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第三木曜日。
今日はチエが月に一度、カルチャーセンターへ行く日だ。
チエは「エッセイを書こう」という講座を受講している。
普通ならわくわく、どきどきして楽しい気分なのだが、今日のチエは電車に乗っていても行きたくないなあという気分だ。
(また、今回も送らへんかった)
チエは目を閉じて腕を組んだ。
講習を受ける三日前までに自分で書いたエッセイを、カルチャーセンターへ送ることになっている。
その作品を講習を受ける人数分コピーして、先生の批評をみんなできく、という仕組みになっている。
絶対に書いて送らなければならないというわけではない。人の作品の話しを聞くだけでもいい。そういう人も何人かいる。
だけど、やっぱり自分の書いたものの批評が聞きたいとチエは思う。
(先生はいつも、私の書いたものをほめてくれるし、それが自信にもなるんやけどなあ)
二回も続けて送らなかった。そんなのは初めてだ。
なんでこんなに書けないんだろう。書きたいことも思いつかない。何でもいいはずなのに、言葉が出てこない。最初の一行すら。小説だって・・・。
もう、一生書けないのかもしれないと思うと、余計に焦って、どうしょう、どうしょうとパニックになってしまう。
あ~あ、いややなあ。
電車が降りる駅に近づくほど、引き返したくなってくる。
でも、もうここまで来たんだし。
向こうへ行って、いつもの顔ぶれに会えたら、楽しくなるはず。
(内藤さんにも会えるんやし)
祇園四条~。車内にアナウンスが流れた。チエは席を立った。
教室へ行くと、三人の人たちが席に座っていた。
「こんにちは」とチエが言うと、声を合わせて三人が返事をした。
コピーされた用紙を取り、代金を箱に入れる。
チエはコートを脱いで、いつもの席に座った。暖房が心地よい。
鞄から筆箱を取り出していると、何人かが一緒に部屋に入ってきた。
「こんにちは」お互いに挨拶を交わす。
その中に内藤さんがいた。
内藤さんはチエに手を振り、急いでチエの隣りの席にやってきて、荷物を置いた。
「元気やった?」
内藤さんはチエににっこりと笑いかけた。チエも笑ってうなずく。
内藤さんは財布を持って、コピーを取りに行った。
内藤さんはチエよりも、少し早くからこの講座を受講している。チエがわからのことを色々と教えてくれた。年も同じで、主婦をしているという環境も似ていて、話しも合い、すぐに仲良くなった。
「ふう~、あったかいな。天国やわ」
席に戻ってきた内藤さんは、座りながら笑った。
「そやろ~」
チエも笑う。
「出した?」
コピーを少し持ち上げて内藤さんが言う。
チエが首を横にふると、
「そっか~、チエさんのエッセイおもしろいから、読みたかったのになあ」
他の人が言えば、ちょっと嫌味に聞こえそうだが、内藤さんが言うとそうは聞こえない。
「内藤さんは?」
チエがきいた。
「一応出したけど、なんか上手く書けへんかったわ。ぎりぎりまで書かへんかったし、やっぱり慌てて書いたらあかんなあ」
ふふふと笑いながら、内藤さんはノートと筆箱を鞄から取り出した。
「ちゃんと出してんねんし、えらいやん。私はあかんわ、ぜんぜん書けへん」
チエがまた首を振ると、
「そんな時もあるわ。私もそれに近いしな」
あははと内藤さんは笑った。
内藤さんはいつも明るい。顔つきや態度に明るさが全部出ている。それに比べて私はなんて暗いんだろうとチエは思う。特に最近、一段と暗い気がする。
内藤さんだって色々嫌なことがあるはず。笑って話していても、家では・・・。
時間になって、先生が来られた。出席を取って、講習が始まった。
二時間はあっという間。最後の方は楽しいおしゃべりになっていたけれど。
みんなと一緒に、わらわらと教室を出る。
内藤さんの隣で靴を履いていると、
「ごはん、食べに行かへん?」
と、内藤さんが誘ってくれた。
「行く、行く」
チエはもちろん二つ返事だ。
ここんとこ、毎回、講習の後、内藤さんと昼食を食べに行っている。これがなかったら、チエはもうとっくにここをやめていたかもしれない。
内藤さんは面白い人だし、自由な考えを持っているなあと、チエはちょっと、内藤さんを尊敬している。
いつも行くお店は決まっている。百貨店の三階のレストランだ。
定食を頼んで、まずはビールで乾杯する。
チエはこの時、いつも、やっぱり休まずに来てよかったと思う。
「ぷふぁ~、ああ、おいしい」
二人は同じように、グラスから口を離して言った。
「今日はちょっと少なかったなあ、出したはる人。みんな不調なんかなあ」
内藤さんが唇についた泡を指で拭きながら言った。
「寒いからかな」
「そんなん関係ある?」
「ないか」
ふふふと内藤さんが笑う。
「でも、内藤さん、娘さんと仲直り出来てよかったな」
今回の内藤さんのエッセイに高校一年生の娘さんと、けんかしたことが書いてあったのだ。
「うん、まあな。一緒に住んでるねんし、いつまでも気まずいのはいややしな。旦那とは違う。ははははは」
内藤さんはビールを一口飲んで言った。
内藤さんは今、けんかしたご主人と冷戦中で家庭内別居をしているらしい。ご主人のごはんも作らないし、もちろん一緒に食べることもない。
お互い顔を合わせないようにしていて、それが二か月以上続いているという。
「思ったより快適やねん」
先月会った時はそう言っていたけれど。
「ご主人といつまで続けんの? 冷戦」
チエもビールを一口のんで言った。
「わからへん。でも、このままでは危ないかもしれへん。離婚かも。ふふふ」
内藤さんは笑ったけど、心は穏やかではなさそうに思う。
「暴力も、ギャンブルも浮気もしいひん、おとなしい人。他人からみたらいい人なんやろな。でもな、一緒にいてもぜんぜんおもしろないねん。こっちから話しかけても、うわの空のから返事。あの人私の事ただの女中やと思ったはるねん。私のことなんてどうでもいいと思ったはるねん」
内藤さんの目が少し潤んだように見えた。
「そんなことないと思うけどな」
チエは内藤さんから目を逸らし、鞄をごそごそやりながら言った。
「そうやて。別にあの人からひどい仕打ちをされたわけでもないんやけどな。でもな、ひどい仕打ちをされた人と比べて、あの人よりまし、なんてゆうて暮らしたないねん。私は上を見て暮らしたいねん」
内藤さんが力強く言った。
「そ、そうやな。本当に、そうや」
内藤さんの言うことはもっともだと思う。けれど、私はそういう人たちよりも恵まれているんだから、と思ってしまう方なのだ、とチエは思う。
向上心のある人はいいなあ。きっと、内藤さんはいいように変わっていくんだろうなあ。
「もう一杯、飲もうかな」
空になったグラスを置いて、内藤さんが言った。
「早っ!」
チエのグラスには、まだなみなみとビールが入っている。
「すみませ~ん、おかわり」
店内に内藤さんの声が響いた。
買い物をして帰るという内藤さんと、店の前で別れてチエは百貨店を出た。
(仲直りできひんのかなあ)
チエは四条通りを歩きながら考えていた。
(別れたらきっと大変やろうなあ。ずっと専業主婦やった内藤さん。働きにいかなあかんし、高校生の娘さんはどうしはんねんやろ)
そんなことを考えながら歩いていたら、もう京阪電車の乗車入り口についた。
もうちょっと歩こうかな。チエはそのまま東に向かった。
花街、祇園の花見小路通りは、行き交う観光客でいっぱいだった。
舞妓さんが観光客と写真を撮っている。こんな早い時間に舞妓さんが舞妓の格好をして、歩いているわけないし、本物ではないな。
そんなことを思いながら、通り過ぎる。
八坂神社まで行こうかな。でも、この人混み。面倒になってきた。
チエは人混みの中、邪魔にならないように回れ右をした。