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ママ、きれいよ。
鏡の前でママは、少しはねた髪を、手の平で撫でつけながら、体をひねって後ろ姿を確かめた。
膝丈のワイン色のフレアスカートがふわりと揺れる。
いつも、ジーンズばかり履いているママが、今日は珍しくスカートなのだ。
口紅も普段つけている肌に近いピンク色ではなく、濃い紅色が艶やかに見える。
ママは正面に向き直り、腰に手を当ててちょっと首をかしげた。
決めポーズも決まったママ。
それから、小さな声でよしっと言って、バッグを手に取った。
階段を下りて玄関に行く。揃えて置いてあるショートブーツに足を入れて、履き心地を試すように三回足踏みをした。
久しぶりに履くブーツだけど、履きなれたものなので、すぐに足に馴染む。
開き戸を開けると、冷たい風がママの頬に吹き付けた。
「おお、さむ!」
ママはコートの襟を押さえつけた。
ママは颯爽と背筋を伸ばして歩いた。
あたしは置いて行かれないように慌てて、ママの後をついて行く。
京阪電車は空いていた。
暖かい車内。温かいシート。ママの眼鏡が少し曇った。
ママは鞄から文庫本を取り出し本を開く。
「電車で本を読んだら眠たなってうとうとすんねん。それが気持ちいいねん」
ママはそう言っていた。
そうだねママ、うとうとの時間だ。でも、乗り過ごさないようにね。
だけど、ママ、今日はどこへ行くの?
あたしは聞いたけど、ママはやっぱり知らん顔。いつものことだけど。
伏見稲荷駅についた。乗り降りの多い駅だ。あたしはきょろきょろと辺り見回す。ママは降りない。
東福寺駅。京都駅に行くならここで乗り換え。ママは座ったまま本のページをめくっている。
あたしはママの前に立って、ママが本を読むのをながめている。
清水五条、祇園四条・・・。
あれ、ママ今日はうとうとしない。
三条駅についた。ママは鞄に本を入れて立ち上がった。
降りる人に混じって、車外に出て改札を通る。地下から地上にでると鴨川からの冷たい風が吹き付けてくる。
ママはコートの襟をつかんで三条大橋を渡った。
賑やかに歩道を行き来する歩道を、ママはせかせか歩いて行く。
河原町通りもたくさんの人が歩いている。けれど、まだ開いていない店も多いせいか、ほとんどの人は、足を止めることなく足早に歩いている。
ママ、大丈夫?あたしは心配になる。
ママはビルの前で止まった。
[十一時より開店]
ほらね、やっぱりここもまだ開いてないんだよ。
ママは腕時計を見て小さなため息をついた。
前に来た時と同じ。あの時もそうやって小さなため息をついていた。
忘れていたの? 気の毒なママ。
ママと同じように早く来た人たちがビルが開くのを待っている。
長い黒髪のつんとすました美人のお姉さんや、大学生風の男子が二人。少し腰の曲がった、おじいさんや、サラリーマン風の若い男の人。
待っている人たちがいるってことは、もうじき開くんだね。あたしは思った。
しばらく待っていると、お店の人が中からドアを開けてくれた。
よかった、ね、ママ。
ママは急ぎ足でビルに入る。真っ直ぐ前を向いて周りのきれいなお店なんか見向きもしない。
ママ、落ち着いて。慌てないでゆっくり行こう。ほら、紅茶のお店。ママ、好きでしょう。けれど、ママはよそ見をしない。
ママはいつも外に出ると急いでいる。早く帰らなきゃって、つい思ってしまうから。それがくせになっていて、のんびりできないのだ。
エスカレーターで地下に降りる。
ママ、本屋さんだね。また、レモンが置いてあるよ。ママったら、待ってよ。ママはレモンにも目もくれない。
まずは文芸コーナーへ。平積みの本をじっくりと眺める。表紙を見るのも楽しいし、帯を読むのもお もしろいらしい。時々手に取ってちらっと読んだり。
次は料理本のコーナー。料理するのはあまり好きじゃないみたいだけど、本を見るのは好きなのね。
写真集は動物の本ばかり見ている。知ってるよ。ママはネコが好きなんだ。
文庫本はいっぱいあるね。ちょっと疲れたママ。元気がなくなってきている。
いい本が見つかった?
ママはため息をつく。
本がたくさんあり過ぎて、なんだか集中できないみたい。ほしい本が分からなくなっちゃったの、ママ?
ママは手に持っていた「誰でも賢くなれる本」という本を元にもどして首を左右に曲げて、ぽきぽきと音を鳴らした。
帯には(大好評 十万部突破)と書かれてある。
その本買わないの?
ママは辺りを見回してから、またため息をついて、上がりエスカレーターの方に向かった。