1話:メラン・ヘリオスと予兆
-黒い空間。目の前には闇だけが広がっている。見ることができるのは足元だけ。そんな空間から逃れようと、ただただ前へ歩いていく。前に進んでいるかも分からない。
「あいつだ」
誰かの声が木霊した。いや、それは”誰か”ではなく、闇そのものから生み出たものだろう。
「おい、あいつだぞ」
「あの子に近づくんじゃないわよ」
「この町からいなくなれよ」
「消えてくれよ」
次々に声が聞こえてくる。それは鼓膜を突き刺し、脳を揺らす。思わず耳を塞いで遮ろうとするも、その声は依然聞こえてくる。
「この『裏切り者の子』が」
-一瞬にして目の前が彩る。青い空を鮮やかな白雲が流れ、風の音と草の香りが漂う。広い高原の中、どうやら心地よく寝てしまったらしい。腹辺りには、寝る前に読んでいた本を、手で押さえていた。頭が重く、なかなか起き上がらない。それに、少し心地よさの残滓があったため、もう一度眠りにつこうと、目を閉じ-
「あーメラン!ここにいたーー‼」
なんて鋭い声だ。一瞬で眠気が覚めてしまった。
重い頭を起こして、足元の方に目を向ける。なだらかな斜面を、少年と少女が二人上ってきた。
「何しに来たんだよ。人が気持ちよく寝ようとしてたのに」
「寝ようとしてたのに、じゃないわよ!」
「まぁまぁフェア。そんなに怒らなくても」
「うるさいオルト!怒ってないし!」
フェアと呼ばれた少女、フェア・ムーン。元気と責任の賜物で、何かとメランに絡んでくる。そんな彼女をなだめた少年の名は、ルシハン・オルト。三人の中では中立で、礼儀正しく誠実。メランのことを気にかけており、一緒にいることが多い。
「オルトの家で盤上遊戯やろうって言ったのに、いつまで経っても来ないから!」
「悪い悪い。っし、行こう」
腰に手を当てて怒る彼女に対し、流し気味な態度を取るメラン。まだ重みが残る身体をゆったりと起こし、着ていた外套のフードを被って、二人が来た斜面を下っていく。「全くもう」とフェアは大きく溜め息を吐き、メランの後を追う。そんな二人を、オルトは「相変わらずだなぁ」と微笑んで見守る。
-メランには、両親がいない。幼い頃に父親の友人に引き取られ、育てられて来た。そのため、教養は身につけられていた。フェアとオルトとはよく遊び、毎日一緒に過ごしていた。父親のもう一人の友人が、フェアの父親で、その父親の計らいもあった。オルトは現在一人暮らしで、一人で過ごしていた頃のメランが気になり、よく接することになった。
だが彼らの空間だけなら良いのだが、一歩外の空間に出てしまうと一変。道行く人は、メランを見かける度に影で罵倒し、憎悪の籠った目で彼を見る。それはメランの心を掻き乱し、苦悩の渦に巻き込む。そんな事が日常茶飯事だ。
-その日の夜。鮮やかに輝く三日月が、濁色の雲で霞んで見える。
三人が住まう場所は、アルシア城郭都市。世界で指折りの繁栄国である、アルシア王国の中心都市。城壁で囲まれた都市には、多くの人たちが暮らしている。
その都市の片隅にある、一軒の宿屋にメランとオルトが入っていった。
「ただいまー」
「おかえり」
そう答えたのは、宿屋の主人のタヴルタ・サーシス。彼が、メランを幼い頃から育てた人だ。
「お邪魔します」
「いらっしゃい」
オルトは礼儀正しく会釈をした。
彼は、時々タヴルタの宿屋を訪れて、メランと一緒に食事をする。これは、いつも付き合ってくれているという、タヴルタからの感謝の意である。
「あ、オルト。先に食堂行っていいよ」
「うん、分かった」
メランはフードを脱ぎ、受付の左手にある階段へ向かっていった。
すると休憩室から従業員のナリアが出てきて、受付にいるタヴルタの元へ寄る。仕事を終えたらしく、私服姿になっている。
「食事作りますか?」
「いや、私が作るよ。お疲れ様」
「お疲れ様です」
時間外の労働となるため、タヴルタはナリアを帰した。ナリアが宿屋から出るのを確認すると、タヴルタは厨房の方へ向かった。
-静寂に包まれるアルシア城郭都市。霞んでいた月の光が完全に遮断されている。
その城壁の上に、いるはずのない人の影がある。巡回している警備兵も、誰も気づかない。まるで、悪いことが起こる予兆と言わんばかりに、強い風が吹き付けた。
「ごちそうさまでした」
食事を終えたメランたちは、口直しに紅茶を用意されていた。タヴルタは厨房で食器を洗い、メランたちは向かい合って座り、会話しているようだ。
「メラン」
「…何?」
「今日も、あの本読んでたんだ」
「あー、そうだな」
メランは猫舌なのか、湯気の立つ紅茶を懸命に冷まそうとしている。そんな彼を見て、オルトは口元を緩める。(タヴ…なんで熱々の紅茶を淹れたんだ…)眉間にしわを寄せて、タヴの不器用さにぼやく。
オルトの言うあの本とは、メランが高原で寝ていた時に持っていた、『伝説の勇者 冒険録』という本。昔、魔族を滅ぼしたという、勇者の冒険について記録されている。メランは小さい頃からその本を愛読しており、勇者に対して密かに憧れと、羨望を持つようになった。
「…メランはやっぱり、冒険者になりたいの?」
急なその質問に、メランは驚きの表情を浮かべる。オルトの真剣味を帯びた表情に、メランは紅茶を冷ますことを止める。
「そうだな」
「…なんで?」
「なんでって……そりゃあ憧れだし、かっこいいじゃん」
「…ホントにそれだけ?」
またしても、メランは驚いた様子を見せる。何度も虚を衝くオルトに対し、メランはすぐには返答できずにいた。カップの取っ手を強く握り、口を噤むメランの様子を、オルトはじっと見つめる。
「じ-」
メランが言いかけた瞬間、窓を強く風が打ち付ける。かなり音が激しかったため、皆一斉に窓の方へ目を向けた。何もなかったように、一瞬にして静寂が訪れる。すると、何か察したようにオルトは立ち上がる。
「ごめん、もう帰らなきゃ」
「…おぉ、分かった」
メランは、あまり返答できなかったことを不満げに思いつつも、ちゃんと見送ろうとする。オルトは「ごちそうさまでした」と、タヴルタに一言声をかけ、食堂を出る。
「じゃあ、またね」
「あぁ、またな」
そう言いながらオルトは手を上げ、そのまま自宅へと帰っていった。メランはポケットに手を入れながら、オルトが遠くなるまで見送った。
食堂へ戻ると、タヴルタが食器洗いを終えて、メランの席の隣で紅茶を飲んでいた。メランは黙って席に着き、何か思い詰めるように紅茶の水面を見つめる。先ほどのオルトとの会話を引きずっており、タヴルタもメランの様子に何か察しているようだ。
思考の末、メランはタヴルタに話を始めようとした。
「タヴ―」
次の瞬間、メランの言葉は掻き消され、強い衝撃と崩壊音が轟く。そして何かが勢いよく頭上に落下し、全身が床に叩きつけられた。手足や首に力が入らず、徐々に目の前が真っ暗になっていった―