第2話 お買い物
魔の領域への持ち物についてトーコに訊かれた。正確には右手にペンを、左手にメモ帳を持ったトーコに朝早くから襲撃されたのだ。
ベアが十年来下宿している靴屋の夫婦はそれぞれ兄弟が魔の領域に入っていたこともあって、ベアの職業にも理解を示してくれるが、遠慮ない世話好きなのが玉に瑕だ。留守にしがちなので部屋に入られるのは仕方がない。しかし、勝手に片付けたり、あまつさえ修繕するのは勘弁してほしい。見られて困るものなどは置いていないが、気分の問題である。
そして、ゆっくり部屋を出ると、大家の居間でトーコが待ち構えていた。ちゃっかりお茶など飲んでいる。
「おい、もう昼になっちまうぞ。トーコちゃんがいつから待ってたと思っとるんだ。まったく最近の若いもんは明るいうちからだらだらしおって」
もう四十を過ぎたんだが。
「ベアさんたら、こんな大きな隠し子がいたなんて」
顔を見ればわかるとおり、親でもなければ子でもない。口に出すと面倒なのは十年で学習済みなので、ベアは黙って食卓につく。
「魔の領域に行くなら、靴だけは自分の足にあったものを履かないとね。沼地もあるし、怖い虫もいるから、丈の長いしっかりしたものがいいわよ」
「行く前に何度か履いて慣らしておくんだ。水をはじくならモリガエルの背中の革を使ったのがいいけれど、最初はどこにでも履いていける角ウサギがいいだろう。安くしておいてやるから、うちで採寸しておいで」
左右から交互に話しかけられているトーコは熱心にメモをとっている。モリガエルの革をきれいな赤に染めるコツなんぞまでメモしてどうするつもりだ。そしてあんたたち、仕事はいいのか。
ベアが朝食を半分ほど食べたころあいで、トーコからいつもの質問攻撃が始まった。
「ベアさんはいつもどういう格好で魔の領域に入っている? 絶対に用意しておくものってある? リストを作ったんだけど見てもらえる?」
昨夜はヘーゲル家でバベッテの心づくしの料理を堪能した後、二枚舌をばらされるのを恐れたヘーゲル医師がベアを引っ張って酒瓶とともに診療所に立てこもってしまったせいで追いかけてきたものらしい。診療所のドアで「ここより先女人禁制!」と締め出されるまでベアに食いついていたから、当然聞きたりなかったのだろう。
ベアは立ち上がった。
「どこ行くの」
「口で言うより見たほうが早い」
大家夫婦がちゃちゃをいれる中でまともに話ができると思うな。
「ここまでは誰に送ってもらったんだ」
「バベッテ姉さんとアニ。帰りはヘーゲル医師が迎えに来てくれるって」
「どうして四女のバベッテが姉さんで、三女のアニは呼び捨てなんだ」
「バベッテ姉さんを姉さんって呼んでいいのはわたしだけだから」
理由になってない。謎だが、トーコが疑問に思ってないようなのでベアも深く考えるのはやめた。トーコが来るまで末っ子だったバベッテはお姉さんぶりたいお年頃らしい。
「入用なものを揃えるのはいいが、金はあるのか?」
「ううん、ヘーゲル医師に借してもらうの。シュッセバライ? だからチューコ? っていうので探そうと思ってる」
なるほど、と呟いてベアは進路を変えた。ヘーゲル家に立寄ってヘーゲル医師に迎えに来なくて良くなったと伝えるついでに軍資金をせしめ、町の中央部に向って歩く。途中で大通りから中へ入り、さらに裏路地へ迷いなく足を進める。段々空が狭くなり、すさんだ雰囲気の鋭い視線がよそ者に投げかけられる。それらはトーコの上でしばらくとどまった後に、ベアをなでてすぐに興味を失って離れていく。トーコが不安そうな顔でベアにくっついた。行き止まりの道の最奥に半分開いた扉を引く。
カウンターがあるだけの殺風景な店だった。ひどく立て付けの悪い扉は動かすとお化け屋敷の効果音のような音をたてた。それがベル代わりらしく、すぐに人がでてきた。左即頭部から頬にかけて大きく肉が削れていた。耳も上下二枚に裂けている。えぐれた肉は深い傷跡になっていた。
これだけの傷があって命があったなら、治癒魔法に頼ったはずだが、それにしては酷い傷跡だ。治癒魔法も、運び込まれるのに時間がかかれば治しきれない。
「何が入用だ」
明瞭な声は意外なほどに若かった。
「彼女が使う。古くてかまわない。モリガエルのローブと皮手袋、麻袋を大きさをとりまぜていくつか。小さくて手ごろなのがあれば山刀とナイフも」
傷の若者は奥へ姿を消し、まずは麻袋を持ってきた。きちんとサイズ順に積み重なっている。ベアは勝手に手にとり、選別し始めた。その間に傷の若者は今度はローブをカウンターに積み上げた。ベアのおめがねにかなわなかった麻袋を畳んでいるトーコに向って、
「手を出せ」
トーコが両手を広げると、右手だけ自分の手とあわせた。ハイタッチではなく、大きさを測ったようだ。すぐに消える。戻った時には大きな箱を小脇にかかえ、いかにも暖かそうな真冬用の手袋と、指先が出る作業しやすそうな薄いのを箱のふちにかけていた。
「手袋は今、このあたりしかないな。山刀は鞘がなくてよければ手ごろなのがあるが」
代わりにナイフはたくさんあった。山刀はやめて、ベアは小さいのと大きいのを一本ずつ選んだ。切れ味よりも、枝を払い、スコップにも使える頑丈さが優先らしい。
「背嚢は?」
「ハイノーってなに?」
「荷物を入れて背負う袋、といえば判るか」
「うん。必要だよね。両手があくのがいいな」
傷の若者はあごを引くようにしてうなずくと奥に姿を消した。店のある場所と傷には驚かされたが、しごくまっとうな応対だ。
ローブはちょっと裾を詰めればなんとかなりそうなのがあった。
「まあ、まずはこんなところだろう」
「地図とか方位磁石とか火口箱はいいの?」
「魔の領域に地図はない。他はいずれ必要だろうが、今日のところはこれでいいだろう」
「小物入れは?」
トーコはベアの腰に目を向けた。ベルトに通したポーチがいくつもぶら下がっている。両手があいてすぐに取り出せるので、魔の領域に出入りする者がよく使う。なにかと便利なのでベアも町中であってもついつけっぱなしにしてしまう。
「なくてもいい気がするが」
「欲しい」
ベアより先に傷の若者が奥へ動いた。まあ、いいか。
トーコは散々悩んだ挙句、ベアのとよく似たあめ色の小さなポーチを選んだ。ベアの握り拳一個も入らなそうだ。
「もう少し入るほうが使いやすくないか」
「これが一番可愛い」
ベアは目をしばたいた。可愛い? だからなんだ。魔の領域に持って入るのに可愛いかどうかは重要ではないだろう。だいだい、ベルトポーチに可愛いという基準があるとすら知らなかった。べつにフリルやリボンがついているわけでもない。
ベアが悩む横で、傷の若者がうなずいた。
「君はベアより見る目がある」
「おい」
「幸運のおまじないがかかっている」
ベアはトーコの手元を見直した。無造作に扱われているので、魔法のかかった品とは思わなかった。
「魔法使いの魔法じゃない。でも俺はそのおかげで魔の領域から生きて戻った」
「うん、大事にする。ありがとう」
「で、いくら出す?」
絶妙のタイミングだった。トーコの視線が泳いだ。完全に売り手のペースだ。
「えっと・・・」
「モリガエルのローブは腹の白革だけを使った上等品。水もはじくし、保温性も高い。古いけれど、状態はいい。もう十年は使える。ナイフも質のいい鋼にヨツキバイノシシの大牙を使ったヴィンクラー工房製品にも負けない良品。削りナイフも柄を交換すれば十年使える。背嚢はモリガエルの背中の革製、底は角ウサギの革で補強済み。丈夫で破れにくく、雨に濡れてもしみない」
トーコは目を白黒させている。ベアは傍観していた。まあ何事も経験だ。
「いくらの値をつける?」
「えーっと、ええっと。お兄さんはいくらだったら買う?」
傷の若者は器用に眉を上げた。
「聞いているのはこちらだ。俺が値段をつけてどうする」
「その値段で買う」
ベアは慌ててとめようとした。とんでもないことを言っている。いつからお前はそんな金持ちになった。
「法外な値を言ったらどうするつもり?」
「二度とこの店では買わない。わたしの友達も、買わない」
傷の若者は顔をゆがめた。どうやら笑ったらしいと気がつくのに時間がかかった。
「ローブと、麻袋、背嚢、ナイフ二本で三百六十二。幸運のポーチは特別に進呈しよう」
「切りよく三百六十にならない?」
「ま、いいだろう」
「ありがとう。それでお願い」
トーコはにっこりし、ベアはあきれた。言い値で買うと言ったくせに、さっきまでびくついていたくせに、この怪しげな界隈の怪しげな店の強面の店主相手にいい度胸だ。買った物をまとめて入れてもらった背嚢を抱えてトーコはごきげんだ。カウンターを片付けている店主に向かって手まで振っている。
「袋をたくさん買ったのは採ったものを入れるのに使うの?」
「だいだいそうだ」
「だいたいってことは、他にもあるの?」
「寒さしのぎにも、傷のあて布にも、濡れたものを拭くのでも」
「ああっ、麻布と思えばありなんだ! さすが魔の領域ならではの知恵!」
さっそくメモをとりだしたトーコの荷物を引き取りながら、ベアは不安になった。行く前からこれじゃ、魔の領域に入ったら両手がふさがったまま一歩も動けないんじゃないか。それからもう少し静かにして気配を消すことを覚えてもらいたい。初心者を連れてそんなに危険な場所に行くつもりはないが、もともとベアは姿を周囲に紛らわせ、極力気配を消して危険な魔物をやり過ごす手口で魔の領域に入り込んで採集してくるスタイルだ。ギルドの花形はなんといっても魔物を狩る狩人たちだが、どっちにしても身を隠す技術は必要だ。
「トーコ、幻惑魔法と消臭魔法は使えるか」
「ゲン・・・なに?」
「幻惑。見た目をごまかす」
「魔物に見つからないようにする魔法?」
「そうだ。肉食の魔物は大抵鼻や耳もいいから、これに臭いを消す魔法や音を消す魔法も併用する」
「ヘイヨー?」
「一緒に使う。消音魔法は使えないから教えられないが、幻惑魔法と消臭魔法は教えよう。靴が出来上がってくるまでに練習してみるんだな。うまく覚えられたら、あとは街中にいる間に魔力が続く限り何度も使ってみて習熟すること」
教えてもらったからといって必ずしも習得できるとは限らないのが魔法だ。魔法使いと魔法は相性のよしあしが激しい。そして習得できたからといって終わりではない。同じ魔法で同じ結果を生むにしても、習熟しているのといないのとでは魔力効率が全然ちがう。少ない魔力で最大の効果をあげられるようにするにはひたすら練習するしかない。相性が悪ければ、いくら練習しても魔力効率があがらないこともざらだ。結果として、使おうと思えば使えるが、使用に耐えない魔法というのは各人けっこうある。ベアも身を隠すという意味で大変便利な隠形の魔法が使えるが、適正が低く、魔力効率が悪いので本当に必要なとき以外は先にあげた魔法ですませている。逆に相性がよければ比較的容易に効率化できたりもする。
「入域する前に、今使える全ての魔法の練度をあげておくといい。治癒魔法は怪我人が出なきゃ難しいだろうが、他はどんな魔法も全部だ。これだけは覚えておけ。魔の領域に、魔法に頼って入ろうとするなら、魔力切れは絶対に避けなければならない。魔力切れの心配があるなら、余力があるうちに引き返すことだ。魔法使いが魔法を使えないということは、即防御手段を失うことを意味する。往って帰ってこられるだけの魔力が残っているかは常に気をつけておくこと。もしも帰る途中で足りなくなりそうだったら、何に魔力を振り分けるのか取捨選択も大事だ」
「シュシャセンタク」
「何を選び、何を捨てるか。場所や時間や状況によって優先するものが違う。こういったことの判断ができるようにならなければ、いずれ死ぬことになる」
ベアはトーコがメモを取り終わるのを待って続けた。
「ある程度効率化できたら、今度は最小限の魔力で、必要なだけの効果が得られるように魔法自体の精度をあげること」
「ええと、よく判らない・・・」
「水が飲みたいとする。バケツ一杯分の水を精製してコップに注ぐのではなく、最初からコップ一杯分ちょうどの水を精製する」
トーコはヘーゲル家でお茶を入れるのに使うポットを思い浮かべた。たしかに最初は多目の水を中空に作って注いでいたけれど、最近ではちょうどの水を直接ポットの中に精製している。余分の水を捨てる作業が省略できるので、自然にそうなったのだが、それまでは無駄な魔力を使っていたことになる。
お湯の温度も最初は沸騰させてしまってから水を足していたのが、今はこれも適温で出来るようになっている。あのポット一杯分の量でやるときに限るが、精度をあげるというのはそういうのも含まれるのだろう。ポット一杯分には慣れたから、今度コップ一杯分、お鍋一杯分でやってみよう。
移動の魔法は何をすればいいんだろう? 無駄な加速減速をしないように移動速度を制御すればいいのだろうか。車のエコドライブみたいに。
「うん、判った。練習する」
結局ベアは買い物だけじゃなく、大家の靴屋さんに採寸してもらったり、幻惑魔法と消臭魔法とを教えてくれたりでその日をほとんど潰してしまった。戻ってきたばかりなのに悪いことしちゃったな、と思うものの、入域するための準備が想像していたよりもずっと早く整っていくのが嬉しい。またあそこにいけるのは先のことだと思っていたけれど、予定より半年早く実現しそうだ。
魔の領域は危険なところだというのは、診療所に担ぎ込まれるギルド構成員を見ていれば判る。でもベアが一緒ならとても心強い。トーコが知る中で彼ほど魔の領域に精通しているひとはいないし、誰よりも信頼している。急に物事が動き始めたので心構えが追いついていない部分はあるが、ベアの足手まといになるのは避けられないとしても、あんまりがっかりされないようにしなきゃ。
早く靴ができてくるといいなあ。