第27話
パチリ。目を覚ます。どうやら僕は眠っていたようだ。なにやら懐かしい夢を見ていた気がする。
見慣れた図書室のボロっちい天井をぼんやりと見つめていると、全身の節々が痛むことに気がついた。痛い、尋常じゃないぐらい痛い。
………というか、なんだか全身が消毒液くさい。首をすこし動かしてみると、体中にびっしりと湿布が張り付けられているようだった。
鈍く走る痛みをこらえながら体を起こすと、すぐ側の椅子に腰かけていた数奇院と目があう。どこか茫然としている数奇院は、手に持つ手拭いをボトリと落とした。
「あ、静。おはようございます、かな?」
いつまでも固まって動こうとしない数奇院に声をかけると、ようやくノロノロと動き出す。
「残念なのだけれどもう朝ではないの、昼よ。」
動揺を取り繕うかのようにすこしぎこちない笑みを浮かべた数奇院の脇で、落ちた手拭いを太刀脇がかがんで拾う。
「あ、アブリル、ありがとう。………………アブリル!?」
まるで当然とばかりに数奇院のそばで侍る太刀脇に僕の目が点になってしまう。確か太刀脇は清流寺に裏切ったはずだ、それなのになぜ………?
「太刀脇さんはわたしのために清流寺に味方したふりをしてくれていたの。いろいろと助けてもらったわ。」
数奇院がまだどこか不自然な動きで立ち上がる。
どうやら太刀脇は清流寺に寝返ったと思わせて実は数奇院に裏で通じていたらしい。いわば二重スパイといったものか。
「もしかして、桜木に見せていた手紙ってこのことだったの?」
「ええ、その通り。」
ふと思い当たることを口走ると、数奇院が答え合わせをするかのように応える。
「………教えてくれてもよかったのに。」
「数奇院、泉、黙る、不安。すまなかった、でも、必要。」
ジト目で数奇院を睨んでいると、太刀脇が助け舟を出す。どうやら僕はあまり信用されていないようだ。
なにはともあれ、よかった。太刀脇が僕たち"銀行屋"をお金のために裏切ったと勘違いした時は心底つらかったのだ、すべて嘘であったことを喜ぶべきであろう。
僕はほっと胸をなでおろした。なんだかんだ言って僕は太刀脇を友人として親しく思っていたのだ。
………しかし、もしそうならどうして今になって僕に明かしたのだろうか。
「静。」
「なにかしら?」
ソファに横たわったまま、数奇院に問いかける。僕に背を向けて本棚を見つめている数奇院にどうしても聞きたいことがあった。
「もしかして、もう清流寺とは話が終わったのかな。」
「ご明察、その通り。もう清流寺くんが表に出てくることはないでしょうね。」
どうやら僕は決着の瞬間の間ずっと気絶していたらしい。残念というべきか、もったいないというべきか。僕がアタフタしている間に数奇院が問題をすらりと解決してしまっていることはよくあることだった。
しかし、それにしても数奇院もおかしな表現を使うものだ、もう表に出てくることはない、だなんて。それではまるで清流寺が死んでしまったかのような……。
「これは単なる確認なんだけれど、清流寺を懲らしめるのはほどほどにしたんだよね?」
軽い気持ちの僕の言葉に数奇院の動きがピタリと止まる。僕はそこはかとない胸騒ぎがした。
「……もし、誰かがわたしに明確な害意をもって攻撃してきたのなら、必要に駆られて全力で抵抗するのは当然でしょう? その結果がいかなるものであれ。」
「でも、静はそうしないだけの力がある。そうだよね?」
僕と数奇院との間に沈黙が漂う。今の数奇院はどこか様子がおかしかった。
これまで数奇院の"銀行屋"としての富を奪おうと多くの命知らずな生徒たちが勝負をしかけてきたが、そのすべてを数奇院は軽くあしらい、限界まで相手を追い詰めることはしなかった。少なくとも僕がそうさせてきたし、数奇院も文句はないようだった。それが今になってなぜ……?
しばらくして僕に振り返った数奇院の瞳の奥には、憎悪の炎が瞬いていた。
「しかたがないじゃない、あなたをあれだけ痛めつけたのは清流寺くん。なら、報いはあってしかるべきよ。」
感情がむき出しになった数奇院の言葉に、僕は最悪を確信した。
「……清流寺は今どこに?」
問いかけるも、数奇院は口をキュッと結んで開こうとしない。僕は悲鳴をあげる体に鞭打って立ち上がった。
「清流寺は、今どうなっているのさ。」
数奇院に詰め寄る。目を泳がせた数奇院は窓の外を見つめた。
その視線を追うと、高校のある谷間を流れる急流の川が目に入る。まさか。
「あと数日もしたら、下流で溺死体が見つかるかもしれないわね。」
「ッ!」
居ても立ってもいられなくなった僕は、痛みの走る体を引きずりながら図書室を出ようと扉に向かう。そんな僕の前に、無言で太刀脇が立ちふさがった。
「泉くん、あなたは優しすぎるわ。」
ボソリと、呟く。僕のことを冷たく淀んだ瞳で見つめる数奇院は激昂しているようだった。
「あなたは文字通り清流寺くんに殺されるところだったのよ。それにもかかわらず、どうしてそんな人間の心配なんてするの? あなたは異常よ、普通じゃない。」
それは違うと言い返そうとするも、続く数奇院の言葉に遮られる。
「そもそも、梅原くんたちのこともそうだわ。」
僕は目を見開く。僕が梅原たちに食べ物をあげていることは数奇院にも秘密にしていたはずだった。
「初めは、あなたらしいことだと思って黙認していたわ。差しさわりもなかったもの。でも、まさかどこまで清流寺くんが手をのばしているのかわからない危険な状況で、わたしに断りも入れずにひとりで向かうほど不用心だとは思いもしなかった。」
あの日の夜のことを持ち出されて、僕はなにも言い返すことができなかった。確かにあの無断外出はあまりにも脳みそがお花畑だったとしか言いようがない。結局のところは清流寺のもとにまで連行される直接の原因となったのだし。
「で、でも! あの時はもしかしたら梅原たちが食料を切らしていたかもしれなかったし………。」
ドガァン!
数奇院が苛立ったかのように机を蹴りあげる。僕が黙りこんだのを確認して、数奇院は言葉をつづけた。
「そこが一番の問題なのよ。どうしてあなたは他人のことのためにそれほどやすやすと自分を危険にさらせるの? わたしが言うべきことではないのかもしれないけれど、あなたはおかしいわ、自己評価が狂っている。」
数奇院がまるで検察官のように僕を言葉で責めたてる。冷徹な黄金の瞳が僕を真正面からしっかりと捉えた。
理解ができない、結果はともあれ人助けそのものは悪いことではないはずだ。どうして数奇院は僕を非難しているのだろう、わからない。
僕が黙りこんでいると、数奇院はなぜか悔しげに唇を噛み、踵を返した。僕に背を向けたまま、吐き捨てるように言葉を口にする。
「ええ、もういいわ。私の言葉は届かないというわけね。もういいわ、どこへなりと行きなさい。」
なにがなんだかわからないまま、ぐちゃぐちゃの心で僕は図書室を後にした。数奇院の言葉を務めて考えないように、今は清流寺のことが一番重要だと自分に言い聞かせながら。
「っ、はぁ。」
泉が去った後の教室に数奇院の深いため息が響き渡る。心配そうに傍に近寄った太刀脇が声をかけた。
「数奇院、泉、あれでいい? 追いかける、しなくていい?」
眉をひそめて暗に泉を取り押さえないかと提案してくる太刀脇に数奇院は苦笑する。自らの忠犬のつややかな黒髪をなでながら、数奇院はなんとなしに独り言を口にした。
「ええ、いいの。どうせ見つけられずに帰ってくるわ。私ですら清流寺くんが今川のどこを流れているかなんてわからないもの。」
そんなこと、ほんとうに突き落とした人間ぐらいにしかわからないでしょうね。




