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第29話 ゲルニーク塩沼再び

 ヴォルフの妹とはちっともお近づきになれないうちに、ゲルニーク塩沼に行く日が来てしまった。

 ハルトマンと交渉して、同行するのはクレムの町からにしてもらったので、前日の夕方に護衛用の宿上空へ転移した。既に国境警備隊は到着していて、トーコはなんなく探査魔法でハルトマンを探し出した。

「ハルトマンさーん、今日のうちにやっとくことある?」

「とっとと飯食って寝ろ」

けんもほろろの対応である。とはいってもまだ夕食は準備中のようなので、トーコは食堂の机に教科書とノートを出した。今日習ったことをざっと見直していると、ハルトマンがトーコの頭越しに覗き込んだ。

「えらく、初歩的なことをやってるな。準備学校の勉強か?」

「うん。わかんないことだらけだから、先生に個別に見てもらえて助かるよ」

「こんな教師に手間をかけさせる生徒をよく引き受けてくれたな。家庭教師を雇ったほうがよかったんじゃなかったか」

トーコは心配そうな顔をした。

「ほんとは家庭教師の先生をお願いして、学校の授業についていけるようにしなきゃいけなかったのかなあ」

「いけなくはないが、そのほうがいいのは確かだな。学校とギルドの両立は言葉や基礎知識のハンデがなくても大変なはずなんだから。この依頼中は学校を暫く休ませてもらうんだろ」

「うん。先生たちに宿題いっぱいもらった。向こうでやっててもいいでしょ?」

ハルトマンはノートを見下ろした。塩沼でボート遊びに夢中になるより無害か。

「自分の仕事を忘れるなよ」


「ヘトス帝、アレハトス帝、ユカラトス帝……」

「ひとつ飛ばしたぞ」

容赦ないハルトマンの指摘を受けてトーコは頭を抱えた。

「ううっ、覚えられない。どうして、昔の人はみんな似たような名前なの」

現代のバルク人の名前も覚えにくいトーコには苦難の道だ。

「古代はどうしても最初に皇帝名を覚えないと進まないからな。諦めろ。中世に入れば統一年号が出てくるからそこまでの辛抱だ」

「二十人以上も皇帝いるのに!」

「半分覚えりゃなんとかなる。在位の短い皇帝で覚えておく必要があるのは十三代と十五代の繋ぎの十四代キロトトス帝くらいだ。有名どころから覚えて間は覚えられるようなら覚えればいい。お前だって自分の国の歴史は勉強したんだろ。どうやって覚えたんだ」

「漫画と小説とドラマで」

「まん……?」

「えーと歴史を題材にした物語とかお芝居で。分かるところはすっごく詳しくなるけど、読んでないとこはすっぽり抜けてる。あと、どこがフィクション部分か覚えておかないと危険!」

ハルトマンは納得したようだった。

「物語ね。アボトロス大叙事詩は基本として、古代は英雄譚が多いからその辺か?」

「アボ……なに? 待って、今のメモを……」

「休憩のときに書いてやるから、前から目を離すな。しっかり働け」

「やってるよう~」

トーコがいるのはトロッコの先頭だ。一年間使っていなかったレールに障壁魔法を滑らせ、溜まった砂や引っかかっている枯れ草を排除しているのだ。掃除用障壁魔法は三つ作って、大きなゴミ、砂、砂ほこりと順にどかしている。障壁魔法を作った後はただ走らせるだけなので、三つ目の障壁魔法に乗っているトーコは大岩でも転がってない限り暇だ。前方から目を離すわけにはいかないが、他は暇なので、宿題をやっていたら横からハルトマンが口を出す。

「さっきの短い皇帝はなんで覚えておく必要があるの?」

「もう名前を忘れたな」

「えっと、トロットス帝?」

「どこから持ってきた名前だ。そんな名前の皇帝はいない。弱腰キロトトス帝」

「弱腰!?」

覚えておかなければいけない大事な歴史上の人物にしてはあんまりな二つ名だ。

「妃と家臣の言いなりだった皇帝だが、この時代に大統合憲章が発布されて今の帝国の核になる支配地と一家による帝室政治が確立している。大陸を横断した農業振興策が可能になって、ここから飛躍的に帝国の人口が増える。以後、中世半ばまで帝国の歴史は急速に領土を外へ外へと広げていく転換期だ」

「中世半ばから先は領土はもう広げなかったの?」

「国土が大きくなりすぎて、地方の代官が勝手に管轄区を支配し、代官職も世襲するようになって実質的に小王国が乱立し、一気に戦乱の中世の時代になる。ベルント大賢帝とベルントの家臣団が登場したら中世部分は終わり。そこから今の帝国につながる流れになるな。取り敢えず、ここまでざっと頭にいれてやれ」

「うん、ありがとう。ハルトマンさん、歴史好きなの?」

「こんな大幅に端折った流れくらいならディルクだって言えるぞ」

言外に常識、と言われてしまった。

「……今度、ディルクに教えてもらお」

「そうしろ。最近、ディルクの魔法は見てやってないんだってな。ぼやいてたぞ」

「元々、ヘーゲル医師のとこでかち合えば話するくらいのもんだし。魔法も成功させたし、ひっかかってたとこがわかれば、要領のいい子だし、その先はすいすい行きそうだけど」

ハルトマンも頷いた。

「俺もそう思っていたんだが、どうも魔法は違うみたいだな」

「そうなの?」

「要領がいいってのは、うまく物事の根幹を掴めるからなんだろうが、魔法に対してどうも懐疑的なんだよな」

「カイギテキってなに?」

「自分の魔法を信じきれない部分があるんだと思う」

トーコは目をぱちくりさせた。

「魔法を使ってるのに?」

「あいつは末っ子だから上の兄姉を見てある程度学習してるんだ。何やったら大人に怒られるか、褒められるか、これから学ぶべきこと、進路の選択。すべて前例があって相対的に自分の立場を見ている。ところが、あいつの周囲に魔法の要素はなかった。本人や周囲が思った以上に感覚を掴むのに苦労しているのはそんなところが理由かもしれない。ディルクにとっては魔法は得体のしれない手ごわい敵なんだ」

「それは言い過ぎじゃない? だって自分の魔法だよ?」

「だから余計になんだ」

さっぱり分からない顔をしているトーコを、ハルトマンは険悪なまなざしで睨んだ。

「お前のせいだろうが!」

「ええっ! なんで!? ちょ、どうしてそこでため息つくの?」

「ディルクに魔力を結晶石に込める練習をさせただろ」

「うん。ダメなの?」

「それ自体はダメじゃない。問題なのは、その時に、魔力がうまく入ったの、入らなかったの判定したことだ」

「判定しないほうが良かったの?」

でも、それじゃ、うまくいったかどうかをどうやって伝えればいいんだろう?

「そうじゃない。お前はちょっとの魔力の動きも感知できるが、ディルクにはできない。自分の魔力で自分がコントロールすべきものなのに、はたで眺めているトーコのほうがよく分かっているってことがあいつの自信を傷つけているんだ。自分で自分の魔法も才能も信じられない」

「え、ええーっ! そんな!」

トーコは心底驚いた。

「お前は一応魔法が成功したらあとは全然かかわってないじゃないか。ちゃんと最後まで面倒見ろよ」

「成功したから、あとはもう大丈夫だと思ったんだけど」

「そんなわけあるか。魔の領域にいる間はしょうがないけど、今は毎日人の領域にいるんだろ。少しくらい見てやれ」

「わ、わかった。どうすればいいのか分からないけど、戻ったらディルクに会いに行ってくる」

「そうしろ」

まったく、手の焼ける弟妹弟子たちだ。とろくてあほな言動の目立つトーコだが、魔法だけは才能がある。今まで年下ながら面倒を見てやっていたつもりのディルクにとっては、そのトーコがなんなくできることで躓いているのが余計ショックなわけだが、そんな少年の機微など呑気者のトーコには言っても分からないだろう。


以前と同じように、一日かけて採塩場近くの岩場に到着する。前回と違うのは、明日は採塩せず、野営地の設営や、弩の設置や手入れに費やすところだ。翌日、続くもう一隊が入ってから本格的な塩の採取に入ることになる。

風も強くないのでその日は簡単に天幕を設営して早々に就寝する。トーコは例によって荷物と一緒の天幕だ。

翌朝、陽が昇るより早くに叩き起こされたトーコは、ハルトマンに連れられて塩の採集場を見に行った。

「去年のタンク、残ってる!」

岩場を下ったトーコは、昨年作ったシャワータンクを見つけて思わず声をあげた。あの時は時間凍結魔法を覚えたてで、加減が全然できていなかったんだなあと思う。タンクの足元は塩の砂に少し埋まっていたが、全体として問題ない。今見ると、可視化するために色をつけるのではなく塩をまぶしたり、水栓の作りなど稚拙な細部が目につく。

「これは作り直しだなあ」

魔法を解除して解体する。

「ハルトマンさん、今回もここでシャワー作る?」

「あの水がダダ漏れのやつか」

「うん、五月の大雨で水はいっぱいある」

「まだ持っていたのか。とっくに捨てたと思っていたぞ」

「封筒に入れちゃえば邪魔にならないからすっかり忘れてた。どうせ誰も栓してくれないし、みんながぐるぐるする列を崩さないで済むように、ルートに組み込んでみようかな」

「どうするつもりだ?」

ハルトマンは警戒心もあらわだ。

「沼からあがって塩を落とすときにシャワーのとこで足を止めるんじゃなくて、シャワーを歩く道に沿って細長く設置するの。中を歩いているうちに塩が落ちて列が崩れないと思うんだけど。あとは排水を沼にそのまま戻すのもどうかと思うから、これは一番下で回収して最後に砂漠のほうに捨てるつもり」

「やるだけやってみたらどうだ」

そこまで害はなさそうだと判断してハルトマンは許可した。ド派手なピンクの障壁はぶん殴ってやめさせたが、トーコはせっかくきれいな色を再現できるようになったのに、と残念そうだ。これだから目を離せない。

「シャワーもいいが、お前の役目は護衛だからな。ちゃんと魔物が来ないか見張っとけよ。どのくらいの距離を任せられる?」

「しゃべっていいの?」

トーコは用心深く言った。迂闊に口を滑らせると文字通りの痛い目にあうのだ。

「今回はいい」

「ただ探査魔法を広げるだけなら半径三キロくらい。ここって何にも探査魔法にひっかかるものがないんだもの。探査魔法的にはすっごく見通しいいよ」

「何か出たら知らせろよ。体長一メートル以下なら報告しなくていい」

「うん、分かった」

トーコはいったん野営地に戻って塩の運搬に使う小舟を借りてきた。雪焼けならぬ塩焼け防止の幻惑魔法を纏って水上に出る。去年作ったレールはなくなっていたが、試しに小舟を載せる台を作って、昨年同様のレールを引く。新しく考案したレールも敷いてみて、塩を乗せた小舟を実際に動かしてみる。レールと車輪の間に塩が入ると故障の原因になるので、台車の一部を変形させ、来た時にトロッコのレールを掃除した要領で付着する塩を掃除できるようにしてみる。

「まずは百周かな」

楕円形のレールの上を十台くらいずつ台車を走らせる。見ているだけでは暇なので片手間にルリチョウと雨水の入った障壁魔法から真水を分離精製させながらだ。十周させて問題ないので、今度は台車の動きに合わせて周囲の塩を少々掘り起こす。台車を押す人が歩いて塩の結晶がが水中で舞ってどうなるかだ。去年のはみんなで工夫しただけあって塩粒はレールと車輪に入りにくいが、摩擦が大きくて押すのが大変だ。試作一号は最初は押すのは楽だがやはり異物が入ってだんだん重くなる。試作二号は異物は入りにくいが、高さがあるので、小舟を台車に載せたり降ろしたりするのが大変。

「うーん、帯に短したすきに長し。あとは皆に見てもらって決めるかあ」

シャワーの設置も終えたトーコは、今度は自分の居場所を作り始めた。魔物は主に沼の奥、東からやってくるので、岸で作業する人たちが見える範囲でその東側の沼の中に陣取ることにする。出張査定所を障壁魔法と時間凍結魔法で固定し、椅子とテーブルを出した。

宿題をやりながら探査魔法で周囲を見張るが、ゲルニークの魔の領域は平和だった。このところ騒がしい<深い森>に比べ、ほとんど生き物の気配がないので、時折飛んでいる小さな羽虫や爬虫類の存在まではっきり分かる。

「暇だからって手を抜くなよ」

「それはないけど、あんまり反応がないとちゃんと魔法を展開できているか心配になるよ」

「このままずっと続いてくれればいいんだがな」

「そうだね。このところの魔物が多いって<深い森>だけの現象なのかな」

「残念ながら違うようだ。鳥が人の領域で渡りをしたり、北方の魔の領域からでかいクマが越境して村を襲ったりする事件が起こっている」

「あちこちで同じことが起こってるんだね。自然のバランスが崩れているのかな」

昼食のごった煮から程よく煮崩れたジャガイモを発見して喜んでいるトーコをハルトマンはちらりを見やった。ベアはハルトマンの仮説を彼女に伝えていないようだ。トーコが知ったらのんびり勉強などしていられないだろう。

「トーコ、お前暇だろ」

「見張りは暇だけど、宿題があるから暇じゃないよ」

「片手間でいいから、塩を採っておけ」

「塩なら去年いっぱい採ったからいらない。ハルトマンさんが使う分くらいなら分けてあげられるよ」

すると、ハルトマンは首を振った。

「そうじゃない。今は平和だが、この調子で魔物が増え続けたら来年も安全に塩を採りに来れるとは限らんだろう。万一に備えて確保しておけ。塩の供給が切れたら、公国東部一帯が大混乱になる」

トーコは昨年、角ウサギの大豊作の影響で塩が不足して値上がりしたことを思い出した。たっぷりの塩を確保していたトーコ自身には直接関係なかったが、肉屋が困っていたのは知っている。冬の保存食を作るのには大量の塩が必要なのだ。

「どのくらいの量を採っておけばいいの?」

「お前がここにいる間に採れるだけ採れ。魔の領域の異変が採塩に影響なければ、来年来た時にでも捨てればいい」

「来年も依頼出すってことーっ!?」

「ギルドをサボってる間に干されずにすんで良かったな」

あっさりいなされる。トーコはこれ以上要求事項が増えないうちにと、そそくさと席を立った。


皿洗いを終えてトーコは再び沼へ降りた。岸から一キロほど離れた場所に封筒を浮かべて沼底に沈んだ塩の結晶を移動魔法で集める。水分を飛ばして集めるだけの単純作業なので、本当に片手間作業だ。ハルトマンに一か所にだけ大きな穴を開けないよう釘を刺されているので、封筒を少しずつ移動させながら採取する。

至極平穏に初日を終え、夕方には他都市のギルド構成員を護衛とする第二陣がやってきた。夕食調理用の火と水の提供のために岩場に戻っていたトーコは水係兼見張りとして紹介された。魔法使いはふたりで、どちらもふだんはクレムの町よりもっと北の魔の領域で狩人として活動しているという。当然探査魔法は得意らしいので、トーコと彼らとで岩場と沼の見張りをローテーションすることになった。

二日目の午前中は運搬用台車とレールの具合を実際に見たかったので、トーコは塩沼の見張り担当にしてもらった。鉱夫たちの取りまとめ役と昨夜のうちに相談して異物は入りにくいけれど台車に塩を盛った小舟を乗せるのに労力のかかるのから試すことにしている。楕円形のレールに囲まれた真ん中に出張査定所を置いて、不具合や要望があるたびに飛んで行って修正する。シャワーのほうも列の流れに合わせて位置や大きさを調整する必要がある。

そんなことをやっていると、昼食の時、ギルドの魔法使いに声をかけられた。

「面白いものを作るんだな。なんて魔法だ?」

「シャワーもレールも台車も障壁魔法だよ。あいたっ」

ハルトマンに蹴っ飛ばされてトーコは悲鳴をあげた。

しまった、魔法の事は知らない人には話しちゃいけないんだった、と思い出しても後の祭りである。だが、ギルドの魔法使いたちは信じなかった。

「障壁魔法? まさかね。だって障壁魔法じゃ水は出ないだろ」

「第一、ずっとあんな風に置いておくなんて無理だ」

「うん。障壁魔法だけじゃなくて、他の魔法も一緒に使ってる」

ハルトマンに蹴っ飛ばされないよう、トーコは曖昧に言った。

「どういう魔法かわからんが、よく魔力がもつな」

「昨日も今日も魔物は出なくて魔力はむしろ余ってるから平気」

いずれも時間凍結魔法で固定してしまえば維持する魔力は必要ないので、去年のように大型の魔物が来た時に備えて、時間凍結を施した障壁魔法のパネルを封筒に作りためていたくらいだ。水の精製も雨水からなので、楽なものだ。

「拍子抜けだな。今年は魔物が多くて大変だと思ったんだが」

トーコには大変なことばかりが目につくけれど、狩人の立場からすると悪いばかりでもないらしい。ただ、討伐依頼が多くてそれだけは面倒だと愚痴をこぼしていた。

「ユナグールの<深い森>も同じだよ。去年角ウサギの大発生で苦労したから、今年は早めに人を集めて町近くの魔の領域の駆除をやったの」

「ウサギならまだいいよ。こっちはヒドリとオナガアナネズミの大発生だ」

「ネズミは何となくわかるけど、ヒドリって?」

「カラスくらいの大きさの魔鳥だよ。オナガアナネズミの巣に火を吹き込んで、別の入り口から追い出して狩るんだ」

「火の魔法を使う鳥なの?」

「そうだ。そんな強い火じゃないが、干し草の刈り取りの時期に火事でも起こしたら大変だから、ギルドも国境警備隊も総動員さ。オナガアナネズミさえいなくなりゃヒドリもいなくなるだろうってわけで、ひたすらオナガアナネズミの穴を埋めたもんさ」

ユナグールの駆除作戦とは違う意味で大変だったようだ。魔物が人の領域に流れ込んでいることを気にしているベアにこれは要報告だな、とトーコはしっかりメモした。

午後は岩場での見張りだったので、椅子とテーブルだけ出して宿題していたのだが、みんなが額に汗して働いているそばで座っているのは居心地が悪い。

「単に勉強に飽きただけだろ」

「違うもん!」

「嘘つけ、間違いだらけじゃないか」

「わーっ、ノート返して!」

「懐かしいことやってるなあ」

ハルトマンは取り戻そうとピョンピョン跳ねているトーコをものともせず、高く掲げたノートを勝手に添削する。

「やり直し」

真っ赤になって帰ってきたノートを眺めてトーコは肩を落とした。数学の問題文を品詞分解していたのだが、かなりの瀕死状況だ。

うう、悔しいけれど、宿題を提出する前にハルトマンさんに見てもらったほうがいいかも。

「おい、なんだこの落書き」

ハルトマンがノートの端を指で示した。

「教室の観察日記? みたいな?」

「なんで疑問系なんだ」

「あー、ちょっとどこまで首突っ込んでいいのか判らなくて」

第三学年でトーコを除けば唯一の女の子であるヘレナは教室で孤立している。孤立しているだけでなく、彼女にちょっかいを出している子たちがいる。トーコのリボンを盗ったのも彼らだ。さすがに三本目をなくすわけにはいかないと思って時間凍結魔法で頭にくっつけていたので、引っ張られて気がついた。睨んでやったらさすがに手を離したが、前二回、トーコがまったく気がつかなかったことからもどうやら手馴れている様子だ。更に、ヘレナが朝とは違うリボンを廊下の隅で結びなおしているのを見れば、まあ想像がつく。

トーコの知っている語彙で言えばいじめというやつだ。そんな言葉も概念もないこの国の人に説明するのは難しいが、ハルトマンはだいたいのところを理解してくれた。

ハルトマンに話したのは準備学校卒業生の見識を当てにしてのことだ。

「そんなもん、教師に一言、言えば終わりだ。窃盗は退学。転移魔法でそいつのポケットにリボンを入れとけば完璧」

「……ハルトマンさんに聞いたわたしが馬鹿だった」

誰が手段を選ばず完膚なきまでに相手を叩き潰したいと言った。

「人のことを気にしている状況か? そこ、間違っているぞ」

「うっ」

ハルトマンの厳しい突っ込みを受けながら宿題していると、俄かに鉱夫の列が騒がしくなった。怪我、という単語が漏れ聞こえたのでトーコは探査魔法を起動させた。塩沼からあがってくる岩場で怪我人が出たようだ。

「診てくる」

転倒した男は後頭部を打ち付けており、出血が酷い。トーコは魔力を送り込みながら、岩場の上を移動魔法で一気に飛んだ。列が乱れているので、上空からすぐに現場がわかった。仲間を心配して集まっている鉱夫たちの中に飛び降りる。

「どいて! むやみに、動かさないで!」

ぱっくり割れていた傷は既に塞いだが、トーコは倒れた男の顔を覗き込んだ。目を閉じてピクリともしない。頭を打って意識がないというのは怖い。トーコの手に余るので、ハルトマンにヘーゲル医師を呼ぶかどうか相談したほうがいいだろう。トーコは一瞬だけ移動魔法で男の体を持ち上げ、その下に担架がわりの障壁魔法を滑り込ませた。怪我人の体にむやみに魔法で負荷をかけないほうがいい気がしたのだ。

転倒した男の巻き添えを食って怪我をした鉱夫たちの怪我を治癒してトーコは担架を持ってハルトマンのところに戻った。といってもハルトマンとて本職の医者でもないので、部下の衛生兵を呼んでとりあえずこのまま様子を見ることになった。

「足場が悪いからなあ」

去年も転んで怪我をしたり、塩をぶちまけた鉱夫がいた。その時は大した怪我でなかったので、あとでトーコがまとめて治したり、ちょっと酷いものはトーコを呼ぶまでもなくハルトマンが治癒した。

岩場は塩の結晶が散っていて、重い塩袋を担いで歩くにはコツがいるという。血で濡れた岩を洗ってきたトーコは鉱夫の落とした塩の袋をトロッコまで運んだあとハルトマンに尋ねた。

「どうして塩沼までトロッコのレールを引かないの?」

「俺に聞かれてもな。レールを引いたとしてもこの岩場で塩を乗せたトロッコを押すのは大変だと思うぞ。高低差がかなりあるし、一歩間違えば事故になる。レールもすぐ錆びるだろうしな」

「皆が歩くからか、すり減って滑りやすくなってるところもあるしねえ。ずっとこの場所を往復しているんだね」

「トロッコのレールまでの距離もあるし、ここが一番沼に降りやすくなっているしな」

手ぶらのトーコでさえ、自分の足で往復するには手すりが欲しいと思う。去年はずっと沼上にいたのと、急ぎの場合は移動魔法を多用していたのであまり気にならなかった。しかしここで大変そうな鉱夫たちを見ていると、なんとかならないものかと思う。

しかしトーコ程度の知恵で何とかなるなら、とっくに誰かが何とかしているわけで、障壁魔法でレールを作っても維持できない以上意味がない。沼中のレールは昨年安易にやってしまったので、責任をとって今年も作ったのだが、こちらも今後どう維持するかが課題だ。結晶石を取り付けてというのも一案だが、一年のうち使うのはひと月ほど。あとは放置されている場所なので高価な石を置いていくのはためらいがある。

思考が行き詰ったところでトーコは宿題に戻った。と、いくらもしないうちに探査魔法に魔物が引っかかった。

「ハルトマンさん、大きい魔鳥が来る。去年来たのと同じ種類の鳥だね」

トーコの出した机と椅子をちゃっかり使って書類を広げていたハルトマンがトーコの視線を追って塩沼方面へ視線をやる。曲がりくねった地形から鳥の姿は見えないがハルトマンは疑わなかった。

「塩沼側の警備隊は気が付いているか」

「分かんない」

ハルトマンは各所に伝令を走らせ、塩を運ぶ列を止めさせた。比較的平坦なトロッコ近くに辿り着いた鉱夫たちは塩の袋を背中から降ろして空を見上げた。兵士たちが据え置き式の弩に矢をつがえる。

「あ、見えた」

沼のほうを見ていたトーコが呟き、ハルトマンも気流に乗って羽を広げた巨大な鳥の影を認めた。沼上からも伝令がかけてきてハルトマンと鉱夫のまとめ役に魔物の発見を伝える。その間にも魔鳥は近づいてくる。

「沼側の連中で対処するだろうと思うが、お前も油断するなよ」

「うん」

トーコは封筒を放りあげた。ルリチョウの時に用意していた時間凍結魔法をかけたパネル状の障壁魔法を鉱夫の列の上空にスライドさせ、固定する。

「味方からの矢や魔法を遮っちゃうから、護衛のひとたちの上は覆ってない。矢を持ってない人だけ覆う?」

「鉱夫の護衛が本分だ。そこまでしなくていい」

充分にひきつけろ、と弩の兵士の間で声が飛ぶ。と、人を見つけて滑るように近づいてきた巨鳥があわただしく翼をはためかせた。トーコの視力では分からなかったが、塩沼側の護衛から矢が飛んだようだ。続いて、炎の塊が飛ぶ。これは尾を掠め、巨鳥は慌てふためいて高度を上げて飛び去った。頭上をとんでゆく巨鳥を追ってトーコはぐるりと回した頭を元通りにした。

「良かった。行っちゃったね。あたたた!」

障壁魔法を片づけようと封筒を取り出したトーコは悲鳴をあげた。

「良いわけあるか!」

「な、なんで!?」

「魔物を追い払うのがお前の仕事だろうが! なにぼけっと見てる!」

「ギルドのひとたちが追い払ったじゃない! 痛い痛い痛い!」

ハルトマンが低い声を出した。

「ああ、そうだな。たしかにここからは追い払ったな。そんで、その鳥はどこへ行った?」

「え、砂漠のほうへ……あ」

「交代要員がここへ移動中だろうが!」

「きゃーっ、ごめんなさい!」

雷が落ち、トーコはハルトマンの拳骨から逃げるように巨鳥を追いかけた。トーコの探査魔法の範囲内なのでなんなくつかまえることができたが、ハルトマンは渋い顔のままだ。トーコが戻るなり、問答無用で二つ目の拳骨を食らわせる。

「あほか! いつからお前は魔の領域で単独行動できるほどのベテランになったんだ!? ひとりで勝手な行動するな! 入隊三日の新兵だってそのくらいできるわ!」

トーコは身を縮めた。軍人のハルトマンに腹式呼吸で頭の上から怒鳴られると耳だけでなく、全身がビリビリする。

ハルトマンはがつんと怒りはするが、お説教は長くないのでほうほうのていで逃げ出そうとしたトーコだったが、襟首を掴まれる。はてな、と思って振り返ると、

「肝心の報告がまだだぞ。魔物はどこへ行った」

いけない、すっかり抜けてた。

「ここ」

トーコが封筒を渡すとハルトマンは何とも言えない顔になった。

「危ないから直接封筒に手を入れないでね」

「氷の瓶と同じか」

ハルトマンは中身を封筒から出させて確認すると、ギルドの責任者を呼んでくるように命じた。トーコはまだしまっていなかったボードに飛び乗り、これまたまだ片づけてなかった鉱夫の列上に展開した障壁魔法を滑り降りた。塩沼に向かって傾斜しているので、楽に滑り下りることができる。

一瞬これを利用して楽に塩を運べないかと思ったが、障壁魔法で道を作ったところで維持できない。そして、ギルドの人を乗せて戻る時に分かったことだが、この傾斜を上るのは結構大変だ。重い塩を担いではあまり大変さが軽減しなそうだ。

「うーん、難しいなあ」

昼食のごった煮の椀を抱えながらトーコはうなった。

「何がだ」

「さっきの障壁魔法の滑り台でなんとか楽に塩を運べないかと思ったんだけど、不都合が多くて。ごつごつした地形が邪魔で、均一の坂にならないんだよねえ」

「足を滑らせるのがオチだ。やめとけ」

「滑り止め加工くらいはするよ。歩きやすくはなるはずなんだけど。あ、ハルトマンさん、沼から鳥が来るよ」

「またか。多いな」

まだ二日目だと言うのに、先が思いやられる。ハルトマンは交代で休憩している部下たちを動かし、トーコに再び障壁魔法を巡らさせた。全員沼から引き揚げてトロッコのレールそばの野営地で休憩中なのでパネル状のではなく、直接球形の障壁を巡らせる。

「トーコ、こっちにきた鳥はすべて落とせ」

「鳥も災難だね……」

最後のスープまで飲み干してトーコは立ち上がった。

「じゃあ、沼のほうに移動しようか。誰が一緒に来てくれるの?」

「ここからじゃ届かないのか?」

ハルトマンは怪訝な顔をした。わざわざ護衛対象から離れる必要はない。

「獲り損なった時のために前に出ていたほうがよくない?」

「手こずりそうなのか?」

どうやって鳥を落としたのか知らないが、大変だったのならトーコは絶対口を閉ざしてなどいないはずだ。だからさほど苦労なく捕まえたのだと思っていたのだが。

「わかんない。念のため?」

なぜか疑問形で答えるトーコにさらに問いただそうとしたとき、見張りが叫んだ。

「魔鳥の姿を確認! 数は……数は……多数!」

「十八羽だよ~あいたっ!」

呑気にのたまうトーコの頭をハルトマンは容赦なく掴み上げた。

「お前、分かっていたのか!」

「え、なにを?」

「魔物の数だ」

トーコはぽかんとした。

「もちろん。ハルトマンさんも分かったんじゃ……痛い痛い!」

「そんなわけあるか! ちゃんと報告しろ!」

「だ、だって、ハルトマンさん、数が多いって」

「回数を言ったんだ! 分かっていたと思ったはなしだ! たしか去年も言ったぞ!」

「そうだっけ?」

ハルトマンは鳥頭トーコに悪態をつくのは後回しにして、聞き出せるだけの情報を吐き出させる。報告ひとつまともにできないとは、師匠の教育がなってない!

「障壁は大丈夫だな?」

「うん。鳥の類は地上に降りるのを嫌うから、上だけ防護すれば平気ってベアさんが言っていたけど、全部囲ってあるし。念のため、固定しちゃう?」

「出入り口は作れるか」

「うん」

「なら、人がふたり並べるだけの大きさの入り口を五メートルごとに確保しろ。こんなことなら盾を持ってくるんだったな」

「こんな感じでいい?」

ハルトマンはトーコの作った障壁を確認した。障壁の色は周囲の岩に合わせた保護色になっている。それを時間凍結魔法で固定させ、やってきたギルドの責任者と出入り口の警備の分担を決める。

「近づいてくるようなら塩沼側で迎撃する。撃ち漏らしの処理を任せていいか」

「追い払うだけじゃだめなのか? この障壁でやり過ごせると思うが」

ギルドの責任者が疑問を呈した。彼らの役目はあくまで飛来した魔物の撃退で、狩りをすることではない。ハルトマンも昨年なら彼の意見に賛成するところだが、後続のことや最近の魔物の増加の件もあるので、減らせるものなら減らしておきたい。

欲が出た、と言えばそれまでだが、いつもなら慌てふためくトーコが平然としているので、手におえないということはないだろう。

副官に権限を委譲し、ハルトマンはトーコを連れて沖へ移動した。

「こっち来ないでくれればいいのになあ」

トーコは呟いたが、鳥の影は塩沼上空を渡ってくる。このままだと比較的採塩場に近い場所を通る。障壁魔法で覆っていなければ見つかる距離だ。

トーコはふたり乗りボードの後部席でため息をついた。なんか、いい鳥よけないだろうか? 目玉模様の風船を吊るすとか、キラキラしたテープを張り巡らせるとか。幻惑魔法を使えば簡単にできるが、例によって維持できない。

「襲われたから反撃するのは分かるけど、あの鳥たちなにも悪いことしてないのに」

「ぼやいていないで、排除しろ。それとも、お前、採塩期間中ずっとここで見張りするか?」

「それは嫌」

トーコはしぶしぶ鳥の群に魔力を飛ばした。鋭い鍵爪と嘴はどう見ても猛禽のそれだ。人を襲うかどうかは試してみないと分からないが。

トーコはボードを停めた。そのまま待つことしばし、鳥の群から数羽が外れてトーコたちの頭上に来た。滑るように進路を変えた鳥の一羽が肩をすぼめるようにして翼をたたんだ。そのまま急降下してくる。

「あーあ」

ハルトマン言うところの「排除」確定だ。トーコは送り込んだ魔力を魔法として発動させた。降下した鳥の姿勢がぐらりと傾き、ぴったりと折りたたまれていた翼が弛緩する。空に向かって投げあげた封筒にその巨体が吸い込まれた。続けて急降下してきた一羽も脳の一部を焼き切ってそのまま封筒に入る。上空を行き過ぎようとした他の同種の鳥たちも次々に落ちて封筒に収まった。

「今の、どうやって仕留めた?」

トーコがボードの向きを変えて採塩場へ移動し始めるとハルトマンが訊ねた。

「魔力を送り込んでレン……っ!」

何気ない口調だったのでうっかり答えそうになってトーコは慌てて自分の口を塞いだ。ハルトマンの拳が飛んできそうで、反射的に首を竦める。

「怒らんから、言ってみろ」

「ダメ。ベアさんとも内緒にするって約束したもん」

トーコはきっぱりと言った。生き物を殺すための魔法なんて、大声で言えることじゃない。

巨鳥は午後にも単独の別種が一羽が現れ、それはギルドの魔法使いと弓使いたちが撃ち落とし、槍使いたちがとどめを刺した。トーコは障壁魔法の維持に専念した。

「山越えしやすい気流がきているのか?」

集まった指揮官たちは首を切り落とされ、血に汚れた羽毛を盛大に飛び散らせた魔鳥を見て眉間にしわを刻んだ。

「ここでも魔物が増えているんだな」

「だとしても、十八羽は多い。いつもは四、五羽の群を作る鳥だ」

ギルドの取りまとめ役は、こんなものだろうという口ぶりだが、鉱夫の取りまとめ役は深刻な表情だ。彼も今年の魔の領域は魔物が活性化していると聞いていたが、採塩初日でこの数が飛来したことを憂慮しているようだ。

「こうたびたび採塩作業が中断したら、たまらんな」

「仕方ない、トーコに鳥よけの障壁を建てさせるか……そういえば、あいつはどこへ行った」

ハルトマンは自分の部下を振り返った。安全な野営地に逃げる途中で転んだ鉱夫たちの治療をしていると聞いてハルトマンはやっぱりトーコを連れてきて正解だったと思った。呼ばれてきたトーコはハルトマンの指示を聞いて鉱夫に目を向けた。

「わたし、来年も来るとは限らないんだけど。今年だけでいいなら障壁建てるのはいい気もするけど、根本的な解決にならないよね」

「今年は用心しておきたい」

「もうすぐベアさんが来るから、ベアさんに確認してからでもいい?」

「どうした、今日はえらく魔法を渋るじゃないか」

ハルトマンが意外そうに言った。

「だって、去年調子に乗ってタンク作ったから今年も来なきゃいけなくなったんだし。ゲルニーク塩沼は一回経験したら充分だったのに。あーあ。ただでさえ勉強遅れてるのにどうしよう」

「テストでいい点が取れたって人様の役にたつとは限らんぞ」

「テストの点数以前に、基礎的な知識がないんだって。ギルドのお知らせを読み間違ったら困るの!」

トーコはエゴイストぶりを吐露した。

「分かった分かった、勉強はあとで見てやる。だから障壁作れ。今回限りでいい。ベアには俺が言う」

トーコは鉱夫の取りまとめ役たちを見た。

「弩で追い払えなかった場合、いつもはどうやって巨鳥の襲撃を防いでいるの?」

「防ぎようがない。相手は空から来て、とどまることなく人を爪にかけて行くんだ。俺たちにできることはなるべくトロッコや岩のくぼみに身を寄せて、自分に災難が降りかかってこないのを祈るだけさ」

「ここ、毎年人が入るんでしょ? そして襲ってくるのはほとんど魔鳥なんでしょ? どうして鳥を避けるような屋根を作ったりしないの?」

鉱夫たちは自嘲じみた表情を浮かべた。

「俺たちを入らせている塩商人たちがそんな余計な金と手間をかけるわけないだろ。ひとりふたり攫われたからと言って大した損害じゃない」

「トーコ、彼らを責めるな」

ハルトマンがたしなめた。

「責めてない。理由が知りたいだけ。国境警備隊やギルドを護衛にこれだけ動員すれば相応のお金がかかるでしょ? お金以外に理由はないの?」

「理由を挙げたらきりないかもな。資材を入れるのが大変なのと、この岩場に避難所を作ろうと思えば石工と機材、それらを護衛する者を数か月滞在させ、水も食料もすべて人の領域から運び込まけりゃならん。要は、割に合わないと金を出す商人たちが思ってるってことだ。レールの維持管理だけでも人手と費用がかかる」

それに、国境警備隊もギルドも塩の利権に口を出す機会を失いたくはないだろう。

トーコはなにか考え込む顔だ。ハルトマンが持ち場に戻れ、と言おうとしたとき、トーコが目の前に黒い障壁魔法を展開した。それは形を変え、奇妙な物体になる。

「なんだこれは」

「模型図。こっちが塩沼で、ここが塩を採っているところ、こういう風にレールを引いて、ここから皆が登ってくる場所」

トーコの言葉に呼応するように、一部の色が白くなり、より詳細な形状が形作られる。ハルトマン以外が感心したような声をあげた。

「ここがトロッコのレールの終着点の塩の積み込み場ね。距離は大体一キロちょっとかな」

トーコはポーチから小さな豆を出して指でなぞった場所へ並べて巡回するように動かした。人のつもりらしい。

「ここを削ったらどうなる?」

「削る?」

「そう、岩場に柱を立てて屋根を乗せるのは大変かもしれないけれど、皆が歩いている場所を削って周囲の岩場から低くするの。そうすると高い壁に囲まれたただの坂にならない?」

皆が見ている前で、豆行列の下が陥没し、溝が出来る。豆たちは狭い溝の中を回り始める。

「どのくらいの高さがあって、どのくらい狭くすれば鳥が襲いにくくなるかは分からないけれど、少なくとも今よりは安全にならないかな。岩場の下がどうなっているにもよるけど、ずっと岩が続いているなら」

鉱夫たちが身を乗り出した。ハルトマンもうなった。いい考えだ。上に建てることばかり考えていたが、これなら一度掘削してしまえば、何かを魔力で維持する必要はない。

「塩沼の上までは無理だし、降りてきてつつかれたらダメだけど、そこは今まで通り、護衛に頑張ってもらうことにして」

「上に棒か布を渡せば、即席の鳥避けにもなるんじゃないか」

たちまち全員が乗り気になった。

「岩を掘るのは簡単だけど、一度掘ったらもっと深く掘ることはできても埋め戻すのはできないから、他の人にも確認して、どこか別のところで試作品を作ってからのほうがいいと思う」

「ほう、お前にしちゃ上出来な案だ」

「ハルトマンさん、酷い!」

トーコの抗議は議論の声に消されてしまった。

「壁の高さを稼ぐために沼から上がってすぐの場所は平らにするだろう? どのくらいの距離が必要だ?」

「あまりそこで距離を使うと、後の坂が急にならないか」

「鳥から隠れるのには狭いほうがいい。あまり道幅は広くしないほうが」

「道の両脇に人ひとりが入れる程度の狭い避難路を設けたらどうだ。左右に作ればそれなりの人数が使えるんじゃないか。弩を効率よく角度良くおけるような、護衛の待機場所や、通路に出入りできる階段も欲しい。工兵はいるが、測量機材がない。しまったな」

「障壁魔法を地面にぴったり貼り付けて型取りしたらどう? それを縮小して、定規と分度器で計って、相似と計算で実物の大体の測量ができない? 厳密とはいかないけども、あとは実物大模型を作って試作の試作をすれば」

「定規や分度器なんか持ってたのかお前」

「宿題するのに必要だもん」

「ユナグールに戻ったら学校の先生によくよくお礼を言っておけよ」

ハルトマンは工兵を呼び、鉱夫もベテランを集め、ギルドは通路作成に人手を割く国境警備隊の分の警備を負担するために警備計画を練り直す。

トーコは休憩時間が終わる前に障壁魔法での型取りを二枚作って、一枚を縮めた。残りは原寸大のまま予備として封筒に保管する。縮めた模型、と言ってもかなりの大きさなので、岩場の上に大雨の時に兵士の休憩所として作った障壁を出してその上に置こうとしたら、色が目立ち過ぎ、とハルトマンに怒られた。しょうがないので、岩模様の置場を作り直して、その上で測量にかかる。

「これ、かなり急角度になりますね」

「それは今も同じじゃない?」

「高低差は同じですが、一直線に登っているわけではないので。それに同じ角度で登り続けると足に負担がかかります。適度に緩急つけたほうがいいですね」

「階段の踊り場みたいなの?」

「そうです」

「みんなが距離を歩いていいなら、通路を山道みたいな九十九折にする? それなら角度は緩くできるけれど」

「その辺は実際に塩を担いで登る鉱夫に聞いてみて、兼ね合いつけるしかないですね」

「滑り止め加工についても意見を聞きたいな」

傾斜角度を割出し、いくつか等身大部分模型を作って見て、鉱夫に上って見てもらう。

「左右の壁の高さはこんなもんでいいんじゃないか。ただ、幅がもうちょっとないと、夕方へばってくるころに上から降りてくる奴とぶつかりそうだな」

「このくらいでどう?」

「それだと今度は鳥が不安だ。左右の避難路だって、全員は入れないんだ」

「通路から出る階段、こんなにいるか? 削って避難路を増やしたほうがよくないかい」

鉱夫の中でも議論百出して揉める。

「何があるかわからないから階段を削るなら、代わりの梯子なりを用意してほしいけど、持ち込むものは少ないほうがいいよね。塩商人さんたちが梯子を買ってくれるかって問題もあるし。避難路を二人くらいはいれるように深くする?」

「この通路、二本つくっちゃダメか?」

鉱夫のひとりが縮尺模型を眺めて言った。

「今だって往復で通る場所は違うだろう。同じ通路ですれ違う必要はないんじゃないか」

「それいい!」

トーコは手を打ち鳴らした。

「それなら、荷物のない下りはもっと急角度の坂にできるから、長い距離歩かなくてよくならない? 二つ通路があれば、どっちかの通路が壊れて使えなくなった時への保険にもなるよね。勿論、避難路は倍使える計算だし」

「だからと言って帰りの坂を一直線にすると、知らないうちに勢いがついて危ない。短めの九十九折にして、平坦な道を織り交ぜたほうがいいです」

「もう一度角度計算だね。がんばって!」

トーコは人ごとの顔で新しい紙を工兵に渡した。

「頑張りますが、ちゃんと見ていてください。今回造るのは自分じゃないんで。って何やってるんですか?」

「雨が降ったときに水が変なところに溜まったりしないか確認。うーん、やっぱり滑り止め加工のところに溜まりやすいなあ」

「雨は考慮しなくてもよいのでは? もともと雨が少ないうえに、雨のない季節に入ってますから」

「にわか雨とかあったら困るかなって」

「どのみち雨がふったら採塩は中止だぜ。塩が濡れるんじゃ、下で三日かけて水分を抜く意味がない」

「あそっか」

間抜けなトーコにひとしきり笑って工兵たちは数人かかりで図面をひきはじめる。彼らは明日の朝ここを離れる。あまり時間がない。

「一度に全部完成させられなかったら、何回かに分けてやってもいいんじゃない」

「それだと、クレムの町に戻ったときに誰かにお伺いを立てないといけなくなるかもしれないんで。ここにいるうちなら、やったもん勝ちですからね」

「誰にお伺いたてるの?」

「塩商人とギルドと国境警備隊です。普通こんな大工事を半日で計画して実行、完成させないですから、事前調整が必要です」

「……大人ってめんどくさい。今もう鳥に襲われてるのに待ってられないよ」

「ですので、この件については全員口を噤むってことで」

「えっ! そこまでのこと!?」

ハルトマンの部下たちは重々しくうなずいた。

「どこからも文句の出ない事業なんてないです。ただでさえ、うちの隊長は派手で目立つし、にらまれやすいので」

「へえ、意外。要領よさそうなのに、世渡り下手なんだ。あっはっは!」

あ、という顔を兵士たちがしたが、遅かった。

「あっはっは。何しろ派手で目立つ妹弟子の尻拭いに駆けずりまわされるんでな」

「痛い痛い痛い! 首がもげる!」

背後から不意打ちを食らったトーコは悲鳴をあげた。こめかみに青筋を刻んだハルトマンは頭を抱えてよろよろとへたりこむトーコを無視して図面を覗き込んだ。

「随分、手を入れたんだな。これは終わらなそうだな。おいトーコ、こいつらを置いて行ってやるから、明日の夕方までにクレムに送り届けろ」

「あれ、わたしは帰りの護衛はいいの?」

「良くはないが、どう考えても通路づくりが優先だ」

「人数も減っちゃうけれど、大丈夫なの?」

トーコが心配すると、ハルトマンは肩をそびやかせた。

「うちの連中はお前に心配されるほど間抜けじゃないから安心しろ」

残留する部下に向かっては、トーコがなにかやらかそうとしたら取り敢えずぶん殴っとけと命じる。反論しようとしたトーコは東の空を見やった。

「また来た。群を作るほうの鳥が八羽。行ってくるね」

「こら、ひとりで動くな」

「ハルトマンさん、ちゃんと自分で移動してよ~」

「俺じゃなくて、こいつらが行く」

ハルトマンは工兵のふたりの肩をポンとたたいた。叩かれた兵士たちは反射で返事したものの、そろって後悔する眼差しだった。

ハルトマンの指名を受けた兵士たちをふたり乗りボードに乗せて、トーコ自身は板状のボードで横につく。座席に収まった兵士たちはこわばった顔でまっすぐ前を見つめている。

そんなに緊張しなくていいのになあ、と思いながら視界に徐々に輪郭がはっきりしてきた巨鳥に向かって魔力を送った。すかさずレンチン魔法を発動させ、八羽同時に仕留める。巨鳥の落下地点近くに回収用の封筒を送って収めたら完了だ。

ボードをターンさせ、途中からは空を飛んでハルトマンのところへ戻る。

「終わったー」

「ちゃんと八羽いたか」

「うん。見る?」

「あたりまえだ」

ハルトマンが確認した巨鳥を封筒に仕舞い直して、トーコは設計班のところへ行った。その背中を見送り、ハルトマンは同行した部下たちを見やった。

「どうだった」

「お役に立てませんでした。何をどうやって倒しのかも分からず」

「その辺は気にしなくていい。今回はうまくいったからいいが、予想外の事が起こるととたんに崩れる。トーコがパニックになったら、とにかくぶん殴ってでも落ち着かせろ」

兵士たちがなんともいえない顔になる。

「そんな顔するな。明日の夜にはクレムにあいつの師匠が到着する。そうしたら子守から解放してやる」

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