第四部
10.月と山小屋
ユーフェミアとシュミオンの前を濁流が流れている。
来るときは影も形も無かった川である。山頂で雨が強くなりいつの間にか山を降る濁流によって帰りの道が寸断されていたのだ。
シュミオンはちらりと二頭の馬を見るとすぐにこの濁流を横切ることを諦めた。自分の馬もほとんど限界まで走らせている。無理に渡ろうとすれば二頭とも流されてしまうだろう。
「心当たりがある」
そう呟くとシュミオンは馬首を返して来た道を戻る。
途中で脇に逸れ少し登ると狩猟小屋が見えて来た。小さいが石とレンガで造られた頑健なもので、隣に馬小屋も付いている。森で猟をする者が共用で管理しているものだった。
シュミオンは器用に上着のピンで鍵を開けると、ユーフェミアを小屋の中に押し込み、自分は馬の世話のために再び外に戻っていった。雨は勢いよく屋根に叩きつけまだ当分止みそうになかった。
目が慣れてくると中の様子が見えてくる。思ったよりもずっと小綺麗な小屋だった。暖炉の横には薪なども準備されている。もうすぐ春が近いから、雪解けに合わせて誰かが手入れに来ていたのかもしれない。
そのままユーフェミアが佇んでいると、すぐにシュミオンが戻って来た。彼は大きくため息をついて息を整えると、ユーフェミアの腕を掴んで自分の方を向かせる。
「馬鹿野郎!! 分かっていてやったな、ミア!!!」
シュミオンは外見からは想像もできない剣幕でユーフェミアを怒鳴りつけた。
驚いたユーフェミアが目を瞬かせる。
「あんな危険なこと、二度とするな!!」
「だが、あのままでは街に……」
「それでも自分を犠牲にするようなことじゃない! いいから、分かったと言うんだ!!」
シュミオンが肩を掴んであまりにも強く揺さぶるので、ユーフェミアはしぶしぶ分かったと返事をした。
彼は怒鳴ると少し気が済んだのか、黙々と暖炉に火を起しはじめた。扉の鍵を開けた手際といい、シュミオンという男はかなり器用な質らしい。それが済むと雨水を汲んできて鍋を火にかけ、奥から着替えやタオルや毛布を探してくると乾いたシャツをユーフェミアに投げた。
「着替えは一人分しかなかった。上は君、下は俺だ」
ユーフェミアは渡されたシャツを広げてみる。男物だが十分に着れそうだ。
「ありがとう……」
「ほら、マントを脱ぐのを手伝うからこっちへ。あとは自分でできるな? 俺は台所を見て来るから」
紳士なシュミオンはそう言い残して奥へゆく。
その間にユーフェミアは濡れた衣服を脱いで、暖炉の近くに引き寄せた椅子にかけた。シャツもズボンも中まで濡れている。
少々悩んだ結果、ユーフェミアは下着一枚を残してばさりと全脱ぎ捨てた。素肌に乾いた男物のシャツを羽織ると、さらりとした感触にようやくほっとした息がこぼれる。
暖炉の明かりに照らされた自分の姿を見下ろす。淑女としてはあり得ない姿だろう。パーシバルがいたら山のような小言を言うに違いない。
シャツは大きいとはいえ他には薄い下着一枚しか身につけていない。襟元は大きく開き胸元が覗いているし、裾からは白い足が付け根近くまで見えていた。それでもこんな嵐の夜に、雨風が凌げる山小屋で乾いたシャツを羽織れるだけでもとても贅沢なことだ。シュミオンがおこしてくれた暖炉の火もあるから寒くもない。
ユーフェミアは袖をまくってタオルを手に取ると、暖炉の近くに毛布を敷いて座り込み髪を拭いはじめた。
戻って来たシュミオンも濡れた服は全て脱ぎ捨てて、ズボン一枚の姿になっていた。肩に掛けたタオルに濡れた髪から雫が滴り落ちている。無造作に手櫛で前髪を搔き上げると秀でた額が明らかになり、夜会で装ったシュミオンの姿を忍ばせた。露わになった彼の上半身はユーフェミアの予想通り素晴らしい筋肉で覆われている。
暖炉の前に座り込んだユーフェミアを見つけると、彼はその場で動かなくなった。振り返ったユーフェミアが声をかける。
「シオン、そこでは寒いだろう?」
シュミオンは無言でユーフェミアに近づくと近くに膝を突き、そのまま後ろから彼女を抱きしめた。少しも寒くはないようだ。その証拠に彼の体は燃えるように熱い。
「……そんな姿の君を前にして、正気を保てるわけがない」
彼はユーフェミアの耳元で吐息のように囁いた。その吐息も凍えていたユーフェミアの耳を焼くように熱かった。
「シオン、私に怒っていたのではなかったのか?」
「怒っていたが……忘れた。ミア、君が生きていて本当によかった……」
「心配させてすまない」
「……ミア、君は罪人か? これは死に場所を探す旅なのか? さっきの野盗狩りといい今のことといい、どうして君は無茶ばかりするんだ……」
そうなのだ。シュミオンの言う通り、野盗も別に自分で直接駆けつけて始末する必要など無かった。ふらりと衛兵の詰所にでも寄って、一言声をかければ済むことだったのである。ゴースト・ハウンドの討伐も途中でシュミオンが提案したように一度撤退し、体制を整えて改めて取り組めばいいことだった。
ユーフェミアは雨に濡れて冷たくなった自分の手を見ると小さく笑った。
「別に、死に場所を探している訳じゃない。少々時間がかかっているが、ちゃんと目的地には向かっている。……ただ時折、辿り着かなければいいのにと思う日があるだけだ」
シュミオンは腕に込める力を強める。
「何があったか、聞いても教えてくれないんだろう」
「聞かぬ方がいい」
「すぐにこの街を発つのか?」
「そのつもりだったが、野盗の始末でもう数日は引き止められるだろうな……」
ユーフェミアは暖炉で燃え盛る火を見つめたまま答えた。
「駄目だ……」
シュミオンが苦しげに呟く。彼の瞳はシャツの裾から溢れる、ユーフェミアの若馬のようにしなやかな足に釘付けになってた。心の臓の鼓動がそれに呼応するように早まっている。
副官のアランが言うことには、戦いの後の男は誰でもしばらくはこんな感じになるらしい。興奮した血は直ぐには収まらず、捌け口を求めて身体中を駆け巡って男たちを翻弄する。だから戦いの後は、アランはいつもユーフェミアの振る舞いに口うるさく、警護に神経を尖らせていた。
「このままだと、俺は君が嫌がっても……」
「……別に、嫌がってはいないさ」
驚いたシュミオンがユーフェミアの顔を覗き込むと、暖炉の焔に照らされた美しい菫色の瞳がゆらゆらと揺めき笑っていた。
「別に、嫌がってはいない」
ユーフェミアはもう一度、今度はもう少しゆっくりと言った。
背中でシュミオンが唾を飲み込むのが分かる。
「シュミオン、其方が何も聞かないと約束してくれるなら。そして、優しくすると誓ってくれるならば──」
言いかけた唇を、ユーフェミアはシュミオンの熱い唇に塞がれていた。気付くとユーフェミアは熱く力強い腕に抱かれたまま、毛布の上に押し倒されていた。
11. 露と朝焼
翌朝、二人はまだ朝焼けの森を抜けて街へ戻った。
詰所に着くと、出発する前よりも疲れた顔をしたガイが二人の姿を見て盛大な安堵の息をつく。昨夜二人が戻ってこなかったため、その後大変な騒動になったらしい。夜明けになっても戻らないので捜索隊を出そうとしていたところだという。
シュミオンはゴースト・ハウンド二頭を駆除したこと、昨夜は濁流で道が失われて戻れなかった事を簡潔に報告すると、すぐにユーフェミアの元に戻って来た。
「家に戻る、君も行こう」
ユーフェミアは頷くと素直に彼に従う。
本当はここで別れるべきだと分かっていたが、今から一人で宿を探すような気分にはとてもなれなかったのである。
家、とシュミオンはさらりと言ったが、辿り着いたのはどう見ても屋敷だった。それもこの街で一番大きくて立派な屋敷である。彼が家といってユーフェミアを連れて来たのは、この街を治めるブランティス辺境伯の屋敷だった。
案の定、昨晩シュミオンがゴースト・ハウンドの討伐から戻って来なかったことで、屋敷は大変な騒ぎになっていた。
シュミオンが姿を現すと、すぐに当主、つまりブランティス辺境伯がやってきて彼に小言を言いはじめた。
辺境伯は三十四、五のまだ若々しい男性で、濃い茶色の髪に茶色の瞳と色合いは違うものの、端々にシュミオンと共通するところがある。シュミオンよりももっと親しみやすい雰囲気のなかなかの美男子だった。
「シオン、君はどうしていつも僕に心配ばかりさせるんだ」
辺境伯は散々に文句を言った後に、最後はシュミオンを正面から抱きしめた。ユーフェミアはそれを見て眩しいもののように目を細めると、シュミオンは家族にとても愛されているのだと思った。
「叔父上、ご心配おかけして申し訳ございませんでした。ほら、この通り無事ですから」
シュミオンは大袈裟に両手を広げて見せると、先程詰所で言ったのとほとんど同じ内容を説明する。
「まったく、いい加減落ち着いてくれ。もし君に何かあったら僕が姉上にどんな目に遭わされると思っているんだ。それで、こちらは?」
辺境伯を前にしてはさすがに素顔を隠し通すのは難しい。ユーフェミアがフードを外そうとすると、しかしシュミオンがそれを押し留めた。
「昨夜の討伐に協力してくれた者です。が、雨に打たれて身支度ができておりませんので、後ほど改めてご挨拶に伺いますから。では叔父上少々疲れていますのでこれで、また後ほど」
一方的に言い切ると、シュミオンはユーフェミアの背中を押してその場を後にした。仕方なくユーフェミアは簡単に名だけ名乗ってその場を後にする。
彼がそのままずんずん屋敷の奥に進んで行くのを、途中でユーフェミアが引き止めた。
「シオン、やはり私は別の──」
「ミア、君はここにいた方がいい。ここならば衛兵も取り調べで無茶なことはできない。それに……」
シュミオンはユーフェミアを引き寄せると回廊の柱の影に引き込んで、啄むような口付けをして彼女の肩に顔を埋めた。
「それに、俺が側にいて欲しいんだ……」
「シオン、だが……」
ユーフェミアは凪いだ菫色の目でシュミオンを優しく見つめる。
「分かってる。分かってるよ、ミア。これがどんなに不毛なことか、俺が一番よく分かってる。俺はもうすぐ見たこともない相手と結婚しなければならないし、君も旅に戻らなきゃいけない。全く成就する見込みのない実に不毛な関係だ」
「なら、なぜ……」
「でも、君を思う気持ちは止められない。もし君が嫌でなければ、もう少しだけ俺と茶番を続けてくれないか? いいんだ、茶番でも。それでもきっと素晴らしい思い出になる。君にとっても素晴らしい思い出になるように努力するから、だから俺と……。ああ、こんなの俺の我儘だな……」
「シオン」
ユーフェミアは彼の頬を両手で挟み込むと、自分と目を合わせるように起こした。シュミオンの瞳は自分でもどうしようも無い感情の嵐に翻弄されて、昨日ゴースト・ハウンドを非情に切り捨てた男と同一人物とは思えないほど頼りなげだった。
ユーフェミアは微笑んだ。今までで一番優しい微笑みにシュミオンが釘付けになる。花に例えるのなど陳腐で耐えられないほどユーフェミアは美しかった。
「シオン、昨日私が言ったことを覚えているか? 私は別に嫌じゃないんだ。……ただ其方が何も聞かないと約束して、優しくすると誓うなら……その茶番とやらに付き合うよ」
「いいのか、ミア……、本当に……本当にどうしようも無い結末になるって分かっている関係だ……」
「結末の分かっている方が楽しめることもある。其方の言う通り、きっと慰めになるいい思い出が作れる。私が素晴らしい思い出を作れるように努力してくれるのだろう?」
そう言うと、今度はユーフェミアがシュミオンに優しく口付けた。
12.星と太陽
翌日から、ユーフェミアに対しシュミオンは絵に描いたような恋人役を務めはじめた。
彼のような男は努力などせずとも女の方が寄ってくる。だからその熱心さと変貌ぶりに周囲の方が驚いた。
シュミオンにユーフェミアを紹介され彼の振る舞いを見たブランティス辺境伯は、また彼の気紛れがはじまったと呆れたが、衛兵の捜査が一段落するまでは彼女が屋敷に滞在することを許可してくれた。
シュミオンはというと、山小屋で一晩を共に過ごした夜以来、ユーフェミアに対し抱きしめて口付けする以上のことは決してしようとはしなかった。その代わり彼女をさも大切な恋人のように扱って、あの手この手で口説いてくる。
それも、まるで恋を知らない少女が夢見るような愛らしくロマンチックなものばかりなので、ユーフェミアはしばしば笑いを噛み殺しながらも、それでも彼女もまた彼との一時の恋の時間を心から楽しんだ。
ゴースト・ハウンドを討伐して屋敷に戻った日の夜は、彼に誘われて夜景が美しいという高台に行った。まるで地上に星を散りばめたように輝く家々の暖かい明かりを、シュミオンのマントの下で抱き合ってただ静かに眺めていた。
翌朝、目が覚めると、シュミオンがまだ朝露の瑞々しい花束を持ってユーフェミアの部屋にやってきた。天気がいいから馬で遠乗りしようと誘う。彼は厨房のコックが用意してくれた可愛らしい昼食の詰め込まれた籠を用意していて、彼が最も好きだという丘陵にユーフェミアを連れて行った。
確かにそこには、ただ若草の萌えるような緩やかな丘がどこまでも連なったとても静かな場所だった。柔らかい風に吹かれながら高い空の向こうを見上げると、白い雲がゆっくりと移動していく他は鳥しかいない。彼のいうとおり、世界にはまるで自分とシュミオンのたった二人しか居ないように思える素敵な場所だった。
二人は木陰に広げた敷布の上に寝そべって、日がな一日をのんびりと過ごした。彼は時々、思い出したようにユーフェミアの唇を啄むように食むと、空よりも青い瞳を細めて満足そうに微笑んだ。
翌日は街で春を祝う祭りがあって、ごった返す人々に圧倒されながら二人は様々な屋台を見て回り、ユーフェミアの初めての買い食いは何がいいかと真剣に悩んだ。
結局、フルーツにチョコレートをかけた菓子を買って齧りながら夕暮れまで街を探検すると、最後は川辺で寄り添って花火を見た。それは数発の小さな火花が上がるだけのとてもささやかなものだったが、これまでどの舞踏会やパレードでユーフェミアが見た花火よりも素敵に思えた。
相変わらずシュミオンは思い出したようにユーフェミアに口付ける。花火が上がると口付ける彼の彫像のように整った顔が映し出し出されて、ユーフェミアの目を楽しませた。
そうやって二人は、衛兵の捜査が一段落するまでのほんの数日を、本当の恋人よりも恋人らしく振る舞って過ごした。




