チェスターへの旅立ち
いーそーがーしーいー!! 本業がデスマーチ開始!!!
……というわけで、次回はいつ更新できるのやらですが、ついに出発!
歯が抜けたという連絡をすると、お兄さまとお姉さまから、錫製の小さな箱が贈られてきました。乳歯を保管する記念の箱だそうな。迷信は駆逐していくのがアルビノアの学術貴族ですが、そういう風習はあるのですね。
なお、両者の顔を立てるために、歯は主治医たるアルバート様に頂いた箱に、すべて保管しております。
一本抜けると、我も我もとばかりに、次の歯がグラグラしてくるおかげで、私の部屋には洗口液が常備されました。
ばあやの話では、この戦いは一年ほど続く見通しとのことです。まぁ、誰もが通る道なのです。致し方ありません。
最初に抜けた歯の後には、すっかりと丈夫な永久歯が顔を出し、そろそろ大物である奥歯がグラグラしはじめる頃、満面の笑みを浮かべたアルバート様が、私とおじいさまを訪われました。
「見つかりましたよ。岩塩坑での呼吸器疾患治癒に関する研究が」
「随分と時間がかかったな」
「すみません。エスターライヒの論文だと思ったら、どうにも見つかりませんので、次にゲルマニウス連邦王国の論文を調べたのです。それでも見つからなかったので、ヘルヴェティカ共和国連邦の論文を調べましたが、こちらも引っかからず。もしやと思って、カルパティア系の情報を調べましたら、出ました」
カルパティア地域。
そこは、エスターライヒとオルハン帝国とで、現在、絶賛領有権を係争中。
エックハルト家は、なるほど……軍人に嫁ぐようなお方のご実家らしい所のようです。カルパティアはエスターライヒ領。アデル様の中では常識。はい。
いずれ美味しいゴハンのため……もとい、エメラルド鑑別の目を鍛えるため、オルハン帝国に留学したい私としては、なるべく触れずにいたい問題です。
アッ。リチャード様にほのめかされた話が……幼女、知ーらない!
「カルパティアから、オルハン帝国エリニカ州にかけての地域は、長い歴史を通じて人々の往来が激しく、複雑怪奇な多民族・多文化地域となっています。一応、オルハン帝国による統一監督局はあるのですが、エスターライヒとの抗争の中で有名無実化しています。諸勢力の後押しを受けた民兵集団が各地に組織され、言語も意識もばらばらになり、情報伝達もままならない混乱状態です」
つまり、まさにバルカン半島。ユーゴスラヴィア的カオスと。
まさか、カルパティアは、ヨーロッパならぬ、アーソナの火薬庫?
……世界大戦なんて起こりませんように! 私は平和な世界で、平和に研究を堪能し、惑星と大地の神秘に打ち震える人生を所望します!
「論文の発表者は、モルダヴィアの村の医者です」
「モルダヴィア……前線地域の一つだな」
「ええ。現在はルシオス帝国保護領になっていますが、オルハンとエスターライヒの間で、取ったり取られたりを繰り返していた地域です。紛争を避けて岩塩坑へ逃げ込んだ村が一つあったそうなのですが、その時に、呼吸器疾患を患っていた村人の症状が改善したと。サンプル数は十分とは思えませんが、追加での実験も行われており、説得材料としてはそこそこのものかと」
この領土問題に、ルシオス帝国が絡んでいるという、とんでもない事実が、まるでさらりと暴露されたのですけれど!
ああ、だからリチャード様は、ゲルマニウスとルシオスに探りを入れてこいと仰ったわけで……幼女、知ぃらなぁい。だって幼女だもん!
とりあえず、命の危機な紛争の中で、岩塩坑に息をひそめながら、論文の材料を拾ってくるという、そのバイタリティに脱帽します。研究者の鑑ですね!
「どこに発表されていた?」
「それが面倒なことに、キーヴ大学の医学部の紀要で」
「キーヴ大学、だと? ルシオスの辺境地域ではないか」
うわぁ、と、おじいさまの顔が引きつりました。
「ということは、論文を執筆した医者はルシオス系か」
「まぁ、アリエラ嬢の療養の論拠になるなら、何人が書いた論文かは、我々は問題にはしないのですけれど、アデル・フォースター侯爵夫人は、事の次第に葛藤されそうな気がします」
エスターライヒの知恵だと思って私に教えた話が、実は調べてみると、オルハンとの国境紛争で漁夫の利を得た、ルシオス系の医師の研究だった、と。
科学的に正しいのなら、何人が書いた論文だろうと関係ないと、私も思うのですけれども、そう割り切れないのが人の心、ですかねぇ。
「経過は順調ですね。歯磨きを欠かさないように」
「はい」
歯の抜けたあとを、念のために見ていただきます。
ご専門は風土病という我が主治医ですが、歯科医の知識もおありの様子。さすが専門が細分化されていない前近代。
例の箱を開けて、ドヤァっとアルバート様にお見せします。
「こんなに抜けたのです!」
「おお。順調に成長できている証拠ですね」
「どんどん元気になってみせますよ!」
「岩塩坑での療養が、うまく行くと良いですね。私も教授とともに、できる限りのことはしますからね」
「よろしくお願いいたします!」
論文が見つかったので、いよいよ本格的に、おじいさまは例の計画を、チェスター子爵に薦めていくことになります。
岩塩坑を使った、呼吸器疾患の療養施設による地域振興策。
空が黒くなるほど大気汚染が深刻という、王都ロンディニウムの状況も考え合わせるならば、実は呼吸器を患っている人口は、かなりの数になるはず。ならば潜在的な需要は、相当あると思われます。
病弱としてそこそこ知られているであろう、アルステラ家の娘が、チェシャー岩塩坑で元気になったとすれば、そこそこの宣伝効果はあるはず。何せ、迷信に喧嘩を売ることで有名な、クロード・アルステラ教授の孫娘。
あとは、そのルシオス系医師の論文が嘘ではなく、私の呼吸器疾患が本当に改善することを祈るのみ。大いなる方が私を祝福されるかどうかは知りませんが、祈ることは無駄ではないと思います。多分。
一本目の奥歯がついに抜けた頃、ぼちぼち旅行の準備を進めるか、と、おじいさまからお言葉が来ました。ついに! ついに!!
とはいえ、煤煙など厳禁の体質故、鉄道なんて冗談ではありません。都市部を迂回しまくっての、馬車と帆船の旅。道のりは長い。
「これ全部、荷物?」
「だいぶ減らしたのですよ、これでも」
「これでも」
ばあやが、荷造りのリストを見せてくれました。大量の赤斜線。やはり仕方がないとはいえ、衣類の嵩むことったらありませんね。
そしてつくづく、上流階級バンザーイ。この山のような荷物も、自分で運ばなくて良いなんて。
お洒落なんて投げ捨てて、無様じゃない程度に取り繕えれば良いじゃありませんか、国内旅行でしょう? チェスター子爵は学術貴族でしょう?
……とか、私は思ってしまうのですが、そうもいかないのですかね。
アルビノア学術貴族世界の第二派閥、アルステクナ一門が相手ともなれば、いかなバーミンガム公爵のご紹介とはいえ……いや、そうか……多少は格好をつけないと、公爵さまのお顔に泥を塗ることになるのですね!
無事に治療が成功した暁には、ご紹介のお礼に、サファイアのジュエリーをデザインして、献上するべきでしょうか、やはり。バーミンガム公爵家は、真っ青なコランダムを使って問題のない、特別な「家系」ですもの。
あ、でも、ルビーはマグナ=アルスメディカ家の「家系の石」ですが、他の色のコランダムなら、多分使えるのですよね。黄色い石の家系である、リテラ=チェンバレンと、アルマ=チェンバレンは、それぞれトパーズとシトリンです。イエローサファイアは、セーフ……ですよね。
あとサファイアといえば、やはりパパラチアですよ! この世界にシンハラ語があるかは知りませんが、蓮の花を思わせる暖かなピンキッシュオレンジ。
電気炉があったらなぁ……ピンクサファイアを、クリソベリルと一緒に加熱して、格子拡散処理で、色を変えちゃえるのですけれども。
いや、でも、例のタイ人の宝石商は、電気炉なしで加熱処理に成功しているのですから……コークスにふいごで酸素を送り込めば、温度はかなり上がるはず。酸素の供給源……ええい、化学反応で何とかなるでしょう!
問題は加熱時間がほぼ一日というハードさ……ふいごを踏むだけの簡単なお仕事ですから、結構お手当次第で応募者はいそうですが。
何を加熱しているのか、を、知られたら困りますよね……うーん。
それ以前に、アルビノアでパパラチア・カラーがウケるのか、というのが、最大の問題でした! そして蓮の花の知名度も重要でした!
私は、この国の植物のことも、ろくに知らないのですね……
ばあやに頼み、荷物に図鑑を足してもらいます。
カラー印刷技術がないわけではない時代ですが、図鑑などという高級書籍は、ほいほい生産されるわけでもありません。
あざとい幼女オーラ全開でおねだりをしたところで、聞いてもらえる自信はなかったので、おませな学術貴族モードでおねだりをしました。
仕事に必要なのです、と胸を張って主張。大勝利。
そして、ばあやへのおねだりは大勝利しましたが、のっけから馬車酔いで沈没している間抜けが、私です。
揺れる! 揺れる!! サスペンションとかどうなっているの? 車とか全然興味ありませんでしたから、正直何も知りませんけれども!
だって無菌室から出られませんでしたし? ウェンディが乗ったことのある、車輪のついたものって、車椅子とストレッチャーだけでしたし?
おええ……ミント・キャンディで紛らわせるにしても、限度というものがありますよ!
恥も外聞も楽しく投げ捨てて、馬車の床にひたすらクッションを敷き詰め、寝床というより、もはや巣穴のような何かを構築します。
そして発見しましたよ。耳栓って結構効くのですね……クッション越しにも、ガッタンガッタン音は響くのですが、耳栓をすると心なしか落ち着きます。
休憩になったら、ばあやに睡眠導入の薬草茶をねだって、化学の力で半強制的に寝オチしました。パッションフラワーとリンデンフラワー、そしてカモミールを、1対1対1で混ぜた、お子さまにも優しい睡眠導入茶。
で、眠れない夜のために処方するものを、無理に昼間に飲んだわけですから、まぁご想像のオチになるわけです。
「眠れない……」
「この先の旅程に不安しか覚えられませんね」
「だって、酔うのですもの……」
「とにかく横になるだけでも、なさいまし。疲れは軽減いたしますので」
寝るしかないのですが、寝ることもできない退屈な夜。
これは……あの病室の日々を思い出して、なんだかちょっと、色々と切ない気持ちになってしまいますね……
「子守歌でも歌ってさしあげましょうか?」
「お願い」
むっすりふて腐れていることは、ばあやには筒抜けだったようです。
普段から、学術貴族の子女にふさわしくあろうと、あまりお子さまらしい言動を控えめにしている私ですが、たまには、ばあやの孫であるロイ・ヴィッカー君のように、子どもらしくしたって良いでしょう。
「飛ぶ鳥の声かなしげに 日の終わりを告げぬ
我らは世のかげに歩む 人ならざるものなれば
世びとらは え知るまじ 我らの流せし涙
たたえよや 我らが王 影の主なる アーリンネーリン
たとい日の目見ずとも 我がこころを知りたもう
捧げよや すべてを 影の国の アーリンネーリン」
……びっくりするほどマイナー調。
静かな低い歌ですから、たしかに何も分からないお子さまはウトウトできるかもしれません。しかし、曲調が暗い上に、歌詞もなんだかよく分かりませんけれども、決して明るくはありませんよね!
しかし、ばあやにとっては馴染みの歌のようで、メロディは朗々と続いていきます。真っ暗な夜の部屋に、暗い童歌……ホラー?
「赤き日の落つるより 明き星消ゆるまで
我らは夜を超えゆかん 人ならざるものなれば
世びとは 忘るるとも 我らの歌は続く
たたえよや 我らが王 影の主なる アーリンネーリン
たとい日の目見ずとも 我らの刻みし声は
時を超え 続かん 影の国の アーリンネーリン」
「若枝は枯れ 息は絶え 時の終わり告げぬ
我らは世のかげを歩む 人ならざるものなれば
世びとらは 知らざらん 我らの見し夢など
たたえよや 我らが王 影の主なる アーリンネーリン
日の目見ざる夜の子ら 聞け 歌を 我が朋輩
微睡みて 夜を待て 影の国の アーリンネーリン」
この先、幼女が不穏なことに巻き込まれる、というフラグはしっかり立てておこうかなと。胡散臭いわらべ歌は、歴史もの気取りのたしなみですよね、きっと(太平記並感)
多少やっつけで書いた自覚はあるので、後日けっこうな手入れがある気がします。




