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子爵令嬢の地学満喫生活  作者: 蒼久斎
§3.アリエラ6歳、念願の初外出
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チェシャー地域の諸産業

アリエラの前世ウェンディの没年は、2020年代半ばぐらいの設定。





 私アリエラは、地理と地学の学術貴族家系、アルステラ家の娘です。チェスター子爵領の地理情報は、訪問前にみっちり叩き込んできてあります。

 ということで、ちょっと気づいてしまった不審点について考えるべく、このチェシャー地方の情報をおさらいしてみますよ!


 チェスター子爵領たるチェシャーは、大雑把に言って、二つの地域に分かれています。

 まず、経済的に栄えている河川港やその周辺の「中核地域」。それから、私がこれから向かう、いわば経済発展から取り残された「周縁地域」。

 この「周縁地域」の地形が、気になるのです……火山に囲まれた盆地なのですよ。


 さて、火山に囲まれた盆地。土壌は、溶岩? それとも火山灰?

 ここはシムスで、アルビノアの南部低地ロウランドではありませんが、おそらく火山灰だと思います。溶岩なら、穴ぼこだらけで保水性もへったくれもありません。植生もたいへん貧相なものになるはずで、牧畜業が出来るチェシャーが、そこまで不毛の大地であるわけがない。多分。


 ただ、火山灰土壌も保水力の低さで有名です。例えば、阿蘇の火山灰大地が有名な熊本県には「ザル田」とよばれる田んぼがあります。これは、朝に入れた水が夕方には染み込んで消えている、という田んぼ。

 それで稲作ができるのは、火の国と名乗るより水の国と名乗った方が良いのでは、と思えるほど豊富な水があるからです。抜けるのなら足せば良かろうなのです。力技ですね。


 つまり、まだまだ修行中とはいえ、私の知識から考えるに、このチェシャーの大地も、水がどんどん染み込んでいく性質のはず。あるいは熊本のように、地下には、豊富な水さえあるかもしれません!

 そしてこの地域は、日本式に換算して、年間1600ミリぐらい降るのです、雨が。一部は雪ですが、春になれば解けるのですから、まぁ水と理解していいでしょう。

 ……おかしくありませんか?


 塩は水に溶けるものですよ?

 何故、岩塩坑が存在できるのです?!

 それとも、本当に岩塩坑は存在しているのでしょうか……?


 なんだか恐ろしい妄想まで湧いてきましたよ。

 というわけで、岩塩産業のチェスター子爵領における重みを考えるべく、主要産業についてもおさらいをしてみます。


 第一に繊維産業。まぁ歴史が長いので。

 農業生産力があまり高くないこと。この国が高緯度地域に位置し、暖流が近くの海を通っていると言っても、さすがに長い夜は冷えること。これらの条件から、羊やヤギなどの牧畜が盛んになっていった……という流れです。近年は地位が下がっているようですが。


 第二は水運業。

 モノウ川の河川港だけでも、それなりの力はあったのですが、バーミンガム公爵領からの運河が完成して、さらに規模が拡大しました。

 バーミンガム公爵領の民は、購買能力の高い富裕層や中間層の割合が高いので、大量の船がチェスターからバーミンガムへ向かっていくのです。通行料を下げてもお釣りの来る賑わいです。主要産業にのし上がるのも納得ですね。


 第三に、狭義の商業。

 モノウ川方面からやって来る品々、バーミンガム公爵領方面からやって来る品々。その両方が仕入れられるのですから、旅費も節約したいシムス地域の中小の商人からすれば、チェスターは「便利な問屋」であると言えるでしょう。


 第四が、そうやってもたらされた材料を用いた加工業。

 海でとれた素材、山でとれた素材、そういった数々の豊かな材料が集まってくるのですから、職人の腕が鳴らないわけがありませんよね。

 まぁ、宝石の職人はいませんけれども。下流でも上流でも、ジュエリーにするような高品質の石は取れないのだそうで。本当に、変なところが日本の地質に似ています。


 で、第五は酒造。

 いわゆる「発展地域」と「周縁地域」の境目あたりの産業です。

 幼女なのでよく分かりませんが、酒造りには大量の地下水が必要だった気がするのですよ……日本酒の話だったかもしれませんが。年齢的に、絶対醸造所に連れて行ってもらえませんから、聞き込みなどで要調査です。

 でも、もし地下水が大量に必要だった場合、いよいよ岩塩坑が存在しているのが不思議で堪らなくなりますよね。うーん。


 で、ようやくやってくるのが、岩塩なのです。


 ヨーロッパでは岩塩というものは、それなりに重要な鉱業生産物だったと思うのですが、ここは島国アルビノア。そう! 島の周りにはお塩を含んだ海の水がいっぱい! 体力を注ぎ込み、時間を掛ければ、岩塩なぞなくても、生きるのに必要な塩は作れますとも……!


 ちなみに塩水を煮込むには膨大な量の燃料が必要となりますが、ここは地震国アルビノア。あっという間に木々を伐り尽くしたイギリスとは違い、木材の建築材料としての需要は一切下がりませんので、計画的植林が実施されているのです。アグラ=アルスヴァリ系の管轄ですね。


 建築材料として育てるわけですから、枝打ちや間伐なども行われ、「おこぼれ」には不自由しないのです。間伐材を薪にするのは、森にはまだ入れない子どもたちのお小遣い稼ぎでもあるそうですよ。

 え? 児童労働? アハハハ……そういう所もあるだろうとは思います。


 派手に脱線してしまいましたね。閑話休題。

 まぁそういうわけで、チェシャー地域では、岩塩はべつに第一等の産業ではないのです。知らなくても仕方ないのかもしれない程度にマイナーです。


 ……ん? シムスの地理について、まだまだ勉強途上だったとはいえ、庶民のユージーンにチェシャー岩塩坑のことを教えられてしまったというのは、もしかして、アルステラ家の娘としては、恥?


 まぁそんなことは、喘息が治ることに比べれば些末なもの。

 第一、庶民は主権者でもあるのですから、専門家ほどではないにしても、熱心に勉強しているに違いないのです。特にユージーンは、庶民階級でも上層にいるのですからね!

 悔しくなんてありませんもん。ありませんもん!





 チェスターに到着したのは昼過ぎでした。冬のアルビノア的には夕方とも言います。相変わらずの曇天ですが、雨じゃなかったので良かったと思います。

 ちなみに今更ですが、Cfのうちbだというのは、図書室の気候の本を調べての結論。地図は公開されないのに、降雨量や気温のデータは見ても良かったのです。さすが理系重視国家アルビノア。資料、とても分かりやすかったです。


 さて、岩塩坑に辿り着くのはまだ先の話。本日はこちらが目的地。

 例の論文を使って、おじいさまはチェスター子爵をうまく釣り、岩塩坑の中に簡易の宿泊設備を作らせることに成功しました。現時点では私だけのためのもの。この先これが拡大するかどうかは、私の経過如何です。どうか、治りますように!


 河川港で荷下ろしを待ちます。ずっと揺られていたせいで、動かない地面が落ち着きません。これが伝説の陸酔いですか? 分かりませんが、目隠しをして寝転がります。お行儀ですか? 病弱幼女なので、仕方ないのですよ。

 徐々に陸に感覚を戻していると、「教授プロフェッサー」とよく通る若い男性の呼び声。間違いありませんね。おじいさまを呼んでいます。相変わらず目隠しをしたままなので、気配でしか分かりませんが、おじいさまが何か身動きをされた様子。


「アルステラ教授ですね。チェスター子爵家より使いに参りました」

「おお。かたじけない」

「お荷物は子爵家の客用棟ゲストハウスに運んでおきます。あと、主人より『晩餐には、お孫様ともどもお見え下さい』と言伝を預かっております」


 チェスター子爵家の使用人のお兄さんは、おじいさまの近くに寄って話をしているようです。

 いやぁ、本当にアルビノア。貴族が、おそらく身内だけの小さなものなのでしょうけれど、晩餐の招待を、まさかの口頭! まさかの伝言! イギリスだったらあり得ない非常識ですよ。

 ああ~、学術貴族って、礼儀作法とか雁字搦めではないのが、本当に最高ですね!


 あ、でも晩餐の招待は言伝でも構いませんが、絶対に招待状が必要なものもあります。

 ええ、学会です。討論会です! シンポジウムです!!

 「プライベート」の挨拶は簡潔に。しかし「オフィシャル」の挨拶は、丁寧に。オンとオフはきっちり線引きされています。挨拶というものの上では、ね。


 馬車に揺られて、チェスター子爵邸へ。船に鍛えられたせいか、どうも出発時ほど気持ち悪くはなりません。そうか、最初に過負荷を掛けてしまったのですね。

 私の初回の馬車旅は、エクセター郊外行きだったわけですけれども、あの時はサクッと寝落ちしてしまっていましたからね。だって、ドーヴァー侯爵夫妻にお見せするジュエリーデザイン画の作成関連の諸々で、疲労が山のように蓄積していましたもの。


 うーん。やはりあまり大きくはない町、ですね。こう、面積という点が。

 河川港の周辺は倉庫街。そこから少し離れて、中流層以下庶民向けの商業取引施設。チェスター子爵邸は町の中でも高いところにあり、川から離れるにつれて、少しずつ標高が上がってくのが、なんとなく体でも感じられます。


 日本の街なら、神戸がちょっと似ているかもしれません。まぁ、あちらは山と海、こちらは山と川なのですが。

 21世紀の人間には、あまり水害の街というイメージはないかと思います。でも、阪神大水害など、実は意外に水害になやまされてきた街なのですよ。また、沿岸部は低湿地を埋め立てて広げた過去があるので、阪神大震災では液状化現象があちこちで発生。

 それで、山の手の方に富裕層が集まるのだそうです。


 そうかぁ、氾濫するんですねぇ、この川……あはは。だから「流されても被害が知れている」「再建に手間がかからない」と判断された建物ばかり、川に近い場所に配置されているのですね。そして、遠目にもわかるような豪邸は、山の手に。

 あ、「流されると困る」が「山の手まで運ぶのが色々と難しい」ような品については、石の基礎にコンクリートまで使って床の高さを上げた、洪水対策ばっちりの倉庫が割り当てられているようですけれど、ね。ぱっと見た感じ。


 山の手に上がっていくにつれて、やっぱりお屋敷が増えてきます。うーん、神戸か、芦屋? いえ、ガイドブックとかネットの知識ですけれど。ウェンディは、ずっと無菌室での生活だったんですから、どうもフワフワしてしまうのはお許しを!


 チェスター子爵のカントリーハウスは、やはり、漆喰を使った木造建築。17世紀のイギリスっぽいような、ドイツっぽいような。ロマンティック街道?

 白壁が藍色の夕暮れの中に、仄かに桜色に輝いて見えます。子爵の館に相応しい威厳たっぷりの構えですね。どうせ実験室とか材料保管室とかがあるのでしょうけれどね。アルステクナは理系の家系。実験室を持っていないなんて、そんなばかな。


 防火用化粧石タイルを貼らないのですねぇ、と思わず口にすると、まぁ火山地帯だからな、とのおじいさまが答えて下さいました。

 ああ、火山性地震ですね。剥がれて落ちてしまうのですね。


「そんなに地震が多いのです?」

「この辺りは、そんなに大きなものはないがな。だが、小さな揺れでも繰り返されれば、損傷は蓄積されていく。タイルが落ちて怪我人が出るのは、望まないのだろう」

「王都の主要建築物って、タイル貼りだと本で読んだ気がするのですが」

「あそこは国家の顔だからな、多少の厚化粧は必要なのだ」


 女と国は、まず顔を飾る……などと、21世紀のフェミニストが聞いたら激怒しそうなことを、一応は私に聞かれまいとしてか、ぼそぼそとした声で呟かれます。

 あー、やはり基本的な感覚は、私とおじいさまで違うのですね。異世界から来たのだから、仕方ないのでしょうけど。でも私はお化粧、ほとんどしませんけどねぇ……あ、幼女ですものね。




 メイドさんに案内され、ゲストハウスに足を踏み入れます。

 うわぁ、重厚な調度品の数々。それを包むのは、時を経た古木の静かな香り。すっかり日が沈んだ部屋は、ランプとキャンドルの灯りに照らされて、とても幻想的。

 今夜はここで寝るのですね……さすが繊維産業が名高い地域です。寝具の肌触りが良い感じです。細く紡いだコットン。こそっとにおいを嗅いでみます。ほんわりとラヴェンダーの香り。実に良い。


「先にお湯を使ってから、お食事とのことです」

「あら、そうなの」


 ばあやが荷物を広げながら、チェスター子爵家からの案内を伝えてくれます。ほほう、ここにはお風呂があるのですか。エクセター伯爵の別邸にはありませんでしたが、ほほう。


「温泉でございますよ」


 ……ナンデスッテ?! 何ですって?!?!

 温泉ホット・スプリング? 私がいつの日か入りたいと夢見ていた?

 まさか、こんなところで不意打ちをされるだなんて!


 いえ、チェスター子爵領には、温泉もあるのですよ。グウィネッド山よりは低くとも、盆地を囲むほどに火山があるのですからね。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ……日常的に水蒸気の煙を漂わせるような火山もあると、本では読んでおりましたよ。

 でも、まさか子爵のカントリーハウスに、温泉が引かれているなんて思わなかったのですよ。だってここは、一応は火山から離れた地域ですよ?


 あ、でも日本でも、近畿地域には火山がないのに、温泉がありますよね。有馬温泉とか。あれは太古の海水がプレートにしみ込んで、また湧きだしてきたもののはず。諸説ありましたけど、2020年の論文で、マグマになるほどの深度にしみ込まなかったもの、と出ていました。

 でもチェシャー地方には火山がありますから、きっと火山性の温泉ですね。


 入浴の支度をして、ばあやと浴室に向かいます。空気がしっとりと温くなってきて、なんだか嗅いだことのない謎の香りがします。

 ばあやは、温泉とは腐卵臭がするものだと言っていましたが、そんなに苦痛を覚えるような悪臭ではありませんね? 硫化水素ではない感じ……でも、クライルエンのお風呂とも違うような……

 まぁ、今は「温泉の香り」ということで!


「おおお……」


 充実の入浴設備。床は市松の寄木細工。浴槽は木製です。温泉の香りと石鹸の香りと、そして木の香りが混ざって、なんとも言えないほど心が安らぎます。安らぐ以上に盛り上がります。

 これが、伝説の温泉……前世の経験値がアレな私にとっては、たいていのものが伝説ですが。

 髪を洗い、体もきれいに洗って、浴槽に入ります。


「わっ!」


 深い! そうだ、大人用なんだ!

 浴槽の縁につかまって、立ち湯状態。座りたいなぁ。これも幸せなんですけどぉ。あ、端の方に段差が。ここなら座れますね? ああ、肩までぽっかぽか……これが温泉……

 お母さまは温泉がお好きだと聞きましたが、なるほど、こんなにも気持ちの良いものならば、とりこになってしまうのも仕方ありませんね。

 いつまでも浸かっていたいほどの幸福感……


「……頭がグラグラする」

「のぼせてしまわれたのですね。はい、お水ですよ」


 調子に乗ったようです。ウーン、視野がなんだか灰色ですよ。ぐらーんぐらーん。ちょっと気持ち悪い……

 ベッドに転がり、ゆっくりと息をします。

 ところで、ご存知の通り、入浴後は神経の活動の変化により、眠気が増大します。

 ……ぐぅ。


 翌朝目を覚ました後のいたたまれなさと言ったら、もうたまりませんでしたよ。

 長旅に疲れた幼女が、お風呂に浸かって寝てしまうのは、自然の理! 私は悪くない。


「オハヨウゴザイマス……」

「よく休んだようだな、アリエラ」

「ハイ……」


 おじいさまが、ニヤニヤ笑いながら、朝食の場にあらわれた私をご覧になります。私とおじいさまの席しかありませんね。うーん、やってしまいました……

 昨晩、おじいさまは私があまりにスヤスヤ眠っているので、起こさないことに決められたのだそうです。今までにない長距離の移動をした、というのを鑑みられたそうで。ありがとうございます。


「昼食には起きてくるのだぞ」

「もちろん……頑張ります」






有馬温泉に関する論文は、神戸大学海洋研究所でしたっけ。

ちょうど大河内直彦『地球の履歴書』(新潮選書)を読んでいたタイミングでの発表だったので、すごく喜びました。火山がないのに有馬が古い温泉なの、結構ふしぎだったのです。


ついでに宝石学に関する新しいおすすめ文献をご紹介。

阿依アヒマディ『アヒマディ博士の宝石学』アーク出版、2019年


古いものだと、ジョージ・フレデリック・クンツ博士(クンツァイトの名前の由来)の著書を参照しています。時代の古さが『地学令嬢』的に良いのですよ。

中世の資料としては、アルベルトゥス・マグヌス『宝石誌』を参照。さすがマグヌス。中世に「錬金術とかデタラメやんけ」と言っちゃうのがすごい。


Aug. 07, 2023. 気候区分を修正。


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