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お清殺し


「……アッ」


 乞食の女は次郎兵衛の顔を見るなり声を上げた。


「お前は、次郎兵衛……!」


「そういうお前は、……お清、まだ生きていたのか!」



 江戸の空は鉛色の雲が重く低く垂れ込み、雪がちらちらと舞っていた。戸田の渡しには人影もなく、ただ寒風だけが吹いている。十年前、次郎兵衛がお清の目の前から姿を消した日もこんな日だった。


   ✴    ✴    ✴



 博奕打ちである次郎兵衛は佐野(現在の栃木県)の出である。医者であった父から日々の不真面目な生活態度を原因に勘当され、家出同然で江戸へ出てきた。決して器用ではないが口がうまいこの男、定職に就かずふらふらと気楽に生きている。博奕で日銭は稼げる、生活するのには困らない。年の頃は二三、四といったところか。顔立ちは悪くなく、女にも困らない。風のウワサで両親は死んだと聞いた。次郎兵衛は独り気ままに江戸で生きていくのだと思っていた。


 ある晩、次郎兵衛は自分の住まう四ツ谷の長屋の木戸の内側で一本のかんざしを拾った。ひすいの玉に銀の二本軸、それはあまり詳しくないものにもそれは一目で上物とわかる代物であった。とても長屋のおかみさん方が持てるような物ではない。サテ、いったい誰の物だろうか。思案を巡らせると、この長屋のいちばん奥に『囲い者』がいるというウワサを次郎兵衛は聞いたことがあった。


 その囲い者というのが遊女のお清という女である。ウワサによればたいそうな別嬪だそうで、松平安芸守の江戸お居留守役、斎藤為之助の妾となってこの長屋の隅に囲われているというのだ。


 翌日、次郎兵衛はかんざしを届けに長屋の奥へ向かった。はたしてお清という女は美しかった。年頃は二一、二才。切れ長の目に整った鼻、紅く麗しい唇はぽってりとして、かなりの別嬪といわれていたが、次郎兵衛の予想以上にしなやかで美しい女だった。


「あのう、貴女の物と思しきかんざしを拾ったのですが……」


「あら、これはこれは。盗られてしまったものと諦めておりましたのに。せっかくですから、どうぞお上がりくださいな」


「いえ、また伺いましょう」


と、その日はそれで帰ることにした。他人に囲われている女のもとに男一人で上がり込むのはよろしくないと思ったからだ。


 しかし、思い出せば思い出すほどにいい女だった。完全に一目惚れである。ろくに通っているのかもわからない男に囲わせておくには惜しい。できることなら自分のものにしてしまいたいと思った。


 その翌日、お清の家から女中が『お礼に』と、酒と魚を届けに来た。お武家の妾から土産を貰って黙っているわけにもいかないので、次郎兵衛は嬉しさ半分で鼻歌交じりにお礼を告げにお清のもとへ向かった。これがきっかけとなり、お清のもとへの通いが始まった。お礼のお礼、そのまたお礼……やり取りは頻繁に行われ、いよいよ念願の仲になった。狭い長屋である、ウワサはすぐに広まる。たまに通ってくる斎藤為之助の耳にも入った。もっとも、妾というのはお清ひとりではないので、いつしか旦那の足も遠のき、すっかり通ってこなくなった。


 すんなりとお清が自分のものになったことが嬉しくてたまらず、次郎兵衛は舞い上がった。しかし妾というものは旦那に囲われてこそである。お金はどんどん無くなっていく。次郎兵衛はお清の着物やかんざしを質に入れ、お金を作り、そのお金で遊び歩く。お金を作ろうと更に博奕に入れ込み、思い切りすって帰ってくる。


「ジロさん、質に入れられるような着物はこれが最後だよ」

 お清はいつもの通りに着物を次郎兵衛に手渡した。


「うむ、そうか……心配するな、俺にかかればちょちょいと金になって帰ってくる」


「もうそのうまい口には騙されないよ……。ジロさんがもうちょっとまともな仕事でもしてくれてさえいればいいんだけど……」


 次郎兵衛がきまりの悪そうな顔をしたのでついお清の口がすべった。けれどもそれは本当のことである。もうちょっとまともな仕事でもしてくれてさえいれば、女中に暇を出すこともなく、持ち物を質に入れることもなく済んだのだ。


「……博奕狂いの亭主で悪かったなあ!」


「そんなこと言ってないじゃないか」


 次郎兵衛は逆上し、ひとしきり喚いて家を飛び出した。初めのうちこそ互いに燃え上がった恋であったが、お金が無くなってくるとそうも言っていられなくなった。些細なことで喧嘩も増え、次郎兵衛が家を空ける日も増えた。お金に恋をしたわけでもあるまいに、次郎兵衛はすっかりお金が無くなり貧乏になったお清に飽き始めていたのだ。


 一方、お清は貧しくても美しいままであった。博奕打ちの亭主にうんざりすれども、これはこれで生活として受け入れていた。うまい口車に乗せられるのも悪い気はしなかった。次郎兵衛の気持ちの変化には気付いていた。しかし別れるなど考えられなかった。ただ、こうなってしまったことを寂しく感じていた。


 とうとう数ヶ月間次郎兵衛は家を空けた。



 それは年が明けてすぐだった。鈍色の空に雪が舞い、寒風が身にしみる日である。傘をバタバタと閉じて積もった雪を落とし、次郎兵衛は久方ぶりにお清のもとへ帰ってきた。


「誰だい……」


薄暗い部屋の奥からは、元気のないお清の声がした。


「俺だよ」


次郎兵衛は努めて優しい声音で返事をした。


「ああ、次郎兵衛さんか……」


お清は少し残念そうに言った。


「なんだいその言い方。俺で何かわるいかい」


次郎兵衛は戸を閉めて部屋に向き直った。お清は具合が悪いのか横になっていた。


「違うんだよ、ジロさん。そうじゃなくって……」


お清は起き上がって顔を両掌で覆った。


「泣いているのかい? どうした、何があった?」


「……。酷いよジロさん。一文無しのアタシを独りにしてさ。こんな顔じゃ外にも行かれない。正月だっていうのに食べるものが無くなっちまった」


顔を上げよとお清の肩に手を伸ばした次郎兵衛はその顔を見るなりぎょっとして手を引っ込めた。美しかったその顔は見るも無惨に崩れ、爛れた皮膚からは膿が吹き出し、美しく整っていた鼻はもげ落ち、唇からは絶えずシューシューと苦しげな吐息が洩れる。お清は寂しげに続けた。


「酷いもんだろう。楊梅瘡さ。鼻が欠けちまった……」


「わ、わかった。食べ物なら俺が買ってきてやらあ。ここでおとなしくしていろよ」


次郎兵衛は飛び跳ねるように立ち上がると、戸に飛びついた。


「どこへいくのさ」


「エイ、大人しくしていろ!」


着物の裾を掴まれた次郎兵衛はお清を足蹴にしてそのまま家を出ていった。


 部屋にはただお清の悲鳴の余韻と恨めしげな啜り泣く声が残っていた。


 それきり、次郎兵衛は帰らなかった。もとより飽いた女ということもあり、梅毒に冒されたのを良い機会だとして離縁したのである。



    ✴    ✴    ✴



 行く宛の無くなった次郎兵衛は江戸を離れ、国へ帰った。両親とは死別していたから、叔父を頼って博奕からは足を洗った。叔父は不真面目な甥を追い返しはしなかった。頼れる唯一の肉親ということで、熱心に面倒を見てやることにした。そして次郎兵衛は絹商人という新たな職に就いた。その間にお里という娘を叔父の世話で嫁に貰った。勿論誰にもお清のことは秘密であった。お里との間にひとりの男の子をもうけた。名は次郎吉という。玉のように愛らしい男児であった。生活は安泰、可愛い嫁も息子もある。今が次郎兵衛の人生の絶頂と言えた。


 月日は夢のように流れ、いつの間にか次郎吉は五つになり、佐野へ戻ってから十年が経っていた。



    ✴    ✴    ✴



 江戸へ来るのは幾年ぶりか。今回は商いの一環で来た。もう博奕打ちの次郎兵衛ではない。佐野のお大尽と呼ばれるまでに成ったのだ。商いは万事順調に進んだ。行きは上州の商人三人連れで江戸に向かったが、帰り、板橋宿を出てからは次郎兵衛一人になった。


「こりゃあ、降るな……」


 今にも雪が降り出しそうな鉛色の空を見上げて、次郎兵衛は心配そうに呟いた。笠の紐を結び直して、少々急ぎ足で戸田の河原に差し掛かった。


「しまった、降ってきやがった!」


 舟に乗り込む前に雪は舞い始めた。そのとき、次郎兵衛は誰かに呼び止められた。


「もし……旦那さま……お恵みを……一文で良いのです……どうか」


 それは女乞食であった。女はボロを身に纏い、煮染めたような手拭いを姐さん被りにした姿で寒そうにしている。髪の毛はずるずる、顔は崩れ、垢だらけである。杖をついてよろめいている。風が吹けば倒れそうな出で立ちだ。昔の次郎兵衛であれば、足蹴にして渡し舟に乗り込んでいただろう。しかし今は佐野のお大尽である。多少の慈悲心が今の次郎兵衛にはあった。


「待ちねぇ、いま金出してやるから」


 その時である、風が吹いて笠の下の次郎兵衛の顔が女にはハッキリと見えた。


「……アッ、お前は、次郎兵衛……!」


「そういうお前は、……お清、まだ生きていたのか!」


 お清は叫ぶと同時に次郎兵衛の胸ぐらに掴みかかった。


「お前に恨み言を言わずに死ねるものか! よくもアタシを置いて出ていったね」


「待て待て……お前はそうカッとなってすぐ火がつくから困る。どうせお前は俺を非情な奴だと思っているんだろうがそれは違う」


「カッとなるのはあんたの方じゃないか、十年前もそうだった! 度々アタシを足蹴にしては家を飛び出したじゃないか。あんたが非情じゃなくて誰が非情だって言うんだい」


 お清は胸ぐらを掴んだまま涙ながらに訴えた。


「まあ待て、俺の話を聞け。十年前、あのまま博奕をやっていてもお前の病気を治してやることも、食わせてやることもできないと思った俺は、佐野へ帰って、親類縁者に頭を下げて博奕から足を洗い、新しい仕事を始めたわけだ。そうしてまとまった金ができた辺りで江戸へ帰ると、四ツ谷の長屋にいなかったのは、お前の方じゃないか」


 次郎兵衛は咄嗟に嘘をついた。もとより口がうまいこの男、その場しのぎの嘘が得意なのである。しかし次郎兵衛が新しく商売を始めたころ、お清が四ツ谷にいなかったのは本当のことである。一文無しになり、働けなくなった身体で、どうして長屋に居られよう。お清は江戸中を乞食として彷徨い、ついに戸田の河原に落ち着いた。佐野から来る次郎兵衛を待ち伏せするためだった。


「お前と落ち合ったら、草津にでも行って、湯治に行こうと思っていたんだ」


 次郎兵衛は努めて優しい声音で言った。お清はそれを聞いて、ころっと騙された。十年ぶりに優しい言葉をかけられたのだ、無理もない。


「こうして今日会えたのも何かの因縁だ。今晩は蕨宿に泊まって一緒に佐野へ行こう」


 お清は掴んだ次郎兵衛の襟を離した。啖呵を切ったものの、こんなことを言われては今の自分の姿が恥ずかしく思えて堪らなくなった。両掌で顔を覆うと、お清はぽつぽつと自分がここに来るに至るまでを話し始めた。


「あんたが出ていってから、夜具もない部屋で苦しんでさ、何度死のうと思ったことか……。だけどあんたに恨み言のひとつも言わないで死ねないと思って、江戸中を這いずり回ってあんたを探したんだ。もう江戸にはいないのかもしれないと思ってここへたどり着いたのはもう二年も前になる。その間あんたは一度もここへは来なかったんだね……」


「商いの都合でしか江戸へは来ねえからなあ……待たせてすまなかったな、お清」


「……そんなこと言って、この十年の間にいいひとができたんだろう?」


 お清は寂しげな瞳で言った。


「ああいや、……そんなのぁどうだっていいじゃねえか。この十年、俺はお清を忘れたこたぁねえ」


 ある意味それは真実だった。いつも脳裏にお清の崩れた顔がすがりつくように貼り付いていた。それを無視してこの十年間を生きてきた。ここで会ったのも何かの因縁だ……。次郎兵衛は妖しい笑みを浮かべた。お清は俯いて、それに気付かなかった。


「お清、旅籠屋に泊まるにしてもそれなりの身なりってもんがあるだろう? てめえの身なりのままじゃだめだ。着物は俺の襦袢を貸してやる。……その前に肌が垢と埃だらけじゃねえか。川の水で洗っていくといい」


 雪の舞う戸田川は轟々と流れている。次郎兵衛はよろつくお清の手を引いて桟橋まで歩いた。


「ああ、温かい……。十年ぶりだねえ、お前に手を握ってもらうのは……。ジロさん、本当に連れて行っておくれだね?」


「本当だとも。毎日上げ膳据え膳で面倒を見てやる。約束する」


 お清は十年ぶりの次郎兵衛の手の温もりに感動していた。


「落ちると危ねえからな、帯を持っていてやるから、早く洗いねえ」


「しっかり持っていておくれよ。水に落っこちたら死んじまう」


「わかってる、さ、早く洗いねえ」


 次郎兵衛はお清の弱腰をしっかりと支えた。


「ジロさん、落っこちそうで怖いよ」


「なに、俺が支えているんだから大丈夫だ。さ、早く洗いねえ」


 お清がこわごわと屈んで水を掬い上げたそのとき、次郎兵衛はいまだとばかりに突き飛ばした。バシャーンと激しい音を立ててお清は川へ落ちた。お清はもがき苦しみながらも桟橋に手をかけ叫ぶ。必死の形相で恨み言を吐いた。


「畜生、嘘だったんだね! 畜生、畜生、よくも騙したね! この恨み、必ず晴らしてやる!」


「うるせえ、てめえなんざさっさとくたばっちまえばよかったんだ。誰がてめえみたいな汚え女を連れて帰るもんか」


 次郎兵衛は側にあった杭を引っこ抜くと、力まかせに二、三度お清の頭をぶん殴った。


「アーーッ!」


 お清は断末魔の叫びを上げるとそのまま静かに川の中へ沈んでいった。



「……へっ、これでよかったんだ。これでよかったんだ……。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、成仏しろよ……」


 ごとりと杭を落とすと、急に力が抜けて、なんだか空恐ろしくなってきた。桟橋から後ずさりするように立ち退くと、もと来た道を急いで引き返した。目を瞑れば、死に際のお清の鬼のような形相がありありと思い出される。口の中で南無阿弥陀仏を唱えながら板橋宿まで戻ってきた。日暮れも間近になってきたのか薄暗くなってきたので、そのまま馴染みの旅籠屋に泊まって行くことにした。


 夕餉を終えて、湯屋から帰ってくると、部屋には二組の布団が敷かれていた。下女を捕まえて、どういうことか聞いてみると、次郎兵衛が湯屋に行っている間に女が来て、


『今夜は佐野の旦那のところへ泊まっていくから』


と告げたそうなのである。


「女ぁ? どんな女だ」


「へえ、それが……少々お見苦しいお姿の、三十くらいの女の方で……」


 下女は言いにくそうに声をひそめて言った。次郎兵衛の脳裏をお清の顔が掠める。次郎兵衛は一気に冷や汗をかいた。


 気味が悪いので宿を飛び出し、戸田の渡しまで走るように歩いた。早く、早く、……追いつかれないように。


『この恨み、必ず晴らしてやる!』


耳元でお清の声が聞こえたような気がして息を呑んだ。あの桟橋のところまで来ていた。



『女乞食の死体が上がった』


 町奉行、船頭たちがわらわらと集まり、辺りは騒然としていた。渡し場に着くと船頭は困ったような顔をして言った。


「旦那、今から渡るんですかい? 暮六つ(日没)の鐘はとうに鳴りやしたぜ」


「銭ははずむ、どうか渡してくれ」


「……気味が悪いんでさぁ。さっき上がったおこもさんの顔を見ちまって、……その恐ろしいのなんのって」


 次郎兵衛の背中に冷や汗が伝った。


「死体が上がったばかりの川を渡るなんてやめたほうがいいでございますよ。明日になすったらいかがです」


 船頭はよほど気味が悪いのか、しきりに両腕を擦りながら引き止める。心なしか声も震えている。次郎兵衛の脳裏には死に際のお清の顔がべったりと貼り付いていた。


「いや、いま渡りたい。どうしても今だ。頼む、いま渡してくれ」


 次郎兵衛は半ば躍起になって船頭に縋りついた。一刻も早くこの場所から離れたかったのだ。船頭は渋々、舟を出すことを承諾した。


 渡し舟に乗っている間も、次郎兵衛の冷や汗は止まらなかった。水の中から、周りの闇の中から、すぐ隣から、睨め付けるような視線を感じていた。これは気のせいかもしれない。人を殺めたという罪悪感からくる感覚なのかもしれない。とにかく、息遣いまで伝わってくるようなこの視線から逃げ出してしまいたかった。


「……旦那、震えてますぜ。大丈夫ですかい」


「……今日は風がこたえるな。寒くてかなわねえ」


半笑いで誤魔化したが、実際寒さなど毛頭感じていなかった。


 舟を降りると、約束どおり相場の二倍の金を船頭に払い、急ぎ足で蕨宿へ向かった。金を数える手はガタガタと震えていた。


 戸田の渡しを越えれば蕨はすぐそこである。些かの空腹と、激しい疲れを覚えた次郎兵衛は、蕨で蕎麦の夜店に寄ることにした。人家の灯りと屋台の提灯が近付いてくると、心細さや恐怖心はなんとなく落ち着いた。


「かけ蕎麦を一杯」


「え、一杯でいいんですかい」


 暖簾をくぐり、主に声をかけると妙な返事が返ってきた。


「どういうことだい」


「へえ、お連れさんの分はよろしいので……?」


 次郎兵衛はサァッと青ざめた。


「俺に連れはいないよ」


「そうですかい? でも確かにいま女の人が……」


「もういい、わかった、それ以上言うな」


 次郎兵衛は小声になって主の声を遮ると、にわかに恐ろしさに呑まれてワッと叫びながら夜店を飛び出していった。


『お清は俺について来やがった。どこで泊まっても布団は二組敷かれるし、どこで休んでも連れがいると言われるに違いねえ。このまま佐野へ帰って村の寺でお祓いをしてもらおう……』


 佐野までは夜通し歩けば五つ半(午前九時頃)には着くはずだ。舞い散る雪の中を、手元の提灯の頼りない灯りで歩いていくしかない。口の中で南無阿弥陀仏を唱えながらひたすら歩き通した。丑三つ時の心細さと恐怖といったらなかった。風など吹いて草木の揺れるのにも心をざわめかせ、常に誰かの気配を背後に感じていた。


『気のせいだ、気のせいだ。人を殺めたからそのように感じるのだ。なんてことはないただの思い込みだ』


そう思いつつも、南無阿弥陀仏を唱えるのをやめることはできなかった。



 佐野の屋敷に帰り着くと、どっと疲れが襲ってきた。雪の中を一晩中歩き通したのだ、無理もない。今すぐにでも寝たかった。荷解きもそこそこに、次郎兵衛は下女に布団を敷かせるとすぐに横になった。そこに深刻そうな顔のお里がやってきた。


「お前さん、次郎吉が……」


「どうしたね」


「次郎吉が昨夜から高い熱を出していてね、お医者さまが疱瘡じゃないかっていうんだよ」


「昨夜から……」


次郎兵衛は青ざめた。お清の祟りではないかと思ったのだ。


「どうしたんだいお前さん」


「いや、どうもしない。次郎吉が心配だが、今は少し寝かせておくれ。すまない」


 五つになったばかりの次郎吉が疱瘡にかかるとは、なんとも可哀相なことだ。熱が出ているうちはいいが、下がると体中に発疹が広がり痘痕が残る。最悪の場合死んでしまう。軽く済むように祈ることしか次郎兵衛にはできなかった。



『……兵衛…………次郎兵衛……』


名前を呼ばれて目を開けると、辺りは暗くなり、しんと静まり返っていた。誰もいないはずだが、枕元に誰か立っているのがわかった。


「誰だ」


『お清だよ』


声は低く響く。お清はそのまま布団の周りをゆっくりと歩き出した。衣擦れの音、素足が畳に擦れる音が鮮明に聞こえてくる。


「ヒィッ……や、やめてくれ……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」


『無駄だよ。アタシはあんたに殺されて怨霊になったんだ。恨みを晴らすまであんたから離れないよ』


「なんでもする、なんでもするからもうやめてくれ!」


『ヒヒヒ……フフ……ハハ、アハハハハ……』


お清は笑いながら顔を次郎兵衛に近づけた。その顔は、死に際の恐ろしい顔のままだった。


『人殺し、人殺し……』


次郎兵衛は気を失った。



 次に気がついたときは明六つ(夜明け)の鐘が鳴っていた。長いこと気を失っていたことになる。バクバクと早鐘を打つような鼓動を落ち着けながら、次郎兵衛は着替えると、口を漱ぎに部屋を出た。


「お前さん! 次郎吉が!」


 お里が廊下の向こう側から走ってきた。


 次郎吉の熱は下がっていた。しかし顔中に発疹が、それはまるで小豆をばら撒いたように広がっている。次郎兵衛の頭の中には、お清の崩れた顔が浮かんでいた。次郎兵衛は少し青ざめながら言った。


「こりゃ酷え……しかし熱は下がったんだな、それぁよかった」


 下女は次郎吉が痒がって発疹を触ろうとするのを必死に止めていた。次郎吉が布団から手を伸ばして次郎兵衛に触れた。


「ととさま、だっこ」


「旦那様、うつります」


 女中に止められて、次郎兵衛は頭を撫でてやるだけにした。代わりに女中が次郎吉を抱き上げると、お里と次郎兵衛は部屋を出た。


 玉のように愛らしい我が子が痘痕だらけの顔になってしまうことに、お里は動揺を隠しきれていなかった。


「なに、疱瘡神も次郎吉をお許しくださったんだ。あの子は強い子にならぁ」


次郎兵衛は口ではそうは言えども、同じく動揺していた。お清は恨みを晴らすまで次郎兵衛から離れないと言っていた。次はいったいどんなことをされるのか怖くてたまらない。次郎吉の生命を奪わなかったのは奇跡と言ってもいいだろう。



 それから幾晩もお清は夢枕に立った。


「……なんでもするから、もうやめてくれ!」


『ジロさん、嘘はいけないよ。フフ……なんでもなんて、お前さんにはできやしないよ。自分の身可愛さに全部投げ出して逃げるよ。そんな男だよ』


「本当だ……なんでもする」


 お清は笑いながら次郎兵衛を嘲った。実際次郎兵衛はなんでもできたのかもしれない。自分のためにお清を殺めたわけであるから、少なくとも人を殺めるくらいのことはできてしまうわけである。


『じゃあ、可愛い息子をその手で殺せるかい……?』


そんな次郎兵衛の心を読んでか、お清はこう問いかけた。これには詰まった。切れ長の瞳が次郎兵衛の心を貫く。


「それは……」


『ハハ、やっぱり無理だろう。ジロさんは嘘が上手いからねえ。アタシゃもう騙されないよ』


お清は得意げに高笑いした。


『あんたから離れないよ、ジロさん』


崩れた顔が近づいて、お清の氷のように冷たい手が次郎兵衛の手に触れた。


「ヒィッ! よっ、寄るなァッ!」


払いのけようとしても身体は動かない。結局いつも、お清の高笑いと共に次郎兵衛は気を失っていくのだった。



    ✴    ✴    ✴



 だんだん次郎兵衛はおかしくなってきた。毎夜毎夜お清は次郎吉を殺せるかと聞いてくる。ついには昼間にもお清の声が耳元で低く聞こえるようになってきた。息遣いまではっきりと聞こえる。次郎吉を殺すか、自分が死ぬかしなければこの日々は永遠に続く。寺にお祓いに行っても効果はなかった。


「ととさま、だっこ」


 次郎吉は顔中に酷く痘痕が残ったが、一命をとりとめた。無邪気に駆け回り、抱っこをせがんだ。


「おお、よしよし」


 笑いながら抱き上げる次郎兵衛だが、心の底はいつも冷えていた。このまま一緒に川に飛び込んでしまおうか。そのくらい追い詰められていた。



 ある晩次郎兵衛はお里に言った。


「お里、次郎吉は立派な若者になるだろうな」


「なんですか藪から棒に」


「次郎吉を頼む」


「嫌だよう、お前さん。これから死んじまいそうな顔して」


 お里は縫い物の手を止めて真剣な眼差しの次郎兵衛を心配そうに見つめた。江戸から帰ってから、旦那の顔色が良くないことは察していた。が、なにがあったのか聞いてはいけないような気がしたので黙っていた。


「……お前さん、なにか大変なことがあったんじゃないだろうね」


「……うむ、大丈夫だ」


 次郎兵衛は煙にまいた。それきり、次郎兵衛は口を噤んで、そのまま寝てしまった。



 翌朝、お里が起きると深刻そうな顔の使用人が部屋に飛び込んできた。


「奥様、旦那様が……!」


 身支度もそこそこに蔵へ案内されると、お里は悲鳴を上げた。次郎兵衛が蔵で首を吊って死んでいたのだ。下男が遺書と思しき手紙をお里に手渡した。そこには、お清のことが書かれていた。自分の旦那がそんな男だと思っていなかったお里は、驚いて我が目を疑った。旦那に要因があるとはいえ、女の因縁で旦那は狂い死に、息子が痘痕面にされたのかと思うと、胸中は複雑であった。手紙をくしゃりと丸めて、次郎兵衛の亡骸に縋りついて泣いた。


「この馬鹿野郎、どうすんだいこれから!」


お里の泣き声が蔵中に響いて、使用人たちは悲しみに暮れた。幼い次郎吉はととさまが急にいなくなったことに困惑し、しばらく泣いていた。お清が高笑うかのごとく、烏が一声鳴いた。


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