地下世界探検
お久しぶりでございます。ご無沙汰してございます。
ドクターストップがかかるほど働いてました。しばし療養です。
人間を、何もない真っ白な明るい部屋に閉じ込めると、三日ほどで精神に異常を来たすそうです。私には珍しくうろ覚えの話ですが。
しかし、真っ暗な部屋に閉じ込めて、三日で発狂するという話は聞きません。無眼球症などで、明暗も知覚できないレベルで全盲の方にすれば、まぁそれが一生涯の当たり前ですしね。
何が言いたいかと申しますと……
だいたい暗闇生活、今のところは快適です!
そもそも、私は閉鎖環境には慣れてますからね。前世は生まれてから死ぬまで無菌室生活。今世も喘息と光線過敏症で、前世ほどはきつくないものの、行動制限はかかっております。かけられております。体質とおじいさまとアルバート先生から。
生きたい、学びたい、という執念で、孤独な無菌室の中で発作を耐え、何本もの点滴を繋ぎながらも生き続けたウェンディ。それこそ、この私、アリエラ・ウェンディ・アルステラなのです!
ばあやという話相手もいる状況など、私にとってはイージーモード!
まず朝起きたら、ラジオ体操第一。
それから朝食をいただいて、ストレッチとかヨガ。もちろん、エレンお姉さまに教わったものですよ、と虚偽申告を行いました。
前世病弱なのに、ヨガやストレッチを知ってる理由は、負担のきつくないものなら、体調の良い時には許可が下りたからです。もちろん講師は画面の向こうでしたけどね。
自分で言うのもなんですが、向学心旺盛でしたので、テキストも読みました。描かれていたポーズを、夜中のベッドでこっそりやってみたり、動画サイトで組み合わせを調べてみたり。
で、ヨガで心身をリラックスさせた後は、大きなタライにお湯をはり、行水です。温めたお湯なのがありがたいですね。
あがったら、身体を拭いて、着替え。ここから、快適生活のための一仕事。
使い終わったタライを、汚れた水をのせたまま引き上げてもらうのは、ちょっと怖いですね。
というわけで、指定されていた「生活排水流し込み口」へ、どばっと流し入れます。水溶性の固体であるはずの岩塩でつくられているのが、ちょっと面白いですね。
流し込まれた生活排水は、この岩塩鉱山が現役だった頃に作られた、通風孔の一部を利用したものとのこと。岩塩や土壌をくり貫いた穴、の中に防水材を塗りまくった木でパイプを通してあるそうです。
水を流し終わったタライに、汚れのひどいものから順に、洗濯を依頼する物を入れていきます。で、そのタライを、ブランコ、あらため、荷物用の大きなネットに設置します。
ばあやがピーッと笛を吹くと、しばらくしてエイヨー、エイヨー、といつもの掛け声。タライが上がり切り、しばし。またネットが下ろされてくるのです。人を載せて。
次に引き上げるのは簡易トイレ。きっちりと蓋が閉まっているか、私も確認をします。
形状はどちらかというと「箱」です。入念に防水措置を施した下の箱に、腰かけるための穴をつける内蓋。そして、臭いが外に漏れないよう、がっちり密閉できる外蓋。最大五つの鍵で密閉してくれます。
喫緊の時に鍵を外すのに手間取ると、かなしいことになってしまいますので、下で使っている時は、あまり鍵まではかけませんが。蓋もかなりの重さで、密封に貢献していますからね。
エイヨー、エイヨー。
おっ、来ましたね。五つの鍵を、もう一度しっかりと確認しました。
ネットに載せられて下りてくるのは、バーナード氏の部下の若手二人組。この二人が、幼女と老女の手にはあまる重いこの簡易トイレを、ネットまで運んでくれます。
で、万が一落下して中身がぶちまけられることのないよう、しっかり支えながら、二人はまたネットで上に上がっていくのです。
そんで、新しい簡易トイレが下りてきます。設置サービスももちろん付いております。
持って上げられた簡易トイレの中身については、肥料に使うんだそうです。なので、トイレットペーパー的な物については、一緒に捨てても問題にならない紙とかいう指定品が支給されましたよ。わぁい、エコですねぇ。
そういえば、肥料で思い出しましたが、ルビーナお母様の御実家、アグラ=アルスヴァリ家の管轄である農業。豆腐もといソイ・カード入手のためにも、関りを持っておきたいのですが……肝心のお母様が息子も娘も放って火山の実地調査に行ったきりです。ウヌヌ。お母様の役立たず!
とりあえず、アグラ=アルスヴァリ家の石は、緑の灰礬柘榴石です。もうそれはばっちり憶えています。
ですが、頼まれているわけでもないのに「家系の石」でジュエリーを作製するのも、なんというか、図々しいというか、押しつけがましいとか厚かましいだとか思われそうですし……うむ。
西洋スグリのジャムでも作りましょうか? 農業技術の家系に農産品の加工物の手土産なら、多分外れではないはず。
でも西洋スグリでジャムを作っても、熟しても緑色なものですから、いまいち映えというものが足りません。赤スグリなら協力者は得られそうな気がします。よし、クライルエンの屋敷に戻ったら、試してみましょう。
えっへっへ…人生初の、厨房で料理、になるんですよね。
日記に書きましょう。
毎日つけることにこだわると書けなくなりますが、何もないのも寂しいので、気分日記をやっております。楽しい未来を想像し、それを書き込むと、なんだかまた達成したい目標が、また一つ増えた気分です。
さて、朝食は上から降りてきます。頑丈な板に載せられた、それなりに豪華な昼食。
なにせ、朝食は今日も一日、この地下世界を生きる最初の糧なのです。大いなる方に、今日も息が出来ていることと、食事をいただける感謝を捧げて……いっただっきまーす!!
サラダはポテトサラダ。マッシュした馬鈴薯に、マヨネーズをなじませ、人参、紫玉ねぎなどを混ぜ込んだものです。紫玉ねぎは切った後水にさらして、幼女向けに辛みを抑えてあります。一口サイズに丸めてあるので、フォークで突き刺して食べやすい!
しっかり密封された容器からは、程よい温もりのコンソメスープ。
メインは食べやすいよう、厚切りベーコンとスクランブルエッグを、レタスと挟んだサンドウィッチ。これはチェスター子爵の家庭菜園のレタスでしょうかね? そう、温泉があるので、その熱で温室栽培ができるのだそうです。アグラ=アルスヴァリ家の技術者に設置してもらったとか。
デザートは、一口サイズに切られたリンゴと、蜂蜜入りヨーグルト。
ふー。ごちそうさまでした!
これらのレシピは、アルバート先生経由で、ファーガス様の母君・マイア様に組み立てていただいたものです。また御礼のジュエリーをデザインしなければいけませんね。うーん、でも、あまり表に出られない方だと聞くし、個人業績に対するアルス称号の剥奪という噂もあります。ジュエリーを贈られても困ってしまう状況だったら……うーん、これはもうしばらく考えないとですね。
元気になるための栄養談義とか、そのうち是非したいものです。
ピーッと笛を慣らして合図すると、また便利な上げ下げ。
昼食とティータイム、それから夕食も、このシステムで供給されます。
至れり尽くせりですが、もしも大勢が岩塩坑で療養することになったなら、さすがに手間がかかりすぎると思います。食堂やトイレの整備は必要でしょうね。欲を言うならお風呂も欲しいですが。
さて、食事が終わったら、お腹が落ち着くまで少し休憩。
そして道具を整えたら、持ち運び用ランタンに火を移してもらいます。
いざ! 地下世界マッピング!!
到着後、二三日は読書など目論んでみましたが、やはりすぐに目が疲れるので、早々に諦めました。そして思いついたのが、洞窟探検です。
洞窟なんて言っても、所詮は人類が掘削した「通れる程度」の通路。アルステラ家息女を、危険なところに置くわけもなしと、ばあやに対して色々とゴネ……説得を重ねて、今では日課です。
歩きやすい靴にズボン。ランタンとコンパス。そして記録用のメモと筆記具。
ちなみに測量方法ですが、伊能忠敬大先生同様、歩幅を基準にしております。
成長中には不向きな方法ですが、測量用の装備のない状況で、しかもざっくりした趣味で実施するなら、別に構わないと思うのです。
ちなみに私の歩幅は、約25センチメルト。わぁ、小さい。さすが幼女。
往復で二回計測して、平均値をとります。アランお兄様には遠く及びませんが、それなりに暗算能力も鍛えられているのではないかと思います。気のせいかもしれませんが。
道に迷わないように、ばあやが編み物用に持ってきていた毛糸玉を、体にぐるぐると巻きつけます。これが本当の「アリアドネの糸」ですね。つまり私は英雄テセウスですか。
この岩塩坑にはミノタウロスなんかいませんが、まぁ想像の翼を逞しくするぐらい、幼女の罪のないお遊びですよ。というか、怪物なんていたら困ります。私の療養計画が!
なお、テセウスの末路については、お口チャックでお願いします。ゼウスと違って、浮気くさい話がニンフのメンテーの一つぐらいしかない、愛妻家の冥府の王ハデス様に、なんてことをするんでしょうね。輝いてたのは若い頃だけって、凄まじくダサイですよ。
年を重ねるなら、おじいさまのように素敵になるのが紳士というものです!
分岐点では必ず、一番右側の穴から攻略しています。多分、この階層の4分の1ぐらいはマッピングが終わったのではないでしょうか。
特段に珍しい発見とかはまったくありませんが、フィールドワークをしているという喜びが、何もない暗い通路を輝かせてくれます。健康バンザイ!
「あら? 何この痕跡……水?」
通路床の両端には、排水路が申し訳程度にあります。そこを水が流れているなら、別に目を止めたりなどしません。しかし今、ランタンの灯りに照らされているのは、河川の流路の痕跡のような、浸食を受けたような凹み。
まぁ、もちろんここも雨は降るでしょうし、だから何だという話ですよね。若干、登り坂のような感じがしていましたし。ただ、その……足場の悪さが加速してきたような……
流水に磨かれた床が、どんどん滑らかになっていきます。
おお、よくよく見ると、床部分にアイゼンででも突き込んだような穴があります。この鉱山が稼働していた頃も、この滑りに苦しんだ人がいたのかもしれません。
ああ~、フィールドワークですね~。
ちなみに、通路の先にあったのは、上の階層に上がる穴と、その下から四方八方に伸びる通路でした。自分の来た方向を見失いそうな気がしたので、そうそうに「アリアドネの糸」を確認し、手繰って戻りました。本能が感じる恐怖というものはあります。だって私は幼女。
さて、お散歩もといマッピングから帰還。
昼食までの時間を、思索という名のぼんやり、いつの間にか寝て過ごします。
お風呂がなくなったのが……こればっかりは不服。
ベッドに寝転がり、今日も考えるのは、何故こんなものがあるのか。
つまり、年間降水量1000mm越えのCfa気候に、どうして採掘できるほどの岩塩がたまったのか。アルビノアの他の地域ではなく、このチェシャーに。
この世界がウェンディの妄想の産物であるなら、このアルビノアの地はプレートの収束型境界の上にある弧状列島のはず。博物室の古い地図では細かい点が分かりませんでしたが、多分そのはず。
そして、地球の環太平洋火山帯よろしく、環大西洋火山帯があり……そして、あくまでこの国土は、プレート付加体が主体のいわば「沈み損ねた残りカス」の集合。
繰り返しますが、岩塩の主な形成原因は、海洋の閉塞。アルビノア国土が、地中海のような閉塞状況にあったことはありません。そんな設定は一度もしていません。
次に、死海と同様、流入する水分量より、蒸発する水分量の方が多い場合。
しかし、この気候でそれはありえません。
この岩塩坑があるのは盆地です。なので、トルクメニスタンのガラボガズキョルのように、この凹地に溜まった水が何度も塩を残して蒸発した……という可能性も考えました。
でも、それにはやっぱり降水量が多すぎるのです。
先程見つけた痕跡からも分かるように、雨水の流入はあります。この降水量の影響を覆してあまりある、塩の供給源……
……岩塩ダイアピル、なら?
地中に形成されていた岩塩層が、地殻変動の圧縮を受けて、上昇。
岩塩は、他の岩石と比べると軽いので。
岩塩ダイアピルの中でも、岩塩栓とよばれる細いタイプなら……
前世ウェンディの不覚。
ああ、ソルトテクトニクスの論文を、もっとしっかり読んでおけば……
収束型境界における岩塩層の移動って……岩塩ドームでもっとも有名なのはザグロス山脈……でもあそこは衝突型境界……そもそも……
どんっ
「お嬢様!」
何が起きたのか、一瞬、分かりませんでした。
ばあやが叫ぶのが聞こえ、それから、自分の心臓が、ばっくんばっくん大きく跳ねていることに、気が付きました。
今のは……まさか……
「地震です! ベッドの足を掴んで! 下に潜りますよ!」
そうか……アルビノアは……前世の地球の日本と同じ、地震多発地帯……
ああ、そうか。ここは地震国なんだ。火山国で、地震国なんだ。
押し込まれるようにベッドの下に潜ります。跳ねる心臓が落ち着く気配は、一向にありません。ベッドの足を掴む手が、ぶるぶると震えていました。
前世、ウェンディの記憶をたどってみます。でも、経験がありません。東日本大震災……東北地方太平洋沖地震の時には、もうアメリカに移住していました。こんな、どすんと突き上げるような……
あれ? そういえば地震って、P波とS派があったのでは……? P波が弱すぎて分からなかった? それとも震源が近い?
「アリエラ嬢! ヴィッカー夫人!」
地震の知識をひっくり返して現実逃避をしながら、どのぐらい震えていたでしょうか。
隣にあったばあやの温もりが、のそのそとベッドの下から出て行きます。
「バーナードさん?」
「良かった、無事でしたか!」
「ええ。お嬢様も私も、怪我はありません。先程の地震は、どっちの原因ですか?」
「火山です。チェンダースクートが噴火しました」
ということは、火山性地震……P波とS波の区別がつきにくい……B型地震?
とにかく、阪神淡路大震災みたいな、活断層による直下型ではない、と……
断層!!
この盆地を取り囲むのは、伝承に「怒りっぽい七人の兄弟騎士」と形容された、アルビノア国内でも有数の、非常に噴火の活発な火山です。
火山性断層の割れ目を、マグマではなく、密度の低い岩塩が上がってくる?
いや、待って……いくらなんでも、岩塩の上昇速度がマグマに劣る訳が……上昇……そういえば、チェシャーの温泉って、塩化物泉でした、よね? しょっぱかったし……
そういえば、北海道では火山活動の活性化に伴って、温泉のナトリウムイオン濃度が顕著に上昇……でも、ナトリウムイオンだけでは……塩化物イオンは……
「どうしますか? いったん、地上に上がられますか?」
「ええ、引き上げの手配をして下さい。火山ガスは下方へ下りてきますから」
火山ガスといえば、有名なのは二酸化硫黄。化学式はSO2で、分子量は32+16+16の64。空気の見かけの分子量は、28×0.8+32×0.2で、28.8。重いですね。
「なるほど。このあたりの火山のガスは、臭いを通り越して痛いほどで」
「なら、なおさら上がってしまった方が良さそうですね」
臭い火山ガスといえば、腐った卵のようなと形容される硫化水素でしょうか。
二酸化硫黄は水と反応して亜硫酸、過酸化水素と反応して硫酸を……待って、私、地下に過酸化水素水を持ち込んでますよ。あっぶな。あっぶな!
水と反応する火山ガスといえば……
待って。待って、私。どうして見落としていたの??
火山ガスの中には、刺激臭をもち、水と反応すると塩酸を生じる、塩化水素が……塩化物イオンが! 含まれているじゃありませんか!!
ついにアルビノアでも地震が発生。今回は火山性地震ですが。
阪神淡路大震災のトラウマで、ちょっとでも揺れるとビクッと起きます。
チェンダースクート山が噴火しましたが、マグマだまりを共有する他の「兄弟」たちも、ワッショイワッショイする……かもですね?
ちなみに、ナトリウムと火山ガスの塩化物イオンによって塩ができるというのは、私の言い始めたことではありません。ウユニ塩原の塩の起源について、実際にある説。
ウユニは火山に囲まれた盆地……そう、チェシャー岩塩坑と同様。
もちろん海抜は4桁メートル単位で違いますが。まぁ、うん。




