第19話
最近、数奇院は機嫌がいい。もっと正確に述べるのなら、旧図書室にいるのが僕と数奇院の二人きりになったときから、だろうか。
今日はあいにくと土砂降りの大雨なのだが、数奇院はそれにかこつけるように一日中旧図書室にひきこもるつもりらしかった。
「ほら、紅茶淹れておいたよ。」
雨粒の滴る窓際に腰かけてもはやタイトルすら読むことのできない洋書のページをめくっている数奇院の前に紅茶のカップを置いておく。わずかに顔を持ち上げた数奇院は、表情を緩めると、感謝の言葉を小さくつぶやいた。
どういたしまして、と返した僕は、机の上に山積みになった教科書と再び格闘し始める。
神子高校に在籍しているにもかかわらず、いやそれゆえに僕はできる限り勉強を頑張るようにしていた。むしろ、この高校に来る前よりも勉強のありがたみを理解するようになったほどだ。
勉強しろと耳にタコができるほど聞かされている間はまったく机にむかう気力が湧かない。が、いざ勉強をしなくともよくなるとかえってモヤモヤした経験はないだろうか。
学問という概念の存在しないこの高校に放りこまれた今の僕はまさにそれだ。中学校の頃の自分からは想像もできないほど今の僕は勉強するようになった。
まあ、そもそもこんな山奥にはインターネット回線やスマホなどという文明の利器の誘惑がいっさい存在しないというのも大きいのだが。まさに神子高校さまさまである。
中学生の頃の同級生たちは、電子機器なしで日々を暮らしている今の僕をみてどう思うだろうか。
よほど気が抜けていたのか、そんな考えにまで行きついてしまった僕は思わず苦笑してしまう。自分はいったい何を考えているのだろう、あのクラスメイト達が僕を気にかけることなどないに決まっているのに。
あの同級生たちならば、と僕は想像する。せいぜいがむきだしの悪意をこめた嘲笑をむけられるだけだ。
テーブルの上に広げた教科書の問題を解いていると、なにやら視線を感じる。気がつくと数奇院が僕の向かいの椅子に座ってじっと僕を見つめていた。
いつもの捉えどころのない不気味な笑みでも、根源的な恐怖を呼び起こす無感動な表情でもない。年相応に頬を緩ませた数奇院はとてもうれしそうに鉛筆を走らす僕を眺めていた。
「僕なんか見てたって面白くないだろ、静。」
こちらをじっと見つめるその黄金の瞳に気恥ずかしさを覚えた僕は、教科書を立てて数奇院の視線を遮る。それでも幸せそうに目を細めたままの数奇院は、いたって至極大真面目な口調で歯の浮くような台詞をのたまった。
「あら、むしろわたしはずっとこうしていたいのだけれど。」
正面から覗くその瞳は真剣そのもので、僕はなにも言えなくなってしまう。それでも無理やり捻りだすようにしてひねた言葉を口にした。
「まったく、中学生の頃の静が今の僕たちを見たらどう思うんだろうね。」
「意地悪な人。」
頬を膨らませた数奇院は、静かに僕を睨んでくる。しとしとと降りしきる雨が、目の前の少女のかつての姿を思い出させた。
僕の通っていた中学校はなんの変哲もない公立の学校だ。しかし、僕の同級生であった少女は規格外もいいところだった。
戦前から代々政商として複数の産業を牛耳る国内有数の大コンツェルン、数奇院財閥。その創業家の一人娘である数奇院は、完璧だった。
天才的な頭脳に人の心をたやすく掴む巧みな話術、そしてその美貌。嫉妬すら許されなかった僕の同級生はあっという間に数奇院に心酔していく。教師ですら逆らえなくなった数奇院はまさしく支配者としてふるまっていた。
同級生のように数奇院の駒になり果てることはなかったものの、かくいう僕だってその苛烈な光に目を焼かれていたうちの一人だ。口にはしないけれど、数奇院のことを尊敬していた。
その完璧な仮面の裏を覗いたのは、まったくの偶然といっていいだろう。
ことの発端は、とある同級生の少女の不運だった。不運とはいってもたいした話ではない。テストの点数が振るわなくなっただとか、仲のいい友達が転校しただとか、そんな些細なことだ。
ただ、ちりも積もればなんとやらで、少女はずいぶんと滅入っていた。傍から見ていた僕も気の毒だと思うほどである。
ただ、青春時代特有の苦悩であると生暖かい視線を向けていたのも事実である。実際はそんな可愛らしいものでは決してなかったのだが。
ある日、僕は違和感に気がついた。
あの品行方正な優等生、数奇院の視線である。数奇院の視線が、常に不幸な少女を観察していたのだ。
それは、同級生が憧れた天使の優しい眼差しではなかった、それは飼育ケースの中のモルモットを眺める研究者の冷たい瞳であった。
やけに嫌な胸騒ぎがした僕がそんな数奇院を観察し始めてから、だんだんと違和感は育っていく。
少女のテストの点数が低いのは勉強してこなかったからだ―――違う。数奇院の取り巻きがあれやこれやと間違った範囲や知識を吹きこんでいるのだ。
少女の親友が遠く転校していったのは偶然である―――違う。数奇院がその親友をそそのかして私立のもっと偏差値の良い中学校に転入するよう仕向けたのだ。
少女のちょっとした不幸の背後にはいつだって無感情の瞳をした数奇院がじいっと覗きこんでいた。まるで少女の苦痛を経過観察しているかのように。
「わたし、人が自ら命を絶つのをみてみたいの。」
流行りの映画をみてみたい、数奇院の口調はちょうどそんな感じだった。恐る恐る問いかけた僕が馬鹿みたいにあっさりとその悍ましい動機を語ってみせたのだ。
「そんなこと、許されると思って」
「でも、あなたの他は誰も気にしていないわ。そうでしょう? そもそも、どうやってわたしの悪意を立証するのかしら?」
親友に転校を勧めたのもその将来を考えてのこと、取り巻きに勉強を教えさせたのもテストの点数が上がればという親切心から―――ほら、わたしは悪くないもの。
倫理の欠如した悪逆の笑みを浮かべた数奇院は、心底からゾッとする紛れもない悪だった。
それから僕は数奇院の悪行を暴き立てようと必死に駆けずり回った。
当然、数奇院に僕の試みは看破される。そのたびに僕は友情であったり家庭の平穏であったりなにかしらを失っていった。数奇院は蟻地獄に虫けらを落とすかのように僕を追い詰めていく。
なによりも苦しかったのは当の少女本人が数奇院を妄信していることだった。最後には、数奇院は少女を利用してまで僕を陥れようとした。
早い話が、少女に僕をいじめっ子と告発させたのである。結局、僕は数奇院の悪徳を全て被ることになってしまった。
それでも、僕は立ち止まれなかった。少女の苦しみが増していくのを目にして引き返すことなどできるはずがなかった。少女は明らかに限界で、今にも自殺を試みそうだった。
僕は文字通り全てを捨てて数奇院に挑んだ。友人関係は全滅したし、教室から僕の机はなくなってしまった。家族にはないモノ扱いされ、勘当同然である。
それでも、数奇院はあざ笑うように常に一手上をいく。当然だ、天才でもなんでもない僕では数奇院を上回ることなどできるはずもない。だからこそ、僕は―――。
「泉くん? どうしたの?」
数奇院の言葉で現実にひき戻された僕は、相変わらず数奇院がすぐ目の前に座っているのに気がついてため息をこぼした。
「この高校に入学する前を思い出してたんだよ。中学生の頃から数奇院はまったく変わってないなぁって。」
「あら、失礼ね。わたしも少しは成長したのよ。」
カタリと紅茶のカップを持ちあげた数奇院が心外そうに反論する。
「中学生のわたしなら清流寺くんはここから退場させていたもの。」
果たして数奇院が「ここ」と語ったのは神子高校のことだろうか、それともこの世のことだろうか。判然としないながらも、僕は数奇院の言葉に納得してしまった。
確かに少女一人の命を気まぐれに吹き消そうとしていたあの頃と比べて今の数奇院は随分と丸くなったものだ。その訳はわからないが、変化は大いに歓迎すべきだろう。
ふと、脳裏にかつての数奇院の姿がよぎる。思えば、あの時既にその変容の兆しは見えていたのだ。
数奇院を告発するどころか逆に追い詰められた僕は、すでに覚悟を決めていた。自滅覚悟で、道連れにしてでも数奇院の悪事を暴く。
簡単な話、自らの無実を証明するのを諦めた僕は数奇院をいじめの共犯者として教育委員会に通報したのだ。当然僕もいじめの主犯として厳しい処分が下るだろうが、これで数奇院を引きずり下ろすことができる。
雨が降りしきる寒々しい放課後、二人きりとなった教室で僕が数奇院にそう宣言してみせた時、僕は確かにこの目で見たのだ。
あの、爬虫類のような冷たい瞳が、どこか揺らいでいたのを。




