第23話
鈍い音が応接室に響く。清流寺が腹部を殴る度、椅子に括りつけられた僕は犬のおもちゃのようにウッとかグッとかくぐもった呻きをあげることしかできなかった。
この応接室に連れてこられてからいったいどれほどの間清流寺に暴力を振るわれているのだろうか? すくなくとも僕にはもう数十年は経っているかのように感じられた。
頭蓋骨の中に響く鈍痛が絶え間ない責め苦を与え続ける。喧嘩など神子高校に来てからも一度もしたことのない僕が殴られ慣れているわけがない、あまりにもの苦痛に僕の心は屈服する寸前だった。
頭から冷水を浴びせかけられる。口まで覆うほどの水の勢いに僕は溺れ死にそうだった。
「おい、泉。鍵の場所だ、それだけを教えてくれればこんなことしなくていいんだぜ?」
ぐったりとうなだれる僕の顔を覗きこみながら清流寺が甘い言葉を口にする。涙と脂汗でベトベトになった僕は、はたから見ても限界が近いと一目でわかったからだろう。
なんでもいいから、こんなことやめてほしい。清流寺に与え続けられた暴虐で単純化した脳みそが、言われたままに鍵の隠し場所を口走ろうとする。
そうだ、"銀行屋"がなんだ、今味わっている苦悶から逃れることと比べたらいったいいかほどのものだというのだ。
「あ………。」
「ん、もしかして教えてくれんのか? 聞こえねえからもうすこし大きな声で言ってくれよ。」
とうとう僕が口を割ると思ったのか、清流寺が顔いっぱいに喜色を浮かべながら耳を近づけてくる。激痛でひきつれてうまく動かせない唇を僕は必死に動かそうとした。
「鍵は、校舎の……。」
「校舎のどこに隠したんだ?」
まさに具体的な隠し場所を口にしようとしたその瞬間、脳裏になぜか数奇院の心細げな笑みがよぎる。
「っ!」
思いっきり舌を歯で噛む。口の中に血の鉄くさい味が広がるのをこらえながら、僕は自らを思いっきり罵倒した。
今、自分は何をしようとした? 数奇院の信頼を裏切ろうとしたのか?
確かに数奇院は人でなしで悪の権化みたいなやつだ。だが、それでも友人として傍に寄り添おうと決めたのはほかならぬ僕自身ではないか! 友を裏切るだなんていったいなにを考えているんだ!
唾液を垂れ流しながら、無理やり唇を持ち上げる。
「おい、校舎のどこに隠したんだよ?」
「言うわけないだろーが、バーカ。」
近づいてきた清流寺の顔面にむけて血の混じった唾を吐きかけた。途端、清流寺はまるで熟れた林檎のように真っ赤になる。
よかった、今度こそ正解を選ぶことができた。そう安心する僕に清流寺が見舞ったのは、案の定言葉ではなく顔面への情け容赦ない拳だった。
つい先ほどまでの折檻とはわけが違う、清流寺の本気に近いパンチに僕はノックアウトされそうになった。グワングワンと揺れる脳みそが真剣に生命維持への危険を訴えかけてくる。
「てめぇ、こっちが下手に出てらぁ調子に乗ってんじゃねえよ!」
激昂して顔を真っ赤に染め上げた清流寺が石器時代からの本能に従って拳を振り上げる。降り注いできた拳の雨あられはもうすでにバレないように体の見えないところを痛めつけるという最初の宣言を忘れてしまっているようだった。
「このっ! くそ野郎が! 俺を! 馬鹿にすんじゃねえ!」
清流寺が湧きたつ憤怒にまかせて力任せに拳を振るう度、視界が赤く染まっていく。ようやく暴力を振るうのをやめた頃には、僕の意識は飛びかけていた。
「清流寺さん、流石にそれ以上やったらそいつが死んじまいますって! なんか俺たちの後ろの人はそいつを無傷で欲しがってるんでしょ、まずいっすよ!」
「ああ!? 俺に意見すんのかよ、お前!」
見かねたのか間に割って入ろうとした子分が清流寺の八つ当たりみたいな拳で吹き飛ばされていく。どうやら清流寺はよっぽど怒り狂っているようだった。
「いろいろと細かく指図しやがって! なにが泉を捕まえて連れてこいだ、俺は《《あいつ》》の小間使いじゃねえんだよ!」
清流寺がまるで火山の噴火のように怒りを応接室のあちらこちらにふりまく。古びた椅子は宙を舞い、傍にいた清流寺の手下が右往左往していた。壁にかけられていた歴代の先生たちの写真も残念なことにみんな壊されてしまった。
台風のように荒れ狂う清流寺を眺めながら、僕は思考を巡らす。口から泡をたてて怒鳴る清流寺が《《あいつ》》と呼んでいるのは、僕の身柄を欲しがっている支援者とやららしい。
どうやらその人物は清流寺よりも上の立場にいていろいろと指図をしているようだ。そして、そのことを清流寺は心底嫌がっている、と。
一通り応接室を破壊した清流寺がギロリとこちらを睨みつける。清流寺を止めてくれそうな周囲にいた子分たちはみんな逃げてしまったようで、すでに応接室には僕と二人になっていた。
僕の前に立ち尽くす清流寺が拳を白くなるほど強く握り絞る。そして、弓を引き絞るかのように振りかぶった。
「そもそもなんで太刀脇を寝返らせた時点で数奇院のアマに襲いかかっちゃ駄目なんだよ! そうすれば今頃は勝利を手にしていたっていうのによ、なにが太刀脇をあまり信用してはいけない、だ! 余計な手間かけさせやがって!」
ドカッ、バキッ。
まるで漫画のような音をたてながら、鬱憤を晴らすように清流寺の拳骨が僕の顔を何度も殴りつけてくる。そのあまりにもの勢いに、とうとう僕は椅子ごと床に倒れこんでしまった。
清流寺はお構いなしに倒れたままの僕を蹴りつけ始める。全身に青あざを作った僕はもうすでに意識が淡く薄れていた。
「ああっ、くそイライラしやがる! もういい、お前はここでもう二度と歩けないぐれぇ凹してやんよ!」
激昂している清流寺はそれでも気分が晴れないようで、止めとばかり床に倒れこむ僕に馬乗りになる。そのまま僕の顔をもう一度殴りつけようとした時だった。
コンコン。
「…………あ? なんの用だ?」
応接室の殺伐とした雰囲気に似つかわしくない軽い音で扉が叩かれる。せっかくの八つ当たりに水をさされて苛立つ清流寺は舌打ちをした後、扉の向こうの来客に要件を尋ねた。
「先生、近づいてる。泉、拷問、バレる、隠滅、厳しい。移動、必要。」
扉の先からは聞きなれた太刀脇のたどたどしい日本語が聞こえてくる。太刀脇は見張り番でもしていたのだろうか、先生の接近を清流寺に伝えているようだった。
「はぁ? 《《あいつ》》はなにやってんだよ。」
どうやらこの事態は本来あり得ないことだったらしい。口汚く自らの支援者を罵りながら清流寺は僕の上から立ちあがる。
永遠にも思われた地獄のリンチが小休止し、僕はひと時の平穏に歓喜した。とはいうものの、今まで振るわれた情け容赦ない暴行に僕はなにも考えられなくなっていたのだが。
「とにかく、外、来る。至急、重大。」
太刀脇がなかなか応接室の扉を開けないのであろう清流寺を急かすかのように単語をまくしたてる。急かされたことにまた苛立った清流寺は腹いせに僕の頭を蹴りつけると、扉のほうへとむかった。
「わあったよ、太刀脇。今行くからそうカッカすんな。」
ガチャリと、扉が音をたてて開けられる。
部屋の外の廊下は、月明りがさしこんでいて明るいようだ。今まで応接室は真っ暗闇だったので、しんしんと降り注ぐ月光に僕は目をショボショボさせた。
ああ、駄目だ。久しぶりの光に安心してしまうと、ピンと張りつめた緊張がきれてしまう。そう気がついた頃には手遅れで、僕の意識はとろけていく。
最後に残された理性が、逆光の中に人影を捉える。
小柄で、それでいて闇夜の中でもひと際輝く銀の髪。キラキラと冷たく輝く黄金の瞳を目にしたような気がする。
「あら、こんばんは。今日はいい月夜ね、清流寺くん。」
あれは、数奇院なのだろうか? その疑問を最後に、僕の視界は暗転していった。




