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子爵令嬢の地学満喫生活  作者: 蒼久斎
§3.アリエラ6歳、念願の初外出
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ミドルウィッチ岩塩坑

すごい! ひと月でまた更新している! あんな目に遭ったのに!

COVID-19より生還しました。味覚は消えたままです。

 





 指し示されたのは、地面に掘られた階段です。わぁ深い。地下二階ぐらいまで潜るんですね。ちょっとだけ、エチオピアの世界遺産、ラリベラの岩窟教会群を思い出しますね。あれは凝灰岩ですけど。

 そういえば、ここの地質を調べていません。クッ! 何たる不覚! 色合いから推して石英の比率は低く、黒雲母の比率が高そうではありますが……ああ顕微鏡を! 私に顕微鏡を下さい!!

 と言っても、これから光も差さない地下に入るのですがね!


 階段を慎重に下りていくと、頑丈なドアがありました。鍵が開かれます。

 わぁ、これ、私が入っている時に施錠されたら、悲惨な展開になりますね。ファーティマ朝のカリフ・ハーキムに、出入り口を塗りこめられたお風呂みたいな。中に入っていた女性たちが全員餓死するまで放置されたという……カリフ・ハーキム、スンナ派が嫌いすぎてモロヘイヤを禁止するとか、エキセントリックをきわめた言動で有名な方ですけども。


 ランタンに点火。ばあや他、食料運搬などのサポートをしてくれるスタッフたちと一緒に、そろそろと歩き始めます。なるほど、今日はズボンを穿かされたわけです。背負うのに都合がいいだけではなく、歩く時に足元の確保がしやすいからと。


 暗闇の中に、ずどんと巨大な穴が開いています。その上に、奥へと進む橋。木製。わぁ、落ちたら怖いですね。まぁ他に人がいるから、きっと助けてもらえると思いますけど。いや、底どうなってるかはわかりませんけど。

 ちょっと立ち止まり、小石か何か……小さな岩塩の欠片かもしれませんが……を拾うと、橋から下へと落としてみます。ややあって、ぽちょーん、という水音。


 なるほど、雨水が奥へ流れ込まないように、ここで溜めているのですね。

 落下までの秒数をカウントすれば、水面までの距離が分かったでしょうが、うっかりしていました。理系にあるまじき失態。


 なお、先導はチェスター子爵のところからついてきてくれている、ブルース・バーナード氏。とっても筋骨逞しいおじさまです。先頭でランタンを持ち、迷いなく暗闇の中を進んでいきます。

 チェスター子爵の仰るに、このバーナード氏こそが「療養実験」のために、この岩塩坑を改装された責任者とのこと。そう、幼女でも入れるように。

 くねくね曲がる、恐ろしげな地下世界を想像していましたが、案外と曲がりません。ぽつぽつランプを灯しつつ、先へ先へと進んでいきます。あれ? 行き止まり?


「これで下ります」


 その言葉とともにバーナード氏が示したのは、とっても素敵な人力エレベーター。床面に重たそうな滑車が設置され、そこから伸びるロープの先に板がついて、まるでブランコみたいになっています。おおお、なんという……これは信頼が問われますね。ロープを持っている人への。


 まぁ? 行くしかありませんよね?

 この喘息を治さないと、せっかくの遮光装備も宝の持ち腐れ。この世界の大地を堪能するという野望を達成するためには、あの論文にもすがるしかないのです。いざ!!


 ブランコ部分に腰を下ろし、バーナード氏たちを信じて吊るされます。手にはランタン。エイヨー、エイヨーという掛け声とともに、じりじり地下世界が近づいて……いえ、すでに地下世界にはいたのですが、何というか、もっと深奥へ行く感じで。

 夜よりも暗い黒の世界に、ランタンのオレンジ色の光だけが浮かびます。


 エイヨー、エイヨー。エイヨー、エイヨー。


 やがて、爪先が地面に触れました。降り立ったら、合図として、目一杯の力でブランコを揺さぶります。呼吸器の弱い幼女の声が、上まで届く自信なんてありませんからね。その点、変な揺れならまだ上に届きそうな気がします。

 伝わったらしく、するするとブランコが引き上げられていきます。

 次にばあやが到着するまで、この暗闇に一人きりです。


 ああああぁぁーー!! 楽しいいぃぃぃぃ!!!


 ランタンを持って、足元に注意しつつ、この空間の中を歩き回ります。

 暗すぎてまったく広さの見当が尽きませんが、幼女の足で歩いて、わりとすぐに一か所めの壁にはぶつかりました。ついでに、その壁際に、ベッドだの簡単な家具が置かれているのも見つけました。なるほど、これが「療養実験」のための改装。

 ベッドサイドテーブルに、追加のランタンが置かれていたので、火を移します。焼け石に水という表現がぴったりですね。闇はほとんど闇のまま。


 んっ? もしや、壁に松明を取り付けられるようになっている?

 しかし、幼女の身長ではまったく届きません。ベッドに乗って、サイドテーブルに乗って、背伸びをすれば、ぎりぎりいける、でしょうか?? でもそもそも、ここに松明がありませんからね。あははは。


 ちなみに通気の悪い地下空間で燃焼作用を継続すると、一番怖いのは酸素不足。

 粉塵爆発の心配は、今回はまずありません。炭素や第二酸化鉄などとは違い、岩塩は粉塵爆発の爆発抑制剤に使われます。世界遺産にもなっているポーランドのヴィエリチカ岩塩坑では、メタンガスの発生による爆発事故はあったそうですが、まぁこの近辺にメタンガスがあったら、私はすでに消し炭ですからね。


 で、酸素不足対策ですが、おじいさまとアルバート先生が、最先端化学物質を手配して下さったのです! その名も過酸化水素水!!




 過酸化水素水。それは、濃度6%を超えれば、毒物及び劇物取締法に引っかかる劇物。閉鎖系エンジンの酸素源として軍事目的でも使用され、とくに魚雷の動力源としても活用されましたが、搭載艦船を沈没させる爆発事故の原因にもなっている危険物。

 しかし、この世界の現代においては、まだ実験室で合成された研究途上の物質。鉄などを入れると酸素を発生させることぐらいしか知られていません。


 それでいいんですよ。酸素の補給に使えるから、それで十分なんです。

 食塩水の電解でも酸素は発生しますけど、同時に塩素が発生しますからね。塩素を侮ってはいけませんよ。人類史上初めて実戦投入された毒ガス。

 なお、この作戦を指揮したフリッツ・ハーバー博士は、ドイツのために毒ガスを開発して、最後はナチにドイツから追放され、しかもご自分の開発したツィクロンBで、同胞の大量虐殺を招いています。オシフィエンチムってところでね。


 おっと、脱線、脱線。

 まぁそんなわけで、酸素だけ確実に発生させ、現代の化学力で手に入るものといえば、過酸化水素水ぐらいだろうなと考えたのです。

 劇物という知識はあるので、爆発などしないよう、念入りに洗浄して、しっかりと密閉したフラスコの中に入れています。ばあやが持ってきてくれる手はずですよ。


 もちろん、生じさせる酸素の量の調節は重要ですから、しっかりきっちり計算はします。

 人類は大気中濃度20%の酸素に適応して進化しました。地球と条件が同じこの世界も同じく。高濃度の酸素は、もちろん低酸素状態の回復のためなどには使われますが、基本的に人体にとっては毒。酸素中毒で眼底出血などを起こすこともあるのです。

 あと、酸素濃度が30%を越えたら、このランタンの火でも爆発的燃焼を起こします。私が焼け死にます。


 バーナード氏は鉱山労働者ですから、空気を送るための通気口や送風装置などのことは、もちろん考えていらっしゃるとは思います。しかし、念には念を入れませんとね。

 私は! ここで! 死ぬわけにはいかない!!


 のんきにベッドに転がっていると、オレンジ色の灯りが下りてきました。ばあやです。ててて、とランタンを持って近づくと、小さい方の荷物を抱えたばあやの姿が見えました。

 またブランコを振り回して合図をしようと思ったのですが、ばあやは小さな笛を取り出して、ピィーッと鳴らしました。ああ、はい、効率的ですね。


「本当に、地の底なのですね」

「日焼けの心配がないでしょう?」

「本当に、お心は逞しくていらっしゃいますね」

「体も逞しくなってみせるんだから!」


 地底でもやることはあるのですよ。地質の調査とか、ラジオ体操とか!


「まずは、生活環境を整えないとね」

「はい、早速」


 ばあやがランタンを持って動き回ります。その明かりで、ばあやのためのベッドも、ちょっと離れた位置に設置されているのがわかりました。水を保管するための水瓶や、人類の切なる悩みである排泄のためのおまるもあります。

 そうなんですよね、鉱山の労働環境の劣悪さの一つが、排泄の問題なんです。少しでも多く採掘したいので、鉱夫はもよおしても坑道内で済ましちゃうのですよね。なので、環境はお察しです。


 ちなみに羞恥心なんてものは、一生病院暮らしだった前世で捨ててきました。寝たきり生活の排泄介助ごときで恥じらって、虚弱が生きていけるかっていうんです。

 あと、5歳幼女の時には、夜の失態なども経験していますからね! 幼児の膀胱の小ささを侮るなっていうんですよ。侮ってしくじったのは私ですけど。


 実験道具などは、次の便で届くようです。

 暇なので、ラジオ体操に取り組んでみようと思います。

 ラジオ体操。それは健康な人の特権。日本全国の元気な子どもたちにとっては当たり前にできたことでしょうが、前世は虚弱体質、今世は喘息持ちの私にとっては、憧れでしかありません。

 たかが体操と侮るなかれ。元の名前は国民保険体操。元気な子どもたちを育て、ゆくゆくは立派な軍人になれよという、遠大な目論見の第一歩。


 まずは子ども向けの第一からです。第二は妊婦や幼児、高齢者には運動量が多すぎると言われますので、第一がしっかりできるようになってから。


 なお、幻のラジオ体操第三というものがありますが、そちらは第二よりもさらに躍動的で複雑な動きが特徴。あまりにも複雑すぎて「幻の体操」になってしまいましたが、2015年に龍谷大学の先生によって復刻されているのです。

 何故知っているかといえば、そりゃあ憧れだからですよ。

 いずれ! 第三もできるぐらい健康になってやりますからね!!


「お嬢様、何をなさっておいでで?」

「エレンお姉さまから教わった、体を鍛える体操よ」


 もちろん嘘です。

 でもきっと、エレンお姉さまなら口裏を合わせて下さいますよ。

 大きく息を吸って、吐いて……吸って、吐いて……




 結論。跳びはねるところで挫折。一回は跳べましたが、二回目で咳が。


「諦めないわ……呼吸器の改善が見込めるここで、毎日続ければ、きっと全部できるようになるはずよ……!」


 関西人なら、この後ろに「知らんけど」ってつくのでしょうけど。

 でも、諦めてなるものですか! 気合だけで病気は治りません。でも、気合を失った人から死んでいくのです。生きる意欲を失くした人から死んでいくのです。


 とりあえず、朝夕の二回に挑戦します。真っ暗な地下空間で、朝も夜もあるものかという話ですが、文明の利器・時計というものがあるのですよ。

 まぁ多分、使われている油の調達のために、クジラが犠牲になっているやつですが、この世界に反捕鯨団体は存在しません。いや、知らないだけであるのかもしれませんが、アルビノアにあるとは聞いたことがありません。


 油のためにクジラが殺されたのも悲しい話ではありますが、私個人の所感として、もっと悲しいと思ったのは、ピアノのためにゾウが殺された話ですよね。


 その昔、ピアノの黒鍵は黒檀で、そして、白鍵は象牙で作られていたのです。

 19世紀から20世紀初頭にかけて、中産階級などにもピアノが普及しました。その結果、1905年から1912年までのたったの数年の間に、ピアノの鍵盤を作るためだけに、3万頭ものゾウが殺されたと言われます。


 ちなみに、1870年にハイアット兄弟によってセルロイドが発明され、ビリヤード玉などへの象牙の使用は終わりました。さらに20世紀に日本のヤマハがアイボライトというプラスチック鍵盤を導入したことで、ピアノの鍵盤のために殺されることもなくなりました。

 それでもハンコなどの材料にすべく密猟は続き、生存のために牙のないアフリカゾウが増えるという、進化論のいやな実例が見えてきたわけですが……


 私もといウェンディが死ぬ前の地球では、生物に対するマイクロプラスチックの危険性が盛んに叫ばれ、プラスチックは人類の罪みたいな扱いを受けていましたが、プラスチックが救った命もあるんですよ。奪った命もたくさんありますけども。


 実に、化学は両刃の剣ですね。DDTだって発明された当初は夢の薬でした。例の『沈黙の春』で知られるレイチェル・カーソンによって、生体濃縮が一般に知られ、危険性の認知が進みましたが。

 まぁ、私は地質屋の家系、かつ、宝石学専攻の予定なので、危ない化学物質を生み出す予定も、扱う予定も、今のところありませんけど。

 ……ウランが、ウランが広まらなければ。放射性物質は嫌ァァ!!


「お嬢様、最後の荷物が下りてきましたよ」


 色々と思い起こしているうちに、荷物下ろしが終わったようです。

 最後の荷物には、私の実験道具が入っています。標本を保管するガラス容器も。

 さて、では、ここの岩塩のサンプルを採取しましょうか。謎を解かねば。


 岩塩が出来るパターンは、大きく分けて二つあります。

 一つ目は、かつて海洋だった土地が地殻変動などで閉塞して、内部の水が蒸発して塩が残るパターン。地球の岩塩層の多くはこのパターンです。


 もう一つは、イスラエル-ヨルダン国境にある、死海のパターンですね。

 あの地域も昔は海でしたが、死海が世界で最も塩分濃度の高い湖になったのは、それだけではありません。周辺の土壌に含まれる塩分がヨルダン川によって運び込まれ、なおかつ流出する川が一本もない。そして、供給水量を上回る湖水の蒸発。


 それらを鑑みてから、このチェシャーの岩塩坑を見ると、妙なのです。

 私がこの世界の妄想者……もとい設計者であるからのズルですが、過去の地殻変動から考えて、この塩の量はおかしい。

 この地域が海洋だった過去はあります。しかし、採掘坑が作れるほどの岩塩ができるには、あまりにも乾燥していた期間が短い。

 周辺の川から流入した塩分がたまったと考えても、流入量を超える水分蒸発が期待できる気候だった時期は、おそらく、あまりありません。


 いったい、どういう理由で、これほどの量の塩ができたのか?


「うふふふふふ」

「お嬢様?」

「私、今、フィールドワークをしているのね!」


 この地下は実地! 私史上初の、本当の野外調査フィールドワーク!!

 もちろん呼吸器疾患の改善は最優先ですが、ああ、たまりません!

 えっへへへ……岩塩の謎、きっと解いてみせるんですからね!


 おじいさま、アリエラは喘息を治し、そして地質研究に励みます。この岩塩坑の外で、しばらくお待ちくださいね! さすがアルステラ家の娘と、きっと褒められてみせます!


 とりあえず、お腹が空いたので、食事にしましょう。

 今日は長距離移動なので、サンドウィッチなどの簡単なものです。幼女の口のサイズでも食べられるように、薄く切ったパンに、チーズやハムや、ポテトサラダを挟んで……

 ああ、チーズ。乳製品が美味しく食べられる上に、フィールドワークをしている……なんという幸福でしょう!


 ばあやは、暗がりの中とは思えない手つきで、リンゴも剥いてくれました。芯はゴミ箱に捨てます。毎日、バーナード氏のチームが、ゴミや汚れものなどを回収してくれる手はずなのです。

 リンゴをかじったら、一気に眠気が。歯磨きもしないでお行儀が悪いですが、今日は色々とあったので、許してください……





ラジオ体操は絶対にさせる予定だった。ちなみに「ラジオ体操第4」は、CMのために作られたネタです。というか、常人のできる体操じゃないです、あれは。


今回の参考文献(象牙など)

エリック・シャリーン『図説 世界史を変えた50の鉱物』原書房, 2013年

(※ 英語版の原書は2012年の発行です)


エイジャー・レイデン『宝石 欲望と錯覚の世界史』や、玉木俊明『ダイヤモンド 欲望の世界史』のように、この『世界史を変えた50の鉱物』も、なかなか辛辣な記述が多々あり、めっちゃめちゃ笑いました。淡々と毒を吐く感じがクセになります。

 

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