貴族社会での「対価」
推定・年内最後の更新です。皆様、よいお年を!
チェシャー地方はシムス地域の北側。主に草地と山地からなり、中心都市のチェスターは、縦横に水路のつながる、水運の拠点でした。
なるほど、だからユージーンは私に、帆船でも移動できると言ったわけですね。このクライルエンも、セヴァン川を通じて海へつながる、水運都市です。
しかし、塩の取れる町に水路などつくって大丈夫なのでしょうか。
そう思ったのですが、塩の鉱山はそこから離れた山に分け入ったところなので、別に問題はないようです。
つまり最後は馬車でがったんがったん……頑張るしかありませんね。
「そういうわけなので、まずはチェシャーの岩塩坑で、疾患の改善について検討を深めたいのです」
「ふむ……」
ユージーンが帰った後、夕食後のひとときに、おじいさまにご相談。
プレゼンのポイントは三つ。ザルツブルクへ行く途中にはいくつも大都市圏があり、どうあがいても空気の悪い地域を通らねばならないこと。あまりにも長い旅になるので、幼い体が耐えられるか疑問が残ること。そして、いくらアデル様のご実家とはいえ、言葉も通じない外国であること。
チェシャーの岩塩坑で同じ効果が期待できるのならば、近いし、都市圏も避けやすいですし、国内で言葉も同じです。
実はもう一つ理由があるのです。秘密兵器のような理由が!
「それに、おじいさまは出国許可が下りない、アルビノアの宝なのでしょう? でもチェシャーなら、国内ですから、一緒に行くことができますよね?」
「……わしも行くのか?」
「6歳児に一人旅をせよとおっしゃるつもりだったのですか?」
むすっと唇をとがらせると、おじいさまの視線が泳ぎました。あっ、これは何も考えていなかったのですね。ふーん。
「私はもっと元気になって、地質と地理の調査でも名を残すのです! そのためには呼吸器疾患は、絶対に改善しなければならないのです!」
そうまくしたてれば、降参だ、とばかりにおじいさまが片手を上げられました。やった! 大勝利なのです!
「わかった。チェスター子爵に連絡を取ろう」
「ありがとうございます!」
「わしは、あの家とはあまり関わりがない。チェスターは、主要産業が繊維業なのでな。イグナ=アルステクナ系なら……いや、バーミンガム公爵からのご紹介の方が確かだな」
あのう、おじいさま……バーミンガム公爵って、その、王位継承権もないわけではない程度には、高貴なお血筋の方では?
「よろしいのですか?」
「チェスターへの水運の半分は、バーミンガム公爵領を経由すると思っていい。良いかアリエラ、付き合いの少ない人間と会わねばならない時は、可能な限り、相手が強く出られない存在に紹介してもらうのだ。それは貴族社会を生き抜いていくために、とても重要なことだ。肝に銘じておくように」
なんとも物騒なお言葉ですが、貴族と一口に言っても、アルビノアには学術貴族もいれば、先祖の功績しか取り柄がないような困った軍功貴族もいるのですからね。
ん? でも、チェスター子爵はイグナ=アルステクナ一門なのですから、学術貴族ですよね? そんなに警戒しなくても……いやいや、いついかなる時にも、同様の対応をしておくことが、きっと大切なのですね。
「ところでおじいさま、バーミンガム公爵と親しくしてらしたのですか?」
「親しいというほどのことはないが、こちらの顔を立ててもらえる程度の付き合いはしている。わしはこう見えても、アルビノアの宝石学の権威でな」
……存じ上げております。
よーし、今回も賄賂にジュエリーデザインをすれば良いのですよね。
早速、図書室から参考文献を……
「バーミンガム公爵の紹介で行くのに、そんな手土産を持参したら、足下を見透かされるぞ。忘れておるのかもしれんが、リチャード・フォースター閣下は、我々学術貴族とは流儀を異にする、軍功貴族の侯爵だ。だがチェスターは、同じく子爵位の学術貴族。土産は相手を見て選ぶものだ」
つまり、お土産を用意しないわけではない、ということですか。
おじいさまは、しばし宙をにらみ……それから、従僕を呼んで、何事かを指示されました。しばらくして、彼はいくつかの本と巻物を抱えてきました。
「こういうのは、リテラ=チェンバレンの方が得意なのだがな……多くの学術貴族家は、研究予算の問題を抱えている。分けられるパイは常に有限だ。そして、海外領土拡大戦争に活躍の場が広げられている軍功貴族とは異なり、学術貴族の研究は、テラ=イグナ=アルステクナの新型磁器のような、特殊な事例を除けば、即時に収入に結びつくようなものでもない」
ああ、燐灰石を「家系の石」に設定した家ですね。つまり地球の表現でいうところの、ボーンチャイナを開発した家系。
「岩塩坑と呼吸器疾患改善に関する研究論文は、アルスメディカ一門に、まだ探させている状況だ。それに類する論文が見つかれば、このわしの手土産の計画はようやく動かせるのだが」
「はい?」
「つまりな、絶対に嫌がられない土産とは、もうけ話のことだ」
なんですって? そんな、誇り高き学術貴族で、宝石を金銭的価値で判断することがお嫌いなおじいさまが、もうけ話ですって?
私、呼吸器だけではなくて、耳まで悪くなってしまったのでしょうか?
「お前を岩塩坑に滞在させる際には、快適な環境が整えられねばならん。それはどうしたら実現できるかを考えた。どこであれ、鉱山の環境は基本的には劣悪だ。だから過ごしやすいように改造させねばならない。しかし、そのためには資金が必要だ。そこで、最初の資本投資を促すために、まずはアルスメディカの名前で論文を提示する」
おじいさまはペンを取り出し、巻紙を広げて図解を描き始められました。
「次に、実験という形式でお前を滞在させる。お前の呼吸器に改善が見られた場合、それを研究の種としてアルスメディカに教えてやれと言う。で、それ以降はアルスメディカの研究者や、疾患治療のために滞在を希望する者たちから、料金を徴収するという形で、投資した予算を回収するように提案する」
つまり、私は被験者一号というわけですか。
そして私の呼吸器疾患が改善したら、それを論文のネタとして、アルスメディカに売れという、と……いえ、明確にそうとはおっしゃっていませんが、つまり、売れということですよね、それは。
しかも、うまくいったらさらに商売にしろと。
「地理において、我がアルステラ家の研究蓄積を超える家系はない。そして我が家が把握する限りにおいては、出入りの制限されているエリン地域を除けば、アルビノアで坑道が作られるほどの岩塩を産出するのは、チェシャーだけだ。つまり国内に競争相手はいない。我が家の研究が保証する」
ほうほう。たしかに、塩の部屋とか日本でも作られなかったわけではありませんが、運び込んだ岩塩を使わないといけませんでした。岩塩坑をすでに掘削しているチェシャーは、その点からしてすでに有利です。
そして同じネタで稼ぐ可能性がある存在は、少なくともこのアルビノア本土には存在しない……と地理の家系から保証されれば、さぞ心強いでしょう。
「アルスメディカは実力主義だ。王家の侍医たるボナ=アルスメディカは、アルス称号の有無を問わず、一門全員から選抜される。そのようなアルスメディカが信憑性を担保する論文があるのならば、チェスター子爵も信用するだろう」
質問。そんな論文が見つからなかったらどうしましょう?
「少なくとも、病弱とは無縁であろうアデル・フォースター侯爵夫人が、小耳に挟む程度には、エスターライヒでは人口に膾炙している療法、あるいはそれに類するものなのだろう」
そういえば、健康優良児を生むことを求められるのが、軍功貴族家系でしたね。障害を持つ子どもは修道院やらにぶち込むような、そういう優生思想が、アルビノア貴族社会の暗黒面でしたよね!
なるほど。ということは結婚にあたって、リチャード様はおそらく、アデル様のご実家であるエックハルト家の諸々の形質について、ひととおりの調査はしていると推測されるわけですね。
で、血統に問題がないと判断したからこそ、ご結婚に至ったと。おそらく既往症などもないと。
健康な人に医者はいらないと、昔の有名なお方が仰せでしたよね。
きっと健康な人は病弱な人ほど医療のことに気をとめないでしょうし、そんな人でも知っているとなれば、論文の一つや二つは、きっと見つかるはず。
「それでも論文が見つからないようであれば、これは迷信だから、そもそもチェシャーの岩塩坑に行くこと自体が無意味ということだろう。ならば信用のおける治療法を、また探す方が良い。迷信にすがることほど、学術貴族にふさわしくない振る舞いはない」
仰せ、ごもっともでございます。
効かない治療など、治療とよぶには値しませんね。気休めの間違いです。
私は気休めが欲しいのではありません。治療を受けたいのです!
しかし、こんな調子で大陸部の迷信商売をしている連中に、ズバズバ物申していたのならば、そりゃあ襲撃されないのが不思議というものかもしれません。
おじいさま、アリエラはおじいさまを尊敬申し上げておりますし、おじいさまのような立派な学者になりたいと思っておりますが、襲われるところまで似る気はございません。出国禁止なんてご免被りますよ!
「では私にできることは、アルスメディカが論文を発掘するのを、待つことだけなのですね?」
「お前も探したいなら、探して構わんぞ」
「おじいさま、私はヴァルト語が分かりませんが」
「アルビノア語の医学論文なら、ファーガス君から送ってもらえば良い」
また何という無茶ぶりを……ファーガス様は、血も内臓もダメなのに。
いえ、まぁ、興味がないといえば嘘になりますけれども、こちらの世界の医学水準とか。手洗いの奨励がされている程度には文明的であるのですが、病原菌の研究などまで進んでいるのでしょうか。うーん、気になる。んっ?
「別にファーガス様ではなくて、アルバート様から送っていただくのでも構わないではありませんか」
「忘れたか? ファーガス君の父親のマーカス君こそ、塵肺、すなわち鉱山労働者と呼吸器疾患の関係についての、専門の研究者だということを」
アッ。うっかり失念しておりました。
ん? そういえば、ファーガス様は鉱石を砕いて元素を探す実験をなさっていて……それで、たしか石の欠片なんかを吸い込んで呼吸器を傷めないように、お母上のマイア様から、高性能のマスクをもらっていたような……
よし! 早速ファーガス様にお手紙です! マスクを分けてもらうのです! 対価はガリウムを含んでいるとおぼしきボーキサイトの……
「おじいさま。元素周期表のアルミニウムという金属は、どのような地域の、どのような鉱石から採れるのでしょう?」
「は? 突然、何だ?」
アッ、やってしまいました。
もちろんワードはまだ死んでいる。素直なPCにル〇ーシュなんてあだ名はつけない。




