第3話
当たり前のことではあるが、僕たち神子高校の生徒は食事にも注意を払わなければいけない。
一部の生徒がたとえばサンドイッチなどを売っていることもあるが、なにを混ぜられているかもわからないものを口にするのは避けるべきであろう。
だからこそ、ほとんどの生徒は自分で料理をする。"銀行屋"でもそれは例外でなかった。
僕が今いるのは旧家庭科室である。この学校に調理に使用できる設備があるのはここしかない。だから、ほとんどの生徒が利用する公共設備と化していた。
旧家庭科室の外ではザァザァと雨が降りしきっている。そのためか部屋の中にはいつもより多くの生徒の姿があった。
「で、静は料理できるようになった?」
「あら、いったいわたしを誰だと思っているの? そんな非生産的なことに時間を費やすとでも?」
数奇院は本から視線を一切そらさず答えた。
数奇院はなんでもできるくせに料理の腕前だけは人類最下位を争うほどである。レシピにきちんと従っているにもかかわらずできるのは奇妙なオブジェばかりなのだ。
ゆえに、"銀行屋"の食事は全て僕が担当している。
実は"銀行屋"には僕と数奇院のほかにもう一人生徒が所属しているが、そいつはそもそも論外である。そいつの主張するところの料理とは栄養バーを二、三本皿の上にのせることなのだ。
調理器具をひっぱりだしながら僕は頭が痛くなった。"銀行屋"のなかでまともな生活能力を持つのは僕だけではないかという気がしてきている。
幸い、今日は休日だ。作り置きをしておくには十分な時間がある。
壁際にもたれかかって退屈そうにしている数奇院を横目に、僕はなにをつくろうかといろいろな料理を頭の中に思い描きながら腕をまくった。
しばらくして、作り終えた料理を次々とタッパーに詰めていくと、脇あいからひょいと手がのばされ、肉団子がひとつ消えてしまう。
振り返らずとも僕は誰の仕業かわかった。
「獅子王、つまみ食いはやめてくれ。」
「ガッハハハ、吾輩の前でそんなに美味しそうな料理をしているお主が悪いのだ!」
僕の胸元ほどしかない背を目いっぱいにのばすその少女の名は獅子王 雫という。勇ましい苗字とは裏腹に実に華奢な容姿をしているのが特徴だ。
つまみ食いしたのにも関わらず、すこしも悪びれるところのない獅子王にどうやって抗議しようかと考えていた僕は、妙案を思いついた。目を細め、かがんだ僕は出来立ての肉団子をもうひとつつまむ。
「ああ、そうだね。」
そして、その肉団子を獅子王の口もとに放りこんだ。その熱さに目を白黒させている獅子王に視線をあわせ、ゆっくりと憐れむ。
「お前はもっと食べて身長をのばさなきゃいけないからな。」
次の瞬間、いきなり飛んできた正拳突きをひょいと躱すと、獅子王は怒り狂ったように腕を振り回した。
「吾輩をチビ扱いするな!」
「それは事実だろ。」
「うるさい!」
僕の冷静な指摘に獅子王は噛みつく。獅子王の一番のコンプレックスはその身長の低さなのだ。
「でもさ、お前の身長、静より低いじゃないか。」
そう、小柄な数奇院にも負けるほど獅子王は背が低いのだ。ぐうの音も出ない獅子王は僕を恨めしげに見あげることしかできないのだった。
「そっ、そんなことより! 泉、お主の注文したものはきちんと調達してきたぞ!」
話題をそらした獅子王はすぐに反撃に打って出た。僕は思わず舌打ちをしてしまう。どうしてよりによって今そのことを口にするのだ!
"郵便屋"とよばれる生徒がいる。彼らは一週間に一回の商店では売られないような風変わりな品物を人里まで走って買いに出かけるのだ。勿論お金はかかるが、この高校では普通手に入らないようなものが得られるのは魅力的である。
獅子王はそんな"郵便屋"の一人で、獅子王に僕はあるものを頼んでいるのだった。
「へぇ、あなた。獅子王さんにいったい何を頼んだのかしら?」
先ほどまでまったく会話に興味を示さなかった数奇院が眉を持ちあげる。数奇院にだけはバレたくない! 僕は焦った。
「吾輩の身長をバカにするようなやつには当然の報いである。」
目の前で獅子王がニヤリと意地悪く笑う。さては僕を嵌めたな、こいつ!
「すみませんでした、なんでもするからなんとかしてください。」
小声で許しを請うと、獅子王は意地悪く笑ったまま条件を提示してきた。
「転校生に吾輩を紹介するのだ。いい金づ、ゴホンゴホン友人になってくれそうな予感がするのである。」
……ごめんなさい、梅小路さん。またあなたを利用してしまいます。
心の中で梅小路に謝りながら僕は静かに頷いた。
「よし、いいだろう。……別に市販の風邪薬で大したものではないのである、数奇院どの。」
獅子王は笑いをひっこめてなんでもないように数奇院に応える。いつも通り数奇院は何を考えているのか感情の読み取れない笑みを浮かべたままだった。
「そう? それじゃあ、料理も終わったみたいですし旧図書室にもどりましょ?」
もたれかかっていた壁から体を起こした数奇院が足早に家庭科室を後にする。僕はあわてて獅子王に別れを告げてから数奇院を追いかけた。
「あなた、もう一度聞くのだけれどいったいなにを獅子王くんに頼んだの?」
前を歩く数奇院の表情はうかがい知ることができない。機嫌を損ねないように僕は慎重に言葉を選んだ。
「いや、獅子王のいう通り、ちょっとした風邪薬を買ってもらったんだ。最近どうも咳がひどくてね。」
「……ふぅん、そう。」
廊下を歩く僕たちのあいだで会話が途切れる。その沈黙はどこか重苦しく、陰鬱な死刑場のような色を帯びていた。
ふと僕は周りを見渡しておかしなことに気がついた。どう考えても旧図書室から遠ざかっているのだ。
「あれ、静? 道間違えた?」
次の瞬間、僕は宙を舞っていた。混乱した脳みそが足を滑らされたのだと気がついた頃には、すぐとなりの部屋につき飛ばされる。
その薄汚れたタイルはここが長いこと使われてこなかった男子トイレであることを指し示していた。頭を床に打ってもだえる僕の服の襟をつかんで、数奇院は奥へ奥へと引きずっていく。
トイレの奥の壁に叩きつけられた僕は、ただ近づいてくる数奇院を恐怖に濡れた瞳で見つめることしかできなかった。
僕が恐怖に襲われて身動きひとつできない中、数奇院は地面に横たわる僕にのしかかってくる。数枚の布切れ越しに伝わってくる暖かい肉感も、恐れおののいた今の僕にはどうでもよかった。
僕を覗きこむ数奇院の表情は、なにひとつ感情を映していない。
僕はその瞳に嫌というほど見覚えがあった。今の数奇院は本気で怒り狂っているときの目をしている。
「泉くん、最後にもう一度だけ機会を与えましょう。あなたが獅子王さんに頼んだのはいったいなに?」
「だから、ただの咳止めの薬だって。」
だからといって正直に答えるべきではない。そもそもこの問答自体がブラフなのかもしれないからだ。僕は嘘をつきとおすことにして
「うそ。」
耳もとでささやかれる。数奇院の白い指が僕の首にかかった。
「あなたが最後に咳をしたのは十三日前、紅茶が気管支に入ってむせたとき。それ以降は体温、体調ともに正常の範囲内にとどまっているでしょ?」
背筋にゾッと戦慄が走る。いったいなんで数奇院はそんなことまで知っているんだ。
クスクスクス……。小さな、かわいらしい笑い声が男子トイレに響く。
その気が触れたような笑い声に、僕は一線を越えてしまったことを悟る。いよいよ本格的にマズいかもしれないと気がついた僕はすぐさま真実を告白することにした。
「その、実は僕が頼んだのは」
「くだらない低俗でふしだらな漫画、でしょう? そんなことわかるわよ。」
目を見開く僕の頬に冷たい吐息がかかる。肩から顔を持ちあげた数奇院はその整った顔に小さな笑いを浮かべていたが、目は氷のように冷たかった。
「わたし、悲しくて悲しくて笑ってしまいそうだわ。あなたがそんなに愚かだっただなんて。」
首もとにそえられた指に力がこめられていく。どうやら数奇院は僕が今まで見たことがないほどにお怒りらしい。
しかたがないじゃないか、思春期の男子にとっては必需品なのだから。それにだいたい数奇院に口出しされるいわれはない。
そう、口に出して言いたかったけれど賢い僕は沈黙を守ることにする。
すべての元凶たる獅子王を恨みながら、僕はひきつり笑いをするしかなかった。