第1話
人の性は悪にして、その善なるは偽なり。
昔、中国の賢い人はそう語ったという。人は欲に弱い生き物なのだから、正しい道を学ぶことこそが大切なのだと。
高校生になった今、僕は嫌というほどその意味を思い知らされている。
僕の通う高校、神子高校は一言で片づけるなら、不良学校だ。全国から問題児ばかりが集められるこの人里離れた山奥の高校の風紀は最悪である。
どれほど酷いかというと、授業中に机が教室の窓から放り投げられても誰も気にしないぐらいだ。先生も諦めたのか注意するそぶりも見せない。
ところどころ血が飛び散る教室にため息をつきながら椅子に深々と腰をおろすと、いつのまにか机の上に紺色のスカートが広がっていた。
「今朝は遅かったじゃない?」
見上げると、一人の少女が本を片手に冷笑を浮かべている。
短く切り揃えた銀髪に、人外染みた黄金の瞳。儚げながらどこか冷たい美貌の持ち主であるこの少女は、僕の友人の数奇院 静であった。
「今日の数学のテストを勉強してなかったって気づいたんだよ。静は自信あるの?」
意趣返しとばかりに口を開いた後、僕はその問いかけが無意味であることに気がつく。天才である数奇院がたかだか高校の数学に苦戦するはずもなかった。
「あんなものなんて勉強する意味ないわ、目隠ししたって間違えようがないもの。」
数学に悩まされている世間の高校生たちなら耳を疑うであろう不遜な言葉を口にした数奇院は、そのまま本を閉じると僕を凝視する。
いったいなんの用だろうか? 僕が疑念をこめて見つめ返すと、数奇院はその桜色の口元を僕の耳に近づけた。
「今日は転校生がいるの、だからお仕事よろしくね?」
吐息交じりの言葉が僕の耳をくすぐったかと思うと、僕が口答えする間もなく数奇院は自分の席に戻ってしまった。すぐに先生が教室に入ってきて朝礼が始まってしまう。
僕は気が進まないのを吐きだすようにため息をついた。僕はこの高校で数奇院の金儲けの片棒を担いでいる。けっして胸を張れるような中身ではないのだが。
「本日は新しい友達がこの神子高校に来てくれました。」
先生がぼそぼそと話し始める。まったく静まる気配がなかった教室も、転校生となるとさすがに気になるのか先生の話を聞き始めた。
「どうぞ、入ってきていいですよ。」
先生に促されて教室に足を踏み入れたのは、快活な笑みを浮かべた長身の少女だった。大きな丸渕のメガネをかけていて、艶やかな黒髪がのばされている。
「どうも~、紹介されました転校生、梅小路 雅いいます。関西から来たから、標準語はようわからんけどよろしくお願いします。」
梅小路と名乗った少女の苗字に教室が騒めく。僕も目を丸くしてしまった。
「お聞きになった通り、うちは梅小路ですんで先生の娘やけど、気軽に声かけてくれるとうれしいわ。」
どうやら噂の転校生は目の前でニコニコしている先生の一人娘なのだそうだ。いったいどんなつもりでこんな地獄の一丁目のような高校に娘を転校させようと決めたのだろうか? 僕は先生の正気を疑った。
梅小路は人懐っこい性格らしくいろいろと周囲の生徒に話しかけていたが、どうも避けられているようだった。当然といえば当然である。
この高校の生徒は飲酒、喫煙なんでもござれだ。梅小路に告げ口されて警察にでも連絡がいけばいよいよ少年院行きになる。誰が好き好んで先生の娘などと仲良くするだろうか。
誰とも仲良くなることができなかった梅小路は結局ひとりぼっちで惣菜パンを口にしていた。
「あのさ、もしよかったら学校を案内しようか。」
放課後、僕は意を決して梅小路に話しかけた。
自己紹介の時の振る舞いといい、梅小路はこの高校の惨状を知らないようだった。お仕事の一環ではあるが、この高校の実態について早めに知っておいたほうが梅小路のためになるだろう。
「えっ、めっちゃ嬉しいわぁ~! お願いしても良いやろか。」
梅小路はパアッと目を輝かせて喜んでいた。孤独な転校生の心を弄んでいる気がして心が痛んだが、ぐっとこらえて愛想笑いを浮かべてみせる。
案内の道中、梅小路はどれほど自分が父親を尊敬しているかを熱弁していた。この高校に転校したのも父親の働きぶりを自分の目で見たかったかららしい。
その様子を見ていると、梅小路は自分がどういう高校に来てしまったのかを本当に理解していないようだった。僕は心の中で同情するしかない。神子高校はもはや学び舎としての機能を果たさないまでに荒れ果てているのだから。
「ここが旧化学室、ここから先は全部空き教室だね。あっちには旧家庭科室があって……。」
炭鉱で栄えていたころに建てられた村立高校の校舎を使っているので、敷地はとても広い。一通り案内し終わるころには日が暮れはじめていた。
廊下を歩いていた僕は、ふと後ろをついてきているはずの梅小路が立ち止まっていることに気がついた。
「これでだいたい全部を見て回ったけれど、どうかした?」
梅小路がひきつった笑みを浮かべる。
「一つ聞きたいんやけど、なんで教室の窓はたいてい割れとるん? それと、床に転がっとる煙草の吸殻とかビールの空き缶はなんや?」
ついに気がついてしまったか、というよりも気がつかないほうがおかしいのだろう。僕はようやくこの高校の真実に触れた梅小路を祝福するかのように答えを告げた。
「そりゃ、学校のみんなが割って、吸って、飲んだからだよ。」
梅小路が絶望の表情を浮かべて天を仰いだ。
「雅さん、たぶんだけど今になってようやくこの高校がどういうところなのかに気がついたでしょ。」
青ざめた表情でゆっくりと頷く梅小路。おそらく、というか絶対に前もって神子高校の評判ぐらいは調べておくべきだっただろう。さもなくば、こんな日本の教育の底辺に来なくてすんだのだから。
梅小路はみたところこういう不良のたむろするような高校とは無縁の人生を送ってきたのだろう。そんな普通の生徒がこの神子高校で暮らすためには守るべきことがある。
「この高校でのマナーを教えるね。」
一、金目のものは決して他人に見せないこと。なぜなら奪われるから。
二、いかなる時も油断しないこと。なぜなら襲われるから。
三、金のあては常に用意しておくこと。なぜなら値段がつりあげられるから。
我ながら話していて酷いマナーである。はたしてここが日本の高校なのかどうかすらも怪しい。いったい授業中にカツアゲを警戒しなければいけない高校などほかにあるのだろうか。
「その、最後の値段がつりあげられるっていったいなんや……?」
恐る恐るといった風に梅小路が尋ねてくる。失念していたが、そういえばこの高校には特別な事情があるのだった。
「雅さんはさ、この高校には食堂がないから自炊しなきゃダメってことは聞いてるよね。その食材ってさ、どうやって手に入れるのか聞いた?」
「確か、一週間に一回近くの商店の人がトラックで一時間かけて高校までモノを売りにくるって言っとったような……。」
そうなのだ、それが大問題なのだ。全寮制である神子高校は山奥にあって、近くの商店まですさまじく遠い。しかも一週間に一回しか食料を手に入れる機会がないのだ。
「もしさ、そこで売られている食べ物すべて買い占めたらそこから一週間はいくらでも値段をつりあげられるよね。」
「いやいや、そんなわけないやろ。パパがそんなん許すわけないで。」
梅小路はまだ半信半疑なようだった。冗談だろうと笑い飛ばす梅小路に僕は首をすくめることしかできない。
「現にそうなってるんだからしかたがないよ。なんなら先生も高い値段でご飯を買ってるよ?」
「え、もしかしてほんまなんか?」
僕の真剣な声色に、梅小路がかすれたうめき声を漏らす。
残念ながら、真実である。神子高校では一部の生徒が商品をすべて買い占めて値段を釣りあげているのだ。カップ麺ひとつとっても五百円以上するなんてことはざらである。
……それに手を貸しているのが数奇院と自分なのだけれど。良心が痛むのをこらえて、僕は梅小路に近づいた。
「だから、この高校ではお金を持ち歩いていたら絶対にだめだ。すぐにカツアゲでもなんでもされて奪われる。安全なところに預ける必要があるんだ。」
ここからが僕のお仕事の始まりだ。怪訝な表情を浮かべている梅小路の腕をひっぱって旧図書室の前までつれていく。
「な、なんや。うちから金をとろういうんか!?」
慌てる梅小路にお構いなく僕は旧図書室の扉を開け放った。
「あら、ずいぶんと遅かったじゃない。」
夕暮れに赤く照らされた図書室。かつての貸し出し用カウンターに腰かける数奇院が蠱惑的な笑みを浮かべて僕たちを待っていた。
「まあ、いいわ。梅小路 雅さん、だったかしら。初めまして、わたしの名前は数奇院 静。」
――――――――"銀行屋"にようこそ。