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皿の上のシュガー NEXT SEAT

作者:安城和城
 野球のルールに恋してた。
 今や当たり前となっているルール、その一つ一つに歴史がある。そういう感じが好きだった。
 たとえば、振り逃げ。
 打者が三振したとき、捕手が投球を後ろに逸らしたり、ノーバウンドで捕れなかったり――つまりは「正規捕球」できなかった場合、打者は一塁への進塁を試みることができる。
 なぜこんなルールがあるのか。打者が三振したら、アウトでいいじゃないか。
 ――違うのだ。
 元来、野球とは投手と打者の対等な勝負ではなく、打者が必ず打球を飛ばすことを前提としたスポーツだった。
 投手は球出し役を担い、打者が打ちやすいよう下手から投げていた。そして打者は、自分が打ちやすいよう投手に投球のコースを指定することができた。
 そんな野球の創成期、「打者は三振したとき常に一塁へ走っていた」。
 打者が三振した場合、捕手は打者の一塁到達より早く一塁へ送球する。そうして初めて「アウト」が成立していた。
 けれど「試合時間の短縮」の観点から、捕手が投球をちゃんと捕球できた場合、そこから打者が一塁へ走ったところでどう考えても送球が間に合いアウトになるだろうということで、「もう3ストライク目を捕手が正規捕球できた時点で即アウトってことにしようぜ」となったのである。
 現代の野球のルールは、こういった「みなしアウト」とでも呼ぶべき存在であふれている。「もうこれどう考えてもアウトになるし、こうなった時点でアウトってことにしちゃおうぜ、時間の無駄だし」ということで。
 つまりは逆なのだ。あたしたち現代人は、「なぜ振り逃げなんてルールがあるんだろう。三振したら全部即アウトでいいじゃないか」と思うのだけれど、振り逃げの際に行われる「一塁への送球」という守備の手続きによってアウトが成立するのが野球の本来の姿であり、正規捕球のときに即アウトになるということのほうが、むしろ特例的なアウトなのだ。

 でもそんなこと、野球部の男子たちは誰も知らなかった。
 高校一年のとき、野球部にマネージャーとして入部したあたしは、その事実にがっかりした。彼らはなんの迷いもなく、「三振したら、アウト。ただし捕手がちゃんと捕球できなかったときは、例外的に振り逃げを試みることができる」――「大」は「大」と書いたら「大」であり、そこに点を付け足したら「犬」なのだ、そういうものなのだ――というように認識していた。「大」という漢字の由来だとか、なぜそこに点を足したら「犬」なのかとか、そんなことは誰も気にしていなかった。
 でも彼らのほうが普通であるということも、あたしはよく分かっていた。電子レンジを使えば食べ物を温めることができる。なぜ食べ物が温まるのか、その仕組みについて理解している必要はない。
 もちろん、理解していて役に立つことはある。濡れた猫をレンジでチンして乾かそうとするだとか、そういう悲劇を回避することができる。
 ……誰もがそうやって物事の仕組みを理解し、注意を働かせていれば、あの事件は起こらなかったのかもしれない。

『全国高校野球愛知県大会準決勝における、逆転振り逃げ満塁ホームラン事件』

「事件」と言うといささか大袈裟にも思えるけれど、夏の全国大会出場を目指す高校球児、特に当事者たちにとっては、けっして大袈裟ではないその出来事。
 七回ウラ・二死満塁――カウントは2ボール2ストライク。篠宮しのみやくんが投じた低めへの変化球を、打者はハーフスイングする。
 捕手は投球がワンバウンドしていたにも関わらず、打者のスイングが中途半端だったため、球審に「空振りしましたよね」というアピールをすることに必死だった。振り逃げ防止のためのタッチプレーをおこたったのだ。
 そして球審のリクエストを受けた一塁塁審がスイングアウトのジェスチャーをとり、空振り三振が認められる。そのことに安堵した捕手は、打者が悔恨のあまり大きく天を仰いで落としたヘルメットを拾って渡す余裕を見せ、そのままベンチへと引き上げてしまったのだ。

 それが事件の始まりだった。

 守備陣が続々と引き上げる中、相手校の記録員――女子マネージャーが、大声で「回って!」と叫んだのだ。ペンを持つその右手を、ぐるぐると回しながら。
 それに気付いた打者と走者は、半信半疑ながらダイヤモンドを回った。選手たちは誰も、確信などはしていなかった。……それでも、回った。一人残らず。ホームへと帰ってきた。
 一方、守備位置から引き上げていたこちらの選手たちは、ベンチの前で半円を作り、監督の指示に耳を傾けていた。残り2イニング。3点リードしているとはいえ、野球は最後までなにが起こるか分からない。
 そう、なにが起こるか、彼らには分かっていなかったのだ。ホームベース近くに集まって確認を取り合っていた四人の審判員のうち一人が、彼らのもとへやってきて、声をかけるまで。
 振り逃げが認められ、計四人のホームインが認められた。逆転振り逃げ満塁ホームラン。3対4。
 そしてそれがその試合における最終スコアとなった。

 試合終了と同時に、その出来事はネットのスポーツ記事によって全国に伝えられた。チームを勝利に導いた相手校の女子マネージャーは、右手を頭上でぐるぐる回すその姿から、「白球の天使」と呼ばれた。その頭上に描かれた天使のリングが、チームを勝利に導いたわけだ。
 彼女は瞬く間に時の人となり、野球との出会いから日頃の仕事ぶりに至るまで、彼女に関する情報は事細かに取り上げられることとなった。
 風が吹いていた。ちょうど前回大会の事前練習中、とある高校の女子マネージャーが、選手たちの練習を手伝うためにユニホームを着てグラウンドに立ち入ろうとしたところ、女子だからという理由で大会関係者に制止され、大きな話題を呼んでいたのだ。
 下地ができていた。人々は無意識のうちに、女子マネージャーの活躍を待ち望んでいたのだ。
 そして誰もが意識していた。トーナメント形式の大会において、沸騰した話題の賞味期限は、その高校が敗退するまでであることを。
 人々は期間限定のガムを一心不乱に噛み続けた。
 そしてガムは予想外の味へと変わることになる。
 翌試合、つまりは愛知県大会決勝戦で、天使の属する高校が0対16で惨敗すると、「実は捕手はちゃんと打者にタッチしていたのではないか」という疑惑が持ち上がったのだ。
 それはかねてからあたしたちが主張し、ネット上では「見苦しい言い訳」と切り捨てられていた事柄だった。
 捕手は打者が落としたヘルメットを拾い、それを手渡す前に、呆然自失中の打者に「落ちたぞ」と声をかけるようにして、キャッチャーミットで打者の肩に軽く触れていたのだ。そのミットの中には、ボールもしっかりと収まっていた。
 記者は振り逃げ誤審によって準決勝で敗退することとなってしまった悲運な選手たちのエピソードを感動的に綴った。もはや盛り上がりようのない天使ブームに見切りをつけ、それこそ「本製品は噛み続けると味が変わります」と言わんばかりに誤審問題へとシフトし、審判体制のさらなる充実を祈った。
 事件はそのようにして幕を閉じた。しかし、世間的にはそこで全ておしまいでも、敗退した両校の選手たちにだって、ちゃんとその後の物語がある。
 ……そしてもちろん、両校のマネージャーにだって。

         §

 愛知テレビ塔にはよく上る。まあ「よく」とは言っても、一年に五回から六回といったところなんだけれど、それでも一般の感覚からしたら「よく」の部類に入るんじゃないかな。ちょうど一般の人が一年に一度くらいしか映画館に行かないせいで、数ヶ月に一度映画を観ているだけで「よく」映画を観ていると言えてしまうように。
 まだ明るいうちから一階出入口の自動ドアを通り抜けると、係員の案内でエレベーターに乗ってこちらは三階スカイターミナルでございますをされ、そこで展望台への料金を支払う。
 高校・大学生は六百円。年間パスポートでも売っていればたぶん月に一度は上るのに。まあ高層建築物がひしめく昨今、高いところなんて珍しくもなんともないし、きっと年パスなど需要がないと思われているのだろう。
 しかしそんなテレビ塔が、ここ数年で密かな賑わいをみせている。夕方になると、屋内展望台でプロジェクションマッピングが実施されるのだ。名古屋の夜景という美しい背景映像を持つ屋内展望台のガラス窓に、四季折々の幻想的な映像が投影される。
 プロジェクションマッピングについて説明しておいてなんだけれど、今はまだ午後三時。マッピングを行う夕方以降の入場には特別入場券千円也が必要で、それ以前の入場者は退場――つまりは入れ替え制となっている。
『じゃあ、今入っちゃってたらマッピングは見られないんじゃないの?』
 折り畳み式ガラパゴス携帯電話の頭部から聞こえてくるその声に、あたしは「うん」と首肯して答える。再度エレベーターに乗り込み辿り着いた屋内展望台は、ほどほどの観光スポットゆえにいつ来てもおろしたてに見える綺麗なカーペットと、とりたてて驚くべき要素のない眺めゆえに過度な感動とは無縁の温い空気が、都会らしからぬ独特な雰囲気を作り上げていた。
 名古屋の真っただ中にありながらもあくせくしていないこの感じが好きで、あたしはたびたびここを訪れているのかもしれない。
 変に高級路線を装った黒いソファに腰かけ、あたしは通話を続ける。
「春のマッピングはもう見たからね。桜が舞うやつ。去年とそんなに変わってない気がする。春には桜を舞わせ、夏には泡を浮かばせ、秋には紅葉を散らし、冬には雪を降らせる。根本的には毎年変わらないよ。もともとリピーターが来るのを期待しているわけじゃないんだろうし。――うん。それにね、正直あたしはここのマッピングはあんまり好きじゃないんだ。だってプロジェクションマッピングの醍醐味っていったら、やっぱり投影先の形状や凹凸を活かした映像表現だと思わない? なのにここのマッピングは、ただガラス窓に投影してるだけなんだよ。ただ真っ平らな場所に投影しただけでプロジェクションマッピングだっていうんなら、映画だってプロジェクションマッピングだと思わない?」
 根拠のない自信を持ってはいたが、場所が場所なのであたしは心持ち小声で言う。
 すると通話の相手は『ふぅん』と賛成でも反対でもない応答文句を口にした後で、『じゃあ、伝えとくよ』と言って冗談めかした。
『愛知テレビ塔プロジェクションマッピング・SAKURA treeサクラ・ツリーでしょ? それ手がけてるの、私が通ってた芸大の先輩だから』
 ――あ、これ冗談じゃないやつだ。
「よし、話題を変えよう。エルちゃんが電話してきたってことは、なにか用事があるんだよね? エルちゃん携帯とか持ってないし」
 あたしは携帯の送話口にそう言いながら、ガラス窓の外で背比べでもするかのように建ち並ぶビル群の中から、ゆるくアイチドームを探し始める。
『……その呼び方やめない? なんか恥ずかしい』
「えー? エルちゃんをエルちゃんと呼ばずして誰をエルちゃんと呼べばいいの?」
『…………』
 電話で黙られると怒ってるのか呆れてるのか分かんないな。あるいは両方かもしれないけど。
「お。アイチドーム、見つけた」
『アイチドーム?』その声を聞く限りどうやら怒ってはいないらしい。
「うん。テレビ塔から見えるの」
 あたしはちょうど縦書きにした丸カッコのような流線形のお屋根を見つけ、見失わないようにとそれを指さす。そして左・右と順番に片目を閉じ、わけもなく利き目を確認してみたりする。
『テレビ塔って、さかえだったっけ。見えるんだ、アイチドーム』
「うん。隣に高いビルが建ってて、目立たないけどね」
『……アイチドームって、地下鉄で行くとやけに遠く感じない?』
「そう? うーん……よく行くわけでもないし、分かんないけど」
『私だって、そんなによく行くわけじゃないよ』
「だよね。野球好きのオジサンじゃあるまいし」
 言いながらあたしは指先でドームの輪郭をなぞる。左右に動かしてワイパーみたいに。
 ……沈黙。どうやら話題が尽きたようなので、あたしはしばらく、エルちゃんの問いかけについて思考を働かせてみた。そして猫背の携帯電話に自分なりの答えを紡ぐ。
「あのさ、たぶん……地下鉄は各駅停車だから、思っているよりは時間がかかるんじゃないかな。あとは……車内が混雑してたりすると、余計に長く感じるのかも。ほら、アイチドームに行くってことは、アイチドームでなにかが行われるってことで、アイチドームでなにかが行われるってことは、それ相応の規模のイベントってことだから。つまりアイチドームに行くときは、車内はいつも混雑しているわけだよね」
『……なるほどね。頭良いんだ、とおるは』
「えへへ」なんだか照れるなぁ。ちなみに照れるのは褒められたことに対してじゃなく、エルちゃんに「透」って名前で呼ばれたことに対してなんだけど。
 気付くと近くにいた老夫婦が「この若い娘っ子はにやけ顔でいったいなにを指さしているのでしょうね……」といった感じでこちらを見ていたので、あたしはそっと手を下ろす。
『実はね、ちょうど私も、透とドームの話をしようと思ってたんだ』
「えっそうなの? あ、もしかしてネストの話?」
 最初こそエルちゃんとアイチドームという取り合わせに奇妙さを感じたものの、あたしとエルちゃんがひいきにしている国民的ロックユニット「ネスト」の全国ツアーが、二月から開始されたホール・アリーナ公演を終え、六月下旬からスタジアム・ドームツアーに入ることに思い当たると、あたしもその話をしたかったのもあって声の調子が前のめりになる。
「アイチドーム公演が千秋楽になっちゃって、嬉しいような大変なような感じだよね! 基本うれしいけど、チケット取りにくそうだし……ファンクラブ先行抽選、ちゃんと当たるかなぁ」
 土・日と二日間あるアイチドーム公演。しかしながらファンクラブでは一人一公演しか申し込むことができないので、エルちゃんも両日参戦するつもりであるならば、一人が土曜に二人分のチケットを申し込み、もう一人が日曜に二人分申し込む、といった戦略をとるのが理想的なのだ。一人一公演しか申し込めずとも、S席なら最大四人分、SS席なら二人分まで申し込むことができるから。
 しかしあたしたちはそもそもが「一緒に行こうぜ!」と約束しているわけでもないので、言い出すのがたいへんはばかられる。ネストのツアーはアリーナ席も含めて全席指定なので、先述の戦略をとれば、必然的に両日とも隣の席でのご参加となるのだ。
「よかったら一緒に行こうよ! 土・日両方とも行こう!」
 と、そう言えたらどんなにいいだろう。……エルちゃんもそう思ってるんだったら、もっといいんだけどな。

 結局、ネストのライブについては探るような言葉を口にするのが限界で、約束を取りつけることは叶わなかった。
 ……大丈夫、大丈夫。申し込みの締め切り日までは、まだまだ日にちがある。
 地デジ化により一度は電波塔としての役目を終えたこのテレビ塔も、今ではスマホ向け配信サービスを対象に再び利用されているというし、ついでにあたしのこの気持ちも、うまいこと電波に乗っけていってくれないかなぁ……。もっとも、エルちゃんスマホ持ってないんだけどさ。

         §

 さてそんなあたしとは対照的に、大学にはストレートなお誘いを仕掛けてくる後輩がいる。
「とーる先輩とーる先輩っ! 今日からアラモーズ対ラビッツのアイチドーム三連戦ですよ! 一緒に観に行きまっしょい!」
 四時限目の講義も終わり、固定式の長机に広げられていた教科書やら筆箱・ルーズリーフなど諸々を大きめのトートバッグに次々しまい込んでいると、前席に座っていたみうちゃんが腰を浮かせくるっと反回転、その小さな体躯を活かしたコンパクトな動きであたしに向かい合い、今日も元気にプロ野球観戦のお誘いを仕掛けてきた。
 みうちゃんは長机同様に固定式で折り畳みタイプのイスに膝を乗せていて、百四十五センチしかないと日々嘆く彼女の身体が、今はちょっぴり高く感じられる。
「うーん。悪いんだけど、実は自転車のタイヤがパンクしてるみたいだから、今日は早く帰って自転車屋さんに行かないといけないんだよね」
 あたしはバッグの中身を整えつつ心底申し訳なさそうな声で応対する。まあつまりは「心底申し訳ない」なんて思ってはいないということなんだけど。
「えー! そうなんですかぁ……。……あれ? でも先週もそんな話してたような……」
 途端に疑わしげな眼差しを向けてくるみうちゃん。あたしはおそらく「しまった」という意味合いに見えるであろう刹那の動作停止をフォローするかのように、「あー……」と言って階段状の教室にありがちな無駄に高く厳かな天井を見上げ、「……いや、先週言ってたのは後輪でね? 自転車屋さんに持っていったときに、『前輪ももうだいぶタイヤ薄くなってるよ』って言われたんだけど、ケチってパンクしてる後輪だけ取り換えてもらったら、今週になって前輪もパンクして……というわけでですね」と、まるで思い出しながらしゃべるかのように――いや、本当に思い出しながらしゃべっているのだ――説明する。
 でも言葉を重ねれば重ねるほど、みうちゃんの瞳に宿る疑念の色は、墨汁を垂らしたかのように濃くなっていくばかり。
 ちなみにあたしの言い訳にはまだ続きがあって、「今週になって前輪もパンクして二度目の修理に持っていったんだけど、今朝になってまた前輪の空気が抜けているのが発覚して、三度目の修理に持っていかなくちゃならなくなった」というのが正確な状況だ。
 でもそんな説明は話をややこしくするだけだし、そもそも今日は金曜なのだから、どうしても今日のうちにパンクを直しておかなければならないというわけでもない。
「分かった分かった。行こう、アイチドーム」
 結局は観念してそう告げると、みうちゃんは「やたっ」という言葉と共に両手でガッツポーズをして喜んだ。
 ……まったく、野球好きの男の子でも誘えばいいのに――みうちゃんに誘われる度、あたしはそう思うのだけれど、彼女に言わせてみれば、「誘ってますよ。竜希たつきくんと遠藤先輩がアラモーズファンで、ピューマーズ戦は香取くんがピューマーズファンなのでこの前一緒に行きました。開幕戦だったので喜んでましたね。で翼くんはイロンデルズ戦要員。でもスターズ戦要員が少し不足してるんですよね……」とのことである。
「万年最下位だもんね、横浜ブルースターズ……」
「……やっぱりとーる先輩って、プロ野球詳しいじゃないですか。初対面のときは『でもあたしぃ、プロ野球はホント観ないしぃ~』なんて言ってかまぼこ売ってたのに!」
 みうちゃんがすかさず指摘する。しまったなぁ、口を滑らせた……。でもそんなキャピキャピした言い方してないし。あと「かまぼこ売ってた」ってなんだ。
「え、ええと。それにしても……なんだっけほら、他に行きたい人はいなかったの? ほら、ラビッツ戦って人気なのに……。あ」
 話を逸らそうとしたつもりがむしろプロ野球知ってますアピールになってしまった。
 もう遅いけれど指先で軽く口元を押さえたあたしを、みうちゃんは「やっぱり詳しいんじゃないですかぁ!」と言いたげな目で見つめ、そのほっぺを焼いたお餅みたいにぷっくーと膨らませると、無言のままコンガの演奏者みたいにリズミカルに机を叩いてみせた。……どんな抗議手法だ。
「先輩と! 行きたかったから! とっておいたんですよ! 金曜なら! 休み前だから! 先輩も! 行きやすいかと! 思って!」
 そんな、言葉に合わせて机叩かなくても。
 ……しかしなるほど、じゃああたしが一応はラビッツファンであることを知っていて誘った、というわけではないわけか。まあ、今月ちゃんと知り合ったばかりの大学の後輩がそんなことまで知っていたら、なんか怖いけど。
「それじゃ、先にチケット渡しておきますね。……先輩が自転車屋さんに、行ってしまわないうちに!」
「パンクしたのは本当なんだってば……」
 閑散とした教室にむなしく響くあたしの主張をよそに、みうちゃんはバッグから青色のポーチを手に取ってファスナーを開け、シーズンチケットの束を取り出す。よ、よーし、ここは相手の好きなものをさりげなく褒める作戦だ。
「そ、そのハリアーのポーチ、かわいいね! アイチドームで売ってるの?」
 あたしはみうちゃんのポーチに描かれた箔押し風の金色ハリネズミを指さして訊ねた。すると今日の分のチケットを切り離そうとしていたみうちゃんの手が、ピタリ……と嫌な感じで止まる。
 な、なぜ止まるのだ。あたしなにも気に障るようなこと言ってないよね?
「……今年から新しく増えた球団マスコットの名前知ってるとか、めちゃくちゃ詳しいじゃないですか」
 …………。もう黙っとこう、あたし。
 やがてあたしの額にお札のごとく張りつけられる、アイチドームのシーズンチケット。
 あたしは道士のコントロールを自力で拒否するキョンシーのようにそれを額から手に取って見てみると、席位置は驚きのバックネット裏。両面フルカラー印刷のその券面は比喩でなく実際に光沢感があった。
 ……みうちゃん、普通に持ち運んでるけど、バックネット裏のシーズンチケットってことは、あの束八十万円くらいするんだよなぁ……。あ、しかもみうちゃんの分のチケットもあるから、百六十万円か。いや、さすがに自分用のは束から切り離して当日分だけを持ち歩いてるんだろうな。
「お金。本当にいいの?」
 もっとも、払えと言われても手持ちの財布には五千円くらいしか入っていない。
「いらないです。これ、そういうチケットじゃないですから」と、みうちゃんはやはりあたしの申し出を固辞する。
「たぶん三日前くらいにも言いましたけど、『お友達用』なんですよ。むしろみうのほうがお金払ってでも受け取ってほしいくらいです。高校に入ってから、祖父が誕生日に二席分くれるようになって……『友達と行ってこい』と言うもので」
 みうちゃんの、もはや定型文化しているらしいその説明を聞いて、あたしは三日前に彼女と学食でばったり会って今日みたいに野球観戦に誘われたときと全く同じ感想を――「どんなおじいちゃんだよ!」――抱くのだけれど、もちろん口にはしない。きっとおじいちゃんだって、孫を思ってそのプレゼントを贈っているに違いないのだ。
 ……でも、アイチドームでのアラモーズ主催試合だけといったって、年に七十試合くらい……シーズン中は週に三日のペースで試合あるんだよなぁ……。あたしなら早々に友達誘うの諦めちゃうけど(そもそも誘える友達がいるのかすら怪しい)、みうちゃんはそれを高校生のころから三年間も続けてきたわけだ。そりゃあフレンドリーな性格にもなる。みうちゃん、この大学に入って一ヶ月と経ってないのに、もうすでに二回生のあたしの十倍くらい知り合いいるんじゃないかな。
 ……まあそんなわけで、あたしはお手洗いを済ませると、ドーム内で買うことを思えば全品半額以下のバーゲンセール状態であるといえる炭酸飲料(定価)を買い、みうちゃんと二人バスに乗って、ブオオーンと駅を目指した。

         §

「ドーム行く前に寄りたいところあるんだけど、いい?」
「いいですよ、もちもち」
 みうちゃんに了解を取り、あたしたちは地下鉄環状線への乗換駅で改札を出る。
 ストレスの吹き溜まりみたいな駅の地下からはい出ても、地上は地上で、愛知県の代名詞のようなクルマたちが時間から逃れるようにして走っている。
 金森かなもりアビイストリート。駅出口から続く歩道の車道側半分を利用したそのフリースペースは、休日こそ様々なアーティスト、パフォーマー、クリエイターで賑わうのだが、花金ながら平日の今日は端から三つ目のスペースにハンドメイド雑貨売りのおばさんがいたきりで、ストリートのオブジェ的役割を担う彫像芸の仮面の男性すら見当たらない。
 駅出口へと向かう人々を弾幕ゲームのチュートリアルをこなすかのように避けつつ、ストリートの端まで歩く。危うくみうちゃんを置いていきそうになる。
「どこへ行くんですか?」
 おおよそ「ちょっと待ってくださいよ」という意味合いのみうちゃんの言葉に、あたしはすぐには応じられない。
 目的地には、もう着いた。目的は、果たせなかったけど。
「アイスチョコレートオランジュモカノンモカエクストラホイップエクストラソース」
「え?」突如呪文を唱えたあたしに、みうちゃんは目をぱちくりさせる。
「……飲みたくなってきちゃった」
 あたしはみうちゃんの返事を待たずしてその手を引き、来た道を戻って……駅ナカのコーヒーチェーンへと連れ込んだ。やれやれ、なんでクリーム満載のコーヒーなんか飲まなきゃいけないんだろう。ていうか、なにか飲むにしたって、さっき買った炭酸飲料が未開封のままバッグに入ってるっていうのに。

         §

 ドーム内の通路。あたしは立ち並ぶ売店を完全に無視して、チケットに記された通路番号を探す。といっても神経をとがらせる必要は全くなく、あたしはみうちゃんの赴く先へと素直についていく。
 ごく短いトンネルのようなゲートを通り、価格の高い客席区域のためか脇に立っていたスタッフに再度チケットを提示し――やがて開けた視界の先には、無数の客席と、人工芝特有の冷めた黄緑のグラウンドが広がっていた。
 場内にかかっている音楽、そのボーカルの声に聞き覚えがあった。聞き覚えというか……それは間違いなく、国民的ロックユニット「ネスト」の羽名井はないさんの歌声だ。
「あ、そうか。今日のアラモーズの先発、不二ふじ投手なんだっけ」
「そうですよ。『ついにメジャーリーグから帰ってきた青い名馬・不二巧馬ふじたくまの先発に、地元ファンは大熱狂!』らしいです」
「みうちゃんは大熱狂じゃないの?」
「みうの場合、不二投手がアラモーズにいたときのことをほとんど知らないですからね」
「まあ、八年前だもんね」
 なるほどなるほど、それで平日だというのにこれだけお客さんが入っているというわけか。
 区域ごとに色分けされた客席は七割ほどが埋まっており、当然アイチドームを本拠地とするアラモーズファンが多いわけなのだけれど、アイチドームという施設自体がアラモーズのチームカラーである明るい青色を基調としているため、オレンジ色のタオルを首にかけているラビッツファンのほうがむしろ目立って見える。
 アラモーズのスターティングメンバーは既に守備位置につき、ホットケーキみたいな色合いのマウンドでは、地で険しい顔つきに加え、眉間に皺まで寄せた不二投手が、力のこもった投球練習をしている。
 いくらバックネット裏とはいえ、肉眼では眉間の皺までは見えない。でもバックスクリーンにやたらアップで不二投手の顔が映し出されるためそれが分かる。
 ……「青い名馬」か。どちらかというと、「一家の大黒柱」といった印象だけど。年齢ももう四十歳近いはずで、「青い」という言葉から香り立つ「未熟さ」みたいなものは微塵も感じられない。
「不二投手の登場曲をさ、ネストが書き下ろしたんだよね」
「へー……。あ、確かに今朝、テレビでそんな話をやってましたね。『BLUEブルー』でしたっけ、曲名」
「そうそう。CDいつ出るかなぁ……この前アルバムが出たばっかりなんだけど」
「ファンなんです?」
「うん。春休みに福井のライブにも行ったよ」
「そうなんですか。じゃあきっとすごく詳しいんでしょうね?」
「? まあ、詳しいけど」
「とーる先輩が『詳しい』と認めるってことは、それはよっぽど詳しいってことです」
 ……みうちゃん、冗談めかして刺してくるなぁ……。
 あたしは席位置を熟知しているであろうみうちゃんの後をついていきながら、取り繕うように話を続ける。
「あ、でね。そのライブで知り合った子がいるんだけど……その子、絵描きさんやってて、たまにさっきのストリートで絵を描いてるんだ。それでちょっと寄らせてもらったの」
「へー? どんな絵を描いてるんです? 似顔絵とか?」
 よし、うまい具合にみうちゃんが興味を持ったぞ。話上手だなあたし!
「ううん、なんていうか……変な絵? あ、でもすごく良い絵だよ」
「でも、変な絵なんですよね?」
 みうちゃんは不思議そうに訊き返す。きっと抽象画かなにかを思い浮かべているのだろう。でもうーん、エルちゃんの絵を表す適当な言葉が見つからない。話下手だなあたし。まあ、絵を言葉で表現しようってこと自体がなんかちょっと無茶なんだろう。
「あ、席、あそこの二つです」
 そう言ってみうちゃんが指さしたのは、バックネット裏後方の、少し一塁側に寄った席だった。階段状になっている席間の通路をえっさほいさ上がっていくと、それは後方というか、客席としては最高尾にあたる席だと分かる。
 一応、その席の後ろにはデスクつきの席が二列あるのだけれど、まばらながらそこに陣取っている人たちは、明らかに「野球観戦にきたぜいビールぐびぐび」といった方々ではなく、白球を打つ選手たちの動向を文字に置き換え、傍らのノートパソコンに打ち込んでいく――いわゆるスポーツ記者の方々だった。
「誘っておいて後ろのほうで悪いんですけど」
「いやいや、バックネット裏だし。それに、近ければいいってものでもないしね」
 クッションのしっかりしたその席に座り、肘掛けに手を置く。その二つがあるだけでも、野球観戦においては望むべくもないことだ。
 それに実際、野球というのは高いところから見下ろすように観たほうが状況を把握しやすい。下手に前方の席だと、目線の高さが選手のそれと大して変わらず、審判の背中に隠れてボールが見えなかったり、遠近感が狂って打球がどの程度飛んでいるのかが分からなかったりする。
 まあ、かといって五階席までいくとさすがに遠いので、高ければいいというわけでもないのだけれど。
「ネストって、愛知県出身のバンドなんですか?」
「え、なんで?」
「いやほら、不二投手の登場曲書き下ろすくらいですから。なにか関連があるのかなって」
「うーんとね、羽名井さんは岐阜県出身だけど……特に野球ファンではなかったような。ギターの津間つまさんはどうだったかな」
 ファンとしては「分からない」で済ますわけにもいかず、あたしは携帯電話を取り出してネストの公式サイトを確認する。……あとネストは一応、バンドじゃなくてギターとボーカルの「ユニット」なんだけど……まあいいや、そんなのは野暮な指摘だ。そもそもここ何年かはサポートメンバーもほぼほぼ同じ顔ぶれだし。
「津間さんは神奈川県出身だね。で、元々はロサンゼルスでレコーディングしてるときに、津間さんと不二投手がレストランで偶然出会って、『来年日本球界に復帰するので登場曲作ってくれませんか』っていう流れになったみたい」
「へー、あっちで出会ってたんですね。まあ、ロスって日本人多いですもんね」
「そうなんだ」
「気候が良いですし、海もきれいですよ」
 みうちゃんまるで見てきたみたいな言い方するけど、……いや、よく考えたらおじいちゃんが誕生日にシーズンチケットくれるくらいだし、これ本当に見てきてるやつだ。
「えーっと、だから、地元球団ってわけではないみたいだけど。不二投手の日本球界復帰を後押しする感じで、良い話だよね」
「良い話……、なんですかね」
「えー?」まさかそこをご同意いただけないとは。
 ……あれ? もしかしてみうちゃんって、アラモーズのファンじゃないのかな。ううん、ポーチがハリアーだったし、それはないか。
 バックスクリーンに『PLAY BALL』の文字が表示され、平均約三時間にも及ぶ投げて打って走るゲームが始まった。
 といってもその日の試合は、初回に飛び出した眠気覚ましみたいな先頭打者ホームランの一点をラビッツが守り切って勝利したため、約二時間半のコンパクトな試合で、そしてまあハッキリ言ってしまえば、大して盛り上がるシーンがないまま終わってしまった。
 完封負けを喫したアラモーズファンはもちろん、ラビッツファンのあたしだって、「ああ、一回表のあのときが一番の盛り上がりどころだったのか」という、ぽかんとした心持ち。そりゃそうだ、誰だって最初に打ち上げられた花火が一番の見どころだなんて思わないよ。

『放送席放送席、今日のヒーローは、見事な先頭打者ホームランを放った、高丘たかおか選手です!』
 聞き取りやすく嫌味のない声が響き、バックスクリーンを見上げてみると、そこには一回表に両チームを通じて唯一の得点となるソロホームランを放った高丘選手の姿が映っている。
 グラウンドへ視線を落としてみると、それが不自然に隅っこのほうで行われていることに気がつく。今日のようにビジター側が勝った場合、ホーム側のファンの感情を逆撫でするような事態にならぬよう、いわゆる「お立ち台」は用意されない。その映像や音声に関しても、アイチドームではちゃんと流しているけれど、球場内のスクリーンには流さないよという方針の球場もあるくらいだ。
「へー、てっきり完封勝利のグラン投手が呼ばれるかと思ったんだけど、高丘選手なんだね」
 決勝点を放った打者と、九回を無失点に抑えた投手。ホーム側であれば二人ともお立ち台に上がることができるのだろうが、ビジター側の場合は原則的に一人なので、どちらかを選ばなければならない。
「あれじゃないですか、外国人選手のヒロインは、盛り上がらないから」
 試合終了直後こそ放心状態に陥っていたみうちゃんだったが、今は比較的サバサバとした様子でスマホを構え、バックスクリーンの右半分に表示されている各回の点数表示をシャランリンランと撮影している。
「でもビジター側のヒーローインタビューなわけだから、あんまり盛り上がっても困るし、そういう意味ではむしろ外国人選手のほうが選ばれやすいんじゃないかな」
「確かに、言われてみればそういう気もしますね。じゃあなんででしょう。……あ、確か高丘選手って、岐阜県出身だった気がしますし、そのせいかもですね」
「へー、そうなんだ。じゃあ凱旋的な意味合いもあって、選ばれたのかな」
 あたしは納得したように言いながらも、心の中では「いや、不二投手と対戦した感想を、打者である高丘選手の口から聞きたかったんじゃないかな」と考えていた。要するに、今日の試合の注目点はやはり不二投手の日本球界復帰登板にあったし、それに触れずに終わるというのも忍びないというか、そういった面があったのではないだろうか。
『ええ、今日は相手が不二さんなので、これは一点を争う試合になるぞと思って……』
 そうそう、結局はそういう感じの、敬意を払った大人な受け答えをお待ちしておりましたのだろう。高丘選手、分かってるなぁ。……なんてあたしが感心していると、みうちゃんが「そろそろ行きます?」という感じで立ち上がったので、あたしもカップホルダーに置いていた空の紙コップを手に取り、足元のトートバッグを拾い上げる。
 場内には引き続き、月並みな質問――『どんな気持ちで打席に向かったんですか?』に答える高丘選手の声が響く。
『試合前に、好きな音楽を聴いてね、気持ちを盛り上げて、最初の打席に向かいました!』
 そのごくなにげない高丘選手の言葉に、一瞬あたしの中でハッと、なにか忘れていたことを思い出したかのような……そんな感覚が走った。でもそれは目覚めた後の夢の内容のようにおぼろげになって、すぐに霧散してしまう。
「先輩? どうかしました?」
「……ううん。なんでもない」
「そうです? さ、負けましたし、バーレルでクリームぜんざいでも食べて帰りましょう!」
 敗戦から気を取り直さんとばかり、ドーム前にあるショッピングセンターの名を挙げるみうちゃん。まあ勝っても同じことを言っていそうな気はするのだけれど、ちょうどあたしもソフトクリーム的なものを食べたい年頃になっていたので、あえてツッコまない。ドーム内で売ってるソフトクリーム、割高だしね。
「その前にちょっと売店寄っていい?」
「? なにか買うんです? おべんと買うなら『キャプテン後藤のまるごと海の幸弁当』がオススメですよ! あと後藤選手のカードでコンプなんです!」
 五回の表から六回の表にかけて「ハリアーのとげとげ栗ごはん弁当(おまけカード付き)」を食べていたみうちゃんが言う。いや自分でコンプしなよ。
「いや、ちょっと選手名鑑を見たいだけだから」
 というかあの後藤選手のプロデュース弁当って、写真からして天丼だし。しかも「まるごと海の幸弁当」なのに思いっきりレンコンの天ぷら入ってるし。
「せんしゅめいかん、ですか」
 みうちゃんは復唱しつつ、あたしが持っているのとは生地からして違う型崩れしなさそうなバッグからA5判の選手名鑑を取り出す。
「あ、持ってたんだ」そして文庫サイズの携帯用じゃないんだ。
「必携アイテムですからね」必携アイテムなんだ。
「みうちゃんって、レプリカユニフォームも着ないし応援グッズも持ち込まないんだなぁと思ってたら、選手名鑑は必携扱いなんだね」
「ですです。講義がつまんないときはだいたいこれ読んでます」
 必携アイテムって、野球観戦にじゃなくて、大学生活においてという意味か。
「よければ名鑑選び手伝いますよ! いろいろありますからね! 買うならここの売店より、バーレルの本屋さんに行ったほうが種類置いてあると思います!」
 あたしがプロ野球観戦に興味を持ち始めたのだと勘違いしたのだろう、嬉しそうに言うみうちゃんに、「や、後でそれ見せてくれればいいから」ときっぱり返すと、「しょぼーん」とか言ってあからさまにがっかりされてなんか罪悪感。というか、もしまた一緒に来るにしたって、二冊もいらないと思うんだけどな……。

         §

 選手名鑑には実に様々な事実が載っている。生年月日、年齢、出身地、身長・体重、血液型、投・打、在籍年数、推定年俸、経歴、獲得タイトル、成績……そして、登場曲。含みのある言い方をするなら、事実だけが載っている。
「先輩って、ラビッツファンだったんですね?」
「えー? いや、そういうわけじゃないよ?」
 歩道橋でアイチドームと直接連絡しているバーレルショッピングセンター。その二階フードコートで選手名鑑を広げ、テーブルを確保する係を受け持っていたあたしに、注文係を買って出たみうちゃんが戻ってくるなり言う。あたしが東京紳志ラビッツの選手ページを見ていたからだ。
「そんなこと言ってもダメです。だって先輩、ちょくちょくグラン投手がストライクとったときに拍手してましたよ」
「え、ホントに?」
「嘘です」さらりとみうちゃん。侮れない。「でも、やっぱりラビッツファンなんじゃないですか」
 みうちゃんは癖なのかまたもや頬風船を膨らませながら言い、鼠色のトレーをテーブルに置いてそこに載っていた二つのクリームぜんざいのうち一つをあたしに差し出す。
「それにしても、みんな一球一球、味方の投手がストライクとったら拍手してるけど……打たれてファウルのときって、どうしたらいいんだろうね」
 堂々と話を逸らしてみた。まあ野球の話であることは変わりないので、ある意味逸らせていないのだけれど。
「ストライク増えるんですから、拍手すればいいんじゃないですか?」
「じゃあ、もともと2ストライクで、増えないときは?」
「そのときは……まあ、しなくていいんじゃないですか、たぶん」
 どうやらみうちゃんの追及からは逃れられたようなので、あたしは安心して幼児向けみたいな形状の銀色スプーンでソフトクリームをすくい、それをぜんざいに浸すようにしてから口へと運んだ。
「みうちゃんはやっぱり明日も行くの?」
「行きますよー。兄がラビッツファンなので、明日はお兄ちゃんと行きます」
「なんだ。じゃあお兄さんと行けばいいじゃん」
「いやー……。兄はどっちかっていうと、自分でやるほうなので」
「?」あたしがその意味を捉えかねていると、みうちゃんは「お兄ちゃん、大学で野球やってるんです」と補足する。そしてなにがすごいのか分からない「へー、すごいね」を繰り出したあたしは、しかしながら興味を示すことなく、「明日は勝つといいね、アラモーズ」とやや上から失礼したコメントを残す。
「そうなんですよね。開幕早々連敗して、勝ったと思ったらまた連敗……ハリアーが毎日、SNSでしょんぼりしてますよ」
「ハリネズミがSNSをやっている」
「やってますよ。試合前と試合後に毎回イラスト付きで呟いてます」
「ふーん……すごいね」こちら、本日二度目のすごいねとなります。
「かわいいですよ。ほら」
 そう言ってみうちゃんが無邪気に見せてきたスマホには、ハリネズミのハリアーが自転車に轢かれてひっくり返っているイラストが表示されていた。なぜか近くにボールとグラブが転がっている。路上でキャッチボールしてたら轢かれたのかな。『0-1……』と、試合結果も記されている。
「パンクしてそう」
 あたしは「自転車の心配ですか」というツッコミを期待して言ったのだけれど、みうちゃんは「ぱんく」と、まるで知らないジャンルの音楽を勧められたかのように呟いてクリームぜんざいを一口食べ、ややあってスマホの画面に手を触れ、「ああ。これ、轢かれたんじゃなくて、ハリアーが自転車に乗ってて転んだ絵です。です」と言って(なぜ「です」を二回言ったのかは分からないですです)、試合前に投稿されたと思しきイラストを表示させる。
『今日からラビッツ戦だ!』とのコメントと共に、自転車のサドルの上にちょこんと乗ったハリアーの絵。……なるほど。
 あたしが「そういえば、明日は忘れないように自転車直しに行かなきゃ」と自分に言い聞かせるように呟くと、みうちゃんは「その話、本当なんですかぁ?」と疑わしげに言った。……本当だってば。

         §

「透ってもしかして、野球に詳しい?」
 エルちゃんからそんな電話がかかってきたのは、みうちゃんと野球観戦に行った翌週のことだった。
「……まあ、人並みには」と答えたあたしは、突然の野球ブームに内心混乱。一限から四限までみっちりぽんな火曜ゆえに憂鬱な気持ちは、いつも玄関を出るときに台所の母に言う「行ってきます」の挨拶と共にすっかり忘れ去られてしまった。
「じゃあさ、野球教えてよ」
「ごめん、なんて?」
 玄関扉を閉めるタイミングと被ったせいで、言葉を聞き間違えたかなとあたしは思い、一応訊ねてはみたものの、それはやはり「(朝から)焼きうどん食べてぇよ」と言ったわけではないみたいだった。
「野球。教えてよ」
「……本気で言ってる?」とあたしが再度訊ねるより早く、エルちゃんは「今日暇?」と、予定をつき合わせる段階へと話を進めてしまっている。しかも今日って。
「今日は一限から四限まで授業あるよ。それに、」
 あたしグラブとか持ってないし、と言おうとしたところ、エルちゃん曰く、「じゃあその後で」と。
「なんか怒ってる?」
 というか、なにが起こってるのか。
「怒ってない。金森駅、何時くらいに来られる?」というエルちゃんの問いに、あたしはおとなしく、「……五時くらい?」と答えるほかない。
「じゃあいつものところに、五時ね」というエルちゃんの言葉で通話は終わり、「……なるほどね」となにがなるほどなのかは全然分からないけれど、とにかくあたしは事件のからくりに気付いた名探偵のように一人呟いた。
 そして教科書やらなんやらが窮屈そうに暮らしているトートバッグの中へ携帯電話を落とすと、そのバッグを自転車の前かごに入れてハンドルを握り、車体を斜めに支えていた一本スタンドにすぱっと華麗な大外刈りをかける。
「そういやパンク、直ったのか?」
 そこで同じく出がけの父が玄関から出てきたので、「うん、直ったよ。ようやく」とあたしは答え、「三度目の修理代はサービスしてもらえたし」と付け加えた。
「まあ、直してもらってすぐにまたパンクしたんだから、当然だな」
 満足したように父は言い、クルマに乗り込む。あたしは騒がしく朝ごはんを食べ始めたそのクルマの脇を慎重に通り抜け、たぶん聞こえていない「行ってきます」を言って公道に出た。

         §

「とーる先輩とーる先輩っ! 今日からスターズ戦ですよ! ようやく勝てますよ! 三連勝いけますよ!」
 講義室の前で野球部の練習着を着た男子二人にカツアゲされてる女の子がいるなぁと思ったら、それは蔵井くらいみうちゃんでした。
 見て見ぬふりで講義室へ入ろうとしたあたしに、ブルースターズファンが聞いてたらぶん殴られそうなセリフをそうやって無邪気にかけてきたところをみると、そばに立つ巨人たちとはどうやら普通に談笑していただけらしい。
「蔵井、おまえ……今日からスターズが三連勝だからな! みてろよ!」
 野球部員二人のうち一人がそう言い残し、みうちゃんを指さしてから去っていく。いちいち声が大きい。
 うちの大学の野球部っていつも練習着姿で講義に出てくるから、どうひいき目に見ても練習の合間に授業を受けてます感がすごいのだけれど、態度自体は悪くない。それこそ部の看板を背負っている自覚があるから、居眠りなんてできないのかもしれない。
「あ、で、竜希くんは今日のね。はい!」
 みうちゃんが例の箔押し風ハリアーポーチからチケットを取り出し、残った一人に渡す。うちの大学の野球部、ちゃんと練習してるのかな? いや、常に練習着なのだから、してるのか。それに、野球やるほど野球大好きな人が野球忙しくて野球観に行けないというのも変な話だし。
「へー、スターズファンの人もけっこういるんだね」
 あたしこそよく考えたらそこはかとなく失礼なことをナチュラルに言うと、その竜希くんとやらは「いえ、自分はアラモーズファンなんで」と否定したので、なんとなく胸を撫で下ろします。
 ああ、確か前にみうちゃんがそんなこと言ってたな。なんだっけ、竜希くんと遠藤先輩がアラモーズファンなんだっけ。じゃあひょっとしてさっきの声が大きい人が遠藤先輩? いや、さっきの人は貴重なスターズファンっぽかったから違うか。まあ誰でもいいや。
「竜希くんはよく付き合ってくれるので助かってます。でもちゃんと練習しなきゃダメだよ~?」
 ポーチのファスナーを閉じながらみうちゃんが冗談交じりに言う。それに対して竜希くんとやらが「ちゃんとやってるって~」とか言ってるので、あたしは「おっ、あたしお邪魔かなー? でもどっちかっていうと講義室入るのに邪魔なのはお二人のほうなんだけどなー」と思いながら、辛抱強く時を数えその場にたたずんだ。

「……アラモーズファンっていうより、みうちゃんファンみたいな感じだね」
 竜希くんとやらが去った後であたしが感想を言うと、みうちゃんは「確かにみう、一部の男の子たちから『天使』と崇められてますけど」と、こじらせ系ネットアイドルみたいなことを言いながら頭上で人差し指をくるくると振ってみせた。おそらく天使のリングのつもりだろう。
 そしてみうちゃんはまたいつもの天真爛漫な笑顔を浮かべ、「あ! そういえば木曜のチケットありますよ! 一緒に行きましょう!」と、余計なことを思い出す。
「もちろん、自転車の調子が悪くなければ、ですけど!」
 話題に困ったらとりあえずそれ言っておけばいいと思ってないか、みうちゃん……。
「自転車はね、まあいろいろな間の悪さと誤解を経て、一応直りましたね」
 それからあたしは、講義が始まるまでの暇潰しに、事の顛末を説明した。
 まず後輪がパンクして、自転車屋さんに直してもらいに行った。そこで前輪もだいぶタイヤが薄くなっていることを指摘されたが、そのままにしておいた。そしたらほどなくして前輪もパンクした。それに一番早く気付いたのは父だった。
 父はあたしの自転車のタイヤがぺちゃーんとなっているのを見て、とりあえず空気を入れてみた。
 でもそれを聞いたあたしは、「ああ、やっぱり前輪もダメだったのか」と早々に見切りをつけ、自転車屋さんへ持っていった。「前輪もやっぱりダメみたいなので交換してください」と。そこで「パンクしているので」と言わなかったのが失敗だった。
 パンクならばチューブを交換しなければならないのだが、父が空気を入れてからまだ時間が経っておらず、チューブはパンパンに膨らんでいた。だから自転車屋さんはまさかパンクだとは思わず、タイヤだけを新品に交換した。あたしはすっかりチューブという概念というか、存在を忘れてしまっていたのだ。タイヤの内側にそのまま空気を入れているような気になっていた。
 しかしそれにしたって、タイヤを交換する際にはチューブの空気を一旦抜いて作業するんだろうに、空気を入れ直したとき、店員さんはパンクに気付かなかったんだろうか。不思議でしょうがない。
 ……というような話をばりばり噛み砕いてしたところ、その話に対するみうちゃんの感想は、「で、結局直ったんですね! あとこれ木曜のチケットです!」だった。
 だから行かないってば。ラビッツ戦でさえテレビでいいやって感じのあたしなんだから、アラモーズ対ブルースターズの試合なんか観に行くわけがないじゃないか。

         §

「……あれ?」
 バックネット裏後方にある記者席にしっかり座ってしまってから、あたしは今さらながらに我に返った。
 ――なんであたし、アイチドームにいるんだっけ?
 隣にはおっしゃれーなノースリーブトレンチコートを普段着みたいに気安く着こなすエルちゃんが座っていて、デスクにはタブレット――なんかペンで画面に直接絵を描いてるけど、これタブレットで合ってるのかな――が置かれている。
「だからね、あたし野球よく知らないから、分かんないとこいろいろ教えてほしい。わけで」
「わけで」
 まるで試験前に勉強を教えてもらいたい人みたいに言うエルちゃんは、グラウンドになど目もくれず、画面の中に閉じ込められたハリネズミと向き合っている。
 そのハリネズミの背中にはトゲが生えているのだが、耳の辺りからお尻にかけ、二本の赤い曲線がひかれているかのようにトゲの色が変わっている。頭を抱えるように丸まると、この背中の赤い曲線がちょうど野球のボールの縫い目のように見えるというわけだ。
「な、なんだって? アラモーズ新マスコットキャラコンテスト?」
「そう。去年の夏にね、募集してて。ちょうど動物描きたかったのもあって、応募してみたの。そしたらグランプリに選ばれて」
「はー」さらっと言うなぁ。「それで、毎試合球場でネットにアップするイラスト描いてるの?」
「もちろん毎試合じゃないよ。そもそも半分は別の球場でやってるみたいだし」
 エルちゃんは話しながら、階段から転げ落ちて仰向けになっているハリアーのイラストに着々と色を塗っていく。たぶんこれ、負けたとき用のイラストなんだろうな……。
「でも、時間があればいつでも来てほしいって言われてるから。ハリアーに『今日も応援がんばるぞ!』とか言わせてるのに、描いてる人が試合に無関心じゃ味気ないでしょ?」
「まあ。確かに。……だけど大変そうだよね、試合前のイラストはともかく、試合後のイラストは勝つか負けるか分からないから、二パターン用意しなきゃダメなんじゃない?」
「ストックがあるから、大丈夫。なにも今日の分を今描いてるわけじゃないから」
「そうなんだ」
 まあそうでもしないと、毎試合毎試合ゲームセットと同時にイラストをアップなんかできないか。
「ちなみに担当の人からは、負けたとき用のイラストを優先して描くように言われてる」
「それはひどい」まあ実際、アラモーズの今季勝率、四割切ってるから正しいんだけど……。
「今描いてるのは、早ければ明後日載るかな。一応この階段、アイチドーム前矢田駅を出たところのあの長い階段のつもりで描いてるから、今日からの三日間で使われなければ、また来週末」
「そっか、球場とか対戦球団にちなんだ絵を描くと、そうなるよね」
 言いながら、あたしは二列前の席に座るみうちゃんと、例のみうちゃんファン兼アラモーズファンな野球部員の後ろ姿を見つける。ちなみに、練習着ではない。そうか、野球部員もさすがに通学時は私服なんだな。
「でもあたしだってそんなにアラモーズに詳しいわけじゃないよ? もともとラビッツファンだし」
「ラビッツ? ……なんだっけ、『キャロットカラーのキュートなウサギ!』のとこだっけ」
 ……マスコットキャラクターで覚えてるのか。っていうかキャロットカラーだったんだあれ。
「たぶんそう」
 最も歴史が長い日本球界の盟主的存在をその認識なのはなんか少し抵抗があるけど。まあ間違ってはいない。
「ラビッツは強いの?」
「強いよ。優勝回数一番多いよ。ほとんどいつもAクラス――三位以上だし」
「へぇ。一試合に何回くらい回るの?」
「回る?」
 回るってなんだ。点が入ったとき、オレンジ色、もといキャロットカラーのタオルをみんなで回すけど、それのことだろうか。
「ほら、なんだっけ、ダイヤモンド」
「ダイヤモンド」
「? 『ダイヤモンドを回る』って言うんじゃないの?」
「あー……、言うね」
 考えてみれば、野球というのはもともと「回る者たち」を意味する「ラウンダーズ」という名前の球技が原型だし、エルちゃんの解釈もあながち間違いではない。
「一塁・二塁・三塁・ホームを結ぶ線のことを『ダイヤモンド』って呼ぶわけだけど……でもあれって、全然ダイヤに見ないよね。フェンスの外周を結ぶ線だったら、扇形っていうか、よくあるブリリアントカットのダイヤを横から見た形に見えなくもないけど」
 なにげなくあたしが言うと、エルちゃんはなおいっそう疑問符を飛ばしてくる。
「? ダイヤって、菱形って意味でしょ?」
「え? そうなんだ?」知らなかった。
「トランプのダイヤとか菱形じゃない?」
「言われてみれば。……そうか、ダイヤって菱形のことなんだ」
 むしろあたしのほうが教えられている。これはまずいぞ。
「お、あらモンだ」
 あたしはせっせと話題を逸らす。グラウンドでは「スピードボールチャレンジ」なる試合前イベントが始まり、両軍ダッグアウトの間にある出入口から登場したアラモーズのマスコットキャラクター・あらモンが、事前の抽選に当選したらしい五人のちびっ子たちの先陣を切るかたちでマウンドへと駆けつけた。
 あらモンは、言ってしまえばユニフォームを着た人間にコアラをモチーフにした特徴的な丸耳のある被り物をしただけなので、機敏な動きが可能だ。八回表に入る前にはバク転のパフォーマンスもするし。かっこよくもかわいくもキモくもないゆるい顔立ちがウリのマスコット。よくサボってる。サボってるというか、サボり芸というか。シュールな笑いをとるタイプの芸風の持ち主だ。
「ハリアーもいるよ」とエルちゃんがささやかな我が子アピールをする。ちびっ子たちの殿しんがりを務めているのがハリアーだった。務めているというか、着ぐるみハリアーは体形的に走ることができないため、かなり遅れをとっている。
 ハリアーはあらモンとは対照的にずんぐりむっくりな体形で、中の人の全身をすっぽり覆っているタイプの着ぐるみだ。ちょっと手で押したら簡単に転倒してしまいそうな丸い身体を揺らし、よたよたと子供たちの後をついていく(ついていけない)。当然、あらモンのようなアクロバットもできない。まあたぶん役割分担的にそれでいいのだろう。きっと。
 子供たちが一人二球ずつ、アラモーズのキャッチャー・繁松しげまつ選手めがけてボールを放る。小学生男子は八十キロ、女子は七十キロを超える球を投げればアラモーズグッズがもらえるのだが、これがなかなか無茶な設定で、いっこうに達成者が出ない。最後にマウンドに上がった少年団の野球のユニフォームを着た男の子が、七十九キロを出していた。惜しい。
「それで、どういうところが分からないの?」
 あたしは徒競走でドベの子がゴールするのを生温かく見守るような心境で、着ぐるみハリアーがバックネット付近へ帰ってくるのを眺めつつ訊く。
「たとえばさ、右打者と左打者っているじゃない?」
「うん」
 ちなみに、投手から見て右のバッターボックスへ入るのが右打者で、左に入るのが左打者だ。
「右打者の人は、なんで時計回りに回らないの?」
「うん?」
 質問の意味が理解できず、あたしはエルちゃんのほうを見る。バックスクリーンには、着ぐるみハリアーがカニ歩きになって手狭な出入口を通り抜ける様が映し出されている。
「右打者なら、三塁? に向かって走ったほうが、近くない?」
 着ぐるみハリアーが無事に奥へと消えると、エルちゃんはサッカー場に置かれている三角形の看板みたいにいい感じの角度で自立しているタブレットの画面へと意識を戻した。
「いや、近いけどね? でも打者によって走る方向変わったら混乱するっていうか……。そもそもランナー出たらややこしいよ」
「それはそうだけど。でも、左打者のほうが一塁に近い場所で打てるのって、なんかずるい気がする」
「まあ確かに、一塁に近いからって理由で左打者になったりするよ。右利きでも。それに左打者ならバットを振った勢いのままこう……一塁に向かって走っていけるわけだし。そのうえ、多数派の右投手を相手にするには、左打者のほうが有利なわけだし」
 あたしは素振りをするそぶりをしながら左打者のメリットを説明する。ちなみに、日本ではバットを握る際に下にくるほうの手――「引き手」主導で、体重移動による力をメインに利用するバッティングが多かったため、右利きの人間が左打者になることはむしろ好都合な面もあったのだが、逆に、バットを握る際に上にくるほうの手――「押し手」主導で、「押し手」の力強さをメインに利用するバッティングのほうが、体重を軸足に残したまま目線をぶらさずにスイングすることができるため、メジャーリーグではこの「押し手」主導のバッティングをする選手が多いらしい。
 つまり、「引き手」主導のバッティングでは体重移動による力をメインにすることが必要不可欠だが、「押し手」主導のバッティングでは腕の力をメインとしてスイングすることができるため、体重移動を派手に使わない分だけ様々なメリットがあるということだ。
 が、先に話したように近年では内野安打の生まれやすさから左打者となる右利きの選手が増えているため、「押し手」は利き手ではない左手となり、「押し手」主導のバッティングで活躍することは困難なのである。逆に「引き手」主導であれば、腕の力よりは体重移動による力をメインとしているため、問題ないのだけれど。
 どっち主導とか無しで両手均等に使えばいいじゃんという方もいるかもだが、それだと両手の力がケンカしてスイングスピードが落ちるので、基本的にはどちらかの手で主導することになる。
「なんで右投手には左打者のほうが有利なの?」とエルちゃん。
「球の出所が見やすいからだよ。ほら、右を向いて構える右打者より、左を向いて構える左打者のほうが、打者から見て左側から投げてくる右投手の球を打ちやすいんだよ」
「? なんか左右関係がよく分からなくなってきた」
「右も左も分からないってやつだ」
 うまいこと言ったつもりのあたしだったが、エルちゃんは「それとは違う気がするけど」とリアクション薄しお。しかも話しながら手をちゃっちゃかと動かしている。
 ……まあ実際、打者から見て左にレフトスタンドがあるのに、左にあるのが右打席なのがすでにちょっとややこしかったりするんだけど。
「そういえば先週、不二投手が先発で、ネストの新曲が流れてたよ」
「知ってる」
「知ってるんだ」
 まあエルちゃんはネストの追っかけに近いファンで、今年の二月に福岡の北九州サンモルホールから始まったホール・アリーナツアーを全通する勢いで各地を転々としていたようなお人だから、ネストに関連することはなんでも知っていて当然か。
「だって、そのときも私ここにいたし」
「……なるほど」
 ちなみにこの「なるほど」はいろいろな意味を含めたうえでの「なるほど」だ。
「あ、あれー? じゃあもしかして、どこかですれ違ったかもね! あたしもその日、大学の後輩に誘われて観にきてたし!」
「知ってる」
「……それも知ってるんだ」
 まあでもこれで一つ謎が解けた。あたしがドームに来てるのを見て、「あーあいつ野球詳しいんだなー」ということで解説役として白羽の矢が立ったということなのだろう。
 まったく、いるのに気付いてたなら声かけてくれればいいのになぁ。
 グラウンドでは、今日の試合の主催企業である生命保険会社のお偉いさんが始球式をして、わりと地味な感じで試合が始まった。先攻めはビジター球団なので、打席に入る選手の登場曲もかからず、盛り上がらないのだ。当然ビジター側のファンの数も、ホーム側のファンよりは少ないわけだし。
「アラモーズってさ、なんでいつも後攻め? なの?」
「アイチドームでやる試合は、アラモーズのホーム試合だからね。ホーム側が後攻めって決まってるの。あとはビジター側に敬意を表して『どうぞ先に攻撃してください』的な意味合いもあるとかないとか。まあ、後攻めのほうが有利って言われてるんだけどね。……聞いてる?」
 あたしが一方的にしゃべりすぎてる感が気になったのと、エルちゃんが自分で描いているハリアーの絵(階段から転げ落ちて背中の針が地面に突き刺さり目がバッテンになっている)を少し画面から顔を離して全体の出来を確かめるように眺め、あらあら我が子がこんな可愛い失敗の仕方をしているわうふふみたいな感じでちょっと表情をほころばせたのを見て、あたしは訊ねた。
「ちゃんと聞いてるよ。後攻めが有利なんでしょ?」
「うーん、でも有利さの根拠ってほとんど精神的な部分だから、正直言って本当に後攻めが有利なのかは分かんないけどね。……まあ、日本のプロ野球は延長戦は十二回まで同点だったら引き分けとする決まりだから、十二回ウラの攻撃はもうそれ以降の守備配置とかを気にしないで自由に代打を送ることができて、そこは確かに後攻めのほうが有利だと思うけど」
「実際に後攻めのほうが勝率は高いの? 統計的に」
「もちろん高いよ。高いけど、それは後攻めだからじゃなくて、『ホーム球団が後攻めだから』という理由のほうが大きいだろうから、参考にはならないと思う。そりゃ自分の本拠地で試合したほうが有利に決まってるし。だから本当に後攻めが有利なのかは、確かめようがないかな。プロ野球ではね」
「でも、一回表でいきなり十点とか入れられたら、意気消沈しちゃいそうじゃない?」
「そうだね。だから先攻めが有利なんだって言う人もいる。まあでも実際問題、ビジター側がサヨナラ勝ちしたら、観客は反応に困ると思うけどね……」
 それからあたしはサヨナラ勝ちについて説明した。なんだかんだでエルちゃん質問を続けてくるので、あたしは時折ガラケーの心許ないネット検索能力の助けを借りながら、それらに答えていった。
 エルちゃんは「一人で夕飯を食べるに際してなんだか静かだし特別聴きたいわけじゃないけど賑やかしのためにラジオでも点けておくか」というようなノリでそれを聞いて、時々「ふぅん」とか「そうなんだ」とか「アラモーズ、今日も負けてるね」とか、申し訳程度の相槌を打ち、そしてそれより多く「ビール飲みたい」と言った。……飲めばいいじゃん。記者席ではダメなようです。

         §

 試合後の混雑した地下鉄電車に二人で乗り込む。開閉扉横にもたれかかるエルちゃんを痴漢から守らねばと向かい合う形で立つと、揺れによって思わず壁に手をついたあたし自身がむしろ痴漢みたいな格好に。ふう、とりあえずバッグから携帯を取り出してさっきネットに上げられた哀愁のハリアーのイラストでも眺めていよう……。
「今日のこれは、勝ってたらどんな絵だったの?」
 折り畳み式携帯電話の小さな画面の中で横たわるハリアー。近くには一輪車と、野球のボールが三つ。試合前のイラストでは、一輪車のサドルの上にちょこんと乗って、三つのボールを使って曲芸的お手玉をしている。
「勝ったときの絵は普通に『やったー!』って感じの絵だよ。試合前の絵の種類に関係なく使えるやつね。勝ち用イラストは使われない可能性高いから、ストックできる絵にしておかないと」
 この「基本的に負ける前提で進めていきましょう」的なノリ……。
「ハリアー、先週は自転車に乗ってたよね。……ネタ切れ?」
 からかい混じりに言うと、「ハリアーがそれに乗ってアイチドームに行ってるっていう設定だから」という至極真っ当なご回答をいただいた。……なるほど。
「金森って居酒屋多そうだよね。あんまり縁がないけど」
 地下鉄の乗換駅への停車を経て混雑も緩和され、同時に目的地である金森駅が近付くと、あたしは後回しにされていたこの後の行き先について水を向けた。
「居酒屋でいいの? お酒飲まないんでしょ、透は」
「飲まないけど、だからこそ飲む人と一緒のときじゃないと、そういうとこ入れないからね。興味はあるんだ」
「ふぅん。じゃあ面白いところのほうがいいかな。ライトアップされた水槽が幻想的なアクアリウム居酒屋とか、天井がドーム型のプラネタリウム居酒屋とか、イスとか机や内装が学校風の学園居酒屋とか、お墓がいっぱいあるお化け屋敷居酒屋とか。……まあ、金森には普通にお洒落な居酒屋もいっぱいあるけど」
「最後のやつでお願いします」
「お化け屋敷?」
「それじゃなくて」
「冗談だって」
 エルちゃんの言い方は冗談なのか冗談じゃないのか、全然分からないからなぁ……。
 金森駅に着くと電車はポーカーの手札を総取り換えするみたいに乗客を吐き出し、あたしは捨てられた札の一枚としてホームに降り立つ。
「変わった居酒屋さんが多いんだね、金森は」
「東京にはペンギンがいるバーとかもあるけどね」
「……ぺんぎん。ペンギンというと、あの、飛ぶやつですか」
 それこそペンギンのような短足さゆえか、自然とエルちゃんを追うかたちになっているあたしが訊ねると、彼女は「飛ばないよね」とクールに答える。
 エスカレーターに乗って一休み。張り紙がやけにエスカレーター上を歩かないようにと呼びかけてくるが、みな律儀に片側を空けて立っている。
「そういえば、ペンギンがマスコットキャラクターの球団もあるよね」
「それたぶん、ツバメだよ……」
 東京ヨーグレア・イロンデルズの「つばクラム」。イロンデルとはフランス語でツバメのことで、クラムとは英語で二枚貝のことだ。その名の通り、つばクラムは尻尾を大きな二枚貝に挟まれている。そしてやはり着ぐるみが必須の球団マスコットキャラクターなので、背筋を伸ばして直立して歩く……確かにその姿は、ツバメというよりペンギンだ。
「冗談だって」
 そうかー。冗談だったかー。
「ペンギンってさ、だいたい誰が描いても似たような感じになっちゃうんだけど、つばクラムはけっこう特徴的だよね」とエルちゃんはまた冗談を言う。
「ペンギンじゃないからね」
 若干絵描きらしいこと言うから、一瞬「へーそうなんだ」って思っちゃったじゃないか。
 あたしがツッコミを入れると、エルちゃんはエスカレーターが進む先をついと見上げ、やがてこちらを振り向いて、「そうか。だからか」と納得したように言った。
 今のは冗談じゃなかったのか……。あともうすぐエスカレーター終わるから前向いてください。

 国鉄と私鉄と地下鉄の出口が一つ屋根の下に集う金森駅。アビイストリートがあるほうとは逆の、繁華街色の強い西口へと向かうエルちゃんを追うあたしは、しかしその西口を出たところですれ違った客引きの男性が持つ看板に気を取られ、思わず天女の羽衣みたいになびくエルちゃんの上着を引き留めてしまう。
「『焼肉食べ放題 女性は無料』だって!」
 アメリカ大陸を発見したクリストファー・コロンブスのような気持ちであたしは言う。
 でもエルちゃんはいつもの無感動な面持ちでついとその男性が持つ看板に目をやり、落ちゆく線香花火の火玉を見届けるかのごとく「ああ」と薄い反応を示す。
「相席系のお店でしょ。個室で知らないおじさんと二対二で焼肉したいなら別だけど」
 よくよく見てみれば、客引きの男性が着ている蛍光色のビブスには、エルちゃんの言う通り「相席焼肉 ともし火」なる店名ロゴがデカデカと描かれていた。
「そんなのがあるんだ」
「居酒屋だとたまにあるよ。無料じゃなくても、女性は格安とか、飲み放題だけ無料とか。でも食べるほうが無料なのは珍しいね。焼肉だとどっちみちそんなに食べられなさそうだけど。行く?」
「遠慮しておきます」
 あたしはきっぱりお断りしたものの、すぐに「ああ」と哀愁に満ちた声を漏らしてしまう。
「今度はなに?」
「えーと、大学の後輩がすごい笑顔でこっち来る」
 あたしが答えると、今度はエルちゃんが「ああ」と漏らす。「あの、私が苦手そうな子」
「苦手なの? というか、逆にどんな子なら得意なの」
 通行人に道を阻まれ、信号待ち中のジョギング愛好者みたいに足踏みするみうちゃんを眺めながら、あたしは訊ねる。
「透とか」
「なにそれちょっと嬉しい」
「ネストの話できるし」
「理由それかぁ……」せめて「趣味が合うから」とか他の言い方してほしかったなぁ……。
 あたしががっかりしている間に、みうちゃんが突撃せんばかりの勢いで迫ってくる。
「あれっ! とーる先輩じゃないですかぁ!」
 そのあたかも今あたしを見つけたかのような「あれっ!」に込められた気持ちをよく信号待ち中も保っていられたなぁ。あたしが言うと絶対白々しくなっちゃうよ。
「野球部の人とはもう別れちゃったの?」
「そうなんですよー。ドーム前のショッピングセンターでなにか食べながら感想を言い合うまでが野球観戦なのに」
「そんな『映画観た後は』みたいなお約束、野球観戦にあったかな……」
「まあ、『早く帰って素振りしなきゃ』みたいなこと言ってたので、たぶん観てるうちに感化されちゃったんだと思います」
「ピュアなんだね……」
 確かに真面目そうな人ではあったけど。
「先輩たちはもう帰るところですか? よければこの蔵井みうちゃんが苺パフェをつつきながら今日のアラモーズの試合を一回表から一球ずつ解説しちゃいますよ!」
「い、いや……見てたんだよね、あたしも。ドームで」
「?」
 断られるにしてもその返しは予想外だったのか、みうちゃんはちょいと首を傾げる。そしてなんとも存在感のある数秒間の後、みうちゃんは最高に負のオーラが込められた「へー」をその小さな口からひねり出す。
「みうが誘ってもなかなかご一緒してくれないのに……しかも今日なんて先輩の好きなラビッツ戦でもないし……」
「あーいや。それはね、今日のは不意打ちというか、不慮の事故というか……」
「ふぅん」と意味深長な声を漏らしたのはエルちゃんだ。あたしが恐る恐るエルちゃんのほうを見ると、「ふぅん」がもひとつ追加発注された。
 あたしが弁解の句を考えていると、今度はみうちゃんが「よーし、」とか言って薄手のミリタリージャケットの袖をまくった。
「とーる先輩っ! ゴールデンウィーク、一緒に兵庫遠征しましょうっ! 高校球児たちの聖地でかちわり氷食べましょう!」
「いやいやいや。あれってプロ野球の試合では売ってないんじゃ……」
 あたしがややズレた指摘をすると、みうちゃんは「絶対! ですからね!」と強くあたしを指さして言い逃げ――背走していく。車に轢かれても知らんぞ。
「行ってあげたらいいじゃん、兵庫。良いところだよ」
 エルちゃんがいかにも気楽そうに言う。
「行ったことあるの?」
 駅前を行き来する人波にみうちゃんの小さな後ろ姿が呑まれていくのを見届けつつ、あたしは訊ねた。
「ないけど」
「ないんだ」
 あたしも兵庫は家族旅行でサービスエリアを通過したことくらいしか記憶にないな。
「私だってそんなに旅行するわけじゃないし。今年のネストの全国ツアーを追いかけたりはしたけど、それだって臨時収入があったからだしね」
「臨時収入?」
「アラモーズ新マスコットキャラコンテストの賞金」
「それかぁ」
 あたしたちは再び歩きだす。おしゃれな居酒屋があたしたちを待っている。あたしたちはそこでポテトサラダとか冷ややっことかモツ煮込みとかカルパッチョとか食べるのだ。たぶん。
 しかし居酒屋はあたしたちを待ってはいなかった。むしろ待つのはあたしたちの側だった。
 満席。ジョッキをドンと置いてもびくともしないような重量感のあるテーブルや、壁に貼られた数自慢をするかのようなメニュー札と、とりあえず昭和の空気を醸し出しておけばいいんだという感じの滑らか紙質のノスタルジックポスター、なにをこぼしてもまあ許されるのではないかという妙な安堵感のある畳と座布団が敷かれた座敷席……そんな一般的な居酒屋のイメージとはあまりにもかけ離れた、すわインテリア販売店かと見紛うおっしゃれーなその居酒屋は、レジ前に設けられた待ち合い席を含め名実ともに満席だった。というかその待ち合い席に座っていた若い男女も、キャンプに持っていく「又」みたいなシルエットの華奢なテーブルを利用して酒を飲んでいる。
 おしゃれにせよなんにせよ、客層が異なるだけで店内を満たす喧噪は変わらなかった。それも、まるで店内の客全員でパーティーをやっているかのような――たとえるなら本日貸切の日に誤って店に入ってしまったみたいな空気感がある。
 が、事情はあたしの想像とは少し異なっていた。レジ台に二枚の張り紙がされていたのだ。それはまるで、「良いニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」というような不吉さを纏っていた。
 あたしはその二枚の張り紙のうちの、目に留まったほうから読み上げる。
「『本日飲み物全品無料!』だって」
 エルちゃんは無反応だ。それもそのはず、その隣の張り紙の冒頭にはこう書かれていたのだ。

 ――閉店のお知らせ。

「うん」と小声で返事をしたエルちゃんの判断を待っていると、後ろから新たにスーツ姿の若い男女が店の扉を開け、「わっ」という、想定外の満員具合に驚く素直な反応を見せてきた。それを契機にエルちゃんは身をひるがえし、「他行こ」との決定を下した。
「なんかお酒飲む気分じゃなくなっちゃったね」と言うエルちゃんに、あたしは「そう?」と訊ね返してその足取りを追う。そもそもあたしはお酒を飲まないのだ。
「『あそこだったらどれだけ飲んでもタダだったのに』って思っちゃわない?」
「分からないでもないけど。……それで、どうするの?」
「タダで飲み食いできるお店に行く」
「相席焼肉?」
「違う。苦い飲み物を売ってるお店」
 それビールのことなんじゃないの。まあいいや……。
 駅前の大通りから一定の距離を保ったまま、平行に移動すること五分くらい。最後に右折し細い路地へと入った所に、そのカフェはひっそりと佇んでいた。ランタンを模した橙色の灯りが、店名が記された木製の看板を照らしている。
 ――「CAFE de ROWINGカフェ・ド・ローイング」。
 カフェらしい茶色の字で小さく手漕ぎボートの絵が描かれているので、この場合の「ROWING」は「手漕ぎ」を意味するのだろう。……「de」はフランス語のはずだから、英語とごちゃ混ぜだ。
「営業時間、十時までみたいだけど」
 あたしは看板下部に書かれた営業時間を見て言ったのだけれど、エルちゃんはそんな指摘など気にもかけずに重そうな扉を開ける。鈴の音が鳴り、店舗の少ない暗い路地に薄く店内の灯りが漏れる。
「お店の人と知り合いだから。大丈夫」
「へー」
 以前バイトでもしてたのかな。あたしは自然とエルちゃんが焦げ茶色のエプロンを着てウィンナーコーヒーだとかベイクドチーズケーキだとかを給仕している姿を思い浮かべる。
 ……でもエルちゃんの場合、エプロンを着ていたらその手には絵筆を持っていたほうがしっくりくるんだよね。
 実際あたしのその考えは正解だったみたいだ。店の中に足を踏み入れてみると、否が応でも見覚えのあるタッチの絵が目に入る。
 店内の白い壁――よく見るとそれはクリーム色に近い色だ。もっとも、店先にあったランタンと同じ暖色系の照明が、壁を見下ろすような角度で当てられているので、そのことで色味が変わって見えているのかもしれない。
 そしてそんな白壁の色合いに見事に調和した黒い線で(こちらも純粋な黒色ではない。むしろ茶色と言ったほうが正しいのかもしれない)、デフォルメされた六匹の動物――昆虫が一匹混じっているけれど、まあ昆虫だって動物だ――が描かれている。
「……エルちゃんの絵だ」
 あたしは入ってすぐのところで立ち止まり、その動物たちの絵を見つめる。
 バク、パンダ、コアラ、カブトムシ、カメ、キリン……六匹の動物たちは探検隊が着るような服を着て、一つのテーブルを囲んでいる。そしてそれぞれの動物の前には一皿ずつ料理が配されている。これは食卓だ。
「よく分かったね」とエルちゃんが言う。彼女は自分の作品を人に見てられて恥ずかしがるタイプの性格をしていないから、とても堂々としている。どちらかといえば、「あなたにこの絵の意味が分かりますか」という、テスト用紙に難問を載せた意地の悪い数学教諭のように見える。
「このカブトムシのツノがいいね」とあたしは言った。ツノの先端が、ちょうどギリシア文字の「Ψ(プシー)」と同じ形をしているのだ。
 実際のカブトムシのツノの先端は三股ではなく二股だと思うのだけれど、そのカブトムシは、隣にいるカメの器から、ひょいと果物をつまもうとしている。つまりこれは「図々しい」を意味する英単語「pushyプシー」とかけているのだ。
 ……というようなことをあたしが語ると、エルちゃんは「そういう考え方もあるんだ」と驚いてみせた。違うんかーい。
「おー、早見ちゃんじゃないか。珍しい」
 なんでもない雑音だと思っていたそれは、店主らしき男性が洗い物をしている音だった。男性は小気味良くキュッと蛇口を閉め、奥からエルちゃんに声をかけた。
「いつでも来ていいって言ってたから」
 エルちゃんはそう返事をしてから、あたしに「店長の舟瀬さん」と説明した。手漕ぎボートの舟瀬さんとは、覚えやすいなぁ。
「絵。ちょっと見てていい?」あたしが訊ねると、エルちゃんは「もちろん」と言って食卓を囲む動物たちの絵を見た。そして「食べ物なにができるか訊いてくる」とあたしに言って、鍾乳洞の中のような薄暗い店内をさっさと歩いていった。
 ――絵は一つだけではない。それは絵本のように続いていた。
 動物たちが食卓を囲んでいる最初の絵は、どうやら「表紙」に相当するようだ。あたしは数歩カニ歩きをして、次の絵が描かれている白壁の前に立つ。
 連なる絵に説明の言葉は記されていなかった。だからそれを見る者は、自分たちでその物語を想像するしかない。

  絵物語は、まず一匹の四足歩行の動物が、一人の人間に話しかけられている場面から始まる。その絵だけを見れば人間が物語の主軸で、「人間が動物に話しかけている」としたほうが正しいのかもしれないけれど、店内全体を――つまりは絵物語の全体を眺めたところ、それが人間以外の六匹の動物たちが主軸のお話であることは明らかだ。
 最初に登場したその動物は、お腹だけがまるで太いライン引きに轢かれたかのように白く、他は黒くずんぐりした身体を持つ「バク」だった。
 そんなバクが人間になにごとか言われている。人間の姿は中世風の紳士で、二つの真っ黒な唐辛子みたいな形の口ひげを「ハ」の字にしてたくわえている。
 人間の隣には漫画的フキダシが浮かんでいる。そしてそのフキダシの中にはバク以外の五匹の動物たち。バクも、そして人間が浮かべたフキダシの中の動物たちも、やはりみな探検隊めいた服を着ている。
 ……いや、作業着なのかな? そう思い当たると、六匹の動物たちは同じ工場で働く作業員のようにしか見えなくなった。スーツ姿のその人間は、おそらく六匹の動物たちの上司なのだ。
 バクが人間になにかを注意されているかのような構図だ。「あいつらはどうした?」とか、そんな感じだろうか。もしかしたらバクは動物たちのまとめ役なのかもしれない。すると「あいつらは最近仕事をサボってばかりじゃないか。ちゃんと統率してくれないと困るよきみ」という感じか。でもバクや人間の表情からすると、なんだか違う気がするな。

 そして次のイラストから、バクによる個人面談が始まった。

 パンダは小さなテーブルで一匹、食事をとろうとしていた。テーブルの上にはホットドッグを山と載せた皿が……いや、これホットドッグじゃないな。挟まれているのはソーセージではなく、エビフライ。エビフライドッグの山。
 そんな珍妙なものを食べようとしているパンダに、バクは話しかける。フキダシには表紙としての最初の絵にあるような、六匹揃った食卓の絵。
 ……なるほどね、「僕たち同じ職場で働く仲間なのだし、みんなで一緒に食べようぜ」というわけだ。バクは人間にそれを指示され、せっせと五匹を諭して回ることにしたのだ。
 ――次の絵へ進もう。
 バクもそう熱心に諭しているふうではないのに、パンダは明らかにムッとした表情をしている。
 これは物語なのだから、あっさりと「うんそうだね! 仲良くみんなで一緒に食べよう!」ということにはならないのは分かるけれど、パンダはなにがそう不服なのか……パンダの隣にもくもくと浮かび上がっているフキダシに、その答えが描かれている。
 フキダシの中で、カメがパンダを指差し、擬音みたいにこう言っている。
『KAME, KAME』
 ……カメだけに。つまりパンダが訴えているのは、おそらく「あのカメじいさん、もっと噛め噛めってうるさいんだよ。こっちは笹を食べるみてぇにささっと食べたいのによ」ということだろう。
 ふーむ。
 そして次の絵で、バクはパンダに解決案を示している。
 カメは左目の視力が悪いのだ。だから左側の席に座れば大丈夫だよと、そう言っているようだ。カメの両目の視野を示す二つの扇形の、左目から発せられているほうだけがやけに小さい。
 しかしなぜ左目の視力が悪いのだろう? あたしが知らないだけで、カメというのはそういうものなのだろうか。
 ……否。理由はちゃんと絵の中にある。そのカメは高齢なのか、右目にモノクルをかけていた。だから右目はよく見えるというわけだ。
「ふーん、まあそういうことなら」という面持ちのパンダに別れを告げ、バクは自身の手帳になにかを書き留めている。きっと「パンダはカメの左側に」という条件の覚え書きだろう。
 さて、次だ。次にバクは、件のモノクルカメじいに話しかける。
 カメもやはり一匹で食事をとろうとしている。テーブルの上にはクリームと果物を満載したプリンアラモード。……食事というかデザートだし、そもそもなぜカメがプリンアラモード? さっきパンダがエビフライドッグ食べてたのもわりと謎だし。……ああ、もしかしたら、このお店のメニューにあるものなのかもしれない。
 バクが「みんなで一緒に食べませんか」と提案すると、カメもパンダと同じく、あからさまに顔をしかめる。カメだけに「かめへんで~」というわけにはいかないのか。
 まあカメのほうも、パンダが早食い選手権みたいに次々とエビフライドッグを平らげていくのが気になるのだろうな……。
 と思ったら、違った。カメは図々しくつまみ食いをしてくるカブトムシが気になっていたのだ。
 カブトムシがカメのプリンアラモードをつまみ食いしている様子を描いたフキダシの後、次のイラストで、先ほどバクが浮かべたカメの視野を示す図を、今度はカメ自身がフキダシの中に浮かべている。カメも自分の視野の強弱を自覚していたのだ。
 そしてカメの右目から発せられている視野の扇形に、「Ψ(プシー)」に酷似したカブトムシのツノのマークが描かれている。つまり、「みんなで一緒に食べるのはかめへんけど、彼奴きゃつだけはわしの目の届く右側に置いてくれんと、安心して食べられんわい」ということだろう。やれやれ。
 バクは手帳に書き留める。二行目。きっと「カブトムシはカメの右側に」と書いているのだろう。実際のイラストは手帳に波線が二列描かれているだけで、なにが書かれているかは全く読めないけど。
 さあて、次はそのカブトムシだ。カブトムシも例によって一匹で食事をとっている。品目はカレーライス。そして傍らにはなぜかカメのマークが描かれたコップが置いてある。……カメのコップを勝手に使っているのだろうか。だとしたらやはりプシーなカブトムシだ。
 さあ例によってバクがカブトムシに「みんなで一緒に食べましょうよ」と提案すると、カブトムシはフキダシの中にパンダを出演させた。エビフライドッグ(仮称)なる珍妙なものを食すあのパンダだ。
 カブトムシがモクらせたフキダシの中で、パンダは笹の葉よろしくフランスパンを抱き、こう言っている。
『Pan-DA!』
 ご丁寧なことに、茶碗に盛られた山盛りごはんのイラストに、大きなバッテンまで打たれている。
 ……パン派なのだ、パンダは。
 他方、カブトムシが好むのはなぜかは分からないがカレーライスである。これは意見が合わない。
 ここで座席図の登場である。次のイラストで、バクは長方形のテーブルを思い描き、「じゃあきみらは離れた席にするからさ」というようにカブトムシを説得する。
 なんだか論理のクイズみたいになってきたぞ。
 バクは事情聴取をする刑事のように手帳にメモをしつつ、次なる動物の元へと向かう。
 キリンは食事を飲み物だけで済ませているようだ。テーブルに置かれた「超絶あしながおじさん(文字通りの意味で)が雨の日に履く長靴」みたいな形状のジョッキは、飲み口付近が表面張力以上にふわりと盛り上がっている。泡だ。
 もしかしなくてもこれ、ビールである。キリンが飲むというからには、銘柄はもちろん……。
 さて、みなで食事をとることに関して、キリンには二つの不満があった。そのうちの一つは、キリンの首と同等にながーいそのジョッキを、カブトムシのツノが倒してしまうこと。つまりキリンとカブトムシを向かい合わせに座らせてはならないのだ。
 ふむふむ、という具合に、バクはキリンの注文を手帳に書き留める。これが「注文の多い料理店」というやつか。
 キリンのもう一つの不満は、「コアラが首に抱きついてくること」だった。キリンが怒り顔で浮かべたフキダシの中で、コアラはまるで木にしがみつくコアラのように――というかコアラなのだ――キリンの首に抱きついてすやすやと眠っている。
 とんだセクハラやろうだな!
 などと強く共感することもなく、バクは淡々と席配置の調整をする。「キリンはカブトムシと向かい合わせてはダメ、コアラと隣り合わせるのもダメ、と……」という具合にだ。
 そしてようやくに五匹目の動物、コアラとの面談である。
 が、当のコアラは眠っていた。悪い夢でも見ているのか、その寝顔はどこか不快げだ。傍らにはもちろんユーカリの木。
 コアラが好んで食べるユーカリの葉には毒素があり、コアラはそれゆえにしょっちゅう眠っているのである。
 さて、そんなコアラもご多分に漏れず不満を漏らす。
 悪夢の内容らしきフキダシの中では、誰あろうバクが『BAKU-BAKU』とバク音を立てて食事をしている。そしてコアラがモクらせたそんな夢の内容を、手帳とペンを手にしたバクが真顔で見上げていた……。
 バクが音を立てて食べるのが、コアラの食事兼睡眠の妨げになっていたのだ。
 ……ともあれ、これで個人面談は終了した。あとは全ての条件を満たした席配置を組み上げるだけだ。
 テーブルは長方形のようだが、果たしてそんな都合の良い席配置は存在するのだろうか?
 なにを隠そう、それが表紙としての最初の絵にあった席配置なのである。
 すなわち、左辺と右辺に一匹ずつ、上辺と底辺に二匹ずつ座ることのできる横に長い長方形テーブルの、左辺の席から時計回りに、バク、パンダ、コアラ、カブトムシ、カメ、キリンという席配置だ。
 絵物語を追っているうちに、いつの間にか店の奥まで来ていた。
 表紙としての最初の絵の差分的な絵。プリンアラモードのサクランボをつまもうとしているカブトムシのスプーンを、カメがしっかり阻止しているところをみると、時間軸的にこれは表紙の次にあたるのだろう。
 そしてさらに次の絵では、満腹になった動物たちが、どてーっと、行儀悪く仰向けにひっくり返っている。カメなんかは仰向けに寝ちゃったら誰かに起こしてもらわないといけなくなるんじゃと思うんだけど、まあそれはいいか。
 きっとみんな楽しくごはんを食べて、眠たくなってしまったのだ。
 最後に、ユーカリを食べていたコアラがふと目を覚まし、みんなが盛大にぶっ倒れているのを見て、顔の横に驚きを表す「Σ(シグマ)」に似た漫符を発生させている。
 この絵物語にシュールなおかしさがあるのは、主人公のバクが終始無表情であるからだろう。バクは心を失ったサポートセンターの電話応対員のように動物たちの注文を聞き、その条件を満たす座席配置を、まるでパズルでも組み立てるかのようにセッティングする。
 バク自身には、誰の近くは嫌だとか、そういう注文はなかったのだろうか。あるいは描写されていないだけで、その座席配置がバク自身の注文をもクリアしたものなのかもしれないけれど。
 そもそも、バクは他の動物たちとは立場が違うのだろう。リーダー的役回りで、これで上司らしき「人間」からの評価も上がるのだ。つまりは仕事の一環。だからこその無表情なのではないか。
「エルちゃんが描いたにしては、わりと牧歌的な絵だね」
 カウンターの中央付近の席に着いていたエルちゃんの隣に腰かけ感想を言うと、彼女は必殺の「そう見える?」を繰り出してきたので、あたしはやれやれという思いでミニスタンド型のメニュー表を手に取って眺めた。
「カツカレー以外はできるって」
 エルちゃんがカウンターのさらに一段上に置かれていたコップの水をあたしの前に下ろしつつ、そう水を向ける。
「ありがと。揚げ物だからかな」
 フードメニューがやけに充実しているカフェだ。例の「エビフライドッグ」なるものもあった。あれ、じゃあ同じ揚げ物でもエビフライはできるんだ。
「ご注文は?」
 美容室の店長みたいな風貌のマスターは既に閉店後のブレイクタイム臭を醸し出しつつそう訊ね、エルちゃんはあたしを見る。
「エビフライドッグ。とプリンアラモードと、コーヒーをホットでお願いします」
 カレーライスとかオムライスだとかを頼んでいい空気感なのか判じかねたので、あたしは中間守備をとることにした。
 しかしその直後、「カレーライス」とエルちゃんはきっぱり切り込む。「あと、ビール」と先ほどあたしが手に取ったスタンド型のミニメニュー表をつまみでも回すみたいにくるりと回転させた。もちろんどちらの面にも「ビール」なる文字列はない。
「ビールないよ」諦め半分にマスターは言う。
「冷蔵庫にあるやつ」と様式美みたいにエルちゃんが返す。
「あれは閉店後に、」
「マスターがレジ締め作業をしながらちびちびやる分、でしょ」
 マスターが言いかけた台詞を、エルちゃんが正確に引き継ぐ。それを受けマスターは小さくお手上げのポーズをとり、あたしに目を向けて「お友達も?」と訊ねる。
「あたしはいいです」意味もなく苦笑いを浮かべながら答えると、マスターは「ホットね」と呟いてから厨房へと消えた。
 エルちゃんはカウンターにタブレットを置きながら、「ああ見えて良い人だから」と謎のフォローを口にする。いやいや、どう見ても良い人だよ……。その後、マスターが最初から缶ビールを二本持ってきたのを見て、あたしは改めてそう思った。
「これ、このお店のホームページ。下のほうにちょっとしたゲームがあって」
 エルちゃんがその細い指先で画面をなぞるようにしてスクロールしたタブレットの画面にあたしは目を落とすと、そこには先ほど見た絵物語の一幕が表示されていた。
 バクが上司である人間になにかを指示されているシーン。その絵を背景にして、中央には「PLAY」の文字。
 あたしがそれをタップすると、文字は咲いた後の花火のように像を残しつつ消え、背景的だったイラストが生を持つ。
『きみたち、
 食事はみんな一緒にとりたまえよ』
 事の発端となる「人間」の台詞が、フキダシと共に浮かび上がる。さらに画面をタップすると、『だいたい、みんなで食べればテーブルは一つで済むんだ』と、一周回ってむしろ人間らしくもある人間味のないコメントを残していった。
 人間のイラストがやはり花火のように明滅して消えていくと、代わりにバクの心からの『嫌だなぁ……』が表示される。嫌そうだなぁ。顔は変わらず無表情だけど。
 そのまま白壁に描かれていたような絵物語が展開されるのかと思ったが、ゲームというだけあって、そうはならなかった。
 背景は簡素な店内の見取り図に変わり、中央にでんと長方形のテーブルが置かれている。そのテーブルを遠巻きに囲うかたちで、六匹の動物のアイコンが無造作に散らばっている。
 テーブルの周囲に、アイコンを置くことのできるマス目が六つあった。試しにパンダのアイコンをドラッグしてマス目の一つに近付けてみる。横に長い長方形のテーブルの、右辺の外側にぽつんと一つだけあるマス目だ。
 パンダのアイコンは磁石に引きつけられるかのようにカチッとマス目の中に収まり、テーブルの上にはパンダが食べるエビフライドッグが皿に載って出現した。
「ふーん」と思いながら、あたしは適当に目についたカブトムシのアイコンを、テーブルの右下に位置するマス目に置いた。テーブルの上辺と底辺には、それぞれ二つのマス目がある。底辺に二つあるマス目のうちの、右のマス目にカブトムシのアイコンを置いたわけだ。するとカブトムシが食べるカレーライスが出現……するかと思われたが、テーブルにはなにも現れなかった。代わりに、今しがたパンダと同じく何事もなくマス目にカチッと収まったかに思えたカブトムシのアイコンが、ふるふると震え出した。
『パンダの近くの席は、
 パンダがパン布教してくるから、嫌だよ。
 パンダから遠い席がいい』
 カブトムシのアイコンからそんなフキダシメッセージが表示されると、震えるカブトムシのアイコンは、ぽーんとマス目から弾き出されてしまった。それこそ、まるで磁石の同極が反発し合うみたいに。
 いや、彼らは同極というわけではない。むしろその逆なのだ……。
 軽くイラッとしながら、あたしは再び空きマスとなってしまった右下のマス目に、モノクルをかけたカメのアイコンを置く。すると、カメが食べるプリンアラモードが無事テーブルに出現した。
 ――しかし今度は、パンダのアイコンが震え出した。
『カメじいの右側に座ると、
 噛め噛めってしつこく注意されるから、
 嫌だなぁ』
 そういえばきみはそうでしたね……。
 そうですかそうですか、カメの純粋な右隣りじゃなくて、角を挟んだ右隣り――今回で言えば右上だ――にパンダを置いても、パンダ的には「カメの右側にいる」と判定されるのだ。
 怒りを通り越し軽い哀愁を感じ始めたあたしが見守る中、無情にもパンダのアイコンがぽーんと弾き出される。もちろんテーブルの上のエビフライドッグも消えた。
 ふー。……きみら、ごはんくらい仲良く一緒に食べなよ。
 いかん、これじゃあたしが「人間」みたいだ。いや、人間ではあるんだけど。そうじゃなくて。
 とりあえず、カメの左隣に飲兵衛のんべえのキリンでも置いておこう。キリンもキリンで注文が多かった覚えがあるけれど、確かカメとは関係がなかったはずだ。思った通り、どちらのアイコンも震えださず、フキダシも出現しないまま、キリンが飲む長靴みたいな形状のジョッキビールが表示された。
 これで底辺の外側にある二つのマス目が埋まったわけだ。めでたしめでたし。そのタイミングで、眼前に香り立つ一杯のコーヒーが置かれた。
 ……現実の話だ。
「クリアするまでにかかった手数によって、エンディングが変わるの」
 つまみとなるものがないからなのか、エルちゃんは缶ビールを本当に少しずつ飲みながら言う。ついでにエルちゃんはあたしがコーヒーを台の上から慎重にテーブルへ下ろしている隙に、ちょいーとタブレットを操作してカブトムシのアイコンを左辺の外側にあるマス目に置いた。
 手伝ってくれたのかと思ったら、まさかの邪魔立てだった。
『ここに座っていたら、
 私の背の高いジョッキビールが、
 カブトムシのツノで倒されちゃう!』
 ふるふる……っぽーん! キリンがマス目から弾き出される。
『わしゃ左目が悪いもんで、
 カブトムシの右側に座っておると、
 彼奴めにつまみ食いされてしまうでのう……』
 ふるふる……っぽーん! カメがマス目から弾き出される。
「エルちゃん……」
「や、手数かかったときのエンディングのほうがオススメだから。大丈夫」
 そう取り繕うように言うところをみると、エルちゃんも案外、適当に置いてみただけなのかもしれない。うん、まあきっとそうだ。そうに違いない。
 あたしはせっせとキリンとカメを元のマス目に戻す。ちょっとズルな感じだが、思い返してみれば、さっき見た壁画で、この二匹は底辺外側の二席に座っていた覚えがあるのだ。
「……そういえば、このあいださっきの子と試合観に行ったときにさ」
 あたしは試行錯誤しながらマス目を一つずつ埋めていく。一つ埋めては、また一つ空きができたりするんだけど。
「さっきの子?」とエルちゃんが問い返す。
「エルちゃんが苦手な、あたしの大学の後輩」
 区切る位置を間違えるとエルちゃんがあたしを苦手みたいなことになってしまうので、あたしは読点の部分にスラッシュを三つ入れるくらいの気持ちでそのセンテンスを口にした。
「ああ、あの子ね」とエルちゃんのご理解がいただけたようだったので、あたしは「そのとき、ちょうど不二投手が先発で、ネストの新曲が流れたんだよね」と話を続ける。
「ていうかエルちゃんもそのときドームにいたんだっけ」
「うん。聴いてた。むしろ録音してたし。……不二投手? 青い名馬の人だっけ。『無事之名馬ぶじこれめいば』からきてるらしいけど、なんか足首を痛めてたとかでちょっとシーズン出遅れてたんでしょ」
「詳しすぎでは」青い名馬にそんな由来があったのか。単に巧馬って名前にちなんでるだけだと思ってた。
「ネストが不二投手のために曲を書き下ろしたって記事になってたから、いろいろ調べたんだよね。不二投手が先発する日だけは絶対に行こうと思ってて。そしたらなかなか先発してくれなかったんだけど」
「まあ、不二投手ももう四十歳近いと思うし、ケガもするよね」
「そうだ。ネストっていえば、この前またその話で記事になってたよ。ネストの場合、これまでは一部の楽曲しか登場曲への使用を許可してこなかったんだけど、今までネストの曲を登場曲にしてた選手――ラビッツの高丘選手? とか――に限り、全ての楽曲から選べるようにしたんだって。しかもそれを津間さんが直接、該当選手たちに電話して伝えたみたい」
「へー。それは知らなかった」
 さすがは、日本を代表するロックユニット「ネスト」のギタリストにして、リーダーの津間さんだ。
 ……そしてさすがは、ネストの追っかけファンのエルちゃんである。いろいろ知ってるなぁ。
「なんていうか、良い話だね」
 ややあってあたしが紡ぎ出した感想は、結局以前と同じものだった。
 エルちゃんはそれを聞いて、なぜかはにかんだように「でしょ」と言って缶ビールをぐびーと飲む。
 しかしちょいと覗き込むようにしてあたしの前に置かれたタブレットの画面を見やり、マス目がまだ二つ空いていることを知ると、「あ、ネストの話か」と言って肩を落とした。
 果たして座席配置ゲームのエンディングはというと、かなりの手数を費やしてしまったためか、バクは仲間たちの注文の多さに病んでしまって、みんなの料理に毒を盛ってしまった。多量のユーカリ油を、みんなの料理に混ぜておいたのだ。毒入りの料理を食べた動物たちは、どんどん仰向けに倒れていく。
 そして食卓には、バクとコアラだけが残った。バクはコアラが食べるユーカリの葉にも、多量のユーカリ油を塗りたくっておいたのだが、コアラはユーカリの葉を常食していたため、ユーカリ毒への耐性が高かったのだ。だからコアラは、食事中にいつもより長く居眠りをしただけで済んだ。
 ……今のところは。
『なぜこんなことをしたんだ!』とコアラが問う。真っ当な質問だ。
 それに対し、病んでしまったバクが答える。
『なぜって?
 分かりきったことじゃあないか』
 コアラ視点なのか、バクのみがクローズアップされる。
『きみたちが食事中、噛め噛めとしつこくて、』タップするたびに視界は狭まっていく。
『パン布教に余念がなく、つまみ食いをして、』もはや画面の多くが黒に染まっていた。
『ジョッキを倒し、抱き着いてくるからさ……』そしてコアラの視界は完全にブラックアウトした。
 真っ黒な画面の中に、『GAME OVER』の赤文字が浮かび上がる。
 うーーーん。あまりにも手数をかけすぎたのかな? もう一回やってみよう。
 やってみた。今回は数回間違えただけだ。エンディングの構図は変わらなかった。動物たちは次々と倒れ、食卓にはバクとコアラだけが残る。
 しかし、交わされるやりとりは違っていた。
『ううん……嫌な夢を見たよ。
 おや、これはいったいどういうことだい。
 みんな眠っているじゃないか!』
 食事中の居眠りから覚め、みんなが仰向けに倒れて眠っているのに気付き、コアラは驚く。
『安心しなよ、
 ユーカリ油の入った料理を食べて、
 眠っているだけさ。
 ……死ぬほどの量は、入れていないからね』
『すると、
 きみがみんなの料理に
 ユーカリ油を入れたってことかい?
 なぜこんなことをしたんだ!』
 コアラが問う。さっきと同じ質問だ。
 それに対し、平然とした様子のバクが答える。
『なぜって?
 ボクの希望を叶えてもらうためさ。
 ボクはみんなの希望を叶えてあげた。
 ならボクの希望も叶えてくれなくちゃ、
 不公平だろう?』
『バク、それで、
 きみの希望というのは、なんだい?』とコアラは訊ねる。
『なあに、大したことじゃあないさ。
 みんなの夢を、食べさせてもらうんだよ。
 もっとも、ボクはグルメだから……
 夢の楽しい部分だけを、
 食べさせてもらったけれど』
 仰向けに倒れて眠っている動物たちは、みな悪夢にうなされている。
『GAME OVER』
 うーーーーーーん。
「良い話かなぁ? これ」あたしが疑問を呈すると、エルちゃんは「えー?」と不満げに言って、また画面を覗き込んだ。
「確かに、良い話では、ないかなぁ……」エルちゃん、お認めになりました。
「いや、全然良い話じゃないよ、これ。怖いよ。ホラーだよ」
「えー?」
 えーじゃないから。本当に。
 そうして時間は過ぎていく。料理が運ばれてきてからも、あたしとエルちゃんの会話は続いた。
「そういえば透は、ネストのアイチドーム公演、土・日両方とも行く気ある?」
 カレーってあんまりおつまみにはならないなぁ、なんてことをぼやいた後、エルちゃんはなんでもないことのように、あたしにそう訊ねた。
「や、両方行くなら、そのように申し込まなきゃだし。透もファンクラブ入ってるって言ってたから。……一緒に行く?」
 補足するように言うエルちゃんの言葉を聞いて、あたしの心はふるふると震えだした。
 ……べつに、エルちゃんの隣の席が嫌なわけでは、ないんだけれど。

         §

 今でもあの日の夢を見る。
 けど今朝見た夢は少し違って……あの日からしばらく経った日の夢だった。
 高校三年の八月。野球部マネージャーとしての夏は終わったものの、受験生としての夏は終わっていない。
 あたしは遅ればせながら進学希望者向けの夏期講習を受けるため、夏休みにもかかわらず学校へと自転車を走らせた。
 教室に入ると、野球部の男子たちの姿もある。彼らはまるで風邪を引いて休んでいた生徒が翌日元気になって登校してきたかのような空気感でもって同級生たちに迎え入れられ、同時に、一週間超立ち入ることのなかった教室に馴染むことと、そしてなにより、敗退のいきさつを知る者たちによる過度なはれもの扱いを忌避するかのように、どこかぎこちない談笑を展開していた。
 その点でいえば、女子たちは野球部に理解と関心が薄いので、あたしは気楽なものだ。
「おはよう」と言われたら「おはよう」と返すみたいに、テンプレートな会話を繰り広げればいい。
 ――そう思っていた。
 でも教室に広田くんが入ってくると、その女子たちさえも一瞬、軽快に話していた口をつぐんだ。
 みな、理解はせずとも、自校のニュースとして関心は持っているのだ。
 そして不鮮明ながらも分かっている。逆転振り逃げ満塁ホームラン事件……その中心に、捕手の広田くんがいたことに。
 授業開始までまだ時間があることを確認してから、あたしはそそくさと席を立ち廊下へと逃れる。まるで教室中に煙が充満したみたいだ。
 どうしてこんなに息が詰まる?
 ……なんて黄昏モードに入ろうと窓際に寄りかかったら、なんとこの暑いのに窓が全部閉まっている。
 まったく、夏期講習中は特別なのか知らないけど、朝から教室のクーラー点いてるからって。地球温暖化だかフロンガスだかで南極だか北極だかの氷が溶けてクマさんだかが溺れたりしたらどうするんだ。
 心の中に吹き溜まる言葉を吐き出すように窓を開けると、隣にある部室棟から見慣れた練習着の野球部員が出てきて、腕を「♭(フラット)」記号みたいな形にして頭の音高を半音下げながら歩いてくる。
 左肘を気にして腕を伸ばしたり反らしたりするその仕草は、顔を見るまでもなくうちのエース投手の篠宮くんだ。彼のお陰で最後の夏の大会は準決勝まで勝ち上がれたのだ。と、やや横暴なことを言っても、まあうちの部員たちはそんなに怒らないだろう。
 篠宮くんがあたしに気付き、半音下げを解除して軽く手を振る。
 のんきに手を振り返してから、思う。
 ……あれ? この男、なんで練習行こうとしてるんだ?
 ちょうど篠宮くんの向かい側から夏の制服姿の後輩二人がやってきて、いつも通り元気に挨拶をする。
 すれ違ってから、二人の後輩のうち一人があたしの疑問を体現するかのごとく「あれっ?」っという感じで振り返る。
 しかしもう一人が何事か説明すると、「へー! スゲー!」なんて言って、校舎二階まで届く声で驚嘆する。そして再度振り返り、遠くなった篠宮くんの背中を見た後で、後輩たちは部室へと消えていった。
 ……ふーん。
 そこで予鈴が鳴る。
 あたしは身を乗り出してグラウンドを望もうと試みたけれど、窓のレールで制服をちょっと汚しただけだった。

「逆転振り逃げ満塁ホームラン事件」を伝える記事が出回った後、ネット上では相手校の女子マネージャーを賛美する意見が大勢を成し、彼女に関する様々な情報が飛び交った。
 中学時代に女子野球で県大会の優勝投手になったこともあるとか、部活後は毎日アイチドームにかけつけるとか、実は大手企業の社長令嬢だとか、「白球の天使」像にふさわしい、光り輝く情報だ。
 しかしそんなまばゆいばかりの情報は、ポジティブ一辺倒ゆえに話の拡がりを欠いていた。なぜなら、人々が真に求め、盛り上がる話題は、一方的に相手を非難し自らの意見を気持ち良く表明・問題提起のできる、醜聞の類であるからだ。
 そこで人々は、天使と、天使と同役職の人間とを比較することで、話に広がりをもたせた。
 まだその話題を、楽しめるように。
「おい見ろよ、『白球の天使』とは対照的に、こっちのマネージャーはネット小説なんか書いてる陰気な奴だぞ」と、そういう切り口だ。
 ――『異世界で野球のルールを1から作る話』。
 投稿サイトで公開されていたその長編小説の感想欄には、いくつもの冷やかし的なコメントが並び、面白おかしく脚色された女子マネージャー像がネット上を独り歩きしていく。
 幸か不幸か、その小説はサイト内で行われていた新人賞の一次選考を通過しており、投稿者による削除はできない状態だった。
 そうして「白球の天使」に対する「異世界マネージャー」なる呼び名が定着したころ、勝ち進んだ天使側の高校が決勝戦で惨敗。純白の天使に一滴の黒い滴が落とされると、その染みは瞬く間に彼女の全身を黒く染め上げ、世論はあたしたちの高校に対する同情論へと急速に傾いていった。
 ネットにおける同校への誹謗中傷問題にも触れられ、あたしの立場は「悲劇の誤審により涙を呑んだ博識マネージャー、真実を訴えるも誹謗中傷に遭う」という被害者感満載のものとなった。

         §

 呼び鈴の音と「郵便です」の声で夢から覚めたあたしは、ベッドから降りて、玄関のカギを開け、その郵便物を受け取る。すわサインか印鑑かと思ったが、どちらもいらないようだ。速達。
 見覚えのあるキャラクターがロゴマーク的に印刷されているその封筒には、『篠宮雄志』という差出人名が書かれていた。
 洗濯物を干していた母が勝手口から「誰か来た?」と訊ねてくる。「高校のころの友達から郵便」と短く答える。友達ではなかったと思うけど。
 ハサミで封を切ると、中には二人分のチケットが入っていた。
 プロ野球。ピューマーズ対アラモーズ。試合日は六日後だ。
 一切れの手紙も入っている。それは手紙というよりは、手近にあったメモ帳に急いで書いて切り離したやつを封筒に放り込んだみたいな代物だった。これの片隅にもピューマーズの球団マスコット・クウガが印刷されている。
『初めて一軍で先発するので、ぜひ天使と一緒に』
 と、そのメモには書かれていた。
 先発。との二文字を見て、篠宮くんが去年、ピューマーズに入団したことを思い出す。入団一年目の去年、二軍の試合でもあまり良い成績を残せなかったから、申し訳ないけどちょっと忘れていた。
 そうか、ついに一軍に上がるのか。しかも先発。なんであたしにチケットを送ってきたのかは全然分からないけど、もしかして元部員全員に送ってるのかな。
 ていうかよく見たら、アラモーズ戦だけどアイチドームじゃないし。ピューマーズの本拠地、兵庫での試合じゃないか。
 目覚まし用のアラームを鳴らす時刻を今か今かと待ち構えている携帯電話を取り、SNSを確認する。同じようにチケットが送られてきた人はいないかと思って検索をかけてみると、今度の対アラモーズの三戦目に篠宮くんがプロ初先発する見込みであることを報じる記事がいくつもヒットする。そして見計らったみたいなタイミングでみうちゃんのアカウントから『実はみう、明後日のイロンデルズ戦のチケットを持ってるんですよ!』なるスパムメッセージが飛ばされてきた。
 仕方なくネットオークションのトップページのURLをコピペして返信してやると、すぐさま目がカタツムリみたいな泣き顔の女子力高い顔文字が飛ばされてきた。
 やれやれと、あたしは疑問に思ったことをそのまま文字にする。
『なんでみんなあたしを球場に連れていこうとするんだろう?』
『ええっ? もとはといえば、とーる先輩が行こうって言ってきたんじゃないですかー!!』
 みうちゃんからの返信に、あたしは思いきり首を傾げた。
 自室に戻り、ベッドへ寝転んで、送られてきた二枚のチケットを掲げ眺めたところで、「――そうか」と不意に、本当に不意に、思い出す。
 さて、あたしが思い出したのは篠宮くんとの記憶で、みうちゃんとのことはついでだ。ついでに思い出した。悪いけど。

 ……八月半ば。高校主導の夏期講習に途中参加してから二週間ほど経ったある日、篠宮くんが「相談がある」と言い出したのだ。
 彼は学校帰りに話すつもりだったようだけれど、自転車通学においては話しながら帰るというのはなかなか難しい。真面目な相談ともなればなおさらだ。立ち止まってガッツリ話をする必要がある。
 そこであたしは駅にあるコーヒーチェーンの名を出し、当時のあたしにとって誤用の意味のほうで敷居が高かったその店への呪文注文初挑戦に、彼を巻き込むことにした。そもそも一人だと入り辛いし。
「俺も入るの初めてだな」と言う篠宮くんを尻目に、あたしはいつか絶対唱えてやるぞと心に決め携帯メールに下書き保存しておいた呪文をすらすらと読み上げる。さあきみはどうするかね、「鉄人のマウンド度胸」と高校野球専門紙に載ったこともあるエース左腕のお手並み拝見といこうじゃないかという気持ちで篠宮くんをちらりと見ると、彼は少しの迷いもなく「同じのください」と店員に申しました。
 注文したクリームとチョコの泥水みたいなコーヒーを受け取ると、そういえばさっき店員がペンでなにか書いていたなぁと思い出して透明カップの側面を見やる。
 きっとすごく気の利いたことが書いてあるんだろうな、などと期待していたら、そこには『お似合いですよ!』なるコメントと、男性アイドルの登場に「キャ~!」と黄色い声を上げる女子みたいなキャピキャピした顔文字が書かれていた。
 お似合いですよと言われても、これ制服なんですが。
 気を取り直し「篠宮くんのにはなんて書いてあるの?」と訊ねてみたところ、彼のコップには『お二人とも、初々しいですね!(親指をグッと立てた絵文字)』と書かれていて、ああ、店員さんにはあたしたちがこの店に入り慣れていないことなど丸分かりなのだ……とちょっと絶望的な気分になった。
 席に着き「それで、相談というのは」と早々にあたしが切り出すと、篠宮くんは「いやー。親にさ。反対されてるんだよな」とぼんやりな言い方で答える。
「プロを目指すこと?」
 あたしが訊ね、「プロというか、野球で食っていくこと?」と彼が返す。
「ふーん」と言って、あたしはほとんどチョコレートシェイクみたいな味のコーヒーを飲む。
塩水しおみずから見て、俺ってプロになれると思う?」
 塩水というのは、飲み物ではなくあたしの名字だ。
「さー。そういうのは監督に訊かないと。スカウトの人たまに来てるし、可能性ないわけじゃないと思うけど。それにあたしがいくら褒めそやしたって、球団の人に評価されてなかったら意味ないでしょ」
「だよなぁ……」と言って篠宮くんは頭を抱える。
 短髪。しかし坊主頭が多い高校球児にしては長めの髪型だ。あたしはその頭を眺めながら、「親は大学に行けって?」と話の進行を促す。
「いや、店継げって」
「店。……あー、喫茶店なんだっけ」
 いつだったか、篠宮くんの家は外来語を無理矢理漢字にしたみたいな店名の喫茶店をやっていると聞いたことがあった。レンガ調の特徴的な外観のお店で、部員がたまに集まるとか。
「喫茶店も良いかもね。通うよ? 一年に一回くらい」
「おまえは年賀状かなにかか?」
 とまあ、女子同士ならばとりあえず相手のお話にうんうんうんころがししていればいいのだけれど、よく考えたら相手は篠宮くんだった。そういえば男子の相談は本当に解決法を求めているんだって、この前雑誌で読んだな。
「……いつだったか、鵜飼くんが恵理那ちゃんに告白したときに、」
「ってそれいつの話? あいつら二年のころから付き合ってるよな」
 話に興味があるというよりは、話の整合性が気になるといった様子で、篠宮くんが口を挟む。
「うーん、確か去年の四月くらいかな? だからまあ話してもいいと思うんだけど、鵜飼くんがあたしに相談してきたんだよね」
「え、恋愛について?」と篠宮くんが訊ねる。「おまえに恋愛相談する奴いるの?」という顔だ。ちょっとムカつく。
「……相談というか、まあ質問みたいなものかな。鵜飼くんが恵理那ちゃんに告白したら、『少し考えさせて』って言われたらしくて。なんかショック受けてましてね」
「へー? あいつら一年のころから仲良すぎてウザかったくらいなのに、即OKじゃないんだな」
「うん。だから鵜飼くんも予想外だったんでしょ。『少し考えさせて』ってどういう意味なんだよって、あたしに訊いてきたというか。愚痴ってきたというか」
「そりゃあ、少し考えたいんじゃないのか」と篠宮くんは身も蓋もないことを言う。そして被害妄想かもしれないが、そこはかとなく「なんだ、やっぱりおまえに恋愛相談をする奴はいなかったな……」という顔をしている気がする。
「いや、本当に少し考えたかったのかもしれないけどね。でもそのときあたしが鵜飼くんに教えたのはさ、きっと恵理那ちゃんは、沙妃ちゃんに相談する時間がほしかったんじゃないか、ってことなんだよね」
「沙妃って、浅野沙妃? ソフト部の?」
「そう。あの二人仲良いからさ。鵜飼くんと付き合うなら付き合うで、恵理那ちゃんはそれを沙妃ちゃんに相談しなきゃいけない」
 あたしが言うと、篠宮くんはまるで、コーヒーと共にあたしが言った言葉の意味を飲み込まんとばかり、ストローに口をつけて長いことそのクリーミーな液体を吸い上げた。
「……なに、浅野さんも鵜飼のこと好きとか?」
 熟考の末に彼が導き出した結論は、そんな的外れなものだった。
「いやいや。そういうわけじゃなくて。つまりこれは友情の問題でね。親友だと思ってる相手に、『私誰々くんに告白されたから。それで付き合うことにしたから』って事後報告されると、されたほうは傷付くわけですよ」
「傷付く。なんで?」
 篠宮くんが理解し難そうに訊ねる。
「傷付くまではいかないかもしれないけど、女子は『え、相談してくれないんだ。私に相談しないで付き合うこと決めちゃったんだ』って思うわけですよ。男子の場合は、『ええー!? おまえいつの間に誰々ちゃんと!! このこの~』で済むのかもしれませんが」
「あいつらの場合、みんな知ってたけどな」
「ふむ。まあ要するに『誰々くんに告白されちゃったぁ~どうしよぉ~』『えー! 付き合っちゃいなよ~!』的な手続きが必要なんですよ、女子は」
「……面倒くさいんだな、女子って。じゃああれか、もし今仮に塩水が誰かから告白されても、『少し考えさせて』が繰り出されるんだ」
「いや? あたしは相談する友達がいないから、すぐに結果が出ますよ」
「なるほどな」
「そこ強く納得されても困るけど」
「いや、そうじゃなくて。つまりその話と同じだって言いたいんだろ? 『親に相談する』という手続きが抜けてただけで、親はなにも『野球で食っていく』という俺の決意自体に反対しているわけではないんじゃないか、って」
「……そういうことだね」篠宮くん、思っていたより理解力が高いな。
 コーヒーを先に飲み終えた篠宮くんは、少し所在なさげに店内を見回してから、やがてテーブルに頬杖をついてもう片方の手でストローをもてあそぶ。
「塩水はさ、そうやってけっこうよく気がつく奴なのに、なんで友達がいないんだ?」
「ボールが友達だからね……」
 友達ができないんじゃなくて、作らないんですよ、などと主張しても、きっと強がりみたいに思われるんだろうな。とそう考えたあたしは、まあ適当にごまかすことにする。
「あれだ、交通事故に遭うやつだ」
「ボールがクッション代わりになるから大丈夫なやつ」
「……野球のボールで?」
 そんなやり取りをした後で、篠宮くんはまた最初みたいに話を切り出し辛そうな雰囲気を醸し出し、少しの沈黙を経て「そういやさ、おまえのネット小説、天使さんにコメントされてたな」と話し出す。
「えー? あー……悪戯、っていうか、本人じゃないでしょ。前にもあったし」
 いわゆるネット炎上に近い状態に陥ったあたしのネット小説は、その感想欄にも多くのコメントが書き込まれていた。一度はその件数も落ち着いたのだが、数日前から今度はぽつぽつと好意的なコメントが寄せられるようになってきた。
 もしやと思ってスポーツニュースの配信履歴をさかのぼると、そこには私たちの高校に同情的な記事と、そういった記事から派生したいくつかのコラムのようなもの見つかった。いつの間にかあたしは、ネット上の誹謗中傷で傷付いたひどくかわいそうな女子高生となっていた。
 概ね『読ませていただきました!(中略)がんばってください!』というような同情と励ましに満ち満ちたコメント群。その中に、確かに「蔵井みう」という感想投稿者の名前があった。
『読みました! 野球のこと、すごく詳しいんですね! 塩水さんと野球観られたら、すごく楽しいんだろうなって、本当にすごく、そう思います! すごく面白かったです!』と、その蔵井みうは書いていた。
 それが本当に「白球の天使」蔵井みうによる書き込みなのかはすごく分からない。あたしの小説がネットユーザーに堀り当てられたすぐ後なんか、彼女の名前を騙っての酷評コメントがいくつも書き込まれていたし。
 だからあたしは、今回もどうせ本人じゃないだろうと思い、やや皮肉めいた返信をしたのだ。
『蔵井さんは、アイチドームにすごくよく行かれるんですよね? いつかすごく一緒に行きましょうね! すごく!』
 それに対する自称・蔵井みうの返事は、『分かりました! いつか絶対、一緒に行きましょう!』というシンプルなものだった。

 ……さてそんな青春の一ページ的メモリーを思い出したあたしは、二枚のチケットを枕元に置き、代わりに携帯電話を眼前に掲げ、キーをぽちぽち、『みうちゃん、兵庫行く気ある? アラモーズ戦のチケットが』と、そこまで打ったところで、ちょうど目覚まし用のアラームが起動し、画面が自動的に切り替わる。
「――――…………」
 停止、スヌーズ解除と、慣れた操作を施した後、あたしの意識はもうすっかり現実感を取り戻していた。
 あたしは電源ボタンを二度押して作成中のメッセージを破棄し、さて大学に行く準備をしなきゃと、いつものルーティンに入っていく。

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