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第7話 合宿(2)

 二日目の野営地を出ると、すぐに急な斜面に戻った。

 一時間ほどかけて小さな尾根をひとつ越えると、石だらけの山肌に銀色の針葉樹が密集していた。

 「サンサネズだ。熟した黒い実だけを摘むこと」

 ベアは手を伸ばして間近の枝を引きおろすとふたりに先端を見せた。木化した枝の近くにびっしりと大小の青や若い緑の実がついている。地味に乏しい寒冷な土地でも育つサンサネズだが、実は熟すのに二年近くかかる。だから枝には常に育ち加減も熟し加減もばらばらな実がなっている。収穫期がなく、いつでも採れる代わりに、熟した実だけを選んで積むのは手間だ。

 「結構少ないな」

 「もうひとつ尾根を越えた先にも生えているが、暗くなる前に朝の野営地に戻ることを考えると、採取する時間がなくなる。出る魔物はオオヒヨドリくらいだが、稀にコウゲンオオカミも……」

 「あれ、今日は採集だけ? 移動は?」

 「野営地には戻るが、ここから先へは今回は行かない予定だ」

 しまった、とハルトマンは片手で目を覆った。

 「片道二日、ってそういうことか。往復四日の意味だと思っていた」

 「なるほど。行きに二日、採集に一日、帰りに二日。計五日だ。休暇は四日だけか?」

 「休暇はいいんだが、お偉いさんの査察が。トーコがどじを踏んで怪我をしたからとか言い訳するか」

 「わたしのせいにしないで!」

 それ以前に治癒魔法を使える魔法使いが二人もいる時点でその言い訳はないだろう。

 「それか帰路で危険な魔物にあってしまったので、とか」

 魔法使いが三人もいる時点でその言い訳もない。魔法使い三人で歯が立たないってどんな相手だ。

 「竜が出たってことでどうかな」

 「大騒ぎになるから。仕方ない、魔法で送ろう。トーコ、そういうわけだ」

 こうなったら帰りは森の上空を一気に移動魔法で飛んで距離を詰めるしかない。魔力は消費するが、あとは隠形魔法だけでいいだろう。できれば帰りは別の道を教えたかったのだが。

 「わかった、わたしがハルトマンさんを送ればいいのね」

 「そうだ。人を連れて移動魔法で飛行したことはあるか?」

 「ううん、ない」

 「じゃあ、今日は練習を兼ねてハルトマンを樹上にあげるように。低いところの実は採られているから、高いところを探したほうがいい」

 別にハルトマンなら高所から落ちても心が痛まないというわけではない。彼は鍛えているし、万が一怪我をしても自分で治すかトーコが治療するだろうから練習にもってこいだ。自分で移動するのと、他人を飛ばすのはまた別のこつがいる。

 「お互いの姿が見えない場所には行かないこと。オオムクドリの群れに襲われたら、障壁を張って木から降りること」

 「鳥が人を襲うの?」

 「餌場意識の強い鳥だ。人だけでなく、他の魔物も餌場から追い払う。餌場から離れれば追いかけては来ない。ふだんは木の実や虫を食べる。つつかれるとそれなりに痛いとは思うが、やかましい鳴き声のほうがよっぽど凶器だ。稀に音声拡大魔法を使う固体がいる。サンサネズにはそう長居しないから、我慢比べしたいのでなければ、連中が散ったころを見計らって戻るほうがいい」

 三人はそれぞれ目星をつけた木に取り付いて採集にかかった。空飛ぶ音声凶器の襲来もなく、二時間ほど摘み取り作業にいそしんだあと、早めの昼食にすることにした。トーコが沸かしたお湯にベアが茶葉を投入している横でハルトマンとトーコは互いの成果を見せ合っていた。

 「なんだ全然じゃないか」

 「だって、ハルトマンさんが上あげろ、右に行けってうるさいんだもの」

 「枝をつかんで移動すれば楽なところを、わざわざお前の練習につきあってやってるんじゃないか」

 「それに手が痛くなっちゃった。実が結構しっかりついていて捻切るようにしないと取れないんだもの。これで本当に熟してるのかな。アカメソウの実はぽろっと取れたのに」

 「風の強い場所で二年もくっついていなきゃならないんだから、そりゃしっかりするんじゃないか」

 「それに良く見たら指先がこんなに真っ黒だし。洗っても落ちないよう。手袋してとれる実じゃないし。あ、いいこと考えた。障壁魔法を手にまとって……ほら、どう?」

 「それでちゃんと掴めるのか?」

 「もうちょっと薄くすれば、できるんじゃないかな」

 「ほほう、だったら勝負するか。午後、どっちがたくさん採るか」

 「負けない!」

 採集時からふたりはあいも変わらずわらずにぎにぎしかった。ベアはもう注意しなかった。そんなに魔物がいる場所でもないし、まあいいかと思ったのだ。

 つまりは根負けしたのだった。

 

 午後の休憩時、成果は五分五分だった。

 若いだけあってどちらも慣れるのが早いな、などとベアが思っているとなにやらご機嫌のトーコがペラペラと魔法のほうの成果しゃべりだす。

 「最初は薄くして覆っていただけだったんだけど、いまいち実を掴みづらくて、表面にうっすらでこぼこをつけたの。実を採るときって密集した実の中に指を入れるからどうしてもこの角度で実を掴んで捻るじゃない? だからそれと直角になるような傷? でっぱりじゃなくて逆の……」

 「溝って言いたいのか?」

 「溝をこういれて、そしたらあんまり力が要らなくなった」

 なかなか精度の高いことをやっていたようだ。障壁魔法の訓練としてはどうかと思うが、魔法のコントロール訓練と思えば悪くない。それにしても子どもは言葉を覚えるのが早い。

 「だけど、そのうち手袋の中が蒸れてきちゃって、気持ち悪くなったの」

 「そりゃなるだろ。ぴったり貼り付けているんなら、つまりは密閉されているんだから」

 「ミッペー?」

 「ぴったり閉じているってこと。んで、解除したのか?」

 トーコはそっくり返った。

 「ハズレ。もっといいことを思いついた。小さい穴をたくさんあけて空気が通るようにしたの。ちょっと手が寒いけれど、むき出しよりはあったかいし、いいよ、これ。手汚れないし」

 「本当にそんなにいいものか?」

 「試せば判るよ」

 「じゃ、試してやるよ。一応競争中だから右手だけでいいぞ」

 右利きの人間が右手だけでいいって、なんの遠慮にもなっていない。ベアはいいようにハルトマンの手のひらで転がされているトーコに心の中だけでなげやりな声援を送った。そんなこととは知らず嬉々としてトーコはベアの手にもサンサネズの実摘み取り用手袋(改)を装着してくれた。


 休憩後、作業に戻って十五分もしないうちにトーコがベアのもとにやってきた。

 「ベアさん、手袋出して。わたし自分の指の大きさで溝を入れてたから、あってなかったみたい」

 察するに、ハルトマンからクレームがついたらしい。その様子が目に浮かぶようだ。

 おい、おまえ溝の位置と大きさがおかしいぞ、直せ。えー、ごめん、このくらい? イマイチ。もう少し間隔を狭くして数を増やせ。 これでどう? まあこのくらいでいいだろ、よし自分の木に戻れ、サボるなよ。サボんないもん、あ、ベアさんの手袋も直さなきゃ。

 「ベアさんどう?」

 ベアは微調整を終えた手袋で実を摘んだ。なるほど、さっきよりも力が要らない。その前の状態でも作業はかなり楽で、しかも障壁にはほとんど厚みがなかった。まるで皮膚に同化しているかのような薄さで、さらにここへ溝なるものをよく彫れたものだと感心する。昼の休憩時には薄手の布手袋くらいだったから、使いながら改良したのだろう。蒸れないように穴を開けたと言っていたが、目を凝らしても判らず、探査魔法で調べてやっと全体に均一に極小の穴が開いているのがわかった。その発想と魔法精度には舌を巻く。しかし当人は浮かない顔だ。

 「どうした」

 「ハルトマンさん、ほとんど左手で摘んでない」

 ようやく気がついたか。

 「よし!」

 突然トーコは気合を入れて目の前のサンサネズを睨み、両手を猛然と突っ込んだ。あやまたず左右の手で実をつかみ……。

 「採れない~」

 そうであろう。実を引っ張っても枝を押さえていないので引けば引くほど枝がしなるだけだ。それでも実を離すつもりはないようなので、ベアがため息を抑えて枝を押さえてやり、やっとふた粒採集する。今度は片手ずつ交互に挑戦するがあまり効率が良くない。

 「競争に負けちゃう」

 嘆いている暇があれば一粒ずつでも採っていけばいいのに、と堅実なベアは思う。

 「熟している実がどこにあるのかはわかるのに」

 しかもどうやら両手使いをするために、目視しなくていいよう探査魔法で実を探していたらしい。おそらく、次の実を探査で探している間に手でどんどん取ろうとしたのだろうが、完全な計画倒れだ。そして魔力の無駄遣い。しかしトーコは転んでもただでは起きなかった。

 「そうだ」

 今度は何を思いついたやら。見守るベアの前でトーコは両手をぐっとにぎった。何もないところを掴んでどうするんだ? と思ったら、目の前のサンサネズからプチプチと十個あまりの実が外れてトーコの前に飛んだ。

 「やった成功!」

 嬉しそうなトーコにベアは何をしたのか訊ねた。

 「手袋の指先部分だけたくさん作って実を摘んだの」

 ベアは黙って、トーコの手のひらに収まった黒い実をつまみあげた。完熟してどこにも歪みや傷はない。

 サンサネズの実の採取方法としては実に斬新だ。魔法としては、実に高度だ。

 障壁魔法の複数同時展開と変形。そもそも真球形ではない障壁魔法は変形にかなりの魔力とコントロール精度を要するはずだ。ハルトマンとベアにやったように各人の手を支点に長時間展開固定するだけでも相当なものだが、自然の木に生っている実はつき方も周囲の環境もバラバラだ。それを十個同時に取ったということは、探査魔法で個々の実の周辺環境を高い精度で把握、展開している手袋の指先状障壁魔法も状況に合わせて個々にコントロールしたはずだ。しかもサンサネズの実は肉厚で手で摘んだくらいでは簡単につぶれないが、手で直接触るのと魔法障壁を当てるのはわけが違うのに、どれもきれいに摘まれている。

 ベアもやれといわれれば最初は失敗しても繰り返して習熟することは可能かもしれない。しかし、年に一度のサンサネズの実とりのために鍛えるにはあまりに魔力効率が悪いし、危険な魔の領域において、無駄に魔力を消費するようなことでもない。たとえるなら、艱難辛苦を乗り越え、日々の鍛錬の末に習得した魔法でもって竜をも倒せるというなら挑戦するあほもいるかもしれないが、サンサネズの実相手ではやる気がおきない。

 「ダメ?」

 ベアの反応が芳しくないのを見てとってトーコの語尾が下がる。ベアはゆっくりと実をトーコの手に戻した。

 「いや、いいんじゃないかな。もっと魔力効率を良くする必要はあると思うが」

 「うん!」

 「それから、この採取方法はハルトマンには言わないほうがいいと思う」

 「はっ、たしかに。これはハルトマンさんには教えてあーげない! ベアさんも内緒にしてね! 手を入れないなら指の形にする必要はないよね。ピンセット? トング? ひと繋がりのほうが扱いやすいんだよね。左右で掴むより三脚みたいに三個の支えで掴んだほうが安定するかも?」

 そのままトーコがサンサネズの実とりに没頭してしまったので、ベアはその木を譲って、ハルトマンとトーコの間に陣取った。

 ハルトマンはたぶん、きっと、おそらく、ベアの胃のためにもぜひともそうあってもらいたいのだか、彼なりにトーコを可愛がっていると思う。しかし、彼はトーコの兄弟子である前に、支配階級の出で軍人だ。相応の地位と能力、出世欲を持ち、決して馬鹿ではない。時々馬鹿に見えるが、魔法使いにとって敵に回すと脅威なほどの、力と頭脳を持っている。いざとなればトーコの意志より他の事情を優先させるだろう。


 サンサネズの実採り競争はトーコの圧勝だった。ベアの堅実は怠け者の魔力量の暴力と知恵に負けた。しかし勝てば良いと言うものではない。

 「あほかお前! ほんと碌なことしないな! こんなに採ってどうするんだ、誰が持って帰るんだ、どうやって持って帰るんだ。第一こんなに詰め込んだら、下のほうの実が潰れるだろう。いやそれ以前に一度にこんなに持ち込んだら値が下がるだろうが」

 こめかみグリグリの刑執行場の横でベアはトーコの成果を覗き込んだ。

 ハルトマンがすっぽり入るほどの麻袋いっぱいのサンサネズの実。さすがにこの程度で値崩れはおきないが、大量なのは否定できない。一週間もすれば次の実が熟すだろうが、明日、やってきたオオムクドリはさぞかしがっかりするだろう。

 あの後、いやにあっちの木からこっちの木へトーコが飛び回っていると思っていたが、えらく効率の良いやり方を見つけたようだ。二時間弱でこの収量は恐れ入る。一本の木に長くいないので、命綱は腰の飾りに成り果てていた。

 「まさか熟した実を全部採ったのか」

 「まさか! 公共の場所でそんなマナー違反はしないよ。ちゃんと他の人にも残してる。効率悪いし、上のほうだけ」

 魔の領域は公共の場所なのか。トーコの基準はよく判らない。そのトーコが惜しげにベアにお伺いを立てた。

 「持って帰れないぶんは捨てていく?」

 「捨てるか、もったいない。トーコが責任持って運ぶこと。よそ見してぶつけるなよ」

 ベアより先にハルトマンが即答し、方針は決定した。


 トーコが前日よりも快適な準備を整えた野営地でベアは夜明けと同時に目を覚ました。

 野営に付き物の体のこわばりはなく、ぐっすり眠れたおかげで爽快な目覚めだ。ひとりで魔の領域に入ることを苦にしたことはないが、頼りになる仲間がいると緊張が緩むようだ。

 ベアはトーコがサンサネズの枯葉を集めて障壁魔法で形を整えた即席マットレスから身を起こした。臭いの強いサンサネズだが、不快な香りではないので問題ない。野営には贅沢な代物だが、ここはおとなしく恩恵にあずかっておく。この歳になると一日高所作業をした後の野営は体に堪える。

 トーコはマットレスの出来に納得していないようだったが、野営に快適さを求めるほうが間違っている。安全を疎かにしているわけではないので好きにさせているけれど、新しい魔法を覚えて使えるのが楽しくてしょうがないからというのもあるだろうが、トーコには不便や不快さを魔法で何とかしようとする傾向がある。悪いことではないのだが、魔の領域で生き延びるには不便を不便と感じない我慢強さも必要なのだ。これを理解させるには一度魔力切れを起こして魔法を使えない、つまりは一切の防御手段を取れない状態に陥るのが一番なのだが、肝心の魔力切れが起こる様子がない。

 しつこいくらい口うるさく魔力の節約については言い聞かせているのだが、節約=魔法の熟練=ばんばん魔力を消費して魔法を行使し、練習しているのが現状だ。もちろん、最初はそれでいいし、ベアもトーコが魔力切れをおこすことを前提に依頼を受けているのだからむしろ奨励すべきなのだが、あまりに無造作に魔法を使い続けるのでつい心配になってしまうのだ。

 結局、考えはいつものところに戻ってしまう。トーコの魔力切れはどこまで魔力を消費すれば起きるのだろうか。

 

 食事を済ませ、野営地を片付けるといよいよ出発だ。

 「では、戻るとするか」

 「わたしが魔法でハルトマンさんを送ればいいのね」

 「そうだ」

 「東門前でいい?」

 「うん?」

 どういう意味だ? 意味をとりかねて考えている隙に、肯定ととったトーコの姿が消えうせた。ハルトマンもだ。ベアは唖然と立ち尽くす。いくら見てもふたりの姿はない。今、何が起こった?

 茫然自失の態で直前の会話を必死に思い起こしていると、目の前にトーコの心配そうな顔が現れた。ベアが凍りついている間に、世の中では時間が流れていたらしい。

 「ベアさん? どうしたの? ハルトマンさんは先に宿舎に戻るって」

 「――転移魔法……」

 「転移魔法がどうしたの?」

 落ち着け、とベアは自分に言い聞かせた。意識して息を肺に吸い込む。

 「俺は使えないんでね」

 「そうなの? あれ、じゃあ、どうやって移動しようとしたの? あ、それともここからはひとりで動くつもりだったの?」

 トーコがおいてけぼりをくらったような顔をしたので、ベアはそうじゃないと慰める羽目になった。置いてけぼりを食らったのはベアなのだが。そもそもなぜ、転移魔法なんてものをベアが使えると思うのだ。

 「いや、移動魔法で森の上空を帰ろうかと思っていた。だが、ハルトマンが無事に戻れたならそれはそれでいい。当初の予定通り、このまま歩いて戻ろう。来た時とは違うルートで行く」

 「うん。あ、それならサンサネズの実はハルトマンさんに預ければよかった」

 失敗したなーと呟くトーコ。ベアはベルトポーチのひとつに手を伸ばした。

 「俺が運ぼう」

 サンサネズの実を入れた袋が浮き、次の瞬間にはベアのベルトポーチに吸い込まれた。

 「魔法道具!」

 「ただの空間拡張魔法でベルトポーチの中に空間を増やしただけだ」

 だけ、といいつつ高度な魔法なのだが。トーコは見知っているはずだが、興味津々だ。ということは使えないだろう。そんなことをつい確認してしまう。転移魔法に比べれば使える魔法使いは多いし、一般の需要も大きいのでよく知られている魔法だ。

 「別の空間? どうやって作るの? それともどこからか持ってくるの? 入り口より大きいものが通るのはどうして?」

 トーコはさっそくメモ帳をとりだしている。当然やる気でいる。使える魔法使いは多いとは言ってもあくまで転移魔法に比べればだ。

 「それはまた今度だな。今は下山しよう」

 時間を稼いだのはやってみてだめかも知れないが、なぜかできてしまいそうな気がしたからだ。考えてみればトーコにできない魔法があったと聞いたことがない。ヘーゲル医師は治癒魔法の才能があると太鼓判を押したが、それはトーコがヘーゲル医師に教えられる魔法、つまり治癒魔法を習得できたからではないか。トーコはハルトマンが教えた魔法も、ベアが教えた魔法もことごとく習得している。トーコの「使えない」はできないではなく、やってみたことがない、教えてもらっていないという意味かもしれない。

 ギルド登録時に得意魔法を聞かれて記載するのに四苦八苦したあげくに皿洗いの魔法なんて書いていたが、あれは魔法をなべて高いレベルで習得していて、突き抜けているものがないからだったのかもしれない。特に治癒魔法は魔法の才能だけでなく、普通の医者としての診療能力が必要なのでおそらく言われたとおりにだけ魔法を行使していたはずだ。当人もそれは良くわかっていて、治癒魔法が使えるのと治療できるのは別と言っている。皿洗いの水流魔法は自己流に改良した魔法だったから、オリジナルとしてそれなりの自負を持っていたのかもしれない。トーコはあれこれ考えて工夫するのが好きだ。

 彼女にとって魔法は目的ではなく手段だ。経済的に自立するため、魔の領域に入るため、効率よく作業するため、快適に過ごすため。

 魔の領域についてなら、特に深い森についてならベアは教えてやれる。魔法もある程度教えてやれる。しかし、ベアに教えられない魔法のほうがはるかに多いのだ。すぐに手におえなくなる。今だって驚かされっぱなしなのに。ユナグールの町はその性質上、実践的な魔法を使える魔法使いが多いが、ベアよりましな魔法使いにトーコの指導をまかせるべきではないか。

 いかん、先走っている。ベアは頭をふった。憶測が正しいかどうかも判らないのに。


 往路は水場の多いルートをたどったが、帰りは水場が少なく、野営できるポイントも少ないルートを通った。危険な地形ややっかいな魔物も多いがあえて選んだのは、いざとなればなんでも魔法で力押しできてしまうトーコに緊張感を持たせるためだ。ベア自身、目的がサンサネズの実の採取くらいでは通らない道だ。ただ危険を冒してでも採取できる貴重な薬草や自生する植物があるので、その下見がてらである。そろそろそこに行けば必ず採取できるアカメソウやサンサネズは卒業していいだろう。

 魔物とも何度か遭遇したが全てうまくやり過ごした。トーコもさすがに魔物を目の前にすると緊張するようで、安全圏に脱したときは全身で安堵の息をはいていた。


 トーコは左手のメモ帳、右手のペンをフル稼働だ。ベアは木にからまる蔦を示した。

 「これはタイボクガラシ。木に寄生していずれ木全体を覆ってしまう。樹勢を損なうから役に立つ木に寄生しているのを見つけたら、成長する前に刈り取ってしまうこと。葉は無害だが、蔦を切って出てくる汁は痒くなるから直接触らないほうがいい。寄生した木の中に根を張って、刈り取ってもまた出てくることが多いから、大事な木に一度見つけたら注意しておくといい」

 「ジュセーってなに?」

 「木の勢い、生命力のことだ」

 「シマザサの止痒薬がなければ三日くらい我慢するしかないな」

 「三日も! 痒み止めの治癒魔法がないかヘーゲル医師に聞いとこ」

 忘れず、書き付ける。

 「別名テガエシという。手を交換したくなるくらい痒いらしい。昔、決闘の相手に触らせて勝ったという小話があったな」

 「それってズルじゃ……」

 「権力者の横暴に、知恵と勇気で立ち向かういい話だったはずだが」

 バルク人なら子どもの頃に一度は聞いたことがあるはずだが、異国人のトーコはもちろん知らない。

 「どんなお話?」

 「図書館で探せばあるんじゃないか」

 子どもに昔話をしてやるような柄じゃない。逃げを打ったベアの前でトーコは肩を落とした。

 「読書きももうちょっとなんとかしないと。公開学校の先生になんだか避けられているみたいで」

 ベアはあごをなでた。

 母国語と、最近は公国語まじりであれだけ大量のメモをしているのだから、自分の名前も書けない者がほとんどのこの国で、トーコは読書きが達者な部類だと思う。役人を目指すならともかく、ギルド構成員としては上等ではなかろうか。掲示板など端から素通りで、受付員に直接いい依頼がないか聞きに行く者も多い。

 公開学校はその名の通り神殿が広く市民に読書き計算をおしえてくれる奉仕活動なのだが、教師役は引退した老神官だったり、神官になりたての見習いだったりする。貧しい者への知識の施しなので、トーコが魔の領域についてベアに質問するのと同じように教師に迫っているなら押し付けられ教師の手には余るだろう。二十年以上魔の領域を縄張りにしているベアだって答えに窮することがたびたびなのに。

 たぶん、今トーコがやっているように、ギルドの掲示板を写して読解しているほうがギルド構成員としてはよっぽどいい勉強だ。固有名詞やギルド特有の言い回しに四苦八苦しているようだが、よく質問に行くギルドの受付員にも迷惑がられるどころか可愛がられているようだ。

 「算学の授業中に居眠りしちゃったのがまずかったかなあ」

 「居眠りしたのか。疲れていればそういうこともあるさ」

 ありがちといえばありがちだ。トーコが落ち込んでいるようなので柄にもなく慰めてみる。するとトーコは首を振った。

 「ううん、何日か前にもやってたことだから授業が眠くて。指されて、ちょっと慌てちゃった」

 教師が軽い懲らしめに難しい問題を当てたのに答えてしまったんだろうな、とベアは推測した。読み書きは言語の壁が厚いトーコだが、計算は速い。今回の遠征は五日間といったらぱっと

 「じゃあ食料はふたり合わせて三十食だね。けっこういっぱいだなあ」

 と言ったのだ。ベアがついていきかねていると、

 「違った? あ、初日の朝食と最終日の夕食は家で食べるからマイナス四食の二十六食か」

 「最初の三十というのは?」

 「五日×三食×ふたりで三十でしょ?」

 質問すると不思議そうに質問が返ってきてしまい、ベアは大人の威厳を保つためにわかったような顔をしておいた。

 「そうだな、身をいれて勉強するなら謝礼を払って町の初級学校や神殿の学校に行くという手もあるが、そうすると魔の領域にそうそう入るひまはないだろう」

 「現時点では保留だね。お金も時間もないもの」

 せっかく念願のギルドに入れたのに活動できないのでは色々な意味で困る。市民権の取得はおいといても、トーコの直近の目標はヘーゲル家を出てひとり立ちすることだ。そのためにはある程度の資金と安定した収入源が必要だ。そんなわけで脱半人前を目指して奮闘しているわけだが。

 「あれもこれもと欲張って何も得られなかったらそれこそ何にも残らない。焦ることはない」

 「うん」

 歩きながら、キノコや木の実を採取する。売るためではなく、今夜の食料にだ。

 <深い森>の秋は中で活動する者にとって、ひそかな楽しみを提供してくれる。

 「タイラダケは朽ち木に群生する。このへんのはふちが黒くて全体が茶色だが、東のほうに行くと全体が黒くなる。味も大きさも同じだ。煮ても焼いても食べられるが、焼いて塩を振っただけのが一番うまい」

 「わたしにも採れるかな」

 「慣れるまではキノコは止めておけ。このタイラダケもやはり朽木に生えるエセタイラダケというのがあるが、採ってしまったらほとんど見分けがつかない。群生していないのがあったら、まずエセタイラダケだと思ったほうがいい。人がとったものには手を出さないでおくのが安全だな。こっちのシロスジダケは見た目は毒々しいが旨い。ヨツキバオオイノシシも好物だから低いところに生えているのは競争になる。探すなら少し高いところだな。今はないがもう少ししたらサジンダケが出てくる。どんな場所にでも生えてくるし、時期になるといっせいに育つから、初心者が取るならまずこれだな」

 「知ってる。食べたことある。乾燥したのを水でもどすんだよね。シャクシャクして大好き」

 ペンを走らせていた手を止めてトーコが嬉しそうに言った。

 「何しろ一度に大量発生するからな。森じゅうに生えたサジンダケが一斉に胞子を蒔いて、二、三日は視界が悪くなるほどだ」

 「干さなくても食べられるの?」

 「生でも食えるほどだが干したほうが香りはいい」

 「うん、いい香りだよね」

 「もうすぐ季節だし、そんなに好きなら、採りに行くといい」

 トーコはやった、と小さく手をたたいた。


 安全な場所は知っているが、サンサネズの群生地の手前の野営地に比べたら危険な場所なので、火は小さく焚き、キノコをあぶって食べたらすぐに消す。大抵の魔物は獣と同じく火を嫌うが、中にはそうでないのもいる。持参の保存食は歩きながら食べた。魔法で念入りに臭いと気配を消して大きな岩の下の隙間に入り込む。人ふたり入るのがやっとの狭さだが、大型の魔物に襲われる心配はなく、そこそこ雨もしのげる。

 隙間に収まったベアはトーコにたずねた。

 「トーコ、苦手な魔法はなんだ」

 「苦手?」

 案の定、首をかしげる気配がした。

 「うーん、治癒魔法かな。ヘーゲル医師みたいにはなかなかいかない」

 「それは診療の技術がという意味か」

 「うん」

 「じゃあ得意魔法は?」

 「お皿洗いの魔法!」

 即答したあと、ベアに気を使ってか、言い足した。

 「探査魔法も好き」

 ベアはそうか、と呟き、トーコにベルトポーチを渡させた。中身を一度出し、埃を払う。

 「魔力切れになるとどうなるか覚えているか?」

 「貧血の感じに近い。ふらふらするようになったら、要注意」

 何度となくベアに言われているので、トーコはすらすらと答えた。

 「そうだ、魔力を回復するのは睡眠と時間だ。一晩寝れば大抵は元通りだ。そういうわけで、今から空間拡張の魔法を見せてやる。俺がめったに使わない大魔力消費の魔法だ。気を失っても心配しなくていい。それより魔力切れがどういうものなのか、よく見ておけ。魔法使いの目で見るんだ」

 トーコが神妙にうなずいたので、ベアはそっと首にかけたお守り袋から手探りで結晶石を取り出した。小指の爪ほどの小さなもので、濁って品質も良くない。だが、急速な魔力損耗による魔力切れからおこるショック状態からの脱出には役立つはずだ。それをしっかりと握りこむ。

 久々の大魔法に少し緊張する。これくらいなら、いい緊張だ。魔力を身のうちでゆっくりと攪拌するように練り、しっかりとひとつに練りあげてから魔法を発動させ、注ぎ込む。流れ出た魔力は意識を引きずり込む勢いだ。ベアは必死に踏ん張り、操る。やがてベアが定めた形に魔法が収束し、パチッとすべてがはまるのを遠のく意識の中でベアは認知した。

 目をあけると頭の奥がしびれたように痛んだ。指先が温かい。動かすとしびれた指先に結晶石の硬い感触があった。

 「ベアさん、起きた?」

 「ああ。俺はどのくらい気を失っていた?」

 「長い気がしたけど、一分くらい」

 「それだけで失神から回復したのは結晶石の魔力を補充したからだ。結晶石は知っているな」

 「うん、魔力を溜めておける石。結晶樹の実とちがって何度でも魔力を込めれば再利用できるんだよね」

 「使ったことはあるか」

 「ない」

 ベアはだるい手をあげて魔力が空になった結晶石をトーコに渡した。

 「これに魔力を込めてみろ」

 トーコは受け取った結晶石を握りこみ、そしてとほうにくれたようにベアを見た。

 「……どうやるの?」

 「簡単だ、魔力を流し込む。強引に押し込むくらいの気持ちでいいい」

 トーコはもたついたものの、何度かやってみてすぐに成功させた。怪我を治療するときに魔力を送り込む要領でよかった。ベアはトーコに魔力を込めさせた結晶石を受け取り、空間拡張を施したベルトポーチの内側に取り付けた。少々不恰好であるが、今はこれで十分だ。

 「中を見たか?」

 「ううん」

 「手を入れてみろ」

 言われたとおりにすると、トーコの片手くらいの大きさしかないベルトポーチに肩までするりと入ってしまう。

 「わ、広い」

 「長持一個ぶんくらいの大きさだな。空間拡張は魔力を食うが、便利だ。だが、この大きさを維持するには魔力が必要になる。何もしないと三日ほどでもとの大きさに戻ってしまう。魔法使いなら魔力を直接注ぎ込んでもいいが、一度縮んだ空間を元にもどすには再度空間拡張をするしかない。維持するのに一番良く使われるのが結晶石だ。これに魔力を込めて空間を維持する。取り付け方はそんなに難しくないし、こんなくず石でも一週間くらいはもつ」

 凄い、とトーコが感嘆した。

 「加えて吸い込みの魔法をかけてある。入り口より大きなものもこれで通せる。出し入れには移動魔法を使うといい。森を出てギルドに戻ったらトーコも一応一人前だな。少し早いがこれはお祝いだ」

 「わあ、嬉しい! ありがとう!」

 トーコが声を弾ませて礼を言ったので、ベアはしっと叱った。

 「静かに。今日は遅い。それをしまって寝ろ」

 ベアが障壁の展開を確認している間に、トーコはもう寝息を立てていた。昨夜は寝心地に拘って即席寝具まで作っていたのだから、寝やすいわけがない。色々教えながらなので、ゆっくりしたペースで移動しているが、さすがに四日目ともなると疲れが溜まっているはずだ。たぶんいい家の子だろうが、文句も言わずよくがんばっている。魔の領域と魔法にはしゃいでいる間は平気でも、あとから体に来ているはずだ。自分も身に覚えがある。もう二十年も前の話だが。


 翌朝、こわばった体を念入りにほぐしていると、トーコが小袋の中を覗き込んで唸っている。

 「うーん、難しい」

 「空間拡張の魔法か」

 「一瞬だけなら膨らむんだけどな。すぐもどっちゃう。これじゃ風船だよ」

 まさかと思いながら訊ねると案の定の答えが返ってきた。ベアの心臓のためにも、そろそろ驚くのを止めたほうがいいかもしれない。

 一言で空間拡張というそっけない名称で呼ばれる魔法だが、ベアがやってみせたのは実際には単なる空間の拡張だけでなく、小さな入り口に大きなものを通す、吸い込みの魔法を付与した高度なものなのだ。空間の広さを決めるのは魔力の多寡だが、空間拡張そのものにかかる絶対的な魔力の必要量だけでも相当なものなのに、トーコは魔力切れどころか疲れもしていない様子だ。

 「一度見ただけでできるのか?」

 「ううん。あ、また失敗。三日どころか、三秒ももたない。なんでだろう」

 トーコは肩を落とした。日本人なら一度はあこがれたことのあるはずの、未来のネコ型ロボットの四次元ポケットもどきが作れるかと思ったのに。ベアはあんなに手際よくスマートに魔力を操っていたのに、なかなか見ているようには魔力が動いてくれない。力任せに魔力を吹き込んで、すぐに元通り。四次元ポケット欲しいなあ。そうしたら本も服も置き場に困らないのに。本は高価なうえにまだ読書できるほどの語学力はないが。

 「魔力の無駄遣いはその辺にしておけ。そろそろ移動する」

 「昨日の道まで戻るの?」

 魔の領域には道がある。舗装などされていないが、魔の領域に出入りするギルド構成員や魔物が行き来して自然に出来た獣道だ。日帰りできる範囲を超えると、広い魔の領域で同業者に行き会うことはめったにないが、それでも安全で歩きやすい道はないと困るものだ。ベアもトーコを連れての移動はほとんどこの道を使っている。道ができるほど使われていない経路やそれぞれが確保している秘密の狩場へ行くにも、途中までは道を使うことがほとんどだ。

 そんな道には緊急避難用の野営地を作ることもある。ギルド構成員が資材や労力を持ち寄って建造した建物と呼ぶのもおこがましい石壁に囲まれただけの空間だが、ともかくも魔物の襲撃と雨風をしのいで休める貴重な休憩所だ。ここを拠点に数日魔の領域で過ごす者もおり、誰ともなく共同野営地と呼んでいる。

 「そうだ。道まではトーコが前を歩け」

 「で、できるかな」

 そんなに元の道から離れてもいない。ベアひとりだったらこのまま薬草の採取地にでも寄るのだが、最初は道に沿って地理をおぼえて行ったほうがいいだろう。

 無事に道に戻ってほっとしたトーコは目印の岩と木をしっかり、メモ帳に書き込んでいる。ベアはふたたびトーコを後ろに従えて、道を少し進み、別の目印から道を外れた。

 「ナナメギがこのあたりには多いだろう」

 「うん。本当に斜めになっている木だね」

 「ああやって陽の光を幹にも浴びているんだ。陽にあたるほうは当然明るいが、反対側は暗い。ここに生えるナナメギゴケは覚えておくように。まとめてはがして傷にふかふかしたほうを当てて包帯で固定すると止血と消毒効果がある。コケの中に虫が入り込んでいないかどうか使う前にたしかめるんだぞ」

 「わかった」

 トーコがメモに満足するとベアは奥へ進んだ。ナナメギゴケはついでで、用はその奥にある。途中で見かけた食べられる植物や役に立つ木、危険な生き物について教えていると、風に乗ってカウベルのような柔らかな音色が響いた。明らかなリズムを奏でていたので、トーコは誰かいるのだろうかと思っただけだが、ベアはさっと緊張した。トーコに低声で指示する。

 「そこの枝の高さまで飛べ。何があっても絶対に音を立てるな」

 トーコは言われたとおり、二メートルほど飛び上がり、念のため幻惑と消臭の魔法を掛けなおした。ベアは少し先の木まで進み、トーコを手招きした。トーコが傍へ行くと、待てという仕草をして自分だけ少し進む。そこでまた呼んでもらってを繰り返し、やがてコブシガシの巨木が支配する空間に出た。

 コブシガシの幹は大人が五人手を伸ばして囲んだほど、広く張られた枝は太く、どっしりと根を下ろしている。樹上に三人の人間がいた。正確には好んでのことではなく、下にいるヨツキバオオイノシシの群れに追い上げられてのことのようだ。

 後肢に比べて大きく発達した前肢が目を引く。そのためジャンプは得意ではないようだが、木に突進すると巨木は倒れはしないもの枝が大きく揺れる。トーコは思わず体をちぢめてベアのローブを掴んだ。一頭が頭を低くし、突進するのかと思ったら、貧弱な後肢で飛び上がる。ほとんど前肢の力だけで幹を登り、ずるずると落ちた。

 見ているトーコまでもが、生きた心地がしなかった。悲鳴を必死で飲み込む。またカラーン、カラーン、カラーンという音が響いた。あれでヨツキバオオイノシシを威嚇しているのだろうか? ちっとも効果があるようには見えないが。

 ベアはトーコの肩を叩いて四頭のヨツキバオオイノシシのうち、一番大きな一頭に魔力を凝らした。トーコにやらせても良かったのだが、震え上がって完全に腰が引けてしまっているので仕方ない。大きな音を立てさえしなければ、ヨツキバオオイノシシの鋭い嗅覚を持ってしても今の自分たちは見つけられないはずだし、見つかったとしてもその牙は届かない。トーコには障壁魔法もある。追いかけられれば確かに厄介だが、怖がる必要は全然ないのに、肝が小さい。

 鼻のいいヨツキバオオイノシシに幻惑は効かない。飛び上がるタイミングにあわせて小さく障壁を張った。樹上の同業者ではなく、ヨツキバオオイノシシ自身にだ。ヨツキバオオイノシシは見事に障壁にぶつかった。障壁も震えたが、ヨツキバオオイノシシはひっくり返って頭を振っている。何度か同じことを繰り返し、やがてヨツキバオオイノシシは見えない敵に警戒音を高くあげて去っていった。隣でトーコが全身で息を吐いた。

 魔の領域では頼れるのは自分だけ。同業者は時に魔物よりも警戒すべき相手になりうる。これ以上出来ることはないし、いつもなら余計なトラブルを避けて、ここで去るところだが、今日はトーコがいる。トーコにも幻惑魔法を解かせて、相手を警戒させないようゆっくり近づく。

 「大丈夫か?」

 「ありがとう。助かった。そちらは?」

 彼らも様子から魔法使いのわざだとわかっていたはずだ。警戒されなかったので、ベアも内心で胸をなでおろす。

 「問題ない。まだ修行中の身だが、一応治癒魔法が使える。いるか?」

 「助かる。実は仲間が怪我をしている」

 「そのようだな」

 彼らは狩人だった。怪我を負った仲間の止血にナナメギゴケを取りに来て、血の臭いを嗅ぎ付けたヨツキバオオイノシシに襲われたということだった。

 「さすがに成獣四頭は参った。こんな浅いところに出てくるほど不作だとは思えないんだが」

 「むしろ、今年は実りが良いほうだと思うが」

 「縄張り争いに敗れでもしてさまよいでたかな」

 男が怪我をした仲間との間にさりげなく立ちふさがってベアを引きとめているのに気がついたが、気がつかないふりをするのが礼儀だ。助けてくれた相手だからといって油断できないのがこの稼業だ。トーコが消毒魔法と治癒魔法と増血魔法を進呈した怪我人と彼を見守っていた三人目の仲間が先ほどのトーコにも負けないほど大きく安堵の息をついた。

 「あんた、いい腕だな。まるで怪我なんか最初からなかったみたいだ」

 「痛みもきれいさっぱりだ。さっきまで寒くてたまらなかったのに気分まで良くなったよ」

 「ええと、増血の魔法もすぐに効果が出るわけじゃないからそれはただの錯覚じゃないかな。怪我は治っても減った血や体力まで戻ったわけじゃないから無理しちゃだめ。あとは……あとなんか注意点ってあったかなあ。ごめんね、ちゃんと診られなくて」

 「いやいや、充分だよ。助かった」

 ベアは血で汚れた手と服まで水魔法で洗浄してやっているトーコを手招きした。樹上の枝のひとつから大きな鈴が下がっている。

 「この木は魔物に追われたときの避難所だ。まずいことになったら、あの鈴をさっきのリズムで鳴らす。一度に三回ずつだ」

 「そうすると誰かが助けに来てくれるの?」

 「かもしれないし、何もおこらないかもしれない。トーコも鈴が聞こえたからといって無理に近づくんじゃないぞ。人の手におえない魔物なんていくらでもいるんだ」

 トーコが納得したように見えなかったので、ベアは仕方なく付け加えた。

 「そういうときはなるべく早く町まで戻って知らせること」

 「うん、わかった」

 「ここへは初めてかい? 解散の鐘をついてみるか?」

 ふたりのやりとりを聞いていたリーダー格の男が言った。

 「解散?」

 「問題が解決して、大丈夫な状態になりました、という合図だ。この鐘の音はけっこう遠くまでひびくんだ」

 「なるほど、遠くからかけつけて無駄足になったら申し訳ないものね」

 「そういうこと」

 カララーン、カララーン、カララーンという音色はゆっくり響き、溶けていった。鈴が風で鳴らないように元通り固定しておしまいだった。


 三人組と分かれてベアとトーコは赤ん坊の握りこぶしほどもあるコブシガシの大きな実を拾った。渋抜きをすれば食べられる。別名をキキンシノギといい、不作の年ほど実をつける木なので、縁起物として食べる習慣があると聞き、トーコは張り切った。探査魔法と移動魔法で一気にバケツ二杯ほど集めたが、木の大きさに比べて収量は少なかったので、今年は豊作かもしれない。

 「どんな味がするのかな」

 ベアはトーコの期待にあふれた顔から目をそらせた。

 縁起物に味を期待してはいけない。人間は失敗から学ぶ生き物だ。だから、トーコの学習の機会をベアが奪うのはよくない。うん、そうだ。決して言えなくなってしまったわけではない。

 実を食べに来る魔物が少ないのも、この木が避難所になった理由のうちかもしれない。


 その後も二度大型の肉食魔物に遭遇した。いずれもやりすごしたが、ベアは多い、と胸の内で呟いた。森が豊作で魔物が増えているのかもしれなかった。

 予定外の魔物との遭遇が重なったため、ベアは今日中に町へ帰るのをやめて、安全な野営地で一晩泊まることにした。無理をする必要はないし、ここもトーコが覚えておくべき場所だ。昨夜の野営地よりもよっぽど安全で重要度も高い。

 しかし、進路を変え、道に出てしばらくするとベアは奇妙な感覚に襲われた。体調が悪いのではない。だが何か違和感がる。

 背後の森の様子がおかしい。あって当然の虫の音、鳥の声が不自然に途切れる。

 (つけられている……)

 何かはわからない。幻惑魔法と消臭魔法で魔物への対策はしているが、万能ではない。消臭魔法は持続効果が短いし、自分たちには頻繁に魔法をかけなおすことが出来ても、ベアたちが足跡とともに残してきた臭いまではいつまでも消しておけない。

 トーコは気がついていない。さっきのヨツキバオオイノシシでさえ怯えて逃げ腰だったのに、気付いていたら、平静ではいられないだろう。幸い今夜の目的地まで近い。背後の魔物に襲われる前に安全圏に駆け込みたい。いざとなったら、移動魔法で一気に逃げる。探査魔法で後ろを探ると、掠めるように動くものがある。少なくとも二頭の大型の獣。

 背後に気を取られていたため、前方への注意がおろそかになった。

 「誰だ、そこにいるのは」

 突然誰何され、ベアは飛び上がるほど驚いた。道をやってきたのは五人の老若男女だった。知った顔だった。知人というわけではなく、ギルド構成員なら誰もが知っている有名人という意味だ。それにしても、気をとられていたとはいえ、ベアの幻惑魔法を見破るとはたいしたものだ。おそらく探査魔法を使ったと思われるが、さすがトップチームというべきか。敵対は好ましくない。ベアはおとなしく魔法を解いた。

 「イェーガー、俺だ」

 「隠れて近づくとは穏やかじゃないな」

 ギルド有数の狩人集団を率いるリーダーは油断のない目つきでベアを見据えた。

 「悪いが、これが俺の普通だ。それに今なにかにつけられているところでな、振り切ろうとしていたんだが、たぶん今の声であんたたちも気付かれた」

 「何か?」

 「二頭以上いる。大型の獣だ」

 「えっ!」

 トーコが小さく声をあげ、イェーガーの視線がベアから下のほうへさがった。

 「もうひとりいるのか?」

 ベアは見破られたのは自分だけだったと知り、憮然とした。幻惑魔法で負けるとは。だがイェーガーの質問より先に、トーコだ。ここでパニックを起こされては目も当てられない。

 「落ち着け、普通にしていろ」

 「何かってなに? つけられているっていつから?」

 小声ではあるが、声がうわずっている。

 「落ち着け。いいというまで口を閉じていろ。怯えているのが判ったら襲ってくる」

 トーコがベアのローブを掴んで沈黙したので、ベアはイェーガーに言った。

 「彼女は戦力としてあてにしないでくれ」

 「あんたは?」

 「一頭分の防御くらいならあてにしてもらってもいい」

 イェーガーは背後の仲間に手を振った。仲間のうちのふたりが先に進み、残りふたりがベアとトーコの後ろに入った。どちらも武器を持った体格の良い男で、場慣れしている様子だ。

 「共同宿営地まで戻る。広い場所のほうが人数の利をいかせる。その前に来てもこっちはかまわんが、あんたたちは怪我しそうだな」

 「ベアさん、後ろ……」

 「わかっている。大丈夫だから、黙っていろ」

トーコの背中を押してベアは歩いた。しばらくすると周囲の気配が距離を詰めてきた。先ほどのイェーガーの声だけでなく、幻惑魔法と消臭魔法がなくなり、人数が増えたので見つかったのだろう。襲撃のタイミングを見計らっているようだ。

一行はいくらもいかないうちに開けた場所にでた。石造りの小さな平屋があり、窓は太い鉄格子が塞いでいる。

 「左をまかせる」

 「わかった。トーコ、離れるな」

短いやり取りで動く大人たちをわたわたとみやるトーコの首根っこを掴んで、イェーガーの左側に構える男の後ろへ回った。イェーガーの残りふたりの仲間は魔法使いで、前衛三人、後衛三人のアンバランスな編成となる。トーコは数えないので、ベアと一緒の扱いだ。

 ややあって、右手、イェーガーの仲間の方に黒い獣が飛び出してきた。わずかに遅れてもう一頭。

 ベアはネコ科の大型獣の姿を認めた。夜に溶け込む黒い毛に首の周りだけが見事に白い。森の王者チョウロウクロネコだ。

 時刻は夕方の早い時間。活動開始時間に見つかってしまったようだ。運が悪い。

 しかし本当に運が悪かったのはチョウロウクロネコたちだった。短めの槍を持ったイェーガーとその右手に展開していた同じく槍を装備した男が巨大なネコをさばいている間、仲間の魔法使いが遅れて飛び出してきたほうの一頭をけん制している。そちらには左に展開していた大男が駆け寄って前衛に入る。戦力が余っているわけではないが、安心して見ていられる。彼らはチョウロウクロネコでもっとも価値のある毛皮を損ねないように仕留めるタイミングを計っているようだ。

 ベアは彼らの奥へ注意を傾けた。チョウロウクロネコのオスは単独で行動するが、子どもを連れたメスは親子で狩りをする。今年生まれた仔はとっくに狩りに加わるほど成長している。チョウロウクロネコは一度に二、三頭の仔を産む。三頭の仔を全て育てきるのは難しいが、あと一頭いる可能性は十分ある。最悪二頭だ。

 警戒していると案の定、右手ほぼ真横から一頭が飛び出てきた。回り込んでいたようだ。これを障壁魔法ではじいていると、二頭を倒したイェーガーの仲間が三頭目もあぶなげのない連携で倒した。ふたりがおとりになって、最後はイェーガーが首の後ろを一突きだった。鮮やかだった。

 「ベベベベベアさん、こっち、こっちはどうするの! どうしたらいいの!」

 感心していると、裏返った声がベアを呼んだ。見るとトーコが両手を握り締め、かかとをつけたりあげたりしている。別にかけっこの用意ではないらしい。

 「そっちにもいたのか!」

 イェーガーが真っ先に反応してトーコの前に走った。

 「ひどいよ、みんなしてそっち行っちゃうんだもん。どの子も凄く怒ってるし、蹴っ飛ばすし、引っかくし、噛み付くし。これどうしたらいいの!」

 「どの子も? まさか二頭か?」

 「ううん、三頭」

 トーコは尋ねたイェーガーではなくベアに向って答えた。半べそだ。

 ベアはあきれた。どうせ鉄壁の障壁魔法だろうに、一体なにが怖いのか。謎だ。

 「落ち着け。皆いるから大丈夫だ。彼らは狩りにかけてはギルドでも一、二を争う優秀なチームだ」

 ベアはトーコの肩を叩き、こわばっていた肩をさげさせる。

 「相手は三頭だけか? 近くに他のはいないか」

 「うん、さっきのと同じ黒いネコが三頭」

 「どうやって止めている? 障壁魔法か?」

 「ベアさんがイノシシにしたみたいに、障壁魔法をまんまるくしてる」

 普通障壁魔法は丸い、とは言わず、三頭まとめてではなく、一頭ずつ障壁魔法で覆っていることをベアは確認した。

 「だったら、一頭ずつこっちへよこしてくれ」

 イェーガーが指示した。ベアがうなずいてみせると、トーコは判ったと言った。そして一頭を狩人三人が展開する場所へ引きずり出した。全員そのつもりで準備をしていた。しかしその距離と速度は想定外だった。

 放たれた矢の勢いで引きずり出されたチョウロウクロネコはイェーガーの鼻先で障壁魔法から開放され、どすんと落ちた。ネコなのに。チョウロウクロネコも驚いただろうが、人間も驚いた。狂ったように暴れる魔物からイェーガーたちは慌てて飛びのき、ベアと女魔法使いが張ろうとした障壁が完成する前にぶつかり合って消える。

 「わたしが張るわ」

 ベアは引いた。単独行動の多い彼はこういうとき声を出して連携するような真似はとっさにできない。イェーガーたちが体制を立て直したのを見て取り、ベアの背中に張り付いて目を丸くして騒ぎを見ているトーコを見下ろした。

 「フキヤムシ用の障壁を張っているか」

 「うん」

 「一瞬だけ解除しろ」

 「したよ」

 ベアはおもむろに拳骨をトーコの脳天に見舞った。なかなかいい音がして、一瞬しまったと思ったが、ここで謝ると勢いをそがれるので謝罪は心の中だけにしておく。

 「どうして怒られたかわかるな。あんな魔物の引き入れ方をして、怪我人が出なかったのはイェーガーのチームだからだ。死人が出ていたかもしれないんだぞ。ひとりのミスが全員の命取りになるんだ」

 「ご、ごめんなさい」

 頭を抑えたトーコは鼻の頭を赤くして謝った。始末をつけて集まってきたイェーガーチームの面々にも頭をさげさせる。

 大男の剣士は怒りが収まらない様子だったが、槍使いの男と老魔法使いは不承不承謝罪を受け入れてくれた。イェーガーと女魔法使いは仲間をなだめるうちに怒りがそがれたようで、許してくれた。

 「弟子が迷惑掛けた。悪かったな」

 「まあ、結果よしだ。子どもと初心者はやらかすものと相場が決まっているからな」

 「あなた少し落ち着きなさいな。魔法使いはチームで一番冷静でなきゃいけないのよ?」

 「無理かも……」

 トーコは肩を落とした。

 「さて、まだあと二頭いる。片付けてしまおう」

 イェーガーは気を取り直すように言って、槍の柄で地面に円を描いた。

 「次のはここへ持ってきてくれ。いいというまで放してはダメだ」

 「うん」

 ベアはトーコの頭に手を置いた。

 「急がないでいい。ゆっくり移動させろ。人が歩く速度でだ」

 「わかった」

 トーコは今度は注文に過不足なく応じた。

 「位置はそのままで、もう二メートル上にあげてくれ。ストップ。放していいぞ」

 「え、こんなところ? いいの?」

 イェーガーの指示にトーコが驚くと、女魔法使いがそばに立って言った。

 「心配ないわ。解除して?」

 「う、うん」

 チョウロウクロネコは三メートルの高さをものともせず、綺麗に体をひねって着地した。そしてそのタイミングでイェーガーが走りより、槍を繰り出す。頚椎の折れる鈍い音がした。女魔法使いが自分のことのように胸を張った。

 「ね。こんなものよ」

 「すごい。全然見えなかった」

 そしてあっけない。コミュニケーションと連携って大事だ。

 「じゃあ、特別に今度はわたしのを見せてあげる」

 「もしかして、魔法?」

 「そうよ。よーく見てなさい。最後の一頭を同じようにあそこに持ってきて。わたしがいいって言ったら、開放して落として頂戴」

 落下した六頭目の前に槍の様にとがった氷が突き刺さる。チョウロウクロネコは俊敏に飛びのき、その傍に次々に氷の槍が突き刺さる。氷の槍がたくみに魔物の動きを阻害する。獲物に飛び掛ることも逃げることも出来ないチョウロウクロネコは不快なうなり声をあげた。その声がぴたりとやんだのは、鋭利な風魔法を受けたのど元がぱっくり避けて血しぶきをあげて倒れるのが同時だった。

 トーコのみならずベアも感嘆していた。さすがトップクラスの狩りチームにいるだけあって、魔法も高度なら使い方も見事だ。温度を下げる魔法は逆の魔法よりはるかに難しい。あれだけの大きさの氷を立て続けになにもない空中から水の段階を経ずに生み出すだけでも凄いのに、それを自分の手元で精製して投げつけるのではなく、直接目標の近くに魔力を送って魔法を起動させた。魔法使いとして優れ、狩人としても優れているとは恐れ入る。

 しかし、感心ばかりもしていられない。六頭の死骸を検分してベアは眉をひそめた。

 「母ネコが一頭に今年生まれた若いのが五頭? トーコ、お前が見つけた三頭は後から来たのか?」

 「ベアさんに教えてもらって探知した時から六頭だったよ」

 その時点で六頭だとわかっていたのか。きっとびびって必死に探査したに違いない。

 「……そういうことも今度から教えてくれ。わかっていると思っていたはなしだ」

 「うん」

 「たまたま群れが二つ、別々に俺たちを追っていたとは考えにくいな」

 「どこを通ってきた?」

 「サンサネズの実を取りに行って、あとはだいだい道なりだ。彼女に道を覚えさせるのが目的だからほとんど寄り道はしていない」

 「なるほど。普通なら縄張り争いで、獲物の追跡どころじゃないはずだ。これでひとつの群れと見るのが自然だろう。だが、一度に五頭の仔はない。別の群れの仔だったのを母ネコが死んで受け入れたとか?」

 「そういう例があるのか?」

 「他の動物でならあるが、チョウロウクロネコにも当てはまるかというとわからないとしか言いようがないが」

 「イェーガー、そんな話はギルドの連中にでも考えさせろよ。あんたが頭を悩ます必要はない」

 大男の剣士が言った。老魔法使いも剣士を支持した。

 「それより早く処理してしまいたいんだが」

 イェーガーに寄り添っていた女魔法使いがむっとした顔をしたが、イェーガー当人は苦笑を漏らして仲間の意見を尊重した。ベアに確認する。

 「分け前は頭割りでいいか?」

 「構わない。だがこいつは数に入れなくていい。反省が必要だ」

 ベアの隣でうなだれたトーコをみて、イェーガーは厳しいね、と笑った。

 「だったら、獲物はこちらで運ぼう。君たちはこのまま町に戻るのか?」

 「今夜はここで野営して明日はまっすぐ戻る。本当は今日中に戻りたかったんだが、魔物と行き会うことが多くてな。やりすごすのに時間をくった」

 「ああ、最近多いな。こちらは獲物を探すのが楽でいいが、問題もおきだしているしな」

 「問題?」

 「このところ、申請の期間を過ぎても戻らないチームがちらほらあるらしい。実は今日ここに来たのも、ふたつばかり戻らないチームがあるとギルドで聞いてね。こいつらの可能性もあるから、先に戻るなら伝えておいてくれないか。俺たちは来たばかりなんで、一週間ほどこもる予定だ。こんなのに襲われたのじゃ相当の腕がないと危険だ。さすがに六頭の群れは想定しないだろう」

 「わかった伝えよう」

 「しかも普通ならやっと巣から出てくるこの時間からもう狩りだ。仔が多くて早くから狩りをしていたのかな。油断しているところを襲われたならひとたまりもなかったと思う」

 増えたら増えたでやっかいだが、少なくても狩りをする者が困るのが魔物だ。

 「狩りをするなら、コブシガシのところでヨツキバオオイノシシの群れを見た。成獣が四頭。運悪く怪我人を抱えた狩りのチームが追い上げられていた。追い払っただけだから、まだ近くをうろついているかもしれない。彼らも無理して追ってはいないだろう」

 「いい情報をありがとう。さっき鳴った鈴がそれか。あれで一度目が覚めたんだが、すぐに二度寝させてもらったよ」

 「寝ていたということは、これから狩りか?」

 「ああ、夜の狩りは体力と集中力のある前半にやらないとな」

 ふと気がついてトーコはベアの袖をひいた。

 「一週間もいたらお肉が腐らない?」

 チョウロウクロネコは大丈夫なのだろうか。疑問に答えたのはベアではなく、女魔法使いだった。トーコを連れて獲物の周りに集まっている仲間の所へ行った。彼らがこわごわと死骸を覗くトーコに胡乱な目を向けても気にしない。

 「見ててごらんなさい。今彼が得意魔法を使うから」

 言われたとおり、トーコは老魔法使いに意識を集中させた。彼は獲物のひとつになにか魔法をかけた。トーコには何かが凍ったような気がした。

 「お姉さん、あの人、何をしているの?」

 「時間凍結の魔法。時を止めるのよ」

 「時間って止められるの?」

 「彼のような魔法使いにはね。彼、この魔法で有名なのよ。これを空間拡張の袋に入れとけば、一週間くらい森に篭って獲物を狩りつづけても楽に持ち運びができて、肉は新鮮というわけ」

 「ネコのお肉って食べられるの?」

 「美味しいものじゃないけど、薬膳としてね。毛皮が高く売れるけれど、獲物の体温がのこっていたほうが綺麗に皮をはげるから、そういう意味でも便利な魔法よ。町に戻って競売にかけてから解体屋に持ち込めばいいんだから」

 老魔法使いは次々に魔法をかけ、一休みしてから獲物をトーコのと同じようなベルトポーチにしまった。

 「はい、おしまい。血の臭いもしないから、安全だしね」

 「なるほど。いいことがいっぱいなんだ。あ、わたしの時間も止められたりする?」

 女魔法使いは楽しそうに笑った。

 「誰もが一度はそれを考えるんだけど、残念ながら時間を止めたら自分の感覚も止まってしまうから、不老は手に入らないわよ。ただのカチンコチンのトーコちゃん人形ができるだけ」

 コールドスリープなだけらしい。

 「それも保って一週間ね。生きている動物って時間を止めておきにくいんですって。イェーガーなんか獲物が少なくて寒い冬が嫌いだから、春まで時間凍結もいいなあなんて言っていたけど。もちろん不許可よ。許すわけないでしょう。冬こそ体を休めて英気を養うのが正しいギルド構成員のあり方よ」

 察するにふたりはラブラブらしい。

 「ここの冬って寒いの?」

 「もちろん冬は寒いに決まってるじゃない。あなたどこから来たの?」

 「それがよく判らないの。迷子だったから。前に住んでいたところは雪は冬の間に何回か降ったよ。ここは雪は積もる?」

 「もちろん。年が明けたら積もりっぱなしよ」

 「うわ、冬支度大変そう」

 迷惑を掛けたくせにちゃっかりと仲良くなって、いろいろ教えてもらっているトーコを、ベアはあきれ混じりに遠くから眺めていた。

 

 イェーガーたちは狩場に向って移動し、ベアとトーコは野営地の建物に入った。本当に石を積んだだけ、内部は地面もむき出しの頑丈がとりえなだけのものだ。太い鉄格子のはまった窓と入り口は、板に鉄板を張った扉で塞げるようになっている。入り口は二重で、中央に小さなかまどがあり、壁際の木箱に枯れ木の枝が刺さっていた。少々煙たくなるのを我慢すれば中で煮炊きができるということらしい。差し迫って危険があるわけではないので、ふたりは外のかまどを使い、トーコが新たに改良したというお風呂の魔法でさっぱりした。

 最初トーコが使うのを見てその水流の激しさにしり込みしたベアだったが、改良の苦労を熱く語るトーコの圧力に負けた。洗濯をかねているらしいので服ごと暖かい水流にもまれ、最後は魔法で余分な水を飛ばして終わりだった。消臭魔法で対応しきれない足跡に残る臭い対策に最適で、結果は悪いものではなかったが、こんなにもみくちゃになってまで入る必要があるのかは疑問だった。本当はもっとゆっくり浸かって体を温めたいらしいが湯ざめが心配とのことだった。さっぱり理解できない。

 理解できないといえば、もうひとつ。

 「あとは寝るだけだから、魔法の練習してもいい?」

 「ああ、氷の魔法か?」

 「あ、そうだね。あれも忘れないうちに練習しなくちゃ」

 できない、という可能性は考慮しないらしい。そして実際見事に初回で再現して見せた。

 「見ただけで、よくできるな」

 「ベアさんに教えてもらったとおりにやったら、すっごくよくわかった」

 「意味がよくわからないんだが」

 氷の魔法なんぞ教えた覚えがない。使えないのだから当然だ。

 「昨日、教えてくれたじゃない。魔法使いの目で見るって」

 「魔力を感知したくらいで使えるようになったのか」

 「ううん、それだけなら今までと同じだもの。そうじゃなくて、その人が魔力を使って魔法を発動させているのを探査魔法で見たの。そうしたら、すっごくわかりやすかった。結果としての魔法の、しかも見える部分だけじゃやっぱりわかりにくい部分もあるし」

 今度は的にした木の枝を、薪に使いやすい長さに風魔法でスパスパ切っているトーコを見ながら、ベアは首をかしげた。

 うん? 今なんか、さらっととんでもないことを言わなかったか。

 満足したトーコは薪をかかえ、色々な大きさや形の氷を水に戻して草地に捨てて、さっさと石家に入ってしまう。なんとなくついていくと、再び例の小袋を取り出した。

 まさか空間拡張か、と思って見守るベアの視線の先でトーコはがっくりと肩を落とした。

 「やっぱり出来ないなあ。なんとなくだからかなあ。イメージはできてるんだけど」

 「まあ、気長にゆっくりやることだ」

 不完全ながらできているのだから、使えないわけではないだろう。さすがに空間拡張は難易度が高い。

 「うん。そういえば、イェーガーさんのチームのおじいさん魔法使いも空間拡張の入れ物持っていたね」

 「ああ、あれか……」

 ベアは複雑な気持ちでつぶやいた。

 「やっぱり魔法使いは持っている人が多いの? お姉さんも荷物少なかったよね」

 「維持魔力の補充に金銭がかからないという意味では魔法使いのほうが手を出しやすいが、そもそも空間拡張を施した魔法道具自体いい値段がするからな。魔の領域で継続的に稼いでいる連中には、チーム共有のを持っている奴もいるが。そうだな、魔の森に出入りする魔法使いは比較的持っているかもしれん。まあ俺もそんなよそを知るわけじゃないが」

 「そうだね、町中だとそんなに思わないけれど、魔の領域に入ろうと思ったら、持って行きたいものがいっぱいあるもの。食べるものも着るものも薬も道具も、魔の領域内で完結させようと思ったらすごく大変」

 「魔の領域の深いところへ入るなら確かに便利だ」

 そんなところまで入るには相当の力量も必要だから、結果的に稼いでいる連中が充分な装備を整えて、となる。

 トーコは自分のベルトポーチを外して目の高さに掲げた。

 「持ち込めるものだけじゃなくて、持って帰れるものもだよね。あんな大きな動物を持って帰ろうと思ったら、荷車がいるもの」

 「その場で解体するという手もあるが、確かにそうだな」

 「そうだよ」

 トーコは力説した。もっとみんなが使えるようになればいいのに。

 「サンサネズの実もベアさんのおかげで全部持って帰れるし、コブシガシの実だってベアさんの入れ物がなければついでに拾って帰ろうなんてできないもの。軽くてとっても便利!」

 ベアはむせそうになった。コブシガシについては感謝しないほうがいいかもしれない。トーコが楽しみにしているようなので、ベアは話題を変えた。

 「キッツェとは何を話していたんだ?」

 「誰?」

 「イェーガーのところの女魔法使い」

 「あ、あのお姉さんね。洗濯物を溜めたくないときの必殺技とか、日持ちするお弁当の作り方とか。サンサネズの実はお塩と一緒にしておくと塩に香りが移ってお肉の臭みを和らげるのにちょうどいいんだって」

 ベアには理解できない交流があったことはわかった。 

 「そういえば、お姉さんがおじいさんの魔法使いの人の空間魔法はすごくいっぱいものが入るって言っていた。まだこれから狩りだって言っていたし、あのネコが百匹くらい入るのかなあ」

 トーコがこだわって作った枯葉マットはサンサネズのマットに比べいまいちだった。トーコは枯葉の量が足りなかったと反省していた。地面に直接寝るよりはましなマットのうえでローブにくるまると、思い出したようにトーコが言った。

 「……いや、一辺十メートルくらいだろう」

 「そうなの?」

 「俺が昔に作ったやつだ。縮むことはあっても逆はないだろう」

 技術的なことを言えば出来なくはないが、あまり意味がない。同じ労力で新しいのを作ったほうがよい。

 「知り合いだったの?」

 「いや。空間拡張の魔法の依頼はたまにあるんだ。かなり昔に作ったやつだから、たぶん貰うか買うかしたんじゃないか」

 使い手の少ない空間魔法であるが、それを生業にしているわけではないので、依頼はめったにこない。半年に一度あるかないかだ。たいていギルド経由で、疲れるが実入りは良い。

 「一辺十メートルかあ」

 「商人相手の需要はだいたいこのあたりからだな。トーコもまずは一辺三十センチくらいからやってみるんだな」

 突然トーコが起き上がった。

 「どうした」

 「一辺三十センチ!」

 「……大丈夫か?」

 暗闇でごそごそしていたと思ったら、突然出来た! と叫ぶ。

 「見て見て、ベアさん! 空間拡張、わたしにも出来た!」

 「は?」

 慌てて起き上がり、明かりをつける。トーコが小袋にひじ近くまで手をつっこんでいた。

 「すごいよ、ベアさん。わたし大きくすることばかり考えていた。無限の空間じゃなくて、一辺三十センチって具体的なイメージでやったら出来た」

 無限の空間とはまた壮大な。それは失敗するはずだ。そしてちゃんとそこまで腕が入るということは、単なる空間魔法ではなく、ベアのやってみせた複合魔法を再現できたということなのだろう。

 「ベアさんってすごいねえ」

 「そうか?」

 ベアはたじろいだ。ここでほめられるのは俺なのか? なんだか変じゃないか?

 「あんなに出来なかったのに、ベアさんに助言してもらったら一発でできた」

 あれは助言なのか? 反応に困ってベアはもう寝るように興奮するトーコをたしなめた。再度ローブにくるまったトーコが珍しく躊躇いがちに訊ねた。

 「ベアさん、弟子ってなに?」

 「いろいろなことを師匠に教えてもらう人のことだな」

 「言葉の意味は知ってる。ハルトマンさんとわたしはヘーゲル医師の弟子。でも、さっき、ベアさんはわたしのこと弟子って言った」

 「そうだったか?」

 「うん。言った」

 トーコの言葉に力がこもる。

 「まあ、こうしてみると弟子みたいなもんだな」

 魔法について、魔の領域について教えている。これまでにもギルドの後見役制度で人に教えることがなかったわけではないが、魔法使いはたいてい狩人のチームに入るので、採集を希望するトーコのような魔法使いは珍しい。ベアはギルド構成員としても魔法使いとしても少々外れているので、弟子入りを希望する魔法使いも、教えることのできる相手もいなかった。

 トーコは最初に知ったのがベアなので、その採集スタイルになんの疑問も抱いていないようだが、ベアにとって魔法を含めて自分の技術と知識をストレートに伝授できるのはトーコが初めてだ。ふいにそのことに思い当たり、ベアは胸が暖かくなった。

 「そうだな、トーコはヘーゲル医師の治癒魔法の弟子だが、魔の領域では俺の弟子だな」

 「三回の後見役制度が終わっても?」

 用心深い口調にベアは苦笑をもらした。

 「そうだな。トーコはギルド構成員になるのを諦めていないんだろう?」

 「もちろん」

 「じゃあ、見習いのうちは弟子は師匠について入域するんだな」

 トーコは横になったまま目を見開いた。

 「それって、また魔の領域に入る時に連れて行ってくれるってこと?」

 「まあ、そうだ。場所にもよるが。分かったら早く寝ろ」

 「うん。おやすみなさい」

 興奮した声を弾ませたトーコはそれから暫く寝付けないようで、寝返りを打っていたがやがて静かになった。

 翌日は再び浅い層に戻ってきたので、採集物は少なく、早く自作の空間拡張容器に物を入れてみたくてうずうずしているトーコは物足りなげだった。食べられると聞いて大喜びでクロシイの実を拾っている彼女は、最初は手で拾っていちいちベアに見せにきていたが、やがて魔法で集めだした。ポーチの中に地面から飛んでくる木の実が吸い込まれるさまは何かの曲芸を見ているかのようだ。ふと気づいてベアは訊ねた。

 「どういう基準で拾っているんだ?」

 トーコの足元には沢山の実が落ちているのに、そこからはなかなか実が浮き上がってこない。

 「虫食いの実とかは拾わないようにしているよ?」

 「区別つくのか?」

 「虫が卵を産んだ時の穴があいているって教えてくれたじゃない」

 先ほどベアがそういってトーコの拾った中から虫食いの実を弾いた。

 「探査魔法で分かるのか?」

 「うん。もしかして、わたし、探査魔法と相性いいかもしれない?」

 「……そのようだな。少なくとも俺はできん」

 「え、そうなの?」

 トーコは驚いたが、すぐに顔を輝かせた。

 「じゃ、木の実拾いは任せてよ!」

 「そうしよう」

 「やった。わたしが役に立てること一個発見!」

 ご機嫌でトーコはクロシイの実拾いを再開した。


 ギルドへ戻ると掲示板からこの六日間の収穫物を引き渡せそうな依頼を探す。あんなに色々採集したのに、合致するものはほとんどない。と思っていたら、ベアはトーコが探し漏らした依頼をさっさと見つけ出した。トーコもまだまだ甘い。

 「サンサネズもない。誰か他の人に取られちゃったのかな」

 トーコはがっかりしたが、ベアはかまわず、顔なじみのギルド職員に声をかけた。元狩人のギルド職員は中で書類仕事をしていたが、ベアの顔を見ると、受付をひとつあけてくれた。

 「サンサネズの実は採れたかい」

 「ああ。いい収穫だった」

 「それは良かった。百グラム五クラン三十タス。一キロ以上なら五クラン四十タス。十キロまで買うそうだ」

 「それでいい。十キロある」

 「本当かい。それはまたがんばったねえ」

 「うん、がんばったの」

 トーコはにこにこして言った。ベアが空間拡張容器から出したサンサネズの実を十キロ分量り、ギルド職員は半分以上麻袋に残っているサンサネズの実を見てあきれ、トーコはしょげた。

 「十キロって意外と少ないんだね。こんなにあまっちゃってどうしよう」

 「張り切るのはいいけれど……・ふたりで何日かかった?」

 「六日だ」

 ベアはすばやく口を挟んだ。

 「だろうね。心当たりをいくつか紹介しようか。いい実だし捨てるのも忍びないだろう」

 「そちらはまあなんとかする」

 わざと採集そのものに六日かかったと思わせた手前、これ以上手数をかけるのは気が引ける。トーコが買い取り価格を熱心にメモしている。

 「意外なものが高かったりするね。逆に採集が大変だったわりに安すぎるようなのもあるし。サンサネズを採りに行く前にギルドの人に買い手を見つけてくれるように頼んでおいたの?」

 「今回はな」

 補足してくれたのはギルド職員だった。

 「サンサネズは一年中採れるけれど、そう気軽に採りに行く場所にもない。依頼は出ていなくても、潜在的な需要はあるから、その間にギルドに依頼に来た中で、過去にサンサネズを買い取ったことのある人に声をかけたのさ。サンサネズを採りにいった人がいて、いつごろ戻りそうだって。出物があれば欲しいというものは結構あるんだ」

 「このほかに週に一回ギルドが委託している競売にかける手もある。珍しい魔物が狩れたときや薬草が採れたときに使われる。手数料が高いからサンサネズ程度では使わない。昨日のチョウロウクロネコはきっと競売に持ち込まれるだろう」

 「チョウロウクロネコを獲ったのかね?」

 「昨夜六頭の群れに出くわして、イェーガーのチームと共闘した。獲物は彼らが運搬している」

 ベアはイェーガーに頼まれたとおり、ギルドへ報告した。ギルド職員は顔をしかめて聞いていた。

 「誰かの遺品を見つけたりは」

 「俺たちは見つけていない。だが、イェーガーたちでも不意をつかれれば面倒なことになっていたと思う」

 なまじ知識があるから六頭もの群れを想定せずに人を配置し、対応した。もしもトーコが気がついて障壁魔法で防護していなかったらと思うとぞっとする。せっかくのファインプレーもその後の失態で帳消しだが。

 「共同野営地の近くに人が来るのを学習していたかもしれんな」

 「それはどうだろうか。俺たちは共同野営地へむかう途中で付けられているのに気がついた。偶然の可能性もある」

 「亡くなった人には気の毒だけど、やっかいなのが片付いてくれてよかった。ついでにあんたも無事でよかった。もちろん、そっちのお嬢ちゃんもね。おや、今日で三回目が終わりか。おめでとう」

 帳簿を開いたギルド職員が気がついて、お祝いを言ってくれた。

 「初心者が森を抜けた先まで行くなんてどうかと思ったけれど、さすがベアだね。今度は何を採りに入るんだ?」

 「まだ何も考えていない。なにかいい依頼があるのか」

 「残念ながら、ギルドの強制依頼だ。出発は五日後、行き先はクレム」

 「ゲルニーク塩沼で塩の採掘か」

 トーコはベアの袖をひいた。

 「それ、前に言っていた別の魔の領域?」

 「そうだ」

 「わたしも行きたい」

 「塩しかないつまらん土地だ。面白いものなどたいしてない。今回は留守番だな」

 トーコは口をへの字に曲げた。

 「置いてっちゃうなんて酷い! 弟子なのに! 次回も連れて行ってくれるって言ったのに!」

 「女性はほとんど参加しない」

 「第一君には依頼は出ていないよ」

 ギルド職員が言うと、押し黙ったが、納得していない様子だ。

 「じゃあ、それまでに<深い森>へ入る?」

 「前日の午後に打ち合わせがあるから、ギルドに顔をだしてくれ。それからベア、もうひとつあんた向きの依頼が来ている。これも早めにな」

 ギルド職員がひらりと依頼書をベアの鼻先に出した。空間拡張魔法の依頼だ。時折ギルド経由でくる依頼は、一日の魔力を使い切ってしまうが、なるべく引き受けるようにしている。報酬もいいがこのあたりで空間拡張魔法を使える魔法使いは、二、三人しかいないので、ギルドでは彼以外に引き受け手がいないのだ。

 トーコが物言いたげな顔をしている。ベアは考えた。空間拡張魔法に一日、ギルドに引き取ってもらえなかった品を処分しなくてはならないし、そうすると魔の領域に入るには半端だ。そういえばハルトマンにホムラギの樹皮を取ってくる約束もしていた。行ってくるにはちょうどいいが、トーコを連れて行くと余計なことを訊かれそうで面倒だ。

 「入るかもしれんし、入らないかもしれん」

 「全然分からないってこと?」

 「そうだ」

 「さっきの依頼は?」

 「入域する内容じゃない」

 「塩を採りにいくのってどのくらいで帰ってくるの」

 「正確には護衛だが。十日はかからない」

 「十日! そんなに!」

 「トーコはその間、魔法の練習だな」

 トーコがすっかりむくれてしまったので、ベアはトーコを送って急いでヘーゲル家の玄関先から退去した。ヘーゲル医師がなんと言うにせよ、面倒なことは分かりきっていた。

 ゆっくり体を休めた翌日、残った採集物の処分方法を教えようとトーコを訊ねたベアはバベッテから意外な顔をされた。

 「あら、ベアさんが忙しくて、自分は半月くらい暇だって言っていたけれど。今朝早くハルトマンさんと出かけましたよ」

 ベアはなんとなくあごを撫でた。別に予告していたわけではないので咎めるのもおかしい。

 「それより、一昨日帰ってくるものと思ってアニがベアさんを待ってましたけど」

 ベアは手を止めた。トーコを連れて入域すると、帰還日がアニに筒抜けという恐ろしい事態になることまでは考えていなかった。

 「明日にでもトーコを連れて、店のほうに顔をだそう」

 出直すことにすると、バベッテが首をかしげた。

 「でもあの子、十日くらい出かけるって言っていましたよ」

 「十日も?」

 「塩を採りに行くって」

 「塩? まさかクレム? ゲルニーク塩沼?」

 「そうそ、そんな名前のところ」

 ベアは絶句し、遅まきながら、国境警備隊からも護衛要員が出ることを思い出した。



 後日、待ちに待った祭りの日、ベアにコブシガシの実のパンをおすそ分けにきたトーコは微妙な顔で、しつこく「縁起物だから!」と念を押していった。

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