ムソウの日常
ムソウはこの町を遠回りしながら帰る。
誰かが困ってはいないか。自分に出来る事はないか。そんな偉そうな事を言葉にすれば偽善だが、彼は自然とそれをやっていた。
もちろんその事を指摘すれば、彼はとてもイヤそうな顔をしながら否定するだろう。そういう奴なのだ。
遠回りの帰り道で、静かな町並みで、彼は色んな物を目にする。帰り道をはしゃぐ小学生達。商店街の揚げ物の匂い。年寄り達の談笑。突如見える歴史ある神社。新しく立ったビル。隣りに立つ古びた民家。看板。電柱。
いつも通りの日常。穏やかな景色。彼は武術ほどではないにしても、やはりこの町が好きなのだった。
当然そんな事を指摘すれば、彼は心底イヤそうな顔をしながら否定するだろう。そういう奴なのだ。
遠回りの帰路を経てムソウが家に着くと、玄関先には見慣れた少女が腕組みをしたまま仁王立ちで待っていた。人並みよりも小柄だが、組まれた腕は筋肉質で、後ろで結われた髪が少女の活発さを感じさせる。
そして顔に乗った太い眉はつり上がっており、握られたスマホには壊れるんじゃないかと言う程の力が入っている。右足をトントンと小刻みに動かし、誰がどう見てもイライラしていた。
想像するに、きっとあのケンカを誰かが見ていて、その事をこの少女に連絡を入れたのだろう。そしてその事でこの少女は激高している、と。
うわぁ……入りたくないなぁ……
とムソウがためらっていると、少女は俺に気付いたようで、駆け寄ってきて罵声を浴びせかける。
「ちょっと、ムソウ! あんたまたケンカしたってホント!?」
頭に響く声。聞き慣れているとはいえ、やはり苦手だ。
「玖美、お前にいちいち言う事じゃないだろう」
その玖美と呼ばれた少女は、ムソウの言葉にいよいよほおを膨らませる。
「あー! そういう言い方、むかつくなぁ! ボクはムソウを心配して言ってるんだよ!」
「俺がこの辺の奴らなんかに負けるわけないだろう」
「そりゃそうだけどさぁ……怪我とかしたら大変じゃん!」
「しない」
「するかも!」
「し・な・い」
「むぅ……お父さんに叱ってもらうぅ」
ムソウは大きく溜息を吐く。玖美の父というのは、ムソウの武術の師匠であり、恩人だ。この人だけは色んな意味で、どうにも敵わない。玖美にこの切り札を出されると、ムソウは黙るしかなくなってしまうのだ。
「分かった分かった。俺が悪かった」
「分かればよろしい!」
パッと切り替わって、満面の笑みで頷く。いつものやり取りだ。ムソウが折れる事もこのやり取りには織り込み済みなのだ。
この北山玖美という少女は、ムソウの同級生にして幼馴染みである。隣の家に住んでいる縁もあり、昔から何かと世話を焼いてくる。少しでも遅く起きれば叩き起こしに来るし、学校をサボると今回のように俺の家の玄関で仁王立ちである。まるで母親である。それも、割と過保護な方の。
この事について、ムソウが怒りつけて止めさせる事も不可能ではないだろうが、幾つかの理由でそれはやらないでいる。
ムソウには両親がいない。記憶の最初の頃にはいなかったので、悲しいだとか何だとか、感じたことはないが、親族もいない子供が一人で生きていくというのは非現実的であった。そこで隣に住んでいたという玖美の父、師匠に引き取ってもらっていた時期があるのだ。
小学生の頃までは玖美と一緒に暮らしていたが、中学生に上がる頃に別に住まわせてもらうことにした。家族でもない自分がいつまでも同じ場所に住んでいる訳にはいかないとの配慮からであった。
その為、師匠には頭が上がらないのだ。加えて武術を幼少の頃からみっちりと仕込んでくれたのも師匠。その後ろを付いて歩きながら、何かと俺の世話を焼いてきたのが玖美なのだ。
そんな事情なので、それまで家族同然で暮らしていた玖美は、例え敷地が別々になったとしても何の遠慮もなく俺の家に入ってくるし、飯を作ってくるし、何かと世話を焼いてくるのだ。ちなみに合い鍵は既に作られているので、俺にプライバシーは無い。
恩の為に断れず、現実的に断る事も出来ない。いつだったか、玖美とケンカをして泣かせた事もあるのだが、師匠からこっぴどく叱られたトラウマがある事も追加しておこう。
今更どうこう変えられる訳でもなし、止めようとする努力が結果に見合うとも思えないので、このまま放って置いてるのが現在に至るまでの状況である。
「そうそう、今日は父さん、早く帰ってくるって言ってたよ」
その言葉をうけて、ムソウの目に俄に光が取り戻る。
「なるほど。早く準備しなくちゃな。とりあえず着替えるから早く帰ってくれ」
「ちょっと! 現金なんだからー」
いそいそと早足になって家に入っていくムソウに、ぱたぱたと小走りで追いかけてくる玖美。いや、入ってくる必要はないだろう。
師匠が早く帰ってくると言う事は、稽古を受けられると言う事である。ムソウにとって、ムソウより強い師匠と手合わせする事は数少ない楽しみなのだ。思わず早足にもなろうというもの。そう、仕方のない事なのだ。
ムソウが自室まで戻り、制服から稽古着に着替えようとする。玖美も同じ部屋に入り、座り込む。
「入ってくるなよ。着替えるんだから」
「ダメよ。着替えたらすぐ洗濯したいんだから」
「それぐらい自分でやる。というか、いつもやってる。やるな」
「やるったらやるわよ。いつまでだってあんたのパンツだって洗ってあげるわよ」
「やめてください、お願いします」
大体いつもこんな感じである。この玖美の世話焼きぶりは、もういい加減改めた方が良いと思うのだが……
と、玖美はふと思い立ったように話し始めた。
「そう言えばムソウ。最近この辺で変な噂を聞くから、本当に気を付けてね?」
「変な噂?」
「そ。クラスの友達も皆言ってたでしょ?」
「……」
「……あっ」
玖美はムソウが言わんとすることを察したらしく、気まずそうな顔を浮かべる。
思い返せば玖美は、少なくとも自分が教室にいる間、ムソウが誰かと話している所を見た事がなかった。彼がケンカに強い事も知れ渡っていたので、ケンカを売る輩もいないが、この無愛想な男に話しかける友達もいないのだ。
ムソウからすれば、別に友達が欲しいと思ったことはないし、あちらから寄ってくることがない以上、自分からどうこうする事はないのだが。教室の中で会話などした事がなかったし、それで今まで支障がなかった。
とはいえ、玖美は勝手にムソウに気を遣い、目を泳がせながら、言葉を慎重に選びながら話を続けた。
「え、えぇと、うんとね?
ごほん。最近この辺りで変な噂が立っているらしくてね? 何だか変な形の生き物が徘徊してるらしいの」
「……なんだそりゃ?」
ずいぶん漠然とした話である。
「し、知らないわよ! 何だか、黒いモヤのようだとも、人影のようだとも言われているわ」
「黒いモヤねぇ……妖怪変化の類か?」
この京都という町は、そういった類の多い町とされている。もちろんオカルトの世界であり、ムソウはこれまでの人生の中でそうしたものと出会った事は一度もない。
「それに出会ったとして、そんなのに対して何をどう気をつければ良いんだ?」
ムソウの当然の疑問に、玖美は誤魔化すように早口で返す。
「そ、そんなことくらい自分で考えてよね! ボクはムソウのお母さんじゃないんだから!」
逆ギレである。まあ、内容はともかく、玖美なりに心配をしてくれた上での言葉だ。わざわざ腐す事もあるまい。
「ご忠告、どうも」
ムソウ、精一杯の言葉であった。
しばしの沈黙。ムソウが口を開く。
「……とりあえず、部屋から出ていってくんないか?」
「いやよ、洗い物が」
ようやく玖美を追い出し、玖美の家に併設してある道場で師匠を待った。その間何もしないのも退屈なので、ムソウとまともにやり合える数少ない人物、玖美と手合わせをしていた。試合形式で、15勝3敗。不意打ちがなければ全勝だったのに。
結局師匠が帰ってきたのは夜遅くで、手合わせを申し込む前に稽古は終了となった。忙しいからしょうがないとはいえ、少しがっかりした。