第4話 森林湿地帯
いつベットに入ったのか覚えていない。昨日はバベッテがごちそうを作ってくれて、近所に嫁いでいる次女コリーナが夫と五歳と三歳の子どもたちと来てくれて、ヘーゲル夫妻もトーコの第一歩をお祝いしてくれた。
もっとも話のほとんどはトーコの失敗談ばかりで、皆には大笑いされ、五歳児にはがっかりされた。食後にアカメソウの実をつまみながら、おしゃべりしていたはずが、気がついたら自分の部屋で朝だった。
朝食の匂いに誘われて居間に降りるとヘーゲル医師が昨日の残りのアカメソウの実をつまんでいた。ベアは特に薬効はないと言っていたが、二日酔いに効くらしい。大根のお味噌汁みたいなものか、とトーコは思う。バベッテを手伝って食器を並べて食卓につく。
「今日はなにかある? 何もなければギルドにちょっと行ってきたいんだけど」
「あら、次は一週間後じゃなかったの」
「分からないことが多いから、今のうちに掲示板くらい読めるようになっておきたいなって」
まさか一週間後があるかわかりません、とは言えない。せめて掲出された依頼書の中身を読解できるようにならなくては話にならないことも分かった。いきなりは無理だろうけど、いつどこにどんな依頼が発生するのかからだ。ヘーゲル医師がギルドまで送ってくれることになったので、急患が出たら呼び戻してもらうことにして、厚意に甘えることにした。
ギルドの掲示板は大きい。待合スペースは学校の教室を二つつなげたくらい。その壁面ひとつの半分以上を依頼書を掲出する大きな掲示板が占めている。年季が入っており、深く埋まりすぎた画鋲が取り出せずにあちこちに残っているのがますます学校みたいだった。
主に申請を出す依頼人用の書き物机があるので、トーコはそのひとつに陣取った。取ってきたのは、ずっと長いこと張り出されていたらしい、黄ばんだ紙片だ。
角ウサギ。三キロ以上、角、毛皮に傷、欠けがないものに限り一羽十クラン五十タスにて買取り。十羽以上なら十クラン五十五タス。
いつから貼ってあるのか知らないが、このところの相場はこれで安定しているようだ。真新しいノートに依頼を書き写し、日本語の訳文をつける。大きさ、注意点、生息域、生態など昨日ベアから得た知識を思い出せるだけ全部書き込む。アカメソウの実を採りに行った時に一緒に狩ったことや、どうやって見つけて獲ったかも書き添えておく。それをいったん掲示板に戻しに行って角ウサギ関連の依頼書を探す。
角ウサギ。十羽五十クラン。
さらに他では、
角ウサギの成獣の角。無傷のものに限り十本二十クラン。
トーコは書き写しながら、ふむふむとうなずいた。角ウサギは食肉としてだけでなく、毛皮や皮革、角も工芸用品として需要がある。特別高価というほどではないが、牛や豚と同じレベルで日用品として出回っている。全部利用できるならそこそこの値段で引き取ってもらえるが、うっかり黒焦げにしたり、角を折ってしまってもお肉としてならこの価格で引き取りますよ、というわけだ。
角ウサギはユナグール周辺にはたくさん生息し、繁殖力が高いので、昨日ベアが半端の一羽をギルドに売らずにお土産にしたように、ギルド構成員や国境警備隊が自家消費用としてけっこう自前調達しているらしい。自分で解体するか、肉屋に持ち込んで解体してもらうかだが、その場合でも毛皮だけ、角だけひきとりますという需要が発生するようだ。
新しい依頼は買い取り価格が黄ばんだ紙よりちょっと高かった。依頼人同士でも競合すれば価格が吊り上る。さっきの黄ばんだ紙は価格が安定しているのではなく、最低買取ラインということなのだろうか。中には狩り場をアカメソウ生育域に限定しているものもある。アカメソウの実を食べると味がよくなったりするのかな。せっかくだから昨日はこの依頼書をもって出せばよかった。ベアだって気がついていなかったのか、昨日はなかった依頼なのか分からないが、やっぱり情報は大事だ。
認識を新たにし、今度はアカメクサグモの依頼を探す。昨日の用紙がそっくりそのまま戻されていた。まだ必要数量に達していないらしい。総買取数が書いてある依頼もけっこうある。結構条件は細かく違い、ギルドは依頼に柔軟に対応しているようだ。アニなどはギルドの依頼が融通利かないといってよくこぼしているが、これだけ多種多様な依頼を限られた人数で捌くとなると、限界はあるだろう。
利用者としては、似た依頼があちこちに散らばっていたりするのはひとつに纏めればいいのにと思うのだが。パソコンで一瞬で並べなおせるのがいかに便利だったかということかもしれないけれど。人力で紙を貼ってはがしてだから、新しい依頼は空いた場所を埋めるように貼られていく。せめて最新情報くらいは分けたら良いのにと思うが、窓口の行列をみると仕方ないのかもしれなかった。
アカメクサグモの依頼はひとつだけだった。逆に多いのがアカメソウの実だ。バベッテは干したものを角ウサギの料理に入れたりすると言っていた。必須香辛料というわけではなく、あれば使う程度らしい。やはりちょっと珍しいフルーツ扱いのようだ。採集依頼の内容は大抵キロ単位で、金額は微妙に違う。中には線で消して書き直してあるのもあるから、他の依頼と見比べて後から変更しているのかもしれない。ウズラソウの依頼はなかった。他のひとにとられてしまったようだ。
トーコに分かるのはここらあたりまでであとはほぼ未知の領域になる。
適当な採集系の依頼書をとってきて書き写す。が、そこで躓いてしまう。それがどういう植物なのかどこに行けば採れるのかさっぱり分からない。図鑑とかないのだろうか。後でひとに聞くか図書館にでも行くか、と割り切って次にいく。採集系をメインに探すが、中には変な依頼もある。町の時計塔の清掃とか、よその町に塩をとりに行くとか。面白かったのでついでに書き写していると、目の前に影が落ちた。
「朝からずっと何をやっているんだい」
昨日の窓口職員が怪訝そうに覗き込んでいた。説明すると、なるほどねえと苦笑を浮かべた。
「字は受付の連中にでも聞くと良いよ。一応みんな読書きはできるから。君のそれはどこの国の文字?」
「日本語。わたしの国の文字なの。ここの文字は覚えるのは簡単なんだけど、単語にするのが難しい」
「ちょうどいい依頼があるか分からなかったら受付で直接聞けばいいよ」
職員はあっさりと言った。読書きに不自由な人間は珍しくない。
「朝夕は忙しいけれど、日中は比較的手が空いている。皆、入域経験者だしね」
「えっ、そうなの!?」
「なんだそれも知らなかったのかい。中のことが分からなきゃ、依頼の斡旋もできないだろう。ギルド構成員なんていつまでもできる仕事じゃなし、ある程度経験があって読書きができればお声がかかることもあるさ」
トーコは尊敬のまなざしを職員に向けた。
「おじさんもギルド構成員だったの?」
「二十歳でユナグールに来て、七年ばかり入っていたね。ちょっと大きな怪我をして、そこそこ稼いだし、かみさんも子どももいるから引退するかって時に空きがでて声をかけてもらったんだ」
「怪我って魔物に襲われたの?」
「これでも当時は名のある狩人のチームにいたんだ、魔物から受傷するなんて日常茶飯事さ」
そういって自慢げに古い腕の傷を見せてくれた。噛み傷が白っぽい痕になって残っていた。
「おじさんは、最初のころはどんな依頼を受けた?」
「似たような連中とチームを組んで、角ウサギ狩り、モリガエル狩りから始めたよ。深いところへ入るのは、仲間同士の連携がとれてきてからだな。君は狩人志望?」
「ううん、ベアさんみたいに実を採ったり、植物を採ったりがいいの。狩りは向いていないと思う」
「そうかい? 昨日もだいぶいい狩りをしていたみたいだったけど」
「あれは全部ベアさんが獲ったの。教えてもらってわたしもずいぶんナイフを投げたんだけど、全然飛ばないし、かすりもしなかった。適正ないみたい」
「それは厳しいねえ。魔法で火矢をとばしたりは出来ないの?」
「そういう魔法は持ってないの。あ、そうだ依頼ってギルド構成員でも出せるんだよね?」
「出せるよ。何を依頼するつもりだい」
「最初はちょっと自信ないから、お金払って慣れている人が行く時に一緒に混ぜてもらえないかと思って」
「ベアじゃダメなのか?」
「ベアさんに一緒に行ってもらえるのは三回だけだけど、それじゃちょっと自信ないから。すぐにじゃなくてお金ためてからの話だけど」
「それなら単純に一緒にいく仲間を募ればいいんじゃないか」
そういって職員は掲示板ではなく、受付の近くにある黒板を教えてくれた。遠方の採集場への往復だけ一緒に行動しましょう、というような書き込みがあった。
「掲示板に出すとしたら、請けた依頼を果たすのに必要な技能の持ち主を一時的にチームに入れたい時とかだね」
なんだか求人広告みたいだ。
「黒板で声をかけても良いけれど、これなら報酬の分配で揉めないですむ。特に高い報酬の案件だと依頼手数料を払ってもそのほうがいいし。そういえば、君、移動の魔法が使えたよね。水魔法よりも、ああいうのを技能欄には書いておいたほうが良いよ」
「どうして?」
「たくさんの獲物を持って帰るのは大変だからさ。せっかくヨツキバオオイノシシのような大物を倒しても、ギルドまで持って帰れなかったら意味ないだろう? その場で解体する手もあるけれど、牙と毛皮と肉を持って帰ろうと思ったらやっぱり重いし、解体中に血の匂いをかぎつけた肉食の魔物がこないとも限らない」
そういえば、トーコも自分で持ち上げられないから、魔法に頼ったのだった。実は今日も腕が軽い筋肉痛だったりする。
「荷物持ちするから経験のために同行させてください、ってのはあり?」
職員は笑い出した。
「どのみち一緒に来てもらうんだから、そこは条件付けしなくていいだろう。ただ働きじゃないか」
「じゃあ、代わりに色々教えてください、というのは?」
「欲がないなあ」
「欲は大有りなんだけど、わたし本当に戦力にならないから。とりあえず、アカメソウの実が採れるうちに、もう一回行きたいな。ベアさんに教えてもらったことをおさらいしておきたいし、今度こそウズラソウを見つけたい」
「アカメソウの実じゃあ運搬人の需要はないかもねえ」
遠くまで行くならまだしも、という。でもあまり深いところへ入れるだけの技量がトーコにはない。需給の一致ってむずかしい、とトーコはため息をついた。
東門にある国境警備隊の詰め所まで行く人がいたので、トーコは同行させてもらって昼にヘーゲル家に戻った。昼間でも絶対にひとりで出歩かないというのはヘーゲル家から厳しく言われている。治安がよくないからだが、ギルド構成員としてはちょっと情けない。午後はバベッテとおとなりのシラー夫人の買物の途中でギルドで落としてもらった。入り口をくぐると、元狩人のギルド職員が手を振ってよこした。寄っていくと彼の隣にいた女性職員がおいでおいでをする。
「あなた、この脳筋に初心者向けの採集について聞いたんですって? だめよ野蛮な狩人連中は。貴重な薬草を踏みつけたって気づきやしないんだから」
挨拶も抜きでのっけから勢いが良い。元狩人の職員は肩を竦めて行ってしまった。
「読書きはわたしも怪しいから、ちょっと教えてあげられないけれど、採集なら任せなさい。今だったらまずアカメソウよね。ちょうど最盛期でたくさん取れるし、依頼もたくさん出るけれど、はしりは数が少ないからいい値段で引き取ってもらえるからねらい目よ。来年は覚えておきなさい。逆に最盛期が過ぎたら一気に依頼がなくなるから、せっかく採ったのに引き取り手がないなんてことにならないように、行く前に依頼を確保しておくのが鉄則」
「ま、待って待って」
トーコは慌ててノートを取り出した。アカメソウの新情報が盛りだくさんだ。女性職員はたっぷり三十分滔々と講義してくれた。アカメソウの味の良い木がある採集場や同じ場所で他の季節にどんな採集物があるのかとか。日帰りできる近場の採集場所は競争が厳しいので自分だけのいい場所をどれだけ知っているのかが大事なんだとか。採れるのは植物だけではない。昆虫の魔物の幼虫とか、魔鳥の巣とか、変わったところでは巨大なツムギグモの巣から糸をとってくるとか。
「鉱物は専門知識と道具が要るからあまりお手軽じゃないわね。土掘りくらいならできるれど。これから秋が深まってくると美味しいものがたくさん取れるわよ。依頼も多くなるけど、依頼にでるようなのじゃなくても美味しいものが色々あるのよ。やっぱりこれがギルド構成員の特権よね」
教えてあげるから、採ったら分けてね、だそうで。ちゃっかりしている。
有益情報をもらえたのに味をしめたトーコは毎日せっせとギルドに通った。混んでいる朝夕はゆっくり掲示板を見られないので、昼を挟んだ数時間を狙う。一応急患があったら呼び戻してもらうことになっているが、今のところそれもない。家にいる時間はなるべくトーコが魔法を使うようにしているけれどなんだか申し訳ない。ヘーゲル医師は元々ひとりでやってたんだし、ご近所の同業者にも回すから、と言ってくれているが。
「それよりベアを見かけたら寄るように伝えてくれ。この間はあいつ、逃げやがって」
トーコはつつしんでヘーゲル医師の依頼を承ったが、ベアを見かけたのは、ギルドに通い始めて五日目のことだった。夕方早い時間にギルドへ来たベアはトーコにつかまり、収穫物の引渡しが済むとそのままヘーゲル家に連行された。そして夕食までにまずは一杯と、ヘーゲル医師によって診療所に収監された。例によって女人禁制令が発令される。どうやら女ばかりのこの家で圧倒的少数派のヘーゲル医師が内緒話できるのはここしかないらしい。ちょっと涙を誘う話だ。
「おい、どうしてくれるんだ、トーコがやる気じゃないか。最近じゃギルドに日参して診療所なんか見向きもしない」
ベアは恨みがましい声と視線を無視してグラスを持ち上げた。いい味だ。所有者はともかく、酒に罪はない。
「結構めげているようだったんですがね」
「あー、なんか色々やらかしたみたいだな。本人も一応落ち込んではいたみたいだ。一晩だけだが」
それは復活が早い。若さの特権か。うらやましい。
「で、お前さん、またトーコを連れて入域するよな?」
「トーコが諦めていないなら」
「そりゃよかった。やっこさん次の約束がなかったんで、見捨てられたんじゃないかと心配しているようでな」
なんだそりゃ。
「そのつもりで、今日戻ってきたんですが」
一度入ったら半月から一ヶ月は当たり前のベアにとって一週間未満なんて入ったうちにも感じられない。近場で済ませて戻ってきたのは一応一週間に一度くらい、という約束があったからだ。疑われるとは心外な。ベアの不機嫌を感じ取ったわけでもなかろうが、ヘーゲル医師がベアのグラスに酒を注ぎ足す。
「せっかく治癒魔法に適正があるんだ。入域に早いとこ見切りをつけてこっちに集中した方がいい。トーコの齢じゃ弟子入りにはだいぶ遅いが、今ならまだ追い付ける。近所の連中も惜しがっている」
「近所の? このあたりの治癒魔法使いですか?」
「そうだ。お前さんが魔法の修練を積めって言ったんだろ。患者が出たら呼んでもらうように頼んでたぞ。まだ診立ては出来ないからな、呼ばれたら行って指示通りに治すだけだが、解毒も増血も異物の取り出しもできるんで重宝がられている。おかげで俺らは呼び出しがなくて暇をもてあましているけどな」
このあたりに診療所を構えているのは、大抵魔の領域へ出入りする連中を顧客にするような魔法使いだ。病気や疾患よりも外傷や短期的な対症魔法が得意だ。外傷系の治癒魔法使いにも得手不得手がある。ヘーゲルは単純な治癒は得意だが、止血や増血は不得手だ。止血は適正が低くて持続効果が短く、増血は全くできない。増血はあとで出来る医者のところにまわせばいいが、止血は治癒が間に合わなそうなときはできる治癒魔法使いを呼びにやらせてよく協力する。
「おぼつかないながらも一通りできる。とりあえずトーコを呼んどきゃ事足りるからな、すっかり便利に使われている」
「治癒魔法使いのことは良く知らないですが、それは魔法使いじゃない普通の医者と組んで診療を任せればふたりでもいい稼ぎになるってことですか?」
ヘーゲル医師は複雑な顔をした。ユナグールの治癒魔法使いと魔法を使わない医者の間には確執がある。治癒魔法使い同士、医者同士では協力もし、患者も融通しあうのだが、医者は治癒魔法使いをたまたま生まれ持っていた特殊能力を出し惜しみして法外な金を取る気取った守銭奴といい、治癒魔法使いは自身の修行と研究の成果に高い矜持を持っている。治癒魔法使いに限らず、自分の技を安く売る魔法使いは尊敬されないし、低く見られるのは一般的な風潮だ。
「実現性は低いが、そうなったら、嫌な商売敵ができたと治癒魔法使いからも医者からも嫌われそうだな」
ベアはあごを撫でた。同業者から脅威と見做されるというのは最高の褒め言葉だ。
「魔力量もあるしな……」
「そうなのか?」
なんとなく呟いた独り言に、ヘーゲル医師が尋ね返し、ベアは酒を吹きそうになった。魔法を教えた師匠が何を言っているんだ。
「魔の領域で必要最低限の魔法を出し惜しみしなくてもよさそうなくらいにはあると思いましたが」
「その基準じゃ俺には判らん。判るように言え」
「そういわれても、俺も治癒魔法使いとしてどのくらいの魔力量があればやっていけるのかなんて知らんのですが」
「そうだな、重傷者の止血、消毒、治癒がある程度できて完治とは言わないまでも、一命を取り留めることができるのが最低ラインだろう。そこまで一人で出来れば、あとは他の治癒魔法使いを呼んでもいい」
「すみません、必要な魔力量がまるで検討つきません」
「一度だけだが、重傷者をトーコにまかせたことがある。できるとこまでやらせて続きは俺がやるつもりだったんだが、あっという間に完治させたな」
「それは凄いんですか?」
「使える治癒魔法が多彩っちゃ多彩だが、それくらいの奴はざらにいる。消費魔力としては……うーん、これが十人分もできりゃまあ使える方だとは思うが。そんな機会滅多にないからなあ。基本的に治癒魔法使いは治癒魔法に関しては練度が高いし。従軍治癒魔法使いなんかは、五十人規模で治癒するらしいけどな」
なんとも当てにならない話だ。
「魔力切れの経験がないと本人が言ってましたが」
「そういや俺も見たことないな」
「呑気な。習い始めのうちは気絶するまで魔力を使って反復練習するものでしょう」
「反復練習するほど怪我人が運び込まれちゃ大事だろうが」
「水魔法でも移動魔法でも練習できる魔法があるでしょう。そうやって早いうちに自分の限界を知り、総魔力量も増やしていくものだと思っていましたが」
師匠としても当てにならないヘーゲル医師にベアはいらだった。
ひとりの人間が身のうちに持てる魔力の量には上限がある。その量には個人差があるが、限界を超えて使えば、少しずつ増えていく。鍛えることが可能なのだ。だからよく魔力は筋肉にたとえられる。逆に使わなければ現状維持が精一杯、下手をすれば落ちていく。魔法使いが総じて若年で才能に目覚めるのは実は逆で、早い段階で自らの才能に気がつかなかった場合、保有できる魔力量が落ちて魔法を行使することが難しくなるからではないかという説もあるのだ。
せっかくトーコには魔法の才能があるのに、今鍛えなければ腐ってしまう。魔の領域では残存魔力量に気を配る必要がある。魔力量を増やすことは活動域を広げ、生存確率を高めることに直結する。だからベアも安全な町中での就寝前には魔法の練度をあげ、魔力量を維持するために全ての魔力を使い切るのが習いになっている。魔力が筋肉にたとえられるように、無限に増えはしないが、怠れば落ちるのみだ。
同じ魔法使いであってもひとりで魔の領域に入るベアと、近くに仲間がいて協力し合うヘーゲル医師では魔力量ひとつとってもこんなに考え方が違う。ヘーゲル医師にとっては魔力量を増やすよりも、自分の専門分野の魔法の練度を高めることが大事なのだ。そのほうが協力しやすいし、結果的に患者は助かる。中途半端に手を出して中途半端に終わるなら、結局どこからも声がかからないことになる。ベアにとっても練度を高めることは大事だが、これは多分に魔力消費量の節減という意味を持っている。
「ま、早いうちにどこかで魔力切れは経験させるとして、どうやって入域をトーコにあきらめさせるかだ。魔の領域は危険だってことを身を持って知れば考えも変わると思うんだが、なんかいい案はないのか」
「そういわれましても、実際に初心者を連れて危険地域なんかには行きませんよ。それとも行っていいんですか」
「だめに決まってるだろう! 何かあったらどうする気だ」
ヘーゲル医師がほえた。矛盾している。
「なんか、トーコが嫌気をさすような依頼とかないのか」
「塩採りは女性には不人気ですけど、大人数で行動するから、危険は少ないですしね」
「じゃあ、うんと魔力がなけりゃだめだ、ってなるようなのは」
「とりあえず、魔力を消費するように仕向けて、あとはあんまりピクニック気分でいられないようなところですかね」
ベアはトーコがクモに腰を抜かしたのを思い出した。ああいうのはだめらしい。
「夏場なら湿地帯のほうに蚊が大量発生するんでお望みの条件にあったかもしれませんが、もうおさまってきているか……。湿地には危険ではないけど、不快な昆虫なんかが多いですが」
「それでいいんじゃないか。いつもはもっと凄い、とか言っときゃ」
ヘーゲル医師が安易に言う。湿地には豊かな生態系があるが、そのぶん肉食の魔物も多いというのに。ベアが異を唱えようとしたとき、扉がたたかれ、トーコが顔を出した。男ふたりは急いで何にも悪だくみなんかしていませんという顔をした。
「ご飯だよ。早く席についてって、バベッテ姉さんが」
「今行く、今行く」
「ベアさんも。グラスは洗うから頂戴」
ヘーゲル医師とベアが飲み干したグラスを渡すと、トーコは中空から勢いよく回転する水塊を生成してグラスをその中に放り込んだ。洗ってすすいで、洗ってすすいで。テーブルに着地したグラスは汚れも水滴もない。トーコは汚れた水を窓から捨てるとベアにまじまじと見られているのに気がついた。
「それが皿洗いの魔法か?」
「うん」
「皿洗いがそんなに激しいものだとは知らなかった」
「このくらいしないと汚れが落ちないもん。油汚れはお湯じゃないと落ちないけど、お酒のグラスくらいならこれだけでちゃんと綺麗になるよ。水流をね、右と左から別回転で上手にぶつけるのがコツなの。思いついたはいいけれど、最初の頃は水が飛び散って大変だったんだよ」
「誰に習ったんだ」
「お水を精製するのはご近所の治癒魔法使いの医師に教えてもらった。傷口を洗い流すためだから、さすがに水をぐるぐるはさせてはなかったけど。でもお皿なら遠慮なく水流をぶつけられるでしょ」
微妙に質問に答えていない。
「水流操作は誰に習ったんだ?」
「その医師。上から勢いよく、ジャーって流して、傷口に入っちゃった砂粒とかを取り除くの」
ベアはなんといってよいか判らなかった。皿洗いの魔法、と聞くとわざわざ魔法でやることかと思うのだが、実際見るとなかなか高度なコントロールをしている。ベアは歩き出しながら言った。
「トーコ、明日近場に入域するが、一緒に行くか」
「行く! どんな準備をしていけばいいの?」
トーコは食いついた。
「この間と同じでいい。移動魔法で自分を移動させることはできるか?」
「自分を移動? そういえばこないだ言っていたっけ。やったことない」
「今ここで練習する必要はない。コツさえ飲み込めれば難しくない。目的地までだいぶ歩くから、道中で教えよう」
「やった! よろしくお願いします!」
浮かれた足取りで食堂に入っていくトーコに続いて、ベアもにぎやかな食卓に加わった。
翌朝迎えに来たベアは先日と同じようにトーコを連れてギルドへ後戻りした。掲示板を眺めて目的の依頼を探す。
「何を探すの?」
「シロヤドリギの実の採集に森林湿地帯へ行く。ツルシソウ、クラハズシ、アカミミソウの依頼があれば一緒に請けようと思ってな」
「クラハズシはどっかで見たよ。ええと、あった。クラハズシの実。莢からはずした状態で百グラム四十クラン」
「取ってくれ」
依頼書を外し、画鋲を備え付けの箱にいれたトーコはベアに渡した。ベアはそれに自分が外した用紙を重ねて受付に並んだ。
「森林湿地帯ってどこ?」
「東門を出て、南東の森の中だ」
「森に入るの?」
「そうだ」
トーコは緊張した。先日の草原は町の壁が見えているような魔の森のは端っこだったが、いよいよ森の中に入るのだ。
「一緒に何の依頼を請けるの?」
「ツルシソウの実の採集だ。これも水辺によく生えている。実際に行ったら物を見てみるのがいいな」
トーコは早くもペンを動かしている。ひととおり依頼の中身を聞きだすと、やっとベアに報告した。
「自分を移動させる魔法、昨日寝る前にやってみたよ。危うく天井に頭をぶつけるところだったよ。それでも何回かやってたら結構うまく出来るようになった。空を飛んでいるみたいでちょっといいね。高いところの物を取るのに、こっちのほうが見えていいし」
「確かに、高いところの物をとるには便利だ。というわけでこの依頼だ」
「もしかして、宿木は高い木の上に生えている?」
「低いところにもないわけじゃないが、あらかた取られている。ここは魔法使いの特性を生かして、まだ高いところに残っている宿木を探す」
「なるほど!」
受付にたどり着くまでだいぶかかったが、東門にたどり着いたのはこの間よりも早い時刻だ。
トーコが消臭と幻惑の魔法をかけたのを確認してベアは歩き出した。草原をつっきりながら、
「森には大型の肉食魔物が棲息している。この間の注意を忘れるな。それでも気がつかれたら、とりあえず移動魔法で上空に逃げろ。空まで逃げると魔鳥に狙われるから、樹冠からはなるべく出るなよ」
「うん、判った」
「フキヤムシ用の障壁魔法は展開しているか?」
「うん、町の中でもずっと練習しているよ。寝ている間どうなっているのか自分で確かめられないから判らないけど」
ちゃんと物にしたようだ。だったら、次の魔法へ進んでもいいだろう。
「森に入る前に隠形の魔法を教えておこう。幻惑魔法は光操作で見た目を惑わす魔法だが、隠形魔法は精神干渉系に属する魔法だ。ただ魔法をかける対象は相手ではなく、自分だ。この魔法をかけた対象物は気にならなくなる」
「ええっと、よく判らない」
「そこにあっても、森の中の木や岩のように格別に注意を払う対象と見做されない。見過ごされるんだ。刺激に反応して反射的に狩りをするような魔物には効果がないが、獲物を探して移動するような魔物にはよく効く。俺は得意でないんで、まずいときにしか使わないが、使えれば便利だ」
「もしかして、それも前に使ったことがある? なんかの動物が近くまで来てなかなか離れてくれなかった時」
「……あったな」
半年前なのにずっと昔のことに思える。あの時は怯えたトーコが声を上げるんじゃないかとそちらのほうが気が気でなかった。隠形魔法と消臭魔法の維持に加え、トーコをなだめるのにえらくくたびれた。
トーコに新しい魔法を教え、いよいよ森に入る。森の中は薄暗く下草はあまり繁茂していなかった。途中シマザサの群生地以外は歩くのにあまり苦労しない。二時間ほど歩き、二度目の休憩を取っていると、不意にトーコが悲鳴を上げた。
「痛い!」
腕を押さえてとびあがり、袖をめくっている。
「どうした」
「なんか急に……」
語尾が悲鳴になる。一応口を片手で押さえているのは進歩なのか。
「なななな、なにこれ! やだ気持ち悪い!」
ベアはトーコが闇雲に振り回す腕を捕まえた。黒くて小さなヒルが吸い付いている。たっぷり血を呑んだようで、小指の先ほどの大きさに膨れている。
「火の魔法は使えるか」
「ないっ!」
「俺もだ。引っ張るなよ、傷を広げる」
ベアは火口箱を取り出して樹皮に火をとると、ヒルを炙った。身もだえするように伸び縮みしたヒルはすぐにポロリと落ちた。踵ですりつぶすようにして踏み潰すと赤いものがべったりつく。ここまでしても死んだとは言い切れない。半分に千切れても生きているほど生命力の強い魔物なのだ。血を吸ったばかりだし、万全を期すなら火で焼き殺すのがいい。とはいえこれから行く場所には多く棲息しているのでいちいちそんなことをしていられないのだが。
「こんななりだが血を止まらなくさせる魔法を使う。止血効果のある薬を塗るか、魔法で止血しないとなかなか止まらないぞ」
「ひーっ」
傷口を水で洗っていたトーコは水塊を散らすと大急ぎで治癒させた。
「ほかは大丈夫か。地面から這い登ってきて、服の隙間や縫い目から入り込んでくる」
トーコはもう一度律儀に両手で口を押さえてから悲鳴をあげた。背負っていた荷物をベアに押し付けた。思わず受け取ったベアの目の前で細い水流が中空から現れ、それはあっという間に量を増して凄まじい勢いでトーコを包む。ベアが唖然する中で、水流が割れてずぶぬれのトーコが現れた。すぐに乾くが、頭が大嵐が通り過ぎた草原のようにひどいことになっている。
「いたとしても、これで取れたよね」
「さあ。水辺が好きな生き物だし」
肩で息をしていたトーコが目を剥いたので、仕方なく言い添える。
「そんなに気になるなら探査魔法で確認したらどうだ」
全く魔力の無駄遣いだ。だが、巨大版皿洗いの水魔法よりは消費しないだろう。無駄な魔力を使わせるために新しい魔法を教えたりしたのだが、長年の癖でついそう思ってしまう。
「ベアさん頭いい! さすが! 魔法を使うんだもん、魔力を探せばいいんだよね」
「大型肉食の魔物ならともかく、ヒル程度じゃ無理だ。形で探せ」
結果はOKだったらしい。ベアに渡した荷物も念入りなチェックを受けた様だ。落ち着くと、他のことが気になるらしくベアを見る。
「なんだ」
「その靴、洗ってもいい? さっき、ヒルを踏んだやつ」
靴についた血の臭いは消臭の魔法で一時的に消える。再度かけなおせば問題ないが、問題なのが足跡とともに残った臭いだ。これを嗅ぎ付けて追ってくるような肉食の魔物がいて、目視できる範囲に近寄られたらめんどうだ。
「……いいぞ」
水の勢いに内心ひるんだものの、覚悟を決めて突きだした右足先がトーコが新たに作った水流に包まれる。勢いはあるが、別方向からの水流がぶつかり合うので、ベアは踏ん張る必要がなかった。思っていたほど冷たくなく、どちらかというとぬるい。水塊が離れるともう乾いている。皿洗いだけでなく、洗濯もできそうだ。ベアは素直に感心した。
「いいコントロールだ」
「だから、得意魔法なんだって」
今の今までべそをかいていたくせに、トーコが得意げに胸を張る。
「言っておくが、この先ヒルはもっといるぞ。むしろそっちが生息地だ」
一転トーコの得意顔が凍りついた。
「ほんとだ、いっぱいいる……」
ふたりの足元はかなり湿っていた。踏むと水が染み出てくるほどだ。おぞましげな顔をして震え上がるトーコに、ベアはいらん探査魔法を使うなと言いたかったが飲み込んだ。
乾いた岩場の上で弁当を広げた。この先は腰を下ろせるような場所はほとんどない。少し早いが昼食にする。ありがたいことにここまで危険な魔物と行き会うことはなかった。ヒルは数に入れない。バベッテのサンドイッチは今日は甘辛い味付けで、ここまで汗をかいた身にはありがたい。甘酸っぱいドライフルーツがいいアクセントだ。トーコもしばしやっかいな敵のことを忘れて弁当を堪能した。
「トーコ、ロープは結べるか?」
「どういう意味?」
トーコがよく分かっていない顔をしたので、ベアはもやい結びを教えた。高所作業をするには命綱が必要だ。必要な高さまで移動するのは魔法でも、作業中の維持にはこれを使うことになる。自分の体に食い込まないよう、ベルトに絡ませるようにして輪を固定する。近くの木の幹に結びつけるやり方も教えた。何度かやらしてみたが、不器用な手つきに進歩はあまりない。最初のうちはベアが確認しないと危なそうだ。ツムギグモの糸を撚ったロープはしなやかで頑丈だ。魔の領域に入るギルド構成員なら大抵太さも長さもとりどりに持っている。
「そのロープはやるから家で練習してこい」
「うん。ありがとう、ベアさん」
「この先を歩くにはモリガエルの長靴が必要になる。たいした距離を移動するわけじゃないから、俺たちは移動魔法でいく」
「わかった。なんだか生えている植物も変わってきたね」
「このあたりはほとんど水没しているからな、水に強い植生になってくる。モリガエルを狩りに来る連中はもう少し北の湿地に行く」
「水の中に危険な生き物はいる?」
「水深が浅いからたいしたのはいない。注意するのはシンリンヌマジカとアシナガミズオオカミだな。生まれたばかりの仔を連れた春のメスのシンリンヌマジカは攻撃的だ。なにしろ人間に比べたら大きいからな、突進されたら、木の後ろに回らないとあぶないぞ。ひづめの間に水かきがあって、水場でもかなりの速度でつっこんでくる」
「う、うん」
「自信がないなら上へ逃げろ。木に登ってはこないから。オスは湾曲した角がある。大抵単独行動で縄張りを持っているが、縄張りを持てないまだ若いオスは十頭前後のゆるい集団を作っているから、どちらも注意だな。これから木の実や果実を食べて太る。冬毛に完全に生え変わった冬のはじめに捕るのが一番肉がうまくて、毛皮もいい。狩をする連中は秋の終わりあたりから若いオスの集団を狙う」
「ベアさんも鹿を捕るの?」
「いや」
「その割りに詳しいよね」
「昔、よく獲物の運搬係として手伝っていたからな。角の伸びきっていない若いオスだって俺くらい丈があるんだ。こんな足場の悪い場所でひと群れ狩ったら運ぶのも容易じゃない」
「ベアさんと同じくらい……うっかり会いたくないなあ」
「今の季節はそれほど危険じゃない。それよりシンリンヌマジカを狩るアシナガミズオオカミのほうが注意が要る。狼よりは狐に近い中型肉食獣だ。ふだんは湿地の魚や両生類をえさにしているが、水場に来た哺乳類も狩る。鼻は良くない。大きな耳と肉食獣にしては高い視力で獲物を捕捉する。跳躍力があるから距離があるからといって安心するなよ。ぬめりのある両生類を捕まえるだけあって、牙の鋭さは折り紙つきだ。自分よりはるかに大きなシンリンンヌマジカだって倒す」
「鼻がよくなくて、目にたよるってことは、隠形魔法の効果が高い?」
「そういうことだな」
別にそのつもりで隠形魔法を教えたわけじゃないが、トーコは意外にこの場に順応しているようだ。勝手に感嘆しているトーコはほうっておき、ベアは立ち上がった。
「さて、行くか。トーコは上を探せ、種類の違う葉が一部だけ茂っていたらそれだ」
「うん」
ベアは地上十センチほどの高さに自分を持ち上げ、ゆっくりと移動を開始した。トーコもちゃんとついてきた。コツを教えるまでもなく、ちょっとへっぴり腰だがスムーズに移動できている。これなら問題なさそうだ。ベアの視界を赤い色がよぎった。ベアは進路を変更した。
「トーコ、こっちに」
「ふぎゃ!」
振り返ったベアの視線の先で激突したトーコが木に抱きつくようにずるりと崩れ落ちた。上を気にするあまり、前を良く見ていなかったらしい。そのまましばし痛みに耐え、恨めしげな涙顔をベアに向けた。
「酷い、急に違うほころ行くなんて」
「大丈夫そうだな。向こうにたくさん生えている水草がアカミミソウ。深い森の水辺なら結構どこでも生えている」
「葉っぱの形が面白いね。耳がいっぱいついているみたい」
トーコは顔をさすりながら、ベアの示す場所を覗き込んだ。
「春先の葉は柔らかくてそのままでも食べられる。こんなに育ってしまうと筋っぽくなってあまりお勧めしないが、炒めて食べるにはこれくらいがいいって言う連中もいるな」
「これも採集するの?」
「依頼が出ることもあるが大した金額にはならない。モリガエルを狩りに来た連中がついでにとって行くくらいじゃないか」
「炒めれば食べられるんだよね。試しにちょっととっていってもいい?」
「日陰を探したほうがまだ柔らかい」
トーコはベアがあたりをつけてくれた草を引っ張った。
「あ、あれ。どんどんひっぱれるんだけど」
「水の上に出ているのはほんの一部だ。水の下は葉はほとんどないから水面に出ている部分だけを摘む」
ベアがナイフで刈ってくれたので、トーコは戦利品から水分を飛ばして背嚢に収めた。
「それから、これがツルシソウ」
ベアはアカミミソウの群生の向こう側、水辺に生えている低木を示した。
「日当たりのいい開けた水辺にあることが多い。これも春先の若芽は食べられる」
クコの実のような赤い果実がずらりとぶら下ががって、その重みで枝がしなっている。
「なんだか実が整列しているみたいで可愛いね」
「薬効があって、乾燥させたものが出回っている」
「見たことある気がする」
「魚の生臭みを消すのでよく料理に入れる。詳しくは知らない。バベッテにでも聞くといい」
トーコが声を弾ませた。
「ここってもしかして魚が獲れる?」
「草原湿地帯のほうまで行けばな。罠漁をする連中がいる。魚、好きなのか」
「自分では好きだと思ってなかったけど、この町って本当にお肉ばっかりなんだもん。さすがに飽きるよ。時々でてくるお魚はここで獲れてたのか。塩焼きで食べたいなあ。バベッテ姉さんはすぐ魚肉団子にしたり、スープにしてがんがんに火を入れちゃうんだけど、もうちょっとシンプルな食べ方をしたい。お肉の焼き加減にはうるさいのに、お魚の焼き加減にはどうしてあんなに無頓着なんだろう。不思議だ」
料理上手のバベッテにも死角があったらしい。ベアはツルシソウの実を摘みながら、そんなことを思った。実だけでなく、枝も少しとる。よくしなるので、いろいろ使い道があるのだ。トーコが広げた麻袋に実を集め、次を探す。と、トーコがベアの袖を引いた。不安そうな顔をしている。
「なんだか、今自分がどこにいるのかわからないんだけど。向こうから来て、こう曲がってきたんだよね」
「だいたい合ってる。最悪、北西に向かって移動すればいつかは森にぶつかり、草原に出る。草原に出たら、高く飛んで町の城壁を探せ。そんなに遠くないから大丈夫だ。方角の見方は判るか?」
「太陽と時刻がわかればだいたいは。くもっていたら自信ない」
「おおざっぱだが、木や岩の苔がたくさんついているのが北だ。あとは、切り株の年輪の広いのが南、狭いのが北だ」
「え、一本の木なのに違うの?」
「違う。成長の早い木のほうが見分けがつきやすい。あとは日が落ちた後は月と星か」
「月はわかる。星はどうやって見るの?」
「指標星を見つければ比較的簡単なんだが。口で言うより実際に見たほうが早い。また今度だな」
「うん!」
元の水路に戻る。といっても明確な道などないので、なんとなく枝ぶりや木の並びからもとの場所に戻る感じだ。トーコはまるで自信がなさそうだった。
「どこも同じに見える」
「漁にいく連中が森の中に道をつけている。道というか目印に布を枝に巻いているだけだが、最初はそれを頼りに少しずつ地理を覚えるのがいいかもしれんな」
「それはありがたいなあ。あ、ベアさん、あれは? あれはシロヤドリギ?」
トーコが高いところを指した。
「そうだ。だが、高いな」
「高いとだめなの?」
「体重を預けられるほど太い枝がない。小さいのなら枝ごと伐ってしまってもいいんだが、いいかんじに育ってるからな、伐ってしまうのは惜しい」
「ずっと移動魔法で浮いていればいいんじゃない」
「それしかないな。一応練習に命綱は結んでおけよ。落ちても下までいくよりましだ」
うん、わかった、と言ったトーコが宿木近くの細い枝にロープをかけようとしたのでベアはとめた。
「それじゃ、人ひとりの体重を支えられない。もっと下のほうでいいから太い枝を捜せ。そうだなこのくらいあればいいだろう」
ベアは頭も手もこんがらがっているトーコに三回駄目だしをした後に見本を作ってやり、結局手を貸して、というよりほとんどやってやってやっとシロヤドリギにたどり着いた。
「なんか青くて美味しくなさそう」
「未熟な実には毒がある。熟すとなくなる。この毒の成分を薬として使う。熟した実はうまいらしいが、鳥も好きだから競争だな。あせって熟しきれない実を食べると辛いらしいぞ」
立派な株だったのでふたりでけっこうな収穫になった。
「魔の領域なのに、けっこう食べられるものがあるよね」
「そうでなきゃ何週間も中で過ごせない。うまいものばかりじゃないが」
「そうなの?」
「シタマガリって草の実を知っているか? 舌が曲がるほどまずいが一年中実をつけて栄養価が高く、毒もない」
「凄い名前。食べた人はよっぽど美味しくなかったんだね」
「夏と秋は道具と調味料があれば比較的何とかなるな。冬はさすがに外から持ち込むものが増える。柑橘類なんかはあるんだが、腹の足しになるものとなるとな」
「春もいいんじゃない? さっき春先だけたべられるものがあるって言ってたじゃない」
「食べられる新芽のたぐいはあるが、量が少ないし、腹が保たん。春は実もないし、意外に食べるものはないな」
「そっか。言われてみれば山菜って主食じゃないもんね。ベアさんはどんなものをもって入域するの?」
「豆や雑穀あたりか。栄養価は高いし、扱いが楽だ。乾燥豆も水と一緒に半日持ち歩ち歩けば、そんなに長く煮る必要もない。干し肉や燻製肉を加えれば、食える味だ。メモがとりたいなら下りてからにしろ」
「はあい」
シロヤドリギを探して歩くうちに、同じ木ばかりになってきたのにトーコは気がついた。実を採りながら言うと、ベアはうなずいた。
「このへんは一年中水深があるからな。この木はホムラギだ。火の魔法が使えないなら、後で樹皮を剥いでいくといい」
「樹皮ってこの半分取れかかったようなお化けみたいなの?」
「お化けか。たしかに見た目はボロボロで良くないが、樹脂を多く含んでいてこれが木を水から守って腐りにくくしている。ただ、樹脂が固着して木の成長速度に追いつけないんだろうな、古い樹皮がこうやってはがれてくる。別名をボロギという」
「これもまた酷い名前だね」
「トーコが発見者ならオバケギと名づけられていたかも知れんな。樹脂を含んだ樹皮は燃えやすい。焚き付けにもなるが、即席の松明代わりに使える」
「見た目と裏腹に使える木なんだね」
樹皮はもともと縦に長く裂けているので、ますます松明として使いやすそうだ。
簡単にはがれるのでひと束とった。ベアが適当なつる草を刈って葉を落としたものでくくってくれた。これにも結び方があってトーコの宿題になった。
「明かりも紐も魔の領域でまかなえちゃうなんて凄いね」
「深い森の生態系は豊かだからな。草原があって、森林があって、湿地があって。よそを見ると、この辺がいかに豊かか分かる。俺は他の魔の領域はゲルニーク高山地帯くらいしか行ったことがないが」
「他の魔の領域にも行った事があるんだ?」
「ここから近いぞ。近くの町までは河船で二日ってとこだ」
「河船の速度は分からないけど、意外に近いね。そこにもギルドがあるの? 入りたい時は新たに登録するの?」
「ギルドはあったと思うが、ユナグールの規模の比じゃない。ひょっとしたらどこかの支部あつかいかもな。登録がどうなっているのかは気にしたことがないな。入るとしたらギルドの強制依頼があったときくらいだし」
ベアは首を傾げた。
「ギルドからの依頼なの?」
「人の領域に近いところに塩沼があって、塩を採りに隊を組んで入るんだ。俺たちはただの護衛だが、長く人がいられる環境じゃないから、塩掘り人夫も護衛も交代で入って一年分の塩を採る。公的事業の性格が強いから報酬は微々たるものだが、塩だけは好きに持って帰れるぞ。他に何もないってことでもあるが」
トーコが思っているより魔の領域は広く、様々な土地があるようだ。その塩の沼にもいつか行ってみたい。そのためにもまずは地元の<深い森>だ。
「ここはもうこのくらいでいいだろう」
「ベアさん、向うにあるのもシロヤドリギじゃない?」
「そうだ。移動するか」
「うん。ひゃあ!」
木が揺れる。収穫物を入れた袋の口を閉じていたベアは奇声に目をあげた。トーコが空中でつんのめっていた。命綱をつけているのを忘れてそのまま次のシロヤドリギに行こうとしたのだと、聞かなくても分かる。絵に書いたような間抜けっぷりだ。トーコは両手で口を押さえるとそそくさと高度を下げて命綱を解きにいった。
ベアの狙い通り、下が徒歩で入るには水がありすぎ、船で入るには浅すぎるこのあたりにはシロヤドリギをとりに入る人がいないらしくどの株にもたっぷりと実が残っていた。不味そうとか言っていた割に、トーコはせっせと摘み続けていた。こういう作業は好きなようだ。ベアは時折虫食いの実などをトーコに投げたが、障壁も問題ない。そして。
「この木の実はあんまり大きくないねえ。日当たりが悪いから? 向うのほうに大きい株があるけれど、あっちには普通の大きさのがふたつあるみたい。どっちに行く?」
「大きいほうを先に見よう。探査魔法で探したのか?」
「うん」
道理で探すのが早いと思った。最初のシロヤドリギは目視で探したようだが、そのあとは覚えたばかりの探査魔法を駆使しているようだ。ようだというのは、ベアにはそんな使い方をしたことがないからだ。大型の魔物を警戒するために、もしくは狩人だったら獲物を探すために探査魔法はある。植物の採集にとは聞いたことがない。
「どうやって探したんだ?」
「え、普通に」
「普通というと?」
重ねて訊ねるとトーコは面食らった顔をして、それから真剣な顔で考え込んだ。
「ベアさんに教えてもらったように」
と言って、先週のベアの言葉をそっくりそのまま繰り返した。テストの採点を待つ学生の顔でベアを伺うので、それならいい、とベアはごまかした。おしゃべりは達者だが、微妙なニュアンスまで伝えられるほどトーコの言葉は自由ではない。
シロヤドリギの実の採集は思ったよりはかどった。トーコは相変わらず命綱がうまく結べないし、ほどくのも時間がかかるれど次を見つけるのが早い。上のシロヤドリギ探しはトーコに任せてベアは移動がてら水面や水辺を探す。
「これはクラハズシ。実に薬効がある」
ベアは水辺に群生している膝丈の草に手を伸ばした。
「面白い形だね」
「熟す前に莢がはじけて、中の種子がぶら下がっているんだ。熟した実はこんなふうに黒い」
ベアが草を掻き分けてやっと黒くなった実を探し出すと、トーコは熱心に見入った。
「まだ茶色くらいのがほとんどだね」
そういいつつ、草地をあさって十粒ほど黒い実を摘む。
「……今、どうやって採った」
「え? 手でぷちっと。あ、素手で触るのはまずかった?」
あせるトーコにベアは複雑な顔になった。ベテランのベアだってかなり探して熟した実を見つけたのに、まるで最初からそこにあるのが分かっているかのように……もしかして、本当に分かっていた?
「魔法で探したのか」
「うん。……えっと、自分の目でも探せるように修行します……」
ベアは曖昧にうなずいてあごを撫でた。別に魔力の無駄遣いをするなと叱った訳ではないのだが。
「探査魔法も練習していたのか?」
「したけど、あんまりうまくいかなかった。具体的に何をどうしたらいいのか思い浮かばなくって。城壁に上って角ウサギを探そうかとも思ったんだけど、登らせてもらえなかった。アカメソウの実を探査しても誰かに隠してもらうんでもなけりゃ意味ないし」
「うん? アカメソウ?」
「バベッテ姉さんに協力してもらって、台所のどこに隠したか探してみたんだけど、一握り分くらいはないと難しい。台所のどこかには必ずあるって分かってて探しても難しい。バベッテ姉さんも付き合わせちゃうし、もうちょっと違うやり方を考えないと。ベアさんは最初どうやって練習した?」
「俺は特に。実地でやっていただけだ」
というか、そういうものじゃないか? 地形などは測れるが、なんとなくトーコがやっているのは違う気がする。そのトーコはやっぱり実際に使わないとかーとうなっていたが、急に飛び上がって片足をふり始めた。
「出た!」
「どうした」
背中からひっくり返りそうになったので、ベアはトーコの背嚢を掴んだ。トーコは足にむかって手を伸ばし、そのまま何かを引き剥がす仕草をした。
「また出たな!」
トーコの指先二十センチほどのところにちっぽけな黒いヒルが浮いていた。トーコははったと睨みすえ、言い放つ。
「ベアさん直伝対フキヤムシ障壁かっこヒルバージョンかっことじの威力を思い知ったか! ってい!」
トーコが腕を水へ向ってふると、ぴちゃんとはかない水音がした。一仕事終えたかのように満足そうな息をつく。
ヒル相手に啖呵切るギルド構成員とか。ヒルを投げるのに移動魔法を発動させるとか。いろいろとありえないが、とりあえず一番気になったことを聞く。
「ヒル用障壁というのはなんだ」
「ベアさん直伝対フキヤムシ障壁かっこヒルバージョンかっことじ?」
もしかしてそれでフルネームというか、固有名なのか? 後半も気になる部分がないわけじゃないが、頭の直伝云々は切実に止めて欲しい。いや、問題はそこじゃない。ベアは現実逃避しかけた意識を引き戻した。
「そう。それだ」
「あのね、フキヤムシ用の障壁は一定以上の勢いで最初の障壁を破ったら自動的に発動するでしょ。ヒルはそんなに早く動かないみたいだから、一定以上近くでヒルの魔力を感知しても障壁魔法が発動するように改良したの」
トーコは嬉しそうに報告する。
「ベアさんが魔物も魔力を持っているって教えてくれたじゃない? それでやってみたの」
やってみたって……。ちっぽけなヒルの持つ魔力なんてたかが知れている。それを感知できるものなのか? いや、アカメソウの実の魔力でさえ感知できるなら、可能なのか? 聞いたことがないが。そもそも結晶樹じゃあるまいし、植物の魔力なんて聞いたことがない。
「もしかして、シロヤドリギもそれで探したか?」
「そうだよ」
トーコはあっさり答えた。ベアはてっきり周辺地形を探る応用で、樹形から探していたのだと思っていたが、これは根本的に違う。
「……クラハズシの実はどうやって?」
「黒くなってるの? それも一緒だよ。ちゃんと熟すと魔力も増えるんだねえ。初めて知ったよ」
俺も今知ったよ。というか、探査魔法ってそういうものだったか? 先週覚えたばかりの魔法なのに何故そんなに自由すぎる使い方ができる。そして何故当然ベアも知っていると思い込めるんだ。聞いたことがない。
「なかなか便利に使いこなしているようだな」
「うん、凄く便利。ヒルにも噛まれないしね!」
そうか、というのが精一杯だった。半信半疑でトーコにクラハズシを探させたら、視界の外から見つけた。黒い実が大量に成っている。陸側からだと見えにくい場所なので採られずに残っていたらしい。
「でも、これくらい固まって生えてないと見つけるのは難しいね」
これは誤算だ。ここまで探査魔法と相性がいいとは。本当に魔力を感知しているのか、地形などから感知しているものを本人が誤解しているのかはともかく……いや、ヒルの件がある以上本当に魔力を感知してるのだろうが、いずれ知識が追いつけば、とてつもなく優秀な採集者になりそうだ。そして、トーコに入域をあきらめさせるどころか、ますます背中を押している気がする。不快な害虫もさっさと撃退してしまいそうだし。魔力切れはまだ来ないし。
ヘーゲル医師になんと言えばいいのか、今から頭が痛い。
充分採集できたので切り上げ、ギルドに戻る。ベアが懇意にしている職員が収穫の確認をしていると、女性職員が親しげにトーコに話しかけた。
「あら、ずいぶんがんばったわねえ。森林湿地帯の方に行ったんだ?」
「うん。水が綺麗だったよ」
「アシナガミズオオカミに遭わなかった?」
「大丈夫だった。シンリンヌマジカは一頭だけ見たけど、遠かったから平気」
「あれ、いい味なのよね。もっと秋おそくになると依頼が出てくるわよ」
ひとしきりおしゃべりして女性職員は仕事に戻っていった。
「ずいぶん仲がいいんだな」
「うん、いつも親切にしてもらってる。あのね、アカメソウの実は成り始めの季節に採るといいんだって。ちょうど同じくらいの時期にあのあたりにある薬草を探しながら、見回っていたって教えてもらった」
ヘーゲル医師の思惑とは別にトーコは着々と知識を蓄えているようだ。シロヤドリギもクラハズシも全て引き取ってもらったので、荷物はすっかり軽くなった。
「シロヤドリギの実はまた採ってきてもらいたいな。このところ品薄らしくてね。あらかた採ってしまったと聞いていたんだが、さすがベアだねえ」
なるほど、それで引き取り価格が良かったのか。採りにくい場所にはまだ残っていたが、魔法使いでないと労力がかかりすぎる。買取票に署名し、ベアはトーコの会員証を渡して口座台帳を出してくれるように頼んだ。真新しくて薄い台帳を開くと、几帳面な筆跡で四行の書き込みがあった。数字だけ。
「先週のアカメソウと角ウサギ、アカメクサグモ、不達成の罰金だ」
痛い記憶を思い出してトーコは情けない顔をした。
「何がいくらで引き取られたか覚えているうちに、確認すること。あまり時間がかかるようなら、必要数量に達していなくて数がそろうのを待っている場合がある。そのときはもう一度依頼を請けることも考えたほうがいい」
「うん、分かった。何の金額か書いていないからあとで分からなくなりそうだもんね。これ、今引き出してもいい?」
トーコは引き出し方を教えてもらってアカメソウと角ウサギ、アカメクサグモの代金から罰金を差引いた金額を受け取った。大して時間もかからない。用事が済んでも時間があったので、掲示板を見に行く。ベアはいくつかを取って窓口に戻り、翌日から数日の予定で申請を出していた。
「前日に出しておけば、当日はギルドに寄らず、早朝から入域できる」
「ふうん」
トーコは置いてきぼりを食った気持ちになった。一度入ったら何日も出てこないのがベアなのだ。町の知人ならば、家に行けば会える。でもベアには今ここで別れたら、次いつ会えるのか分からない。下宿も町にいるときのねぐらというかんじで、住居というふうではない。
「珍しいな、メモをださないのか」
「書くよ」
トーコがメモしてしまうと、ベアは怪訝な顔をした。いつもだったら、いつから申請できるのか、どのくらいの期間までだせるのか、などとありとあらゆる質問を浴びせるのに、いやにおとなしい。
結局その日は別れ際までトーコはむっつりと押し黙っていた。ベアはなんだか変だと思ったものの、ヘーゲル医師に捕まらないうちにバベッテの勧めを振り切って、すばやく撤退した。