おれは単なる村人なのに、勘違いされて魔王をやる羽目になっている
魔王城のある一室――玉座の間にて一騎当千の兵どもが、一様に平伏していた。人間がもしこの光景を見れば、たやすく世界の終わりを想像するであろう。
鬼の王、鬼神丸。神に歯向かう悪魔、デビ・クアルトゥ。吸血鬼の王、カリファ・ストラティウス。淫魔の王、ノールフィ・エレメンクルール。
特にこの四人は人間にとって最も恐るるべき存在である。各人が魔王を名乗る資格を持つほどのこの四人を従えるのはどんな豪傑か。首なしの馬に跨るデュラハンか。種族にて最強と名高い龍か。
おれは集まった魔物たちを睥睨し、板についてきたと自負する魔王感でもってして、
「よきにはからえ」
と言ったのである。
前職にして農家の次男坊。そんなおれは現在、魔王をやっています。
ことの始まりをどこに置くのかは非常に難解だが、差し当たってはまずは、優れた点といえばイタズラの域を出ない悪巧みで、それ以外はからっきしと自負するこのおれについて語るべきであろう。
おれが確か十の頃だっただろうか。その頃のおれといえば残念ながら特別な力などなく、ただ一農民として時にはずる賢く、時には愚かに、そこそこには凡庸たる生活を送っていたというわけである。
そんなある日ふと気がついた。虚飾を施せば天啓、事実を述べれば悪魔の囁き。
当時、おれは5つ上のこの村一番の女に思慕の情を抱いていた。とはいえ、村一番の器量良しが到底おれなどに気の迷いを起こすなどない。だが、当時のおれといえば、畑でデェコンの種を蒔く最中もサツメエモを収穫するときも、いかにして彼女を射止めるかということに考えを巡らせていた。しかして、子供一人で悶々と考えているなどロクな考えが浮かぶわけもなく、たどり着いた結論はといえば、今から思い起こしてもそれはそれは危険極まりない蛮行であった。
「神殿に近づいてはならない。さすれば、強大な力を手にする代わりに災厄が再び世界を覆うであろう」
おれの村に生まれたものは、両親の名前と一緒にこの言い伝えを覚えることとなる。災厄とはなにか。それはもう何千年も制約を守ってきた子孫たちに知る術はなくなっており、時折子どもたちの間で、魔王であるとか、呪いの剣だとか、あるいは邪神だとか様々な憶測が話の種になっている程度であった。
とはいえ、真実を知らずとも村人たちが神殿に辿り着くのは屈強な男たちでも容易ではないため、怖いもの見たさに好んで神殿に行こうとする者もいなかった。何千年前から続くこの言い伝えは、かくのようにして守られていた。
だが、ついに言い伝えを破ろうとした者がいた。もちろんおれである。バカが服を着て歩いているような人間たるおれは、神殿により力を得てこの村有数の――いや、世界有数の戦士となることで、器量良しと結婚できる、と考えてしまったのである。
そしてその結果を言えば、おれは強大な力を手にし、同時に災厄をこの世に解き放った。
とはいえ、神殿に辿りつくのは容易ではなかった。その目的を果たすのにおれは多くの年月を費やしたことをここに記そう。
なにせ神殿の周りは瘴気から生まれ出る醜悪にして凶悪な魔物たちが周囲を固めている。エンシェントドラゴン、エルダーリッチー、トマト剣士。どれも最上級の魔物ばかりである。当然、おれがその中にお邪魔したとしても、熟れた果実を鳥の群れに差し出すような結果になることはいくらおれでもわかった。
そこで、神殿へ直通の横穴を掘ることにした。当たり前といえばその通りなのだが、地面にうまってる場所に魔物はいない。そして幸いとでも言うべきか、おれの畑からひたすら直線に掘り進めれば神殿へたどり着く。
当時、そのアイデアの素晴らしさに自画自賛が止まらなかった。今となっては全力で、浮かれたおれに現実を見せてやりたいところである。
そういうわけで、馬鹿なおれは愚直にも毎日穴を彫り続けた。雨の日も、風の強い日も、村一番の器量良しが村長の息子と結婚した日も。そう、おれの最大の欠点は、気がついたら手段と目的が逆転してしまうこと。おれの目的はいつしか、器量よしと結婚することではなく、穴を掘り進めて神殿にたどり着くことが目的となっていたのである。
穴を掘り続けて十年の月日が経ったある日のことである。
数年前よりこの村にもついに文明開化の波が訪れ、ガッソリンという燃料を用いた機械で農作業を行うようになっていた。ガッソリンの普及によりおれの農業と穴掘りは飛躍的に発展をし、昼はコンバウィンでダーウィズの収穫、夜は削岩機を併用した穴掘りを行える様になっていた。
文明の後押しもあって、ついにある日、白い板にコツン、とスコップが当たった。確信があった。ここが目的地に違いない。
その板を一枚剥がし、モグラのように頭を出して周囲を確認する。扉一つもない真っ白な空間、その中央に握りこぶしほどの黒い球が浮かんでいた。目的地にたどり着いた興奮に侵され、おれという愚か者は警戒もなく、なんだなんだと、素手でむんずとその球に触れてしまったのである。
まずい、と気がついた時には手遅れであった。
黒い珠は黒色の霧を吹き出し、やがて一点に収束し一人の壮年の男性を作った。
青白い皮膚に、鷹のようにするどい眼光。額からは二本の円錐型の角が生えていた。黒のローブで肉体は隠れているが筋骨隆々であることは容易く想像がつく。加えてその闘気は、まごうことなき一流の戦士といえた。
男は、地中を這うような声を部屋に響かせたのである。羽虫のように殺される――おれはそう思ったのである。
「ころしてください」
「え」
穴に逃げようとしたおれは、その体を思わず止めた。
「もう死にたいんです。もうやだ、幾千年の眠りつらい。もうやだ死にたい」よくよく見れば、男は一向に体育座りから移行する気配がない。「わしが封印された空間、体育座りしないと入れなかったから、体育座りしていたんです。何千年もの間ね。しかもその空間は、本もネェ、チェスもネェ、馬車も一切走ってネェってわけで、数千年ずっと、眼球をぐーるぐる、しかできなかったんです。ははっ。そしたらね、胡座の掻き方も忘れちゃってですね、体育座りしかできないんです。ははっ、1000人を腕の一振りで殺した魔王がそんな様って普通あります? ないですよね。ははっ、もういっそこのまま塵になりたい」
不覚にも同情しそうになったが、今でこそこんなだが、すぐにでも正座くらいならできるようになるだろう。そうなってしまえば、下手をすればおれが世界を滅ぼす一端を担ってしまう。心を鬼にし、この体育座りマンこと魔王を早々に狩らなければおれの寝覚めが悪い。それに魔王を倒したと喧伝すれば、おれは多大なる報酬と栄誉を受け取れるに違いない。死を望む魔王とのうぃんうぃんである。
しかし、問題はこの魔王をどのようにして殺すのか、である。穴掘りで鍛えたとはいえ、所詮人間の腕力程度で魔王に太刀打ちなどできるのだろうか。かといって、おれが使える魔法は、モトカノ曰く「あなたのファイアボール、ふふっ、あなたの息子よりも小さい。可愛い」という評価を貰ったファイアボールのみ。余談ではあるが、おれはそのあと布団の上でヒィヒィ言わせてやったことを付け加えておく。
試しにファイアボールを背後から一つ当ててみたが、魔王にとっては蚊の羽音よりも効果が薄かったようである。
うんうんと悩んでいると、意外にも魔王から助け舟が出てきた。
「あ、わしは並の物理攻撃はするだけ無駄なうえ、完全魔法無効化を持っているのでたいていの魔法は通りません」
どうしろと。おれはこのとき人類の滅びを視た。
もうお家帰って寝よ、と思っていたところ、穴の底に掘削機用のガッソリン入一斗缶が目に入った。
ひらめいた。試す価値はある。
一斗缶の中身を魔王のてっぺんから垂らし、周りにぶちまけた。リッター250イエンのガッソリンを空っぽになったところで、親指大のファイアボールで着火した。すぐさま炎は広がり魔王を火だるまにした。
読みは正解であったようで、魔王は体育座りのまま断末魔の叫びを上げる。
「おおおぁぁぁああ……」
計算通り――とおれはほくそえんだ。いくら魔法を無効化しようとも、魔法ではないガソリン火炙りには耐性はない、という読みが当たったのである。
まさしく最高の気分であった。魔王を倒した――つまりは、英雄。そして、英雄はモテる。ついにきたぞ我が春。
おれは思わず高らかに、それこそ魔王のようにこう笑ったのである。
「ふははははははは! ついに成し遂げたぞ、わが悲願をな!」
「はじめして、魔王様」
どこからか湧いてでたのか、おれの目の前には白磁のような肌の極上の美人がいた。銀色に光るつややかな髪を金のバレッタでまとめ、すべてを見透かすような紺碧の瞳も相まって理知的。紺のブレザーとスラックスで体躯を包み、革のブーツを履いたその姿からは王国で働く政務官を思わせる。しかし、彼女を特質すべき点として、その背中にはその体ほどある翼が二対生えていた。
女は膝を落とし頭を垂れて、
「魔王軍総指揮官デビ・クアルトゥ、我が主の久方ぶりの目覚めに際し、そのお言葉を一に伺いたいと馳せ参じました」
火だるまの魔王。忠誠心の高そうな総指揮官。親指ファイアーボーラーおれ。
死んだな、これ。
最後の瞬間を幸せに死にたいと思い、デビのブレザー越しのおっぱいを見ていると、
「無礼者」とデビは憎しみの籠もった目でこちらを見た。「疾く逝け」
デビは腰にまいたホルダーから、一丁の拳銃を取り出しリボルバーを引いて、躊躇うことなく弾丸を放った。
走馬灯。
おれは今から死ぬんだ、と思った。
村の器量よしさんのおっぱい。デビのおっぱい。モトカノのおっぱい。すまない、モトカノ。お前と世界一豪華な城に住む夢は叶えられそうにない。
目をつぶり、いっぱいの妄想おっぱいに包まれながらその時をおれは待った。
しかし、苦悶の声を漏らしたのは、隣の燃え続ける魔王であった。デビの放った弾丸は、燃え盛る魔王の体に風穴を開け、とどめを刺した。
「どう、して……」
そのように問いかける魔王に、デビは答えた。
「確かに魔王様を復活させた功績は認めてあげましょう。しかし、然るに魔王様の一撃を頂いておきながら、一刻も早く燃え尽きず無様をさらすとは、誠に笑止千万。そのうえ、なんですか、このガッソリンのような異臭は。少しは体臭にも気を配ってはいかがですか」
……ん?
はてと首をかしげてからおっぱいを凝視するおれに、デビは頬を赤らめて胸を両腕で抱いた、
「さすがは魔王様、目覚めてなお子孫繁栄を考えるとは、感服いたしました」
いやんいやんと首を振るデビに困惑しおれはヘルプを火達磨こと魔王に求めたが、もうすでに事切れてしまったのであろうか、炎は鎮火しすでに跡形もなく消え去っていた。
二人きりになった部屋の中で、おれは恐る恐る口を開いた。
「ちょっと聞きたいんだが、お前が倒したやつは、どこの誰だか知っているのか?」
「何をおっしゃるのです、魔王様。あの者はあなたの封印を解いたとはいえ、不敬にもあなたのヘルファイアを食らって生きていたのです。それに、どのみち人間など生かす意味などない」とデビは困惑したふうに眉根を上げた。「それにしても魔王様。あのような頑愚を最上級火炎魔法ヘルファイアを用いて一撃で屠せぬなど、力を取り戻せてはいないのですか?」
おれは事態を理解しつつあった。この女、どうやらおれのことを魔王だと勘違いしている。
誤解を解くか? いや、この状況、もし人間などとバレたらおれはどうなる。
簡単だ。本当の魔王のように八つ裂きにされてしまう。そんなのはゴメンだ。
「確かにおれは長い眠りのせいか、どうやら大部分の力を失っているらしい」
「それはまずい、ですね」
「どうして」
「魔王様の武力に惹かれ魔王軍に入ったものも少なくはないのです。弱体化が露見してしまうと、あなたに反旗を翻すものも多いでしょう」デビはそう言って、ばさりと翼をはためいた。「そしてそれは、このわたしも」
デビは拳銃を構えた。
詰んだな、これ。
しかしその刹那、おれはたった一つの冴えたやり方を思いついたのである。
「違うな、デビ・クアルトゥ」
おれは逸る気持ちを抑え、できる限り勿体ぶってみた。
「何を……」
「先程のはヘルファイアではない。おれのファイアボールだ」おれは、おもむろに銃口を手で逸した。「その意味がわからない、お前ではあるまい」
「なっ」
デビはくりくりとした目を零れんばかりに見開いた。美人というのはどんな表情をしても美人である、とおれは思った。
魔王城の王座に運ばれると、数百の視線が何度もおれを突き刺してきた。
これはもう胃が痛いなんてものじゃない。どいつもこいつもおれを一瞬で消し炭にできる者たちばかり。こんな者たちが人間界に攻めてきたら一溜りもなかったであろうに、律儀なことに魔王復活まで身を潜めていたらしい。とはいえ、魔物たちにとっても数千年という年月は世代が数回変わるに十分すぎたようで、だからこそ、デビたちもおれが魔王だと勘違いしたようである。そもそも、よもや魔王が体育座りで火炙りにされているとは誰も思うまい。
しかしながら、その魔王が実際は仮初めとはいえ、ついに復活したというわけである。人間を根絶やしにせんと皆が息を巻いているのがおれにもわかる。
「うむ」
と言って魔王っぽく王座に腰掛けてみた。ずいぶんとふかふかだったので至福のため息を漏らしそうになったほどの極上の椅子である。いつも座っている木の椅子とは座り心地など比べるべくもない。
デビいわく、これから魔王生還式典が行われるらしい。おれの性分からしたらこんな場だと隅っこで蒸したサツマイモをつまんでいる方があっている。眼の前にある赤ワインは嗅いだことのない芳しい香りがした。
ふと、おれの横に長身の女が立った。女は豊満な肉体を麻の着物で隠し、腰ほどまである真っ黒の垂髪を束ねていた。その額には三角の角が2つ。流石におれもわかった、この女は鬼である。それも、魔王の横に立つことのできる怪物であると。
クチナシの香りがした。途端、長身の女はおれにもたれかかり耳元で囁いた。
「あんさん、どうにも魔王にしては貧弱よなぁ」
柔らかおっぱいを堪能していたおれは、一瞬で背筋が凍る思いをしたが、なんとか仏頂面を保った。
「長い歳月にはさすがのおれも堪えたということだろ」
言ってから、おれはデビの言葉を思い出して戦慄した。この女がもしデビのように武力に惹かれて魔王軍に入った者だとすれば、今の発言は致命的である。
女からは反撃はなくくすくすと着物の裾で口元を抑えた。
「どうにもあんさん、面白そうやな」と女は言った。「そや、どうもいかんなあ、初対面の相手に自己紹介もなしやと礼を欠くというものや。あての名前は鬼神丸。魔王軍軍事総司令官を務めております。これからどうぞよしなに」
「うむ、励むのだぞ」
鬼神丸はくすくすと笑ってから小さく頭を下げ、群衆の中へと消えていった。
そして、入れ替わりにやってきたのは童女と思しき女であった。童女が歩を進めるごとにサンダルからピコピコという音がする。フリルがふんだんにあしらわれたドレスに、黒白のハイソックス。ピンクの巻いたツインテールを真っ白な指で弄ぶ姿からは、とてもこのような場所にふさわしいものとはいえまい。
「あなたがノールフィの遊び相手? ふうん、どうでも良いけれど、退屈だけはさせないでくださいな」
ノールフィはそう言い捨て背中を見せ、どしん、という音がし、その場から姿を消した。どこに消えたのかと下を向くと、ノールティはどうやら段差に躓いたようで、おでこに大きなタンコブを作っていた。目は潤み、今にも大粒の涙が溢れだしそうであった。彼女はキッ、とこちらを睨みつけたあと、そそくさとこの場を去っていった。
呆気にとられていると右肩に手を置かれる感触がし、振り向くと、ちくりとした痛みがしておれは苦悶を漏らした。ズキズキとした痛みがする右頬を撫でると、薄っすらと手に血が滲んでいた。
「何者だ」
「魔王様、お初にお目にかかります。ボクの名はカリファ・ストラティウス。しがない吸血鬼のこの身ながら、魔王軍特務司令官を務めております。そして先程の幼子は、淫魔の王にして魔王軍後方司令官、ノールフィ・エレメンクルールにございます。どうぞ両名共々、魔王様のお力になれるよう全力を注ぐつもりにてございます」
片膝を落とし胸に手を当て忠義を示すカリファ。男とも女とも取れぬ中性的な面貌に、左目にはモノクル。黒のタキシードとスラリとした長身は熟練の執事を思わせる。
ちらりとカリファの左手を見ると、一本のレイピアが握られていた。剣先には朱色の液体が付着しており、おれは思わず右頬をこすった。
狼狽を見せれば、魔王っぽくなくなってしまう、おれは動揺を隠し、
「うむ。しかし、断りもなくおれに攻撃しようなど、ずいぶんなご挨拶ではないか」
「それは申し訳ないことをしました。何分ぼくたち一族は吸血鬼。互いの血を交わすことこそが挨拶にございますので」
カリファは自身の右腕を尖った爪で引き裂いた。切り傷をつける、などという次元にない。一本腕を落とす勢いで振るわれたその一撃は、王座の間を血の絨毯で汚した。そして、カリファは生生しく抉れ、肉が見えるその腕をおれの前に突き出してきた。
「どうぞ、ぼくの血をご賞味あれ」
うっと言いたくなるのをこらえる。しかし今のおれは魔王である。この程度の傷でうろたえれば威厳にかかわるのである。
いや、やっぱり血を飲むのは無理。よくよく考えれば、魔王だからと言って血を吸うのは可笑しいのではないか。そう思ったおれが断ろうと口を開いたとき、
「無礼者」
と場を引き裂く一閃が王の間に轟いた。おれは魔王らしくなく小さく悲鳴を上げてしまったが、しかしながら、それに気がつくものはいなかったようである。
腕を組み、カリファを見下ろしていたのはデビであった。眉は釣り上がり、背中には黒の翼が権限していた。これは間違いない。どっからどう見ても一触即発である。
「カリファ・ストラティウス。貴様よもや魔王様に従属の盃を行おうとするなど、無礼にも程がある」
デビの圧倒的な威圧感を前に、しかし、カリファは怖気づく様子はない。ゆるりと立ち上がり、そして傷ついた腕を振った。すると、映像が巻き戻されるように落ちた血がその身に吸い込まれてゆく。カリファがレイピアを持ち、剣先についたその血――おれの血だ――を赤い舌で舐め取った。カリファは吟味するようにしてからおれの血を嚥下し、
「これが魔王の血だって? こんな魔力の薄い血が魔王だなんて、ぼくには到底認められない」
「ふん、貴様、わたしが偽物を掴んできたとでも?」
「いや、あの封魔の神殿から連れ帰ってきたというのは嘘偽りないだろう。事実、復活の際には凄まじい魔力の反動をぼくも感じた。しかしながら、魔王とて数千年もの歳月を減れば少しは弱体化をしてもおかしくはないさ」
「は」とデビは馬鹿にしたように笑った。「美食家の貴様の舌もずいぶんと衰えたものだ。確かに、貴様の言う通り、魔王様は衰えたのかもしれない。だがな、龍がいくら衰えようと蟻を踏み潰すのはたやすい。そしてなにより、わたしは見たのだ。最下級魔法ファイアボールを、ヘルフレイムのような威力で敵にぶつける圧倒的な力をな」
「へぇ」と舌なめずりするカリファ。「おもしろい。君の言う通りだとすれば、是非とも見せてもらおうじゃないか。この場に集ううもの皆が魔王の座を狙う者たち。その者たちを納得させるような証を見せてくれれば、前言は撤回し、ぼくは魔王様に永遠の忠誠を誓うよ」
二人の魔王軍に集中していた関心が一斉にこちらを向いたのを感じ、おれは口から魂が飛び出そうになった。
どうする、と考えている余裕などない。
おれは生まれたての子鹿のように震える両脚をなんとか立たせた。
手元にガッソリンなど到底なく、おれにできるのは親指ファイアボールだけ。
おれは祈るように、そして見せつけるように右腕を高らかに掲げた。
「はああああああ」
起きろ、奇跡――。
「た、大変です!」
扉を開け、魔王軍の兵士が王の間に入ってきた。
奇跡、起きた。
「何事だ」とおれは早口で問いかけた。
「勇者の襲撃です! それも、最強と名高い勇者、不死鳥の――」
そう言い終えて、兵士の首から上が一瞬で消失した。
続いて、一人の女がゆっくりとこの場に現れた。目がさめるような真っ赤な長髪に大きな瞳。装備といえば革の手袋と胸当てのみで、どこにでも売ってある麻のチュニックと緩やかなパンツ。ブーツは長い間付着し色となってしまったのだろう、茶色のシミがそのまま残っていた。
「案内ご苦労さま」女が大剣を払うと、地面に血の点線ができた。「それで、どれがわたしに殺される哀れな魔王さまなの?」
数百の勇者のうち、まぎれもなく最強と名高い不死鳥の勇者。身の丈ほどの大剣を担いたまま、魔王軍の軍勢に囲まれたこの状況であってもなお一切怖気づくことない彼女。
その凛々しくも美しいその顔に、おれには心当たりがあった。
「勇者――それも、不死鳥の。きみがこのような場所に何の用事があるのかな」
カリファの問いかけに、勇者は獰猛に笑って答えた。
「考えるまでもないわ。魔王が復活した。ならば、勇者としてやることは一つじゃない?」
「ちょっと今は立て込んでいてね、ぼくたちは客人の相手をしている余裕はないんだけれど、勇者とあらば歓待しようではないか。なあ、君たち」
魔王軍特務司令官カリファ・ストラティウスのその言葉に、王の間にいる者たちが一斉に歓声を上げた。お前のほうが魔王向いてるから代わってくれ、とおれは思いつつ、勇者の視線から逃れるように体をカリファの間に隠した。
混ざり合い、膨れ上がった魔力が室内を圧迫する。魔王軍そのすべての殺意が勇者に対し向いていた。しかし、彼女はそれを意に介することなく、涼しい表情で受け止めていた。いや、正確にはそうでない。彼女の灼熱の眼光が映すのは、二人だけである。それ以外は壁にもならぬと言わんばかりで到底眼中にはなさそう。
しびれを切らしたのは、魔王軍の兵士たちであった。なだれ込むがごとく果敢に勇者に突撃する。
彼女に逃げ場など到底ない。槍、剣、魔法が、彼女のその心臓に――その頭蓋に突き刺さった。おれならとうに息絶えるだろうその攻撃を喰らいながら、さすがというべきか、勇者は苦悶一つ漏らさない。身にまとっていた装甲は、すでに廃材と課していた。
あっけない結末に弛緩した空気が流れる。各人はそう思っていたのであろうし、おれも死んだと思った。
だが、当人は、にやりと口角を上げ、
「なあんだ。魔王軍の兵士とはいえ、雑兵とくれば、この程度か」
火の粉が弾けるような音がした。気のせいか――そう思ったが、それを打ち消すように連続してぱちぱちと音が鳴る。
続いて、勇者の傷口から真っ赤な炎が噴出し、彼女の体に巻き付いていく。近くにいたものはその炎にふれ、触れた先から炭になっていった。
それに怯えて後退する魔王軍に勇者は大剣を一薙ぎした。その直後、灼熱を含む熱風が部屋を焼き、近くにいたものは瞬きの間には蒸発し消え去っていた。
負傷したはずの勇者は、その姿はもとに戻っていた。圧倒的な力の差を前に、魔王軍は一歩後退した。それを追いかけるように前に出る勇者。じりじりと後退する戦線に流れは一気に傾いたかと思えた。
だがしかし、魔王軍を強者たらしめているのは数百の軍勢などではない。その上に立つ、四人の強者たちなのである。
勇者の周りを数十の紅色の槍が囲う。到底避けられるはずもなく、その槍たちは彼女をハリネズミにした。
「さすがはかの高名な勇者だ。勇者のなかで唯一、仲間の一切を引き連れぬ孤高の勇者。不死鳥の勇者――その勇名は伊達ではないようだ」
カリファはそう言って、ぱちぱちと拍手をした。
勇者に身体に炎が巻き付き、すぐさま傷が癒やされ、対象的に刺さっていた槍は無へと帰っていった。どうやらその称号は間違いないようで、どのような外傷も完全に無効化しているように見えた。
彼女は大剣を地面に突き刺し、懐をまさぐり紙の束を取り出した。
「……ふうん、なるほど。こんなところで二人も賞金首がいただなんて。そりゃあ強いわけね。至高の吸血鬼、カリファ・ストラティウス。堕ちた天使、デビ・クアルトゥ。15億ヤロ以上の大物が二人もいるだなんて」
「まさか、怖気づいたのかい?」
「いいえ」とカリファはそう言って相好を崩した。「自分の幸運に感謝しているの。わたしは巷では勇者なんて呼ばれているみたいだけれどね、わたしはただ単に高額の賞金首を狩っていただけ。何分、わたしの野望にはお金が必要なの」
「……民衆が泣くよ。それに、それほどのお金を手に入れてどうするつもりだい」
「ふん、民衆など知ったこっちゃないわ。それに、世界平和なんてどうでもいい。すべてはわたしの野望のための礎でしかない。お前も、そして魔王も」
「残念だけれど、その野望は――」と話に割って入ったのはデビであった。二丁の拳銃を携え、至近距離で勇者の脳天に銃口を当てていた。「ここで終わる」
二発、放たれた弾丸が勇者の全身を貫く。しかし、それでは死なぬことはデビには当然わかっていたのだろう。間髪入れず、銃弾の雨を勇者の頭上に降らせた。
かちり、と弾が切れたのであろう音。結果その頃には、玉座の間の地面は蜂の巣になり、直撃を受けた勇者にいたっては、その存在さえ消失したように思えた。
デビはくるりと一回転し、地面につかない程度に浮いた状態で構えをといた。そんな彼女に、隣に立つカリファが声をかける。
「あれで死んでくれるといいんだけれどね」
「肉片ごと消し飛ばしたはず。これで駄目なら万事休す、というところでしょう」
その懸念は、彼女らにとって不幸なことに紛れもなく現実のものとなった。
「危ない」とデビが叫んだときには遅かった。地面のひび割れからカリファの両脚に巻き付いた炎。その炎は腕の形をしていた。手のひらは、カリファの顔を一掴みし握りつぶした。悲鳴をあげる暇もなく、カリファの頭は元来から何もなかったかのように消え去っていた。
デビがすぐさま距離を置こうと後退するが、
「逃げるの? 魔王軍総司令官ともあろうものが」
と人形をした炎が喋った。
デビは振り返って直ぐ様銃口を構える――しかし、
「残念。こっちが正解」
勇者は炎をまとった大剣を振りかざし、デビの背中を切りつけた。じゅう、と焦げる音がし、首元から臀部にかけて三日月状の火傷ができた。
魔王軍最高戦力のうち二人は、呆気なくやられ、地に臥せっていた。二人の魔王軍の最高戦力がやられたのである。周囲の者たちは腰を抜かし、青ざめた表情で勇者を見た。
「面倒よね、殺してしまったら証拠不十分でお金が貰えないだなんて。でも、良い準備運動になった。――それで、メインディッシュはどちらかしらね」
周囲を見回す勇者の眼光に堪えきれない兵士は――そしてそれ以上に、勇者に対抗できる存在に――魔王に、乞うようにして視線を向けた。そしてそれは、勇者にとっては都合の良い案内役となった。
おれと勇者の視線がぶつかる。勇者は炎をマントのように払うと、電光石火の速度であっという間におれの眼前にたった。
おれはふんぞりかえったまま――脚が震えて動かないだけ――勇者と相対する。おれは死刑囚のように、彼女の沙汰を待った。
勇者は大剣を放り捨て、そして言ったのである。
「お久しぶりです! ご主人様」と。
ずいぶんと久しぶりだったから顔を忘れられていたかとひやしやした。
おれはきちんと彼女が自分の知る者であることに安堵し、一息ついた。
「久しぶりだな――勇者――いや、モトカノ」
「はい! わたし、モトカノ・クロイツァはご主人様にこのようなところで会えて、とっても幸せです!」
先程の激闘が遠い過去であったかのように、勇者――モトカノは喜色いっぱいの表情を浮かべた。
犬のようによってくるモトカノを撫で、おれは高らかに宣言した。
「驚かせたな、配下達よ! 何を隠そう勇者モトカノはおれの下僕。これは、魔王を試そうとした者たちへの誅罰である。これから、おれに逆らうものはこれ以上の苦痛があると知れ!」
これは後日談である。
勇者モトカノを従えている、という情報は一気に魔王軍全体に伝播し、おれを勇者を従える力を持つ者だと勘違いされた。そして無事おれは魔王として認められた。正直、いつボロが出るのか不安で仕方がないが、その時はモトカノにすべてを任せればうまくいくだろう。その隙のないその計画に、享楽の人生はついに訪れたとおれは確信している。
「流石はご主人様。野望を叶えるため、わたしがお金を稼いでお城や国を買おうとしている間に、魔王になり容易く手中にしてしまうだなんて」
「まあ、おれの計画通りにいけばこんなもんよ」
母親にだけは強く出る引きこもりの気分だったが、うまい酒の前にすぐに気を取り直す単純なおれ。
そんな至高の時間に、一人の乱入者が現れた。
「大変です、魔王様。十の勇者パーティが攻めてきました!」
おれとの伝令役に任命したアスパラ剣士である。魔王軍の中ではおれと最も実力が近い――つまり、魔王軍の中で一番弱い魔物である彼を選んだのは、寝首を掻かれたときに唯一生きていられそうだからである。
おれはワイングラスを揺らし、優雅に嚥下してみせた。
「騒ぐな。幹部が一人いれば十分だろ」
「そ、それが、鬼神丸様は有給休暇を取得し実家に帰省中、デビ様・カリファ様は先の戦闘で負傷して動けずでして」
「ノールフィがいるだろう」
「それがノールフィ様は『夢を食べてくる』という書き置きを残してどこかへ行かれたようで。それに、ご存知の通り、他の対抗できる魔王軍戦力は現在皆負傷中」
おれはすがるようにモトカノを見た。不死鳥の勇者様は申し訳なさそうに、
「ご主人様のお手を煩わせるようですが、わたしは人の勇者。相手が魔物なら力を発揮できますが、人間にはその力が使えません」
「聞いてないんだが」
「驚きです。てっきりご主人様ならお見通しかと。でも全く問題はありません」とモトカノは両方の拳を握りしめ、眩しいばかりの表情でおれを見てきた。「ご主人様なら、勇者などたやすく一網打尽にできるでしょう!」
根拠のない期待が他人を傷つける。モトカノはそれを学ぶべきである、しかしそのような妄言を吐く余裕はおれにはない。
さらば、おれの悠々自適な魔王ライフ。
おれは立ち上がり、マントをこれ見よがしに払ってみせた。
「よし、おれ自ら前線に出よう。皆のもの、ここは戦場になる。全員が城から一旦隠れ家へ避難するのだ」
「お一人で、ですか?」とアスパラ剣士が聞いてきた。「わたしたちが危険に晒されてしまわないように?」
「おれの大切な部下たちだ、危険に晒すわけもない」とおれは答えた。「それに、おれを誰だと思っている? 最強の勇者を従える魔王――大魔王だぞ。勇者が幾千こようとも所詮どれも小物よな」
「魔王様、バンザイ」と滂沱の涙を流すアスパラ剣士。
「では、疾く皆の者に伝えるのだ。この場に一人たりとも魔王軍を残すな、とな」おれはアスパラ剣士の緑の肩に手をおいた。「おれが信頼する、お前にしか頼めない仕事だ。頼んだぞ」
「くううう! 魔王軍バンザイ! 大魔王様バンザイ!」
おれはアスパラ剣士の姿が消えるのを待ってから、モトカノにこう言った。
「おれをロープで縛ってくれ」
出来上がったのは、頭と靴だけが外に出たミノムシスタイルのおれ。
作戦はこうだ。誰一ついない魔王城に攻め入る勇者たち。しかし、その場にいるのは拘束されたおれだけ。
勇者に聞かれたらこう答えるのだ。「卑劣にも魔王軍は人間であるおれを誘拐し人質にとり、そして勇者モトカノが魔王軍を攻撃できないようにしたのだ」と。
そして、魔王軍の居場所――隠れ家を教えれば、魔王軍は勇者たちが片付けてくれる。
おれはそのあと救助されれば、魔王などという肩書からも開放され、晴れて自由の身。あとは何食わぬ顔で村に戻ればすべてが元通りである。
完璧な計画だ……。
身動きが一切とれないまま、ほくそ笑むおれ。
さあこい、勇者よ!
扉が開き、光が差し込む。おれにとってはまるで希望の光に見えた。
「魔王様、ずいぶんと楽しげなお遊びをしてはりますなぁ」
紺色の着流しに、艷やかな黒髪。そして、特に目を引く2つの角。
現れたのは、鬼の王こそ鬼神丸であった。
ぱくぱくと口を開けて白目をむくおれに、彼女は、獲物を狩る獣のようにスッと視線を尖らせた。
「で、これはどういうことやろか。大層な理由があるんやろが、どう説明はしてくれはりますのか、えらい楽しみやなぁ」
勘違いされて魔王をやっています。
もうダメかもしれません。
<完>