのは成績だった。
獅子王が上手くいったところで県大会に出場できるかできないかといったところだったのに対して、蛇塚は一年の頃にはすでに中学生の全国大会で一位をとれるほどの走りぶりを見せていた。
同世代の中学生の間では敵なしだった蛇塚は次々と新記録を打ち立てていった。もちろん世間的にも蛇塚の名は知れ渡っていたらしい、それこそ次代のオリンピック候補だと持ちあげられるほどには。
それが全てひっくり返ったのは、蛇塚の尿からドーピングの痕跡が発見されてからのことだ。
なんと蛇塚は重度のドーピング常習者で、今までの新記録もすべて薬のおかげだというのだ。わずか一晩にして陸上の期待の星から世紀の詐欺師まで名を落とした蛇塚は、結局のところ逃げるように神子高校に流れ着いたそうだ。
「確かに蛇塚はドーピングをしている。だが、その実力はそれでも吾輩のそれとははるかに隔絶しているのだ。」
畏怖の感情をこめて獅子王が呟く。別にドーピングをしていたからといって才能がなかったわけではない。むしろ、全国大会にまで登り詰めるのはドーピングだけでできる芸当ではないという。
「そんな蛇塚が体育祭への出場を決めた。」
獅子王がわずかに固くなった声で核心に触れた。
「蛇塚が出てくる以上は、吾輩がそのままで勝てるはずがない。吾輩が蛇塚に勝利するためにはそれこそどんな手でも使わなければいけないと理解していたのだ。」
「だから、ドーピングに手を出した、と。」
僕の言葉に硬い表情の獅子王が頷く。
この胸にモヤモヤと渦巻いている判然としないこの感情ははたして失望なのだろうか、それとも悲哀なのだろうか。ただ心がいっぱいになった僕は静かにため息をついた。
その瞬間、獅子王の表情が恐怖一色に染まる。まるで僕が獅子王に失望してこの場を去ってしまうとでも思ったのか、獅子王が僕の腕にしがみついてきた。
「い、泉殿! どうか、どうか吾輩を見捨てないでくれ! わ、吾輩は泉殿がいなければ駄目なのだ!」
半ば半狂乱に陥りながら獅子王がひたすらに僕にすがりつく。信じられないほど強い力が腕に加えられる。
「わ、わかったから、獅子王! 落ち着いて!」
「なんでもする、なんでもするから吾輩に失望しないでくれ、吾輩からはなれないでくれ!」
気が狂ったかのように僕の名前を連呼しているのを落ち着かせるのに僕はしばらくの間ずっと獅子王を宥め続けなければならなかった。
ズビッ。
獅子王が大きな音をたてて鼻をすすりあげる。服の袖にべっとりとついた獅子王の鼻水を拭き取りながら僕はそっとその背中をさすり続けていた。
「ほ、ほんとうに泉殿は吾輩にあきれ果ててなどいないのだな?」
「もちろんそうだよ。だいたい僕たちは友達でしょ?」
獅子王が不安げなまなざしで僕を見つめてくる。安心させるように僕はその頭を撫でた。
「それならいいが……。」
それでも獅子王は不安げに体を震わせる。僕はいったい獅子王はどうしてしまったのだろうかと頭を抱えていた。
獅子王は確かに元気で快活な明るい僕の友人だったはずだ、それがどうしてこれほどまでに不安定な様子なのだろうか。それとも、このすこし触れてしまっただけで脆く割れてしまいそうな姿がほんとうの獅子王なのだろうか。
「すまない、泉殿には見苦しい姿をみせてしまった。」
僕がなおも頭を撫で続けていると、ようやく獅子王も本調子に戻ったらしい。僕から体を離すと小さな声で僕に謝った。
まったくもってその通りだ、そういつものように冗談を飛ばそうとしてとっさに控える。僕は今の獅子王にはそういった言葉をかけてはいけないと理解していた。
そのかわりに、なんとかやんわりとドーピングを止めさせられないかと頭を働かせる。しばらくして僕は慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「そのさ、獅子王にとって徒競走で一位をとるのはそんなに大切なのかな?」
僕の言葉に、獅子王の肩がびくりと震える。その肩をそっと抑えながら僕は言葉を続けた。
「獅子王は走るのが好きだから、徒競走にでたんでしょ? だったら、べつに一位じゃなくてもいいんじゃないかな。」
「…………。」
「ドーピング、やめたほうがいいんじゃない?」
途端、獅子王が飛び退く。僕のほうに振り向いた獅子王はまるで死刑を執行される直前の罪人のように怯えていた。
「だ、駄目だ! それだけはできない!」
マズい、言葉選びを間違えたらしい。興奮している獅子王を宥めるように手を動かしながら、僕はゆっくりとその訳を尋ねた。
「どうして、駄目なのかな?」
「…………。」
僕の問いかけに、獅子王は沈黙を選んだ。
理由を教えてくれなければ僕としてもどうしようもない。途方に暮れている僕を尻目に、獅子王はなにかしら覚悟を決めているらしかった。
「………そうだ、絶対に吾輩は一位を取らねばならないのだ。そうでなければ、吾輩は…………。」
ブツブツと意味をなさない言葉を呟きながら、獅子王がじりじりと空き教室の扉へとにじり寄っていく。僕が気がついた頃には獅子王はすでに廊下へと飛び出していた。
「待って、獅子王!」
叫ぶも、もう遅い。校舎の奥へと消えていく獅子王の後ろ姿を見つめることしか僕にはできなかった。




