~旅の始まり~
全身を巡る五感が唐突に世界を告げてきた。
瞼に覆い被さる優しい光。
鼻をくすぐる濃い緑の香り。
頬を撫でるそよぎ風。
肌に伝わる堅い地面の感触。
一体、僕はいつからここにいたのだろうか。分からない。
一瞬にも満たないわずかな時間、僕の心はそんな疑問に囚われたけれども、すぐにそんなことはどうにでもよくなってしまった。
どうしてそう思ったのかは僕にも分からないけど、なんだかまるで全てが許されるような気がして、僕は覚醒し始めた意識を再度この穏やかな空間に委ねるようにそっと手放そうとしたが、それは不意に妨害された。
「……の!……わよ!」
誰かの声だ。
耳に響く美しい音。ぼやけた意識の中では相手が何を言っているのか聞き取れなかったが、はっきりとした口調の凛とした高い声に覚醒した僕は、目を開き、そして言葉を失った。
「やっと気が付いたわね。いい、動いたら撃つわよ?」
鬱蒼と茂った森の中に降り注ぐ柔らかな木漏れ日、その中に少女は立っていた。
その手には鈍い光を放つ不思議な道具が握り込まれ、円形の筒がこちらへ向けられている。
「私の質問に答えなさい、さもないと……撃つわ」
僕には彼女の手の中にある"それ"が何か分からなかったが、いわゆる武器に該当する何かなのだということ直感的に理解出来た。
「聞いているのっ!!」
傍目に見ても分かるほどはっきりと"それ"を握る彼女の手に力が籠った。合間をおかずして、"それ"から飛び出した物体が僕の右耳を掠めるようにして、背もたれとなっていた岩を穿ち、鋭い破砕音が鳴り響いた。
飛び散った破片が浅い傷跡を作り、鮮血が少しずつ頬を伝う。
ここで僕は初めて、目の前の少女が怯えているのだということに気が付いた。
いや、そんな単純な感情ではなかった。
「次は、当てるわ」
声の端々には微かな震えが混じり、構えた両腕は揺れている。
怯え、怒り、迷い、焦り。何がそうさせているのか皆目見当もつかないが、彼女の胸中には複雑な感情が混じり合っているのだろう、と容易に想像できた。
自然と僕はゆっくりと両手を上へ掲げ、反抗する意思がないことを示すと目の前の少女は、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻したように見えた。
「あなたは……何者?」
「僕は、」
少女の問いに、僕は答えられなかった。
分からない。
僕が誰なのか自分でも分からなかった。
今まで何をしてきたのか。
なぜここにいるのか。
出自、家族構成、趣味、年齢、名前、何も思い出そうとしても望んだ答えが浮かび上がらず、僕の口は陸地に打ち上げられた魚みたいにあえぐだけだった。
どうして。どうしてここが森であることも、魚という生物の姿形や名称も知っているというのに、自分のことは何一つとして分からないのか。
自身の中で生まれた違和感は徐々に不快感へと変わり、不安と焦燥を生み出す。
「あなたは、私の敵……?」
もはや、少女の動向に意識を割けるほど僕に余裕はなかった。
自分が自分だという拠り所が見つからなくなっただけで、あれほど心地良かった全身を巡る生の感覚が、まるで偽物かのように感じられ、気分が悪くなる。本当に僕はここにいるのだろうか。
少女が再びその手に力を込めれば、今度こそ僕の頭は耳元にある岩のように粉砕し、命を失うかもしれない。でも、僕はそれよりもこの奇妙な感覚の方がずっと怖かった。
「……すまない」
陳腐な謝罪を告げる言葉が、僕の口からこぼれた。
彼女の求める答えは、僕の中に存在していなかった。
「教えてくれないか。僕は一体、何者なんだ?」
「ふざけないで!あなた、私を馬鹿にしているのっ!?」
俯く僕の頬に衝撃が走り、思わず上体が地べたに倒れた。脳が揺れる不快な感覚の中、視界に映し出された光景から、激昂した少女に蹴り上げられたのだと分かった。
「やっぱりあなたたちは最悪よ!そうやって私を惑わそうとするのね」
「何の、話だ」
僕の言葉に少女が耳を傾けることはない。
ぎりり、と怒りに歯をきしませた後に、再び右手に構えた武器を構えた。
「取り合えうとするだけ無駄だったわ。さよなら、誰かも知らぬ人」
僕を死へ誘う暴力の引き金に、静かに力が込められていく。
この一瞬とも永遠とも錯覚しそうな時間の中、僕の支配していたのは不思議な感覚だった。この苦悩とも呼べる感覚を抱いたまま死ぬのは嫌だ、という生への執着と、答えへ辿り着くかも分からぬ苦悩から解放される死への渇望がせめぎ合う。
誰かも知らぬ少女に、その採択がなされるというのであればそれも運命かもしれない。
成すがまま、死を受け入れよう。
しかし、僕の予想は裏切られることとなった。
不意に少女へ影が差した。なぜそうしたのか僕にも分からなかったが、それが何か確認する前に僕は地面に転がった我が身を素早く起こし、少女の手を力任せに思い切り引っ張った。
少女は咄嗟に僕を仕留めようとしたが、放たれた物体はあらぬ方向へ飛び、僕は難を逃れる。
少女の体がこちら側に来たのと同時に、彼女がいた位置へと巨大な漆黒が上空から落ちてきた。
月明りも届かぬ夜の闇を凝縮して固めた、そんな濃密な漆黒を纏ったそれは鳥のような形をしているが、まるで影が立っているかのように立体感がない。
ぬるりと影が動く。
もはやそいつの体がどちらを向いているのか判別出来なかったが、僕の本能がそいつがこちらを向いていることを告げていた。
「……ウィズバ」
僕の傍でいつの間にかへたり込んでいた少女が顔面を蒼白にしたまま呟いた。
呼応するように、ウィズバと呼ばれた化物が地響きのような低い唸り声のような音を発する。
傍目に見てもはっきりと見て分かるほどに腕を振るわせながら、少女は先ほどまで僕に向けていた武器をウィズバに向けると、迷わず撃ち放った。狙いは逸れたのだと思われるが、僕の身の丈数倍にもなる巨躯を誇るウィズバ目掛けて真っすぐに飛ぶ。
岩をも削り貫く破壊力を持ったそれはウィズバの胴体を貫くと思われた。
だが、ウィズバと衝突したそれはあたかも存在しなかったかのように、ウィズバの体に飲み込まれた後に姿を消した。
死ぬ。
味気のない二文字が脳裏をよぎった。
逃げられるとは思っていなかった。それでも、今の光景を目の前にして、逃げる以外の選択肢が存在しなかったのもまた事実だった。
思ったよりも華奢な少女の胴体を抱え、僕は即座に後ろの茂みへ飛び込む。
茂みの中へ投げ出した二人分の身体は木々の枝によるわずかな抵抗の後、地面に叩き付けられる。こともなく、少しばかりの浮遊感を残して二人を虚空の空間へ誘った。
時間にしておよそ一呼吸の間を空けて、二人は暗闇の空間に激しく体を打ち付けることとなった。上を見上げれば微かな光が視界の端へ流れ込む。周囲は完全な闇に包まれていたが、自然が作り上げた天然の洞窟に落ちたのだと悟るのに、そう時間はかからなかった。