第17話
「お前、数奇院のアマか……？」
明らかに染めたものであろう、安っぽい金髪の男が怯えた様子で数奇院に問いかける。細身ながら筋肉質な肉体が埃まみれの制服越しに窺えるその男の名は、桜木 正人。清流寺の腹心であり、"転売屋"の実質的なナンバーツーである。
いつも通り微笑んでいるだけの数奇院と、その不気味な姿を警戒する桜木。二人の様子を教卓の裏側で窺う僕はしかし、まったく別のことに気をとられて心中穏やかでいられなかった。
もちろん、その原因はすべて数奇院にあるのだが。
僕が手に持つ透明な液体の入った500mlビーカー。特段おかしなところはないように見えるこの容器の中身は水酸化ナトリウム水溶液である。
しばらく数奇院が姿を見せないと思ったら、なんと旧化学室の薬品庫に忍びこんで盗み出してきたらしい。ポンと僕の手にビーカーを手渡して数奇院がいうには、もし桜木が数奇院に襲いかかったのなら僕は容赦なくこの中身をぶっかけなければいけないそうだ。
確かに桜木は敵対する清流寺の腹心で、裏切り工作が失敗して逆に僕たちを捕まえようとしてくるかもしれない。だからといってこんな劇薬をかけるのはいくらなんでもやり過ぎである、正当防衛の範疇を超えている。
そう反論したのだけれど、数奇院は念には念を入れなければいけないと僕をまるめこんでしまったのだった。
自己防衛と称して人体にじゅうぶん有害な薬品を持ち歩いている僕はこれで晴れて我が母校、神子高校の優等生に仲間入りというわけだ。とうとう僕もこの気が狂った高校に感化されてしまったらしい。
はこぼさないよう細心の注意を払ってビーカーを水平に保っている僕は、中でさざ波をたてる液体を見つめながら使う時が来ないよう神仏に祈った。
「ええ、お初にお目にかかるのかしら、私の名前は数奇院 静というの。」
「御託はいい、”銀行屋”の妖怪がいったい俺になんの用だ。」
もったいぶってスカートの端をつまんだ数奇院のお辞儀を桜木はにべもなく切って捨てる。余裕の笑みを崩すことのない数奇院はまるで軽い世間話でもするかのように口を開いた。
「桜木くんにお願いがあるのだけれど、清流寺くんがいなくなった後、かわりに"転売屋"を続けてくれないかしら。」
「………あ？ 冗談は寝て言えや、アホかお前。」
まるで勝利を確信したかのように数奇院が語ると、桜木は馬鹿にするようにせせら笑う。ほの暗い悪意が透けてみえる黒い目が、数奇院を嘲るように歪んだ。
「とうとう現実も見えなくなったか？ 用心棒が裏切って例の金庫の秘密を漏らしたところでお前は用済みだ、詰んでんだよ。だいたい清流寺も信頼をおく右腕の俺が裏切るわけねえだろ？」
よりにもよって桜木を寝返らせようとはあの"銀行屋"も随分と追い詰められたようだ、桜木は優越感に浸りながら目の前の少女を憐れみさえした。"銀行屋"の怪物だなんだともてはやされていても所詮は人間、あっさりと落ちぶれていくものなのだ。
「あら、桜木くんって清流寺くんの腹心だったの？ わたしの思い違いでなければ清流寺くんは桜木くんのことが嫌いでしかたないのだと思っていたのだけれど。」
だからこそ、桜木は次に発せられた数奇院の言葉に度肝を抜かれた。それはまさしく桜木の悩みの種そのものだったからだ。
「……あ？ どういうことだ？」
「あなたが最後に"転売屋"として帳簿に触れたのはいったいいつだったかしら？」
今度こそ確信を突かれた桜木は奥底の動揺が胸元を這いあがってくるのを必死にこらえる。
どうせブラフだ、気にすることはない。それに帳簿への記入は実際に商品の販売をしている旧応接室前の廊下でしている、知ろうと思えば知れないこともない。
そうだ、それがどうした。冷静になった桜木は心の中で数奇院は鎌をかけにきているだけだと自分に言い聞かせた。こちらの動揺を狙っているのだ、死んでも顔にだしてなるものか。
「だからなんなんだよ、あれはべつに仕事を引き継いで裏方に回っただけだ。一日中帳簿睨んでるお前にはわからねえかもしれねえが、出世なんだよ。」
不敵な態度を崩さずに済んだ桜木は一転して攻撃的に口の端を持ちあげてみせた。そんな桜木を数奇院はわざとらしく驚いたように眉を持ちあげてみせる。
「へえ、そうなの。わたしはてっきり左遷なのだと思っていたわ。差し出がましかったようね、ごめんなさい。」
「ああ、だからとっとと俺の視界から失せろ。」
「繰り返しになるけれど、ごめんなさいね。清流寺くんの、太刀脇さんへの手紙を読んでてっきりそうだと勘違いしてしまったの。」
なんの変哲もない茶色の封筒が数奇院の白い指に挟まれているのを見た途端、桜木に戦慄が走った。
そんなはずはない。清流寺が太刀脇に送った手紙は厳重に封され、腹心である桜木にも中身をみられないよう直接"郵便屋"に預けられたはずだ。数奇院が手に入れられるはずがない。
一瞬、太刀脇から手紙を奪ったのかとも疑った桜木であったが、あの太刀脇がそんなへまをするはずがないと否定する。そもそも"銀行屋"が偶然手に入れたあの一番最後の手紙以外は全て燃やされたはずだ。
「ニセの手紙になんぞ騙されんぞ。お前がモノホンを手に入れられるはずがねぇ。」
数奇院を睨みつけながら桜木が低く唸る。そんな桜木に心底失望したように数奇院は深くため息をついてみせた。
「桜木くんがこれほどまでに鈍感だったとは思いもしなかったわ。そもそもどうして桜木くんはここに来たのかしら？」
その問いかけに桜木は戸惑う。数奇院の問いかけは一見なんの関係もないように感じられたからだ。
自分が"郵便屋"に呼び出されたから来た、そのことに何の意味が？
その時、桜木は想定されうる中で最悪の事態に思い至った。そうだ、本来ならこの教室で桜木を待っているのは数奇院ではなく、獅子王のはずだ。
「お前、まさか"郵便屋"とグルなのか……？」
静かに黙ったまま数奇院の浮かべる微笑が答えを物語っていた。桜木は頭をハンマーで殴りつけられたような衝撃で視界が眩む。
たしかにあの"郵便屋"そのものが数奇院の手の内なのだというなら、清流寺から太刀脇への裏切りを促す手紙を手に入れられてもおかしくない。
「そう、その手紙の中で清流寺くんが手紙の中で桜木くんのかわりに太刀脇さんを次席に据えると約束していたものだから、思わずお節介を焼いてしまったの。でも、わたしの勘違いだったみたいね、申し訳ないわ。」
「数奇院。てめえ、どの口でそんな戯言ほざいてんだ。」
桜木はついに自分の不安が的中していたことを知った。もはやこの期に及んで数奇院が嘘をついているとは思えない。
清流寺は本気で桜木を疎んじ、排斥するつもりなのだ。
「……ああ、認めるよ。俺は確かに清流寺に嫌われてるさ、そんでもってさっきのは出世じゃなく左遷だ。」
「あら？」
「だが、だからといって俺がお前に寝返るなんて思うなよ。」
桜木が悪あがきをするように数奇院に悪態をつく。
結局、なにも変わっていないのだ。清流寺は太刀脇を寝返らせた時点で勝利を手にしている。いまさら自分一人が数奇院側に寝返ったところでなにも変わらないだろう。
「俺は清流寺に逆らうつもりはねえ。そこまで俺は命知らずじゃあねえし、なによりお前じゃあもう清流寺に勝てねえ。」
「あら、それじゃあアレは諦めるのかしら？」
どこか諦念を浮かべる桜木に数奇院は体をずらし、背後の机に無造作に並べられたものをみせた。
「まあ、どうせバイクのことも知ってるよな。」
金属質の機械が表紙に載った雑誌がずらりと並んでいる。それを桜木はどこか虚ろな目で見つめた。
