征服者の名前の歴史
この小説は、オチに持ってくるイベントは決まっているのですが、それまでに散々っぱら紆余曲折を重ね、果てしない脱線と雑学を繰り返す予定なので、分かりやすいモテモテ展開をお望みの方には、本当に退屈なブツになると思うんですよ。ははは。
下戸かどうかは、ALDH……アセトアルデヒド脱水素酵素……に関する、遺伝子の状態によって、よく見えてきます。
お酒に対する強さは、この遺伝子によって3つに分類され、全く飲めない「AA」型、飲めなくはない「AG」型、飲める「GG」型があります。
日本人は約半分弱が「AG」型で、飲めなくはないけれども強くはない、です。ちなみに下戸率は関西地域がトップで、九州と東北は上戸が増えます。
地球では、ヨーロッパ人はたいていが「GG」だったのですが、お父さまは「AA」型のようです。おや? どういうことなんでしょう?
この「下戸遺伝子」は、いわゆる「新モンゴロイド」、すなわち、寒冷地に適応したアジア系の人々に出現したもの、だったはずなので、ヨーロッパ系では、どこかでアジア系と「混血」している場合にしか出てこなかったような……たしか、ヨーロッパだと、アジア系のマジャール人が混じっている、ハンガリーあたりで、ちょこちょこ見られるぐらいのような……そういう遺伝子のはずなのですが。
しかし、この文明レベルで遺伝子検査とかできませんよね、ははは。
よし! 気にするのはやめましょう!
私は飲めるらしい。でも、お父さまは飲めない。以上!
できない分析を気にするより、できる調査を楽しみましょう!
ファーガス様と、地図や地理、地誌の本を広げ、覗き込みます。
「ここの河岸段丘を形成しているのは、カーマーゼンに通じる、セヴァン川の支流です。水源は、シムスの最高峰を有する、カンブリア山地」
また、本家イギリスと半端に似た、ややこしい地名が……
イギリスの「セヴァン川」は、カーマーゼンではなくて、ニューポートなどのブリストル湾に通じるものです。
イギリス地理とアルビノア地理が混じらないように、気をつけなければ。
「シムス……は、この地域一帯の呼称、ですよね?」
「ええ。大きな目で見ると半島ですね。古代には先住民が、独自の文化を持って生活していました。シムスという地名も、彼らの言語に由来します」
ファーガス様はそうおっしゃって、地図を示されました。
なるほど。
カーマーゼン子爵領は、イギリスでいうところのウェールズ的な位置にあります。ちなみにウェールズのことを、ウェールズ語で「シムス」というのです。なんて紛らわしい……
「アーガイル子爵領は、ここです。ハイランド地域の東部」
アルビノアとイギリスの地理は大いに異なりますが、無理矢理あてはめて形容するなら、アーガイル子爵領は、スコットランドとアイルランドがくっついていたとしたら……という位置にあります。そう、ノース海峡が陸地になった感じの位置。
「……もしかして、ファーガス様のお名前って、先住民の伝承に関係します?」
「ええ。先住民神話の英雄の名です」
つまり、アイルランド神話でいうところの、フェルグスですかね。
「シムスに領地を持つ貴族は、ミドルネームに、先住民の言語に由来する名前を、魔除けとして入れる風習があるのですが、ハイランドにも同様の慣習が?」
「ええ。一世代につき一人は、彼らの神話の英雄の名前をつける、という慣習があります。アーガイル子爵家では、長男か長女の命名に参照されます」
ファーガス様は、現アーガイル子爵の長男ですので、その慣習に従って、ケルト的な名前がつけられたようです。
アルビノア北部の先住民は、綴りは「Celt」で、読みは「セルト」ですけども。
変なところが似ていて、変なところが違います。本当にややこしい。
「おそらく、先住民の感情に配慮しつつ、名付けがややこしくなりすぎないための工夫、だったのでしょうね。なにせ王室の人間は、大陸系の名前に、セルトやシムスの名前を加える必要がありますので、フルネームは大変に長いものになっています。そんなややこしい名前は、王室だけでたくさんだ、というのが、昔の貴族たちの……あるいは、征服王ウィリアム1世の本音だったのではないでしょうか」
アルビノア王国の歴史は、この島の先住民を制圧したところから始まっています。彼らの感情慰撫のために、その文化を取り込んだ結果として、このような命名の慣習ができたのでしょう。
ちなみに、現女王陛下のお名前。
コンスタンシア・ビルギット・デルウェーン・アウグスティナ・オブ・アルビノア。
……これで、まだフルネームではありません。たしかに長い。
コンスタンシアが大陸系の名前です。アルビノア王室が大陸から渡ってきた家系であることを示すために、大陸系の名前は、必ずファーストネームに配置されるそうです。
ビルギットがセルト系。意味は「崇高な」。
デルウェーンはシムス系。意味は「公正な」。
アウグスティナ・オブ・アルビノア、で「アルビノアの女性君主」の意。
「征服王ウィリアム1世の、伝記か年代記はありますか? その、残されて、今に伝わっているものがあるか、という意味ですが……」
「ありますよ。この図書室にも多分、あるでしょう。私は簡易版しか読んでいませんが」
「えっ?」
「だって原文は古語ですよ。私は、古アルビノア語研究者になるつもりはないんです」
ああ。たしかに、理系宣言されてましたものね。
先日からちょこちょこ話題に出てくる、初期アルビノア王国の建国者「征服王」ウィリアム1世は、本当に、色んな意味で逸話に事欠かない方のようです。
アルバート様のおっしゃっていた「赤と青と白と黒が分かれば問題ない」は、激情と冷静と無実と有罪とを見分けられれば、君主としての素質は十分だ、という意味だそうですが。
基本は賢明な方だったのだろう、と思います。
隕石の中に宝石を見つけ、託宣を信じて挙兵するあたり、どこまでが本当のことなのか、色々と胡散臭い気もするのですけれど。
しかし、人材活用という点では、我がアルステラ家の祖であるメネス様の抜擢を含めて、非常な慧眼の持ち主であったと思われます。
戦場で戦うことが戦争だと思われていただろう時代に、地形把握の重要性を認識し、そのための人材を確保するだなんて、並大抵ではないはずです。
「この地域が、アルステラ家の領地になった背景が、気になりますね」
「背景?」
「ええ……きっと理由があると思うのです」
メネス様はあくまで、地図製作のスペシャリスト。
当時、シムス地域にはまだまだ先住民も生き残っていたわけで、彼らの感情慰撫は優先課題の一つだったはず。そういった微妙な地域を、学究肌であっただろう人物に、領地として与えるのは、裏があると考えるのが自然でしょう。
「ふむ……それはたしかに、歴史学でも、追及されていない分野かもしれません」
「雪解けまで出歩けないでしょうし、それまでの自主研究課題に、ちょっと調べてみます」
前世よりは健康体でも、どちらかといえば病弱。
元気な体を得るためのトレーニングを重ねて、次の夏を迎え、クライルエンの地理散歩をするのが、私に新しくできた近い目標です。
しかし、色々な仮説を立てて歩く方が、きっと楽しいでしょう。
「本当にアリエラ嬢は、色んな事を考えられますね」
「私、世界のことは、たいてい何でも気になりますもの」
「貴女の兄上のアラン様は、すでに科学一本に絞り込んでらっしゃるので、なんというか、妹君であるアリエラ嬢も、そういう専門気質の方かと思っていました」
ということは、お兄さまもガチガチの理系組ですか。
社会科と理科の間の境界線なんてものは、幻想だと思うのですが。
フェルナン・ブローデルも、大著『地中海』で、地理的要因は重要だって語っていますよ。アナール学派が登場するのは20世紀だから、この世界の歴史が基本的に地球と同じように展開されていたとしても、まだこんな学説は誕生していないでしょうけれど。
何はともあれ、呼吸器に負荷が掛からなさそうな、面白そうな研究課題が見つかって、私はまた一つ幸せの種が増えました。うふふ。
女王陛下の名前は、コンスタンシアって決めてました。イギリスとは違う的な感じを全面的に出そう、と思ってですね……そして、名付け一つとっても、歴史があると思うので、今回はそういう部分を掘り下げてみました。
アランお兄さまはガチ理系の設定。登場は先になりそうですが……
あと、暴走一歩手前ぐらいのシスコンキャラでいこうと思っています。
ちなみに口調によるキャラ付けは、この小説の方針として、やりません。
あれ、分かりやすくて便利ですが、役割語に頼らずにキャラを書き分けられるようになりたいのですよ。つまり「~ですわ」口調じゃなくても、振る舞いとかでお嬢様だ! と分かるキャラが書けるようになりたい。それが鍛錬だと勝手に信じているのです。




