ネルジュとボルド
情報部に着くとそこは昨日と全く変わらない景色が広がっていた。
違うとすれば席に座っている顔ぶれくらいだ。
情報部での自身のスケジュールを確認する。
そこには既に惑星探査任務が入れられていた。
恐らく総代が気を利かせて下さったのだろう。
これで今回の仕事だけに集中することが出来る。
これで情報部にいる必要はなくなった。
しかし、まだ朝早い時間だ。
バットマンの仲間、あの睡眠不足の中年男性の元に向かうには忍びない時間だ。
それまでにエイドゥス語の彼の情報と彼の謹慎が決まった惑星セルギアの討伐調査についての情報を集めることにしよう。
自分の席に座り、彼が今まで行ってきた任務の確認をしていく。
成績はどれも優秀で失敗は一度もない。
一緒に任務を担当したユニットのメンバーも怪我を負うようなことにもなっていない。
全体を見るとユニットでの任務の経験は少ないようだ。
ユニットに起用されるかどうかはユニットを組む際にそのリーダーに一任される。
誰だって入りたては単独での任務ばかりだ。
単独任務の結果など、自身の日々の実績が認められてようやくユニットに起用してもらえるものだ。
私は例外的に今も単独任務ばかりだ。
これは私の大きな失敗。
初めてのユニットを組んだ時にやらかした信用低下が延々と尾を引いているのだろう。
あれ以来ユニットでの仕事はないと心積もりはしていたし、逆にその一件から単独調査専門の立ち位置で今まで仕事をこなしてきた節もあることも確かだ。
だからこそ、今こうして自分がユニットメンバーを集める側に立つとは夢にも思わなかった。
私がユニットメンバーに引き入れる条件にはユニットでの経験の大小はない。
何故なら経験数は私の方が少ないのだから。
彼のユニットでの任務を見返すと、ユニットリーダーはほとんどオルニスだった。
積極的に彼を起用して、周りに馴染めるようにしていたのかもしれない。
それにしてもこれまで負傷者が出ていないことから推察できるのは、連携がしっかり取れているということだ。
どうしても多数の敵相手では、自身の死角や攻撃後の隙から手痛い一撃を貰う事がある。
それを防ぐのがユニットメンバーである。
互いに互いをカバーし合うことで安全に戦う。
戦いの基本だ。
彼の戦い方や連携の内容についてはオルニスに聞くことにしよう。
ただ気になったのは謹慎処分となったセルギアの討伐任務の時のリーダーはオルニスではなかった。
私が彼の任務情報を見ていると、何処からか視線を感じる。
振り向いて辺りを確認するが、周りには私と同じように画面とにらめっこしている人か情報整理をしている人しか見当たらない。
私はこれも一つのキリだと思うことにして、飲み物を買いに席を離れる。
戻ったらおそらく目ぼしい情報はないだろうが、今回の調査に行く惑星アドラステアについて何か情報があるか調べてみることにしよう。
自販機が立ち並ぶ休憩コーナーで飲み物を買う。
自販機でもキュリフト認証が使われており、一定時間キュリフトを流すことによって商品選択の認証が可能になり、代金は自動的に給料から支払われるつくりになっている。
「あら、ヒビキさん。お帰りになっていましたのね。」
自販機にキュリフトを流している時に声を掛けられる。
振り向くとそこには肩より少し長い栗色の緩やかなカールが揺れ動いていた。
その少し高圧的な声の主は解析班のネルジュだった。
「また買うのはいつもの牛乳ですの?あなたもよく飽きませんわね」
私はそれに答える代わりに牛乳のボタンを押し、受け取り口からパックの牛乳を取り出す。
「日課のようなものよ。自分なりにルーチンを決めておいた方が安定したコンディションを保つには丁度いいわ。それに美味しいし、他に比べて栄養もある。」
特に飲み物にこだわりがあるわけではない。
ただ単にここで初めて高栄養圧縮ブロックを食べるときに飲み物を一緒に用意した方がよいと助言してもらったときに勧められたのがこの牛乳だっただけだ。
それで問題がなかったからそれを選んでいるだけに過ぎない。
「本当にストイックで合理的なところはブレませんわね。いやになったりはしませんの?」
カールした髪を左手で弄びながらネルジュは問いかける。
「不満を感じているなら、続きはしないでしょうね。気になるなら飲んでみる?これくらいなら奢るわ。」
そういい、私は手に持った牛乳をネルジュに向けて放り投げる。
ネルジュはそれを難なくキャッチする。
「あら、ありがとう。…有難くいただきますわ。」
ネルジュの少し意外そうな顔を浮かべているのをよそに、私はもう一度自販機にキュリフトを流し、再び牛乳を購入する。
受け取り口から牛乳を受け取るとネルジュは少し真剣そうな表情で私を見つめていた。
渡したパック牛乳の角を持った手は少し力が入っているように見える。
「す、少しお話に付き合ってもらえますかしら。ヒビキさん。」
そんな様子の彼女が覚悟を決めて思い切って出した言葉に、私は休憩室付属のテーブルセットへと彼女を誘導するしかできなかった。
私はできるだけ話が漏れ聞こえないように自販機から最も離れたテーブルへと移動し、明らかに昔ここのデスクスペースで使われていたであろう椅子に座る。
彼女もなにやらオドオドした様相を浮かべながら私の正面へ座った。
彼女から話があると言われたのは意外だった。
いつもなら、牛乳を投げ渡した後に興味が失せたように踵を返し立ち去るからだ。
「それで話というのは何かしら。」
パック牛乳にストローを突き刺しながら、私はネルジュへと問いかける。
ネルジュは私の問いかけに体をビクッっと震わせる。
彼女は一度大きく深呼吸して、下を向けた顔を私に向ける。
「ヒビキさん。あなた昨日、と、殿方とデ、デートしていたらしいですわね。」
紅潮した顔でネルジュはどもりながらも強い口調で言い放った。
てっきり悩みごとの相談かと思っていた私はその言葉に虚を突かれた。
私はそれをごまかすために牛乳を一口飲んだ。
飲みながら自分の浅はかな考えを正す。
私は勘違いしていた。
彼女が普段より大人しく何やら困っているような雰囲気で話を切り出したからだ。
しかし普段の彼女の性格や敵視する振る舞いから、彼女が私に悩みを打ち明けるなど到底ありえない事だと考えなくても分かる事ではないか。
深いオレンジ色の目を大きく見開いて今にも詰め寄りそうな彼女に向かって私は言葉を返す。
「してないわ。それで話っていうのはそれだけ?」
「わたくしの下僕が数人、訓練施設の一角で殿方と手を取り合いながらお話していたところを見ていますのよ。しかも非番でもない日に堂々と逢引きだなんて、はしたないとは思いませんの!」
もはや話を切り出した時の弱々しい態度はすでになく、普段通りの高圧的なネルジュに戻っていた。
「あれはデートではないわ。れっきとした仕事よ。」
「認めるんですのね。殿方とイチャイチャしていたという事を。」
「ただ二人で話をしていた。それだけよ。周りがその状況をどう定義したかなんて私には関係ないことだわ。」
私は自身の身の潔白を断言してもう一口牛乳を飲む。
私の毅然とした対応を見てネルジュは少し落ち着いた様子に戻ったように見える。
「わたくしはあなたがくだらない嘘をつくとは思ってはいませんわ。そこはわたくしも認めているところですので。」
いきなり、ネルジュが私を持ち上げるような発言をしたことに少し驚いた。
彼女は手に持っていた牛乳をテーブルに置き、少し考えこむ。
彼女は解析班の人間だ。
これまでの情報を色々とすり合わせているのだろう。
「まさかとは思いますが仕事って、情報部とは別にそういう仕事をしていますの?」
ネルジュは顔を真っ赤に染めながら少し小声で言う。
「ヒビキさん。あなた。そんなことをしなくてはいけないほどに生活が困窮しておりましたの?」
すごく申し訳なさそうに、しかし真剣な表情から出たその言葉に私は思わず笑ってしまった。
「どうしてそのような結論に至るのか是非お聞かせ願えるかしら。」
ネルジュは私の反応を見て、キョトンとしていたが、次第に笑われていることに怒りが露わになっていく。
「あなた、わたくしがわざわざ人には言いにくいことを、気を使って喋っていますのに、なんなのですかその反応は!」
机を叩いてネルジュは立ち上がり、声を荒げる。
「いいでしょう。私の結論が間違っていると言うのでしたらこれらの情報にどう言い訳するか見せてもらいますわ。」
ネルジュはそう言って胸元から一冊のスクロール端末を取り出す。
キュリフト認証付きの保護装置がついたそれは、細かい仕様については知らないが解析班に支給される個人ノートみたいなものだ。彼女はそれを大きく展開し、話し続ける。
「あなたが殿方と会っていたとき、今よりかわいらしい、いえ、少し容姿を気にして会っていたことがわかっていますわ。いつもそんなことは気にしないあなたがそういうことに気を使ったこと。それに基本的に表情を変えないあなたが会話中に笑っていたことも確認済みよ。その日の終わり、あなたの家が少し騒がしかったことも知っていますわ。おおかた殿方と話すことに夢中でレリクスの子との約束を破って喧嘩にでもなったのでしょう。最近は持って来ていましたお昼のお弁当、今日は持っていらっしゃらないようでしたので。仲直りは早めにすることを忠告しようとも思っていましたの」
彼女はせき止められていたダムが決壊したように早口でさらに細かく入手した情報を並べ立てる。
私は彼女が仕入れていた情報量のすごさと正確さにただ唖然とするしかなかった。
「しかし、あなたが言った言葉を聞き入れて、再度真実を組みなおしたらこうなりましたわ。のぞき見する気はありませんでしたが、さっきも会っていた殿方について熱心に調べていましたわよね。殿方のことが気になって気になって仕方がないのでしょう。そのような相手と二人きりで仲睦まじく話していた。これがデートでなく、仕事だとあなたは言いましたわ。それを聞いてわたくしはなるほどと思いましたわ。仕事には完璧を求めるあなたの事です。彼を引き立てるための話題作りのために過去の情報を調べ、きちんとした身だしなみも相手の合わせて笑っていた事もこれが仕事だったからということであなたの場合なら結論付けられますわ。しかし、仕事だと言い張るこの内容はお金を貰ってお相手を接待するお仕事以外なにがあるといいますの!しかもそういったお店ではなく、ラフな感じでやっている。急場凌ぎに他なりませんわ。こういうことに疎いあなたがこのような仕事を引き受けなければいけない状況とはなにか。あなたは単独で惑星を幾度となく調査する調査班のエリート中のエリート。食べ物の確保さえしていればどこでだって暮らせるサバイバル人間。つまり、食事に困るほど困窮した状態であると結論づけるのは妥当ではなくって!」
ネルジュは右手を払うように振り、展開していたスクロール端末を閉じる。
その姿はまるで容疑者に推理をぶつける探偵のようだった。
「今日のお弁当がないのはお世話して下さっているレリクスとの喧嘩ではなくって家に食材がなかったという理由なのでしょう?こうして牛乳で空腹を紛らわせようとしていたところにわたくしが来てしまった。自分の困窮状態を隠すためにわざわざわたくしに購入した牛乳を渡して何でもないアピールをしたのではありませんの。」
ネルジュは椅子へ座り、憐れんだ目を向けてこちらの様子を窺っている。
私は同じことを昨日しのぶにやられたことを思い出していた。
得られた情報から推測するプロでも間違いはあるものだ。
「結論から言うわ。私は食べ物にも困っていないし、彼とは恋愛なんてそういう感情を持ってもいないわ。」
その言葉を聞いてネルジュは一瞬安堵した表情を見せたように見えたが、すぐ疑うような顔になる。
「私は彼が謹慎になった理由を調べるために直接話していたに過ぎないわ。手を取り合ったという様子は翻訳機械を交互に使っていたから。その他はあなたの最初の方の推論でおおむね合っているわ。さすがね。」
「あの殿方の謹慎の件なら、スカウトしてきた調査班幹部の一人であるオルニスさんが前に出てすでに解決したではありませんか。どうしてあなたが終わったことを掘り返す必要があるのか分かりませんわ。」
「私に次の惑星調査が入っていることはあなたのことだから既に知っているのでしょう?今回は単独ではなくてユニットなのよ。彼は今回のユニット候補よ。」
ネルジュの顔が凍り付く、まさに信じられないといった様相だった。
「あなたがそんな顔をするのは分かるわ。けど本当のことよ。任務内容は教えられない。それは私がそういうもの担当だって知っているでしょう。」
「他の二人はどうするおつもりですの。」
「私は彼を採用するかさえも決めてないわ。これ以上は教えられない。話の本題は私と彼の関係でしょ。」
そう言うと、ネルジュは少し不満そうな顔を浮かべた。
しかし任務の事について聞くのは諦めたようで、私と彼についての質問を続ける。
「そうね。ではあなたが身だしなみを整えたのは何故かしら」
「私のレリクスがおせっかいにも整えたからよ。ちなみに彼に会うときだけそうやって整える気はないわ。今日もこの後会う予定よ。もちろんこのままで。あと、私だって笑う時は笑うわ。あなたもさっき私の事笑わせてくれたでしょう。この話が信じられないようなら彼に聞いてみるといいわ。話が通じればだけど」
ネルジュに笑顔でそう言うとネルジュは牙を抜かれたようにテーブルに突っ伏す。
「もういいですわ。私が間違っていましたわ。あなたが他の誰かに声を掛けにいく理由が分からなかったことが私の敗因でしたのね。機械人形と揶揄されるあなたに水商売なんてできるわけないことは分かってはいましたのよ。」
机から顔をあげると、私が渡したパック牛乳にストロー突き刺して勢いよく飲みはじめる。
飲み終わったと思うとネルジュは真面目な顔になり、少し声のトーンが低くして再び話し始める。
「わたくしが今から話すことはただの独り言ですわ。わたくしはオルニス一派が好きではありませんの。オルニスさん自体が悪いわけではない…とは言い切れませんが、彼の取り巻きはたちの悪い方々が目立ちますわ。あなたは他人の動向なんて全く興味ないから知らないでしょうが、一時期はあなたも取り巻きから敵視されていましたのよ。」
「あなたもということはネルジュ、あなたも敵視されていたの?」
私の問いかけにネルジュは否定も肯定もせず話を続ける。
「レミング総代の今の新生情報部は元諜報部バットマンの過去のしがらみや汚い部分を一掃したまっさらで真っ白な状態ですわ。総代は正直なところ心許ない印象でしたが、誰かに靡くことはしない芯がある方のようです。だからこそ気にくわない方はどうにかして情報部の力を得ようと画策していますの。オルニスは打倒レミングの神輿として担がれているのは間違いないでしょう。総代が何らかの失態を犯せば、次はオルニスが次期総代なる可能性も十分見えてくるほどになってきましたわ。それゆえに担ぐ中での争いも出てきていますの。あの謹慎になった殿方もそれに巻き込まれたのではないかしら。わたくしとしては面倒なことに首を突っ込まないことを勧めますわ。」
彼女はそう言うとゆっくり席をたつ。
何やら憑き物が落ちたようにさっぱりとしたような顔をしている。
「ありがとうネルジュ。やはりあなたは優秀ね。最後に聞きたいのだけど、あなたはどこに住んでいるのかしら。」
「私の家はあなたの家のような殺風景なところではなくてお洒落なお店や家が立ち並ぶ一等地よ。そんなこと私のパーソナルデータからいくらでも見られるのではなくて?あなたは幹部なのだから。」
彼女は私に背を向けたまま、いつもの高圧的で含みのある言い方で返しながら、どこかへ歩いていった。今度しのぶには貰ったものお返しをするように言っておこう。しのぶは怒るかもしれないが仕方がない。シゴナナに渡せばきっとしのぶがいう可愛くて優しいネルジュに届くだろう。
時間を確認すると丁度予定していた時刻になっていた。私はしのぶが用意してくれたアップルパイが鞄にあることを確認して、挨拶元へ向かう。
向かう場所はもちろん居住区エリア7‐12 306号室だ。
私の調査用補助装置を見てもらうことをさっさと頼むつもりであったが、すぐ隣はエイドゥス語の彼の部屋だ。
ついでに彼もここで先に合流してもらい、迷惑をかけた中年男性に謝罪をさせることを思いついた。
そうすればお互いの調査用補助装置を見てもらうことができる。
私はまず305号室のインターホンを押した。
ゆっくりと歩く音が聞こえる。
出てきたのは上半身裸、タイトな短パンを履いた彼だった。
私は服を着るようにジェスチャーをする。
彼は私が来たことに驚いているようだったが、ジェスチャーは伝わったらしくドアを閉めて、中でゴソゴソと音を立てる。
しばらくするともう一度ドアが開き、昨日と同じ黒い鎧のようなダイバースーツにオレンジ色のバイザーを身に着けて出てきた。
私は調査用補助装置を彼が持っているかどうかを確認して、とりあえず挨拶をしてみる。
「おはよう」
「$B$*$O$h$&(B"」
やはり調査用補助装置の翻訳は働いていないようだ。
私は彼にここで待機するようにジェスチャーをする。
彼はその場で頷いた。
私は306室のインターホンを鳴らし、ドアの前で彼と同じように直立不動になる。
彼はこの時間起きているか心配だったが、少し乱暴な感じでドアは開いた。
ドアを開けてこちらを見た時の中年の彼は何やら諦めたような顔を浮かべ、中へ入るように促した。
私は横で待つ彼に同じようにジェスチャーをして中に入る。
「すみません。お邪魔します。」
部屋の中に入るとそこには大きなデータ端末が一つ。
いくつか並べられた机には見たことがない機械や部品が雑多に並べられていた。
「どこでも好きなところに座ってくれ。」
そういうと彼はゆっくりとカーペットの上に胡坐をかき、私を見上げる。
それは覚悟を決めた目に見えた。
私は胡坐をかく彼の正面に正座し、隣に同じようにエイドゥス語の彼を座らせる。
「この前は名前も告げず立ち去ったこと申し訳ございませんでした。私、情報部調査班ヒビキと申します。」
私は一礼をして名刺を彼に手渡すと彼は名刺を両手で受け取る。
「私はボルドと申します。先日は私こそお恥ずかしいところを見せてしまい、動揺させてしまったことお詫びいたします。すみませんが私は名刺やそのような類のものを持っておりません。それでヒビキさん。今日は私に何の用でしょうか。」
「失礼ですが、昨晩はよく眠られましたでしょうか。彼は静かにしていましたか?」
この質問を投げかけるとボルドは少し意外そうな反応をするが、どうも目に光がない。
生気がないように感じる。
「ええ。あの後熟睡できまして騒音なんてあったかどうかも分からないほどぐっすりと。それはもう悔いの残らないほどに寝させていただきました。心の持ち方でいくらでも人は変われると実感致しました。私は騒音で死にそうになっていたと思っていましたが、本当に死にそうになればあんな些細なことは全て関係ないと実感させられました。私はこの部屋で構いませんし、彼の行動もそのままでいいですのでどうか、私の命だけは助けていただきませんでしょうか。もちろん何かお手伝いできることは喜んでさせていただきます。私には完成させたいものがあるのです。なにとぞ。なにとぞ。ご容赦をお願い致します。」
胡坐をかいた状態でボルドは頭を下げる。
謝りに来たはずの私が逆に謝られるこの状況は何が何だか訳が分からなかった。
とりあえず、彼の陳情は置いておいて、こちらの話を進める。
「熟睡できたのなら良かったです。実は今日はあなたに私の部下の不始末を謝罪しにきた事とあなたに見て頂きたいものがあり、本日は伺わせていただきました。どうか顔を上げていただけませんか。つまらないものですがこれをお受け取り下さい。中身はアップルパイです。お早めに召し上がってください。」
私は鞄からラッピングされた箱を手渡す。
「そうですか。これを食べて死ねとおっしゃるんですか。そうですよね。無駄に周りを汚すようなことはしませんよね。隠ぺいするのも工作するにも手間になりますから。食べるときは迷惑ならない所で食べることにします。」
「失礼ですが、あなたは先ほどからなぜ私達があなたを殺しにきたと思っているのですか?」
「私だって少しはあなたの事を知っているんですよ。私はこう見えても情報屋みたいなこともやっていましてね。あなたと別れた後、部屋に戻って後悔していた時に思い出したんですよ。あなたはあのバットキラーなのだろう?」
「失礼ですが私はそのような名前で呼ばれたことは一度もございません。人違いだと思いますのでこちらお話を聞いていただけませんか。」
私はすっかりおびえきったボルドに笑顔を向けて話す。
「今の情報部は全ての情報をクリーンかつ円滑に回すために新しくなりました。昔の諜報局ではありません。混乱を招かないために情報を一時的に止めることはありますが、命を奪ってまで情報を封殺することはありません。それが例えバットマンのお仲間の方としても例外ではございませんので安心してください。あなたもバットマンが情報部で保護されていることを知っているのでしょう?」
「やはり、私の素性はバレているのか。」
「ですので、私達に協力してください。今やっているあなたの研究データは全てコピーさせていただきます。別にあなたはなんらかの法を破るような研究はしていないのでしょう?いただいたデータを精査したのちにまた後日、別の者が対応に訪れると思います。その時は抵抗せずにその場の情報部の人間の指示に従ってください。そうすればこの場所とその身の保護はお約束致します。」
それを聞いたボルドは大きく息を吐いて体を後ろに倒した。
「助かったと言ってよいのか。もう逃げなくても良いのか…。」
「少なくとも私ども情報部はあなたの命は狙いません。」
天井を見つめる彼には涙が流れていた。
「ああ、すまない。どうにも歳をとると涙もろくなってしまってね。ここにあるデータはその端末に全部入っている。好きに使ってくれ。それで、私に見せたいものがあると言っていたが、それは何だろうか?」
ボルドは涙をぬぐい、先ほどとは違うはきはきした態度になる。
これが彼の本当の姿なのだろう。
私は、自分の調査用補助装置と彼の調査用補助装置をボルドに見せる。
「実は、彼のダイバーデバイスと私のダイバーデバイスで自動翻訳が使えないようなのです。少し詳しい方に見てもらいましたが故障はないと言われました。しかしどうもおかしいようなので、開発部のあなたに検査をお願いしにきたのです。」
「なるほど。症状はダイバーデバイスの翻訳ができないこと。何か他に気づいたことはありませんか。」
「通信が来ていたはずでしたが、私のダイバーデバイスには着信の記録が全く残っていないことがありました。時間が経ってから再度同じものを送るとそれはしっかり記録されていました。」
「うーむ。少し試していただいてもよろしいですかな。」
そう言ってボルドは調査用補助装置を私達に手渡す。私はそれを受け取りもう一度おはようと喋ってみる。
しかし、彼が首を傾げるだけで、反応に困った彼が放った言葉も同じく私には理解ができなかった。
「ありがとうございます。もう一度ダイバーデバイスをお渡しいただけますか。」
ボルドは私と彼の調査用補助装置の内部データを比較し始める。
バットマンが開いていた画面と同じような画面を順次流し目で追っていく。
「分かりました。彼のダイバーデバイスのバージョンが極めて昔のもの、エイドゥス語の言語データがないものに書き換えられていますね。しかし、自動更新されないのはおかしいですし、それだと彼の発したエイドゥス語はヒビキさんのデバイスではしっかり翻訳されるはずです。とりあえず、彼のダイバーデバイスを最新のものにしてみましたので、もう一度会話してみてください。」
そう言われて私はもう一度挨拶をしてみたが、結果は変わらなかった。
「ダメですね。彼の言葉は翻訳されていません。」
私は結果をボルドに伝える。しかしボルドは頭を悩ますどころか何やら嬉しそうにしている。
「いえいえ、まだ、直ったわけではないことは分かっていますので、これも原因解明の手掛かりを集めるようなものですよ。もう尻尾は掴んでいますので、後は本体を引っ張り出すだけですのでもう少しお待ちください。」
そう言って、もう一度彼は私達の調査用補助装置を調べ始める。
しばらくすると彼は突然立ち上がり、調査用補助装置をほっぽりだして何やら机の上の機械を組み立て始めた。
「ちょっと、何しているの。原因調査はどうなったの。」
「いえ、からくりが分かったので、その正体を突き止めるために少し道具が必要でして、もう少しお待ちください。たまたま私が作っていたものを改造すればこの原因の元凶が見つけられるのです。」
私は彼の言葉を信じ、しばらく待つことにした。
待つこと5分。
想像以上に早くボルドの元凶探知機は完成した。
「ヒビキさん。先ほど彼のダイバーデバイスを更新したのですが、また古いものに書き換えられていました。それにヒビキさんのダイバーデバイスの通信ネットワークもまた彼と同じ昔の通信ネットワークに繋がれていました。しかし、ダイバーデバイスはノアからのデータを断続的とはいえ、常に得て、更新されていきます。昔の状態を維持することはダイバーデバイスにはできない設計になっています。つまり、ダイバーデバイス以外の何かがダイバーデバイスに向けてダウングレードの更新をかけて、古い通信ネットワークを強制的に展開させていると思われます。ですので、これを使ってその信号源を探します。お二人ともお手持ちの持ち物を全て出していただけますか。」
ボルドは何やらワクワクした様子で私達を見る。
これが開発部の人間の性なのだろうか。
目の前の中年男性の心は不思議なものを見つけた少年にように眩しく光っているように感じた。
「原因はこいつですね。」
ボルドが手に持っていたのは彼のポンコツ翻訳機だった。
モコモコの部分に縦の切れ目を入れ、剥がす。
するとマスコットの体には蓋が付いていた。
彼は机の上にあったドライバーで蓋を外すと見慣れた機械接続口があった。
ボルドは部屋の中央にあった大きな端末機械に繋ぎ、データを解析する。
私と彼は後ろからそれをまじまじと眺めることしかできなかった。
「これで大丈夫です。恐らくこれで翻訳プログラムは機能すると思います。どうぞ、試してみて下さい。」
ボルドは毛刈りされたマスコットを端末から外し、私達に向き直る。
「通信テスト。翻訳されていますか。」
「翻訳できている。上官。こちらは?」
「ええ。翻訳されているわ。これでまともに会話ができるわね。」
翻訳された声は機械音声ではなくしっかり彼の声になっていた。
こちらの言語の基本ボイスデータは取っていたようだ。
しかしエイドゥス語には敬語というものがないようで、少し乱暴な話し方になるがこれは仕方ないことだろう。
「とりあえず、話が出来るようになったのだから、まずこの方にお礼をいいなさい。」
「翻訳機を直してくれたこと、感謝する。ずっと誰とも会話ができず困っていた。しっかり伝わっているか。」
「ああ、伝わっているよ。私も君に文句を言った時に君の反応に疑問を持てば良かったよ。今後は夜間の筋トレは止めてくれよ。ここの壁じゃあ、君の出す音はすごく響く。」
「それはすまなかった。改善しよう。」
彼は礼儀正しくまるで執事のような礼をする。
ただ会話ができるだけでかなりスムーズに問題が解決しそうだ。
「そういえばあなたの名前まだしっかりと聞いていなかったわ。私はヒビキ。」
「俺はスピリット。手間をかけた、ヒビキ上官。」
「翻訳の限界もあるわ。私に上の位はつけなくていい。それを付けるのは情報部のトップであるレミング総代だけでいいわ。」
「承知した。」
「では、ボルドさん原因の解明ありがとうございました。それではここのデータをコピーさせていただきますね。」
私は鞄から情報高速転送用端末を取り出して、彼の端末のデータをコピーする。
かなり膨大な量だ。
この専用端末を使っても少し時間がかかりそうだ。
「ボルドさん。あなたは一体何の研究をしていたの。」
「私の専門は通信技術ですね。先ほどダイバーデバイスの通信などに携わっていました。この研究も船と船との通信距離を延ばすための研究です。この船がもっともノアと距離が離れることが多いのでここにレリクスメンテナンスの仕事の傍ら研究と実験をしていました。そこにあるデータはその通信技術研究と仕事用のレリクスのデータがたんまりと入っています。そのマスコット、実はもの凄く優秀な部品で作られていましたので、元のダウングレードデータは全て消して愛玩動物系レリクスの行動データとダイバーデバイスと同じ言語翻訳機能を代わりに入れておきました。可愛がってやってください。剥いでしまった毛皮は継ぎ目を合わせて揉んでやるとしっかり繊維が絡まって元に戻るそうですよ。」
スピリットは早速羊らしきマスコットに毛を被せ、片手で握っては緩めを繰り返している。
「それで、このマスコット。どこの誰が作ったか分かるかしら。」
「おそらく、データとコードからこれらは開発部の中でも古株の人間が作ったものでしょう。随分古い形式をとっています。しかし使われている部品は使われていたコードにはそぐわない最新の高性能なものです。お金持ちがバックについているだろうと思います。情報部の人がどうにかして作れる代物ではないのはたしかですね。一つ言えることはそのマスコットの基軸プログラムと問題だった通信プログラムのコードの癖が違ったので、製作者が犯人ではなさそうという点ですね。問題だったコードだけなら開発部の若手でも作れるものです。」
「つまり開発部全員が容疑者ってことね。」
「申し訳ない。」
「いいえ。逆に諦めがついてよかったわ。」
情報高速転送用端末の稼働音が小さくなる。
ようやくボルドの機械端末のデータをコピーし終えたようだ。
「また後日情報部の人間がここを尋ねてくるから、それまで悪いことはしないことね」
「世話になった。」
私達は彼の部屋を出て、訓練施設へと向かう。