第21話
「どうや、悪い話やないやろ? 簡単な話、数奇院を裏切るだけでええんや。」
ニコニコと、言外に圧をこめながら梅小路が迫る。まるで太刀脇に裏切りをするよう脅迫されたあの日の焼き直しのような光景に僕はどこか現実味が湧かなかった。
「その、正しい場所って……。」
「そりゃちゃんと学習指導要領が守られとる高校のことや。神子高校みたいに風紀が崩壊しとらん、学び舎として機能しとる学校に行きたいやろ?」
行きたくない、と言えばうそになる。神子高校で日々を過ごすのはとても神経を使うことだし、なによりいくつ命があっても足りないほど危険だ。
だが、かといって梅小路の言葉も今更信じられなかった。真実はともあれ、今の僕はいたいけな同級生の少女を死の淵にまで追いやった悪辣極まりないいじめの主犯だ。僕を受け入れてくれる高校があるとは思えない。
「いや、そんなこと言われてもにわかには信じがたいよ。」
「うちのこと、疑っとるん? 大丈夫やで、約束はきちんと守るわ。いろいろと高校から問題児預かっとるうちのパパは意外と顔が利くんや。」
「でも、梅原たちが気がかりだし、やっぱり途中で投げ出すのは嫌だから………。」
「梅原はんのことはうちにまかせ。食べ物も作って持ってったるし、時間がかかるかもしれんけど転校もパパにお願いするわ。」
梅小路はひとつひとつ尋問官のように僕の断る理由を潰していった。ニコニコとした朗らかな表情の裏に、圧が透けて見える。
「あ、あと静のこととかもあるし、」
ダァン!
梅小路がその拳を机に叩きつける。うっかり数奇院の名を出してしまった僕はやらかしてしまったと内心悔やんだ。
先ほどまでの異様な雰囲気といい、梅小路は数奇院のことを蛇蝎のごとく毛嫌いしているらしい。そんな梅小路の前でその名前を出すのは控えるべきだった。
顔から感情の消えた梅小路が長いため息をつく。コツコツと、イラついたように指で机を鳴らす音だけが静かな化学室に響いていた。
その急な変貌ぶりにビクビクして縮こまっていると、梅小路が赤色の鋭い眼光で僕を突き刺してくる。
「………そもそもや、なんで泉はんはそないに数奇院のことを気にするん? アレは泉はんがこの高校に来る羽目になった元凶やろ。」
どうして、僕が数奇院のことを気にするか、か。確かに傍から見て僕と数奇院が仲良くしているのはおかしく見えるだろう。
中学校の頃は文字通りお互いにお互いを騙しあっていたし、教育委員会が介入してきていじめのことが白日にさらされてからも二人の間の溝が埋まることはなかったように思う。そもそも僕たちは告発からこのかた顔をあわせることはなかった。
次に僕たちがばったりと出くわしたのは、こともあろうに神子高校の入学式でのことだった。運命のいたずらか、示しあわせた訳でもなく、偶然に僕たちは同じ高校へと進学していたのだ。
数奇院の本心を聞いたのはその時が初めてだった。
「思えば、雅さんは意外と静に似ているのかな。」
「はぁ?」
思いもかけなかったであろう言葉に梅小路が固まる。まるで電源を切られたロボットのようにこちらを凝視してくる梅小路にむかって僕は言葉を続けた。
「数奇院も世の中の大人たちに失望したって言ってたんだ。どんなに悪いことをしても誰も気にしないのだから、って。」
数奇院は倫理観を理解していながら、それを重視することはなかったのだという。今まで数奇院は一般に悪とされる行いをいくつも犯してきたのに、誰も見咎めることはなかった。ならば、そも善悪は必要なのだろうか?
数奇院はあまりにも矛盾しているこの世に失望していたのだ。
その本心を聞いた後、僕は数奇院のことを心の底から憎むことはできなくなってしまっていた。
数奇院はなまじ頭が良すぎたのだ。どんなに道を外れた行いをしたとしても誰にも悟らさせることはなかったし、それゆえ間違いを正される貴重な機会を一度たりとも得ることができなかったのだ。
だから、僕はそれから数奇院のそばにいることにした。
数奇院の本性を知る誰かが近くにいなければ、また道を踏み外してしまうのではないかと心配したのだ。まぁ、そうはいっても自分が数奇院の制動装置になれているのかはあやしいものがあるのだが。
そう訳を話し終えた時、僕はようやく梅小路の顔色が蒼白を通り越して死人のようになっていることに気がついた。梅小路はまるで真昼に幽霊でも見たかのようにただ茫然と僕を瞳に映している。
「……まあ、僕の印象だから間違ってるかもしれないけれどね。」
どこかうすら寒さを覚えた僕が言葉を濁すと、油がさされていない絡繰り細工のように梅小路は表情を歪ませた。
「そうやで、そんなこと冗談でも言わんといてや。そんなことあり得へん、アレとうちが同じなんて、酷い話やわ……。」
壊れかけのスピーカーフォンのように梅小路がぶつぶつと何事かを繰り返し口にする。しばらくして、壊れかけの仮面を無理やり被るかのようにして梅小路はいつもの快活な笑顔を貼りつけた。
「それで、泉はんはいったいどないするんかな? もちろんやけど数奇院とは縁切ってこっちにきてくれるやんな?」
否とは言わせないとばかりに、鋭い眼光が僕を突き刺す。その真っ赤な瞳にはどこか残虐さが見え隠れしていた。
やっぱり今日の梅小路はどこかがおかしい。今までこらえていたものが堰を切ったかのように数奇院への異常な憎悪を隠そうともしていない。
確かにこの神子高校から逃げ出せるのはこのうえないほど魅力的だ。しかし、ひとたび僕が誘惑に負けてしまうと数奇院だけでなく梅小路にとっても取り返しのつかないなにか恐ろしいことが起こる気がしてならない。
しかたがない、僕は腹をくくることにした。へんに誤魔化しては駄目だ、キチンと伝えないと。
「ごめんだけれど、やっぱり僕はこの高校に残ることにするよ。」
梅小路が不自然な笑みを浮かべたまま固まる。重く粘っこい沈黙が、僕のまわりにまとわりついて離れそうもなかった。
「……それは、数奇院のためなんか?」
ようやく、梅小路が底冷えするような固い声で口を開く。それに、僕はただゆっくりと頷くことしかできなかった。
「ふぅん、そうか。引き留めて悪かったわ、これで話はしまいや。」
梅小路が何事もなかったかのような声色で暗に退出を促す。なにか口にしようかと迷った僕だったが、結局は言葉が見つからず諦めるほかなかった。
ガタリと、星の光で薄明るい化学室の扉に手をかける。
「なあ、泉はん。うちは残念やで。」
いっそ驚くほどに静かな声で、梅小路は僕を呼びとめた。振り返った僕は、すぐにその真紅の瞳と目があう。
びゅうびゅうと吹く風が、遠くの山から雲を運んでくる。月も星も遮られて光が届かなくなった教室は、もう真っ暗闇に近づいていた。
「でも、泉はんがそないに数奇院に誑かされとるんを見抜けんかったうちも悪いな。」
「…はい?」
にこにこと、相変わらずどこか気味の悪い笑顔の梅小路がよくわからないことを口にする。僕は梅小路の真意を掴めずに首をかしげるほかなかった。
「いや、ええんや。泉はんは優しいからな、絆されてしまったんやろ。数奇院もほんまあくどいなあ。」
「いや、何を言って」
「ええで、大丈夫や。泉はんはなんも悪うない。悪いのは全部数奇院やからな。」
「だからどういう意味か分からないって」
「安心し、泉はんの洗脳はうちが責任もって解いたるわ。だから、その時はもう答え間違えたらあかんで。」
会話が嚙みあわない。誑かすとか洗脳とか、梅小路はいったいなんの話をしているんだ?
暗黒が化学室を襲う。一切の光が届かない教室の奥で、聖母のごとき笑みを浮かべた梅小路の瞳に狂気が芽生えた。
「待っといてくれや、きっとうちが泉はんを助けたるから。」




